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第一部
18.5-Ⅱ
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竜崎が実家に戻ってから一週間。待てど暮らせど連絡はない。俺に入ってくる情報はと言えば、全て昭仁さんを通してのものだった。
バイト先の通路奥。従業員専用の出入り口を見つめた。ついこの間まではしつこく現れていた。けれど今日もまたドアを開いたその先に、竜崎の姿はないのだろう。
「…………」
溜め息とともに眉間が寄る。これではまるでそこにいることを期待しているかのようだ。
あり得ない。会いたいわけではない。危ない目に遭っているのではないかと、気がかりに思うくらいで。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。滅入りそうな気分を無視してロッカー室のドアノブを回した。
「えーなにそれコワぁ。ほんとにそんなこと起こるんですか」
「起きたんだよ、現実に。知り合いからこんな話聞かされるとは俺も思ってなかったけど」
室内には数人の従業員が。着替えなり帰り支度なりをしている男性スタッフに紛れ、中央のベンチに寄り集まって話し込んでいるのは三人。
仕事仲間と適当な挨拶を交わしつつ、その三人の後ろを通って自分のロッカーの前に立った。話をしていたうちの一人は森田さんだ。俺に気づいて顔を向けてきたからこちらから口を開いた。
「おつかれーっす」
「おう、お疲れ。なあ宮瀬、お前も気を付けろ」
「はい?」
与えられたユニフォームのファスナーを下ろすと唐突に言われた。三人の方を振り返る。三人ともこっちに顔を向けていた。
「……何がです?」
「いやな、俺のダチのダチのダチのダチのダチの話なんだけど」
「それもう赤の他人じゃないですか」
「いいんだよ、赤の他人で。もしも身近なダチのことだったらお前らに喋ってない」
背もたれのないベンチで反対側に体を向けていた森田さんはクルリとこちらに向き直った。
「その人は普通の会社員で、この前の休日に車で事故起こしたらしくてさ。単独だったから他に怪我人はいなくて本人も命に別状はないんだけど、その事故がきっかけになって覚せい剤の使用が発覚したんだって」
「覚せい剤……?」
「常習だったっぽい」
俺も着替えの手が止まる。ニュースやなんかでしか見聞きしない言葉だ。
「ダチのダチのダチが言うにはだな……」
なんかふわっとしてるな、この人の情報源。
「最近この辺りに売人みたいなのがよくウロついてるらしい」
「へぇ……」
「へぇってお前。そういうのが俺らの生活圏にいるんだぞ。もっと危機感持っとけよ。宮瀬くらいの若いグループにも売り捌いてるって話だし」
「友達の友達の友達って人がそれも言ってたんですか」
「おいおい、バカにすんな。人が心配してやってるっていうのにお前は」
三歳の娘がいる森田さんは時々口調が父親っぽくなる。他の二人も怖いよなぁ、と口を揃えて言っていた。
「でもまあ、しがないバイトで学生の俺らにクスリ買う金なんかそもそもないよな。毎月の家賃払うだけで精一杯だもん」
「こんな頑張って労働してんのにこうも安い時給じゃあさ……」
言いつつ二人は森田さんを見た。
「……俺に言うなよ。その辺は俺の権限外だよ。つーか俺だってそこそこ薄給だよ」
森田さんの呟きを聞いて残念そうに顔を見合わせた二人。わざとらしく溜め息までついた。
「これが日本の現実か……。社員さんがそれ言ってんの聞くと一瞬でヤル気削がれる」
「社会でちゃんと頑張ってても努力は報われないんだなって気分になるよな。娘さんまだ三歳なのに」
「お前らなんなの」
しがない学生たちの辛辣な言葉に森田さんはうんざりした顔。そんな三人のやり取りを尻目に自分のジャケットを羽織った。薄給は今に始まった事ではないものの物騒な情勢は多少気になる。
「クスリやってた赤の他人はどうなったんです?」
「なんか宮瀬の言い方にもトゲあるな」
「気のせいじゃないすか」
「お前は……。捕まったって話だよ。そりゃまあ、覚せい剤やって車乗って事故ってりゃ当然だろ」
誰も巻き込まれず誰も死ななかったのが不幸中の幸いか。
「売った方は……? 捕まったんですか?」
「いや、そこまでは知らないけど。こういうの辿るのって結構難しいんじゃないのか?」
そりゃそうか。たとえ売人の一人を逮捕するに至ったとしても所詮はトカゲのしっぽ切だろう。
麻薬だろうと特殊詐欺だろうとその辺は変わらない。末端の人間を捕まえたところで取り仕切っている人間をあぶりだすことはほとんど不可能。だからこそこの手の犯罪は減らない。
「とにかく用心はしとけよ。職場の子から逮捕者が出たなんて話は上に報告したくないからな」
「なんで俺見て言うんですか」
「宮瀬はなんとなく問題起こしそうな顔してる」
「…………」
「そんな睨むなよ。冗談だって」
今のは絶対に本心で言った。笑う森田さんと他二名。
「まあまあまあ、気にすんなよ宮瀬。お前は問題起こしそうな顔っていうより人目を引きやすい顔なんだよ」
「そうそう。森田さんはイケメンを僻んでるだけだからそう怒るなって」
おいコラ、と森田さん。さらにケタケタ笑う二人。なんてユルイ環境だろう
ここの人間はみんな温厚だ。因縁をつけてくる奴はいないし客とも基本的には話さないからクビを切られるようなトラブルも起きない。
バイト仲間も社員の人達も皆やたらとおっとりしている。そんなような気がしてならないのだが、しかしよくよく考えてみれば、単発でチラホラ入るバイト先でも最近は以前のようなトラブルに巻き込まれることが少なくなってきている。少ないというより、ほとんどない。
なぜ俺ばかり。そう思いつつ、毎日ケンカが絶えなかった。それが今はどうだろう。平和。その一言に尽きる。
「じゃーなー、みやせー」
「売人に気ぃ付けろー」
着替えを済ませれば用もないため早々に帰ろうとする俺を、ヒラヒラ手を振ったバイト仲間二人がのほほんと送り出してくる。その横から森田さんも一言。
「なんかあったら火事だって叫ぶんだぞ」
ふっと短い笑いが思わず漏れる。それは変態が出た時の対処法だ。適当に頷いてから軽く頭を下げて部屋を出てきた。
以前とはやはり違う。バイト先の連中と、こうも和やかに言葉を交わせる。正常であればこれが日常なのだろうが、殴り合いにも小競り合いにも口論にさえもならずにやり取りできるこの環境は、俺にとっては貴重なことだ。
誰かと関わると必ずと言っていいほどトラブルになるだけだから、最初から人とは関わらない。何年もそうやって生きてきたのに、最近はなんだか、少し、違う。
従業員用通路を通って、外に出た先に待つ裏庭。あの男の姿はやはりなかったが、極力何も考えないようにしながらそのまま足を止めずに歩いた。行き先はもちろんミオだ。
しかし細道に差し掛かった辺りでスマホがポケットの中で振動した。電話だ。相手の見当はつく。表示を確認すればやはり、予想通りの名前だった。
『おー、裕也。生きてるか?』
「死んでたら出らんねえよ。今そっち向かってる」
竜崎が実家に戻ってからというもの、昭仁さんが俺のシフト上がりを見計らって毎日のように掛けてくるようになった。
裕也を頼む。竜崎がそう言ったそうだ。実家に戻るその前に。
そんな必要ないと俺が言っても、託された手前責任というものがあるというのが昭仁さんの主張。納得できるようなできないような理由で結局は説き伏せられてしまった。
『ケンカしねえでウチまで来いよ』
「あんたは俺の保護者か」
『お兄ちゃんって呼んでもいいぞ』
「呼ばねえよ」
電話の向こう、後ろの方から、昭仁さんの静かな声に交ざって人間のざわつきが響いてくる。今日も店はいつも通りだ。明日もきっとそうに違いない。
『とりあえず無事にここまで辿り着け。お前に何かあったら俺が恭介に殺される』
「なんもねえって。心配しすぎだよ」
『用心しておくに越したことはねえだろ。前後左右気を付けて来い。斜めもな』
「はいはい」
前後左右斜めに注意を払いつつスマホを切って再びミオを目指した。すでに日は沈んでいる。申し訳程度の街灯が、点在していたりいなかったり。そんな寂れた裏道を進んだ。
毎日同じ道を通り、ここ数日はいつも思い出す。ミオのすぐ近くに来ればあの因縁の細道だ。ここであいつに助けられた。それが全ての始まりだった。
助けられ、何かと気に食わなくて、なのにキスをした。それもこの場所だった。
抱きしめてきた時のあいつの腕。重ねた唇も。表情も。呆れるほど鮮明に思い出せる。ミオの一歩手前で、ゆっくり足を止めていた。
「…………」
会いたい訳じゃない。決して違う。
竜崎とツラを合わせないだけで喉の調子がすこぶる良好だ。怒鳴る相手はいなくなった。言動の一つ一つに腹を立てる必要もない。
平穏だ。反面、もどかしい。複雑にぐちゃぐちゃと絡み合っている。それを無理やり解こうとして、引きずるように重く足を動かした。
古びた店の壊れそうな扉。そこを越えれば身に馴染んだ酒場の雰囲気に包まれる。
「お、寄り道しねえで来たな。偉い偉い。お兄ちゃんが褒めてやる」
「やめろってもう」
何がお兄ちゃんだ。包まれた途端にこれだ。
「そんな毎日ふざけてて疲れねえか。竜崎のマネにもそろそろ飽きろよ」
「飽きる飽きねえの問題じゃねえ。俺は恭介代理だからな」
うんざりしつつも定位置で着席。俺の前にグラスを差し出し、ククッと笑って煙草を咥え直した昭仁さんが酒を注いだ。
ついでにぐしゃぐしゃ撫でられる。頭からその手を振り払った。
「しつけえよ」
「裕也が寂しがんねえようにしてやるのも俺の役目だ」
「……寂しくねえし」
怒りすら湧き起こってこない。酒に少しだけ口をつけ、そしてすぐに手放した。
「なあところで、来て早々こんな話もなんだが」
何事かを切り出した昭仁さんの言葉に反応してぴょこっと顔を上げた。
「お前も一応聞くだけは聞いとけ。最近この辺りでドラッグ売り捌いてる連中がいる」
「ドラッグ……」
「ああ」
「……それってもしかして、覚せい剤?」
聞き返したら昭仁さんは少々意外そうな顔をした。
「何か知ってんのか?」
「いや、知ってるって言うか……さっきちょうどバイト先でそういう話が出てたから。社員の人の知り合いの知り合いがそれで捕まったとかなんとか」
「そうか……見境なく客増やしてるようだからな。ここらでカモにされてんのはほとんどみんな一般人だ。普通の主婦とか会社員とか」
「主婦?」
「そう、主婦。別名人妻。母親でもあるかもな」
「そういうのとは一番無縁そうだけど……」
「スマホさえあれば誰とでも二十四時間簡単に繋がれる社会の闇だ」
なるほど。
「それって何か滝川組と絡んでんのか」
「なぜそう思う」
「こんな話をわざわざ俺に聞かせてくるってことはそれしかねえだろ」
「察しのいい奴は話も早くて助かるよ」
察しが良くなくても分かるだろう。必要な事だけを俺に聞かせる。それ以外は自ら聞かせてこない。俺の知っている社会のそれとは少々、あるいは大幅に、異なる内容が占めているからだ。
「バラ撒いてるのは連中の三下か、あるいはさらにその子飼いか。いずれにせよ後ろには滝川がいる。確かな証拠はまだそろってねえが」
「こんなとこで見境なくやってるとその分足も付きやすいんじゃねえのか。客になっちまったその人も実際に逮捕されたって聞いたけど」
「お前もなんだかんだ情報早いな」
「量販店の正社員のダチのダチのダチのダチのダチの実話だ」
「それもう赤の他人じゃねえか」
「だよな」
こんな薄っぺらい繋がりなのにまともな情報が伝達された。
「まあ、奴らの本拠地探ったとしてもどうせブツは出てこねえ。下っ端使って小口で売り捌いて実態をぼかしてる。少額で少量を買う一般人を相手にしてんのもそのためだ。はっきりしたルート辿るには確たる証拠も必要になるが、売人一人捕まえたところで大した意味はねえからな」
「黙ってたら捕まったヤツが不利になるだけだろ?」
「そもそも元締めが誰かも知らねえでやってる可能性も高い。金で釣れるような奴らがバイトとして雇われてるだけで」
社会の闇は見えていないだけで至る所に存在している。ニュースで聞き流すようなものから、ニュースにさえならないものまで。
短くなったいつもの煙草を昭仁さんは手元の灰皿で消した。ジジッとくすぶった煙が舞い上がる。この人は間を置かずに新たな煙草をスッとくわえた。
「せめて金の流れでも掴めればな」
「……掴めたらどうするんだ?」
「捜査機関方面の知人にこっそり教える」
「どういう知人だよ。あんたホントに何やってんだ」
深刻な話を冗談のような口振りで聞かされている最中、来店してきた顔馴染みの客がカウンターにまっすぐ近付いた。親し気な挨拶とともに昭仁さんがその客に差し出したのはグラスとボトル。注いでやる素振りも見せない。客商売としては失格だ。
向こうも向こうで慣れている男は酒を持って仲間のいるテーブル席へ。粗雑な店には粗雑な客が集まる。それも悪くはない。ここは居心地がいい。
俺も目の前のグラスに手を伸ばした。どんなに落ち着ける空間であっても、この席で一人酒を飲むことにはまだ違和感しか抱けない。
いつもなら隣にいるはずのあの男は、今頃どうしているのだろうか。
「ほれ」
「うん?」
「サービス」
コトッと手元に置かれた小皿。そこにはナッツが乗っている。
見上げると昭仁さんは二ッと笑った。
「心優しい店主に惚れんなよ」
「だから竜崎のマネはやめろよ。これもどうせあれだろ。百均のやつ」
「最高級の超おいしいナッツだ」
「めちゃくちゃ形悪いのあるけど」
小粒でなおかつ微妙な形のアーモンドをカリッと口に放り込んだ。俺はリスでもネズミでもないからナッツの品質にこだわりはない。
昭仁さんもその場で自分のグラスを用意して好きなように酒を注いだ。竜崎代理だというこの人は、あいつの代わりに俺と酒を飲む。
いつもの夜と変わりない。あの男がいないこと以外は。
飲み込まねばならない程にしつこく溜め息が出てきてしまうのは、ナッツがそんなに美味くないせいだ。
バイト先の通路奥。従業員専用の出入り口を見つめた。ついこの間まではしつこく現れていた。けれど今日もまたドアを開いたその先に、竜崎の姿はないのだろう。
「…………」
溜め息とともに眉間が寄る。これではまるでそこにいることを期待しているかのようだ。
あり得ない。会いたいわけではない。危ない目に遭っているのではないかと、気がかりに思うくらいで。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。滅入りそうな気分を無視してロッカー室のドアノブを回した。
「えーなにそれコワぁ。ほんとにそんなこと起こるんですか」
「起きたんだよ、現実に。知り合いからこんな話聞かされるとは俺も思ってなかったけど」
室内には数人の従業員が。着替えなり帰り支度なりをしている男性スタッフに紛れ、中央のベンチに寄り集まって話し込んでいるのは三人。
仕事仲間と適当な挨拶を交わしつつ、その三人の後ろを通って自分のロッカーの前に立った。話をしていたうちの一人は森田さんだ。俺に気づいて顔を向けてきたからこちらから口を開いた。
「おつかれーっす」
「おう、お疲れ。なあ宮瀬、お前も気を付けろ」
「はい?」
与えられたユニフォームのファスナーを下ろすと唐突に言われた。三人の方を振り返る。三人ともこっちに顔を向けていた。
「……何がです?」
「いやな、俺のダチのダチのダチのダチのダチの話なんだけど」
「それもう赤の他人じゃないですか」
「いいんだよ、赤の他人で。もしも身近なダチのことだったらお前らに喋ってない」
背もたれのないベンチで反対側に体を向けていた森田さんはクルリとこちらに向き直った。
「その人は普通の会社員で、この前の休日に車で事故起こしたらしくてさ。単独だったから他に怪我人はいなくて本人も命に別状はないんだけど、その事故がきっかけになって覚せい剤の使用が発覚したんだって」
「覚せい剤……?」
「常習だったっぽい」
俺も着替えの手が止まる。ニュースやなんかでしか見聞きしない言葉だ。
「ダチのダチのダチが言うにはだな……」
なんかふわっとしてるな、この人の情報源。
「最近この辺りに売人みたいなのがよくウロついてるらしい」
「へぇ……」
「へぇってお前。そういうのが俺らの生活圏にいるんだぞ。もっと危機感持っとけよ。宮瀬くらいの若いグループにも売り捌いてるって話だし」
「友達の友達の友達って人がそれも言ってたんですか」
「おいおい、バカにすんな。人が心配してやってるっていうのにお前は」
三歳の娘がいる森田さんは時々口調が父親っぽくなる。他の二人も怖いよなぁ、と口を揃えて言っていた。
「でもまあ、しがないバイトで学生の俺らにクスリ買う金なんかそもそもないよな。毎月の家賃払うだけで精一杯だもん」
「こんな頑張って労働してんのにこうも安い時給じゃあさ……」
言いつつ二人は森田さんを見た。
「……俺に言うなよ。その辺は俺の権限外だよ。つーか俺だってそこそこ薄給だよ」
森田さんの呟きを聞いて残念そうに顔を見合わせた二人。わざとらしく溜め息までついた。
「これが日本の現実か……。社員さんがそれ言ってんの聞くと一瞬でヤル気削がれる」
「社会でちゃんと頑張ってても努力は報われないんだなって気分になるよな。娘さんまだ三歳なのに」
「お前らなんなの」
しがない学生たちの辛辣な言葉に森田さんはうんざりした顔。そんな三人のやり取りを尻目に自分のジャケットを羽織った。薄給は今に始まった事ではないものの物騒な情勢は多少気になる。
「クスリやってた赤の他人はどうなったんです?」
「なんか宮瀬の言い方にもトゲあるな」
「気のせいじゃないすか」
「お前は……。捕まったって話だよ。そりゃまあ、覚せい剤やって車乗って事故ってりゃ当然だろ」
誰も巻き込まれず誰も死ななかったのが不幸中の幸いか。
「売った方は……? 捕まったんですか?」
「いや、そこまでは知らないけど。こういうの辿るのって結構難しいんじゃないのか?」
そりゃそうか。たとえ売人の一人を逮捕するに至ったとしても所詮はトカゲのしっぽ切だろう。
麻薬だろうと特殊詐欺だろうとその辺は変わらない。末端の人間を捕まえたところで取り仕切っている人間をあぶりだすことはほとんど不可能。だからこそこの手の犯罪は減らない。
「とにかく用心はしとけよ。職場の子から逮捕者が出たなんて話は上に報告したくないからな」
「なんで俺見て言うんですか」
「宮瀬はなんとなく問題起こしそうな顔してる」
「…………」
「そんな睨むなよ。冗談だって」
今のは絶対に本心で言った。笑う森田さんと他二名。
「まあまあまあ、気にすんなよ宮瀬。お前は問題起こしそうな顔っていうより人目を引きやすい顔なんだよ」
「そうそう。森田さんはイケメンを僻んでるだけだからそう怒るなって」
おいコラ、と森田さん。さらにケタケタ笑う二人。なんてユルイ環境だろう
ここの人間はみんな温厚だ。因縁をつけてくる奴はいないし客とも基本的には話さないからクビを切られるようなトラブルも起きない。
バイト仲間も社員の人達も皆やたらとおっとりしている。そんなような気がしてならないのだが、しかしよくよく考えてみれば、単発でチラホラ入るバイト先でも最近は以前のようなトラブルに巻き込まれることが少なくなってきている。少ないというより、ほとんどない。
なぜ俺ばかり。そう思いつつ、毎日ケンカが絶えなかった。それが今はどうだろう。平和。その一言に尽きる。
「じゃーなー、みやせー」
「売人に気ぃ付けろー」
着替えを済ませれば用もないため早々に帰ろうとする俺を、ヒラヒラ手を振ったバイト仲間二人がのほほんと送り出してくる。その横から森田さんも一言。
「なんかあったら火事だって叫ぶんだぞ」
ふっと短い笑いが思わず漏れる。それは変態が出た時の対処法だ。適当に頷いてから軽く頭を下げて部屋を出てきた。
以前とはやはり違う。バイト先の連中と、こうも和やかに言葉を交わせる。正常であればこれが日常なのだろうが、殴り合いにも小競り合いにも口論にさえもならずにやり取りできるこの環境は、俺にとっては貴重なことだ。
誰かと関わると必ずと言っていいほどトラブルになるだけだから、最初から人とは関わらない。何年もそうやって生きてきたのに、最近はなんだか、少し、違う。
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しかし細道に差し掛かった辺りでスマホがポケットの中で振動した。電話だ。相手の見当はつく。表示を確認すればやはり、予想通りの名前だった。
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『ケンカしねえでウチまで来いよ』
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『お兄ちゃんって呼んでもいいぞ』
「呼ばねえよ」
電話の向こう、後ろの方から、昭仁さんの静かな声に交ざって人間のざわつきが響いてくる。今日も店はいつも通りだ。明日もきっとそうに違いない。
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「なんもねえって。心配しすぎだよ」
『用心しておくに越したことはねえだろ。前後左右気を付けて来い。斜めもな』
「はいはい」
前後左右斜めに注意を払いつつスマホを切って再びミオを目指した。すでに日は沈んでいる。申し訳程度の街灯が、点在していたりいなかったり。そんな寂れた裏道を進んだ。
毎日同じ道を通り、ここ数日はいつも思い出す。ミオのすぐ近くに来ればあの因縁の細道だ。ここであいつに助けられた。それが全ての始まりだった。
助けられ、何かと気に食わなくて、なのにキスをした。それもこの場所だった。
抱きしめてきた時のあいつの腕。重ねた唇も。表情も。呆れるほど鮮明に思い出せる。ミオの一歩手前で、ゆっくり足を止めていた。
「…………」
会いたい訳じゃない。決して違う。
竜崎とツラを合わせないだけで喉の調子がすこぶる良好だ。怒鳴る相手はいなくなった。言動の一つ一つに腹を立てる必要もない。
平穏だ。反面、もどかしい。複雑にぐちゃぐちゃと絡み合っている。それを無理やり解こうとして、引きずるように重く足を動かした。
古びた店の壊れそうな扉。そこを越えれば身に馴染んだ酒場の雰囲気に包まれる。
「お、寄り道しねえで来たな。偉い偉い。お兄ちゃんが褒めてやる」
「やめろってもう」
何がお兄ちゃんだ。包まれた途端にこれだ。
「そんな毎日ふざけてて疲れねえか。竜崎のマネにもそろそろ飽きろよ」
「飽きる飽きねえの問題じゃねえ。俺は恭介代理だからな」
うんざりしつつも定位置で着席。俺の前にグラスを差し出し、ククッと笑って煙草を咥え直した昭仁さんが酒を注いだ。
ついでにぐしゃぐしゃ撫でられる。頭からその手を振り払った。
「しつけえよ」
「裕也が寂しがんねえようにしてやるのも俺の役目だ」
「……寂しくねえし」
怒りすら湧き起こってこない。酒に少しだけ口をつけ、そしてすぐに手放した。
「なあところで、来て早々こんな話もなんだが」
何事かを切り出した昭仁さんの言葉に反応してぴょこっと顔を上げた。
「お前も一応聞くだけは聞いとけ。最近この辺りでドラッグ売り捌いてる連中がいる」
「ドラッグ……」
「ああ」
「……それってもしかして、覚せい剤?」
聞き返したら昭仁さんは少々意外そうな顔をした。
「何か知ってんのか?」
「いや、知ってるって言うか……さっきちょうどバイト先でそういう話が出てたから。社員の人の知り合いの知り合いがそれで捕まったとかなんとか」
「そうか……見境なく客増やしてるようだからな。ここらでカモにされてんのはほとんどみんな一般人だ。普通の主婦とか会社員とか」
「主婦?」
「そう、主婦。別名人妻。母親でもあるかもな」
「そういうのとは一番無縁そうだけど……」
「スマホさえあれば誰とでも二十四時間簡単に繋がれる社会の闇だ」
なるほど。
「それって何か滝川組と絡んでんのか」
「なぜそう思う」
「こんな話をわざわざ俺に聞かせてくるってことはそれしかねえだろ」
「察しのいい奴は話も早くて助かるよ」
察しが良くなくても分かるだろう。必要な事だけを俺に聞かせる。それ以外は自ら聞かせてこない。俺の知っている社会のそれとは少々、あるいは大幅に、異なる内容が占めているからだ。
「バラ撒いてるのは連中の三下か、あるいはさらにその子飼いか。いずれにせよ後ろには滝川がいる。確かな証拠はまだそろってねえが」
「こんなとこで見境なくやってるとその分足も付きやすいんじゃねえのか。客になっちまったその人も実際に逮捕されたって聞いたけど」
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「それもう赤の他人じゃねえか」
「だよな」
こんな薄っぺらい繋がりなのにまともな情報が伝達された。
「まあ、奴らの本拠地探ったとしてもどうせブツは出てこねえ。下っ端使って小口で売り捌いて実態をぼかしてる。少額で少量を買う一般人を相手にしてんのもそのためだ。はっきりしたルート辿るには確たる証拠も必要になるが、売人一人捕まえたところで大した意味はねえからな」
「黙ってたら捕まったヤツが不利になるだけだろ?」
「そもそも元締めが誰かも知らねえでやってる可能性も高い。金で釣れるような奴らがバイトとして雇われてるだけで」
社会の闇は見えていないだけで至る所に存在している。ニュースで聞き流すようなものから、ニュースにさえならないものまで。
短くなったいつもの煙草を昭仁さんは手元の灰皿で消した。ジジッとくすぶった煙が舞い上がる。この人は間を置かずに新たな煙草をスッとくわえた。
「せめて金の流れでも掴めればな」
「……掴めたらどうするんだ?」
「捜査機関方面の知人にこっそり教える」
「どういう知人だよ。あんたホントに何やってんだ」
深刻な話を冗談のような口振りで聞かされている最中、来店してきた顔馴染みの客がカウンターにまっすぐ近付いた。親し気な挨拶とともに昭仁さんがその客に差し出したのはグラスとボトル。注いでやる素振りも見せない。客商売としては失格だ。
向こうも向こうで慣れている男は酒を持って仲間のいるテーブル席へ。粗雑な店には粗雑な客が集まる。それも悪くはない。ここは居心地がいい。
俺も目の前のグラスに手を伸ばした。どんなに落ち着ける空間であっても、この席で一人酒を飲むことにはまだ違和感しか抱けない。
いつもなら隣にいるはずのあの男は、今頃どうしているのだろうか。
「ほれ」
「うん?」
「サービス」
コトッと手元に置かれた小皿。そこにはナッツが乗っている。
見上げると昭仁さんは二ッと笑った。
「心優しい店主に惚れんなよ」
「だから竜崎のマネはやめろよ。これもどうせあれだろ。百均のやつ」
「最高級の超おいしいナッツだ」
「めちゃくちゃ形悪いのあるけど」
小粒でなおかつ微妙な形のアーモンドをカリッと口に放り込んだ。俺はリスでもネズミでもないからナッツの品質にこだわりはない。
昭仁さんもその場で自分のグラスを用意して好きなように酒を注いだ。竜崎代理だというこの人は、あいつの代わりに俺と酒を飲む。
いつもの夜と変わりない。あの男がいないこと以外は。
飲み込まねばならない程にしつこく溜め息が出てきてしまうのは、ナッツがそんなに美味くないせいだ。
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生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
※4月18日、完結しました。ありがとうございました。
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