No morals

わこ

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第一部

20.5-Ⅳ

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 ミオに辿り着くまでにどれくらいかかっただろうか。正確な時間の感覚はなかった。
 二人がかりで竜崎を抱えながら、昭仁さんに指示されて二階まで上ってきた。入ったのは廊下の右側の部屋。一つだけあるドアを開き、明かりをつけると広いスペースがそこにあった。普通の部屋でないことは一目で分かる。病院の手術室そのものだ。
 中央には腰よりも上の辺りまで高さのある手術台。その周りには厳つい機械や道具など一式が揃っている。

「この上に乗せる。やれるか」
「ああ、早くッ」

 呼びかけに竜崎が反応しなくなってすでにいくらか経っている。コクコクと急かすように頷いて、じっとりと重い竜崎の体をベッドの上に押し上げた。
 意識がない。それだけは分かる。男二人で支えてもこの重み。その体重が俺から離れ、両手に残されたのは生々しい赤。血だ。ほとんどは、竜崎の。

 真っ赤に染まった竜崎のシャツを昭仁さんがハサミで切り裂いた。横から一瞬目にしただけでは傷口がどこかも分からない。
 おびただしい出血に息をのみ、その時、向こうで物音を聞いた。階段を駆け上ってくる足音。それは迷わずこの部屋の前で止まり、ドアから男が顔を覗かせた。

「昭仁。持ってきたぞ」
「おう。いつもわりぃな」

 何かの、白いケース。上部の取手を掴みながら部屋に入ってきたその男は、両手よりも少し大きいくらいの直方体のそれを昭仁さんに渡した。
 そして何気なくその目は台の上へ。横たえられた竜崎の顔を見ると、驚いたように眉をひそめた。

「恭介……? なんだよ、どうした?」
「ちょっとトラブってな。なあ、悪いんだがついでに一つ頼まれてくれ。そいつの手当してやってくんねえか」

 そいつ、と俺に背を向けながら言った。俺の目から遠ざけるかのように竜崎に向かって立っている。機械の始動も点滴台の準備もこの人は何もかも手馴れていた。

「昭仁さん、俺も……っ」
「お前は下に行ってろ。二人同時にはみらんねえ」

 一歩近づこうとすると肩に手を置かれた。見知らぬこの男を振り返る。
 もう一度ちらりと昭仁さんを窺えば、その手には先ほど受け取った白い箱。中から出てきたのは赤い液体の入ったパック。血液だと、直感的に理解した。

 それを持ってきた男が俺の腕を引っ張った。ここにいても邪魔になるだけ。目だけでそう諭される。
 男は部屋の片隅の棚から木目の箱を手に取って、俺を連れ部屋の外に出ていく。その間際に一瞬だけ後ろを振り返った。酸素マスクをつけられた竜崎の顔面は蒼白で、その心音を刻む機械は、ひどく弱い電子音を刻んでいるに過ぎなかった。

「……昭仁さん」
「任せろ」

 背を向けたまま、しかし強く言われた。そこで二人からは顔をそむけた。抑えなければ留まりそうになるから、振り切るように男と廊下に出た。
 その男の手によって、背後でガチャリと閉まったドア。気味悪く心臓が浮くような、ぞっとしたような、何かを感じた。
 それでも今はただ信じることしかできない。竜崎だって言っていた。昭仁さんは絶対に信頼できる。



 そうして男について下におり、促されるまま手近な席についた。男も隣に腰を下ろしてテーブルの上に広げたのは、部屋を出る時に棚から出してきた応急処置の道具一式と、なんの変哲もないカッターシャツ。

「恭介のことは心配すんな。昭仁が助ける」
「……あんたは……?」

 ガーゼに消毒液を染み込ませながら言った男に聞いて返した。ガーゼを額に当てられる。ピリッとした感覚に顔をしかめたら、この男は穏やかに笑った。

「いろいろと治療に必要なもんを卸してる」
「さっきのも……」
「ああ。ルートは言えねえが」
「…………」
「そういうわけで医者のやることは年中飽き飽きするほど見てる。医療の知識なんてもんはなくてもお前の手当くらいならまあ任せろ」

 闇医者に闇血液バンクに。新たに存在を知った違法業者にも今は驚く気にすらなれない。拭っても拭っても真っ赤になって使い物にならなくなるガーゼを眺めた。
 しかし薄いガーゼでは足りなかった。しばらく粘ったものの男に言われ、店の奥の手洗い場に入った。
 鏡に映った自分の姿は見るも無残なものだった。持たされたタオルと、それから替えのシャツを、洗面台の脇に置いてこびり付いた血を洗い流した。

 両手は竜崎の血で塗れていた。洗い流してもすぐに滲んでくる。新しく流れるそれは自分のだ。無数に付いたガラス片による細かい切り傷はピリピリと痛んだ。首にも額にもバシャバシャ雑に水をかけ、洗面台は蛇口から出ていく水の流れに沿って赤く染まった。
 血液を含んだ水を全て排水管に流しきり、竜崎を抱えた時にとめどなく流れ出ていく血で染みた自分の服をじっとり脱いだ。

 元は灰色がかった上着だった。その下のシャツも今は見る影もない。どす黒く染まり、ずっしりと重く、大量の出血を表していた。
 目を閉じた。項垂れるように洗面台に手をついた。白いふちには絶え間なく手から滲み出ていく血が付いて、それが溜まると雫となって内側に流れ落ちていく。

 手術中のあの部屋で、いま何が起きているのか。竜崎の心音を示すあの機械は、きちんと正常に鳴り続けているのか。
 手には竜崎の重みが残っている。血は簡単に洗い流せても、あの生温かさは忘れられない。人に任せるしかなく、何もできず、あまりにも無力で、足手まといだ。
 俺を庇おうとしたのでなければ、あれくらい避けられたかもしれない。冷酷に、無情に、ただ怒っていた。そんなあいつの後ろ姿より、俺の目の前でくずおれていったあの瞬間の方が何倍も怖かった。
 失うかもしれない。そういう恐怖だ。失くすということを人間は恐れる。そしてそれは俺も、例外ではなかった。
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