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第一部
12.3-Ⅰ
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「おい」
「ああ?」
「……アンタが宮瀬裕也か」
その男の顔を見た時、思い浮かんだのは子犬だった。
バイトを終えて店を出たところだった。竜崎はまだいない。一人で裏口に出た。そこで待ち構えていたそいつは、威嚇するようにこっちを睨みつけていた。
年は俺より下だろう。ずいぶん若く見えるが、十代かもしれない。幼さの残る顔には不釣り合いなまでの物騒な目つきで、人の名前を呼び捨てたこいつは今にも飛びかかってきそうだった。
この顔に見覚えはない。恨みを買うような記憶もない。かと言って無視を決め込みあしらうのも雰囲気からして難しそうだったため、そこから程近い場所で適当な飲食店を選んだ。
入ったのは安い居酒屋。店内はすでに騒がしく、仕切りのない座敷に通された。
夕方になると冷え込みも一層厳しくなってくるこの季節。わざわざ居酒屋に移動したのは、何よりもまず外で寒い中話し込むのは避けたかった。そして万が一話が付かずに不穏な空気になった場合にも、周りに大勢の人間がいる場で乱闘騒ぎを起こすような男には見えなかったのも一つ。
広々とした店ではあるが、隣のテーブルとの間にはちょっとした衝立すらない。こうも賑やか場所であるならより安全を確保できるだろう。
「それで。誰だお前」
安全じゃないのはこいつの精神状態。猫であれば毛を逆立ててフーフー言っていそうな様子だ。まだまだガキっぽいこの男から向けられるのは威嚇の眼差し。
第一印象は子犬だった。今もやはり子猫っぽい。犬猫を連想させる男は見た目こそ従順そうなものの、実際にはなかなかの頑固。さっきから口を割る気配がない。
「あのなあ……どこの誰だか知りもしねえ奴にこっちだってわざわざ付き合ってやってんだよ。何も話す気がねえんなら帰るぞ」
「…………恭介さん」
「あ?」
ぼそっと、小さく呟かれたその名。恭介という名前で思い当たるのは、俺にはあの馬鹿しかいない。
「……お前誰だ。なんで俺のとこに来た」
「とぼけんじゃねえよ。噂だって流れてんだ」
「うわさ……?」
威嚇的な態度は最初からだったが、今もじっと睨みつけてくる。噂とはなんだとこっちから聞く前に、こいつが唸るように言った。
「……お前のせいで……」
「は……?」
「お前が恭介さんをそそのかしたんだろっ……!」
思わず頭を抱えたくなる。なんの話だが知らないが、そそのかしたとは言い掛かりもいいとこ。
不当な疑惑を突きつけてくる相手が通りすがりのヤンキーだったら、シカトするなりブチのめすなり簡単な対処の方法もあるだろうが相手は子犬っぽいこいつ。そもそもヤンキーが相手だったらこんな店に連れてこない。連れて来たからには事情を知りたいがこいつはいきり立っている。
「ちょっと……いったん落ち着け」
竜崎の名前をさん付けで呼ぶくらいだ。あいつの敵ではないだろう。
「お前、名前は。呼びにくい」
「……加賀。加賀樹」
イキっちゃいるけど根はいい子なんだろうな。下の名前まで教えてくれた。
「じゃあ、加賀。俺になんの用があって来た。噂だけで人一人を探し出したからにはそれなりの理由があるんだろ?」
「…………」
問いかけたら今度は唇をかみしめた。どうしたものか。殴って解決できる相手ではないし、対処に困って肩を落とした。そんな時にタイミングよく運ばれてきたのはウーロン茶。それとコップ二つ。
店員が置いていったグラスを加賀の前にザザッと寄越して、年齢がどうにも定かでないので無難な液体を注いでやる。
「これ飲め。とりあえずは落ち着いてくれると助かる。それで話したくなったら話してみろ」
野良犬の警戒を解く態でそれとなく言ってみれば、眉間を寄せつつも本当にいささか警戒を緩めて目を合わせてきた。
と同時に、ぐうぅっと聞こえた。腹だ。こいつの腹の虫。これだけ賑やかな店内なのに、はっきり聞こえるほどデカい音だった。
「…………」
「腹減ってんのか?」
「……うるせえ」
減っているそうだ。
どうせこのあとに行く所はミオしかない。急いでいる訳でも忙しい訳でもない。この男が落ち着くまで付き合ってやっても差し支えはなかった。
目の前に人間不信の子犬がいる。しかもそいつが腹を空かせている。こういう場合にはどうするか。決まってる。答えなんて一つしかない。
「おい、加賀」
「……なんだよ」
「米と麺ならどっちが好きだ」
「は……?」
それに対する答えを聞く前に、近くを通りかかった店員に声をかけた。腹にたまりそうな主食と、定番の居酒屋メニューを伝える。
勝手にポンポン注文する俺をキョトンとした顔でこいつは見ていた。そういう顔をすると年相応なうえに子犬感が一段と増す。
「米と麺どっちもくるぞ。残さず食えよ」
「何言って……」
「いいからちょっと待ってろ。ここの店は割とすぐに出てくる」
「…………」
警戒心バリバリの子犬にとってはあまりにも想定外のことだったらしい。メニューを適当に手放した俺をあり得ないとでも言いたげに見ている。そして半ば放心気味だ。
「アンタが……」
「おう。今度はなんだ」
「恭介さんを、そそのかしたって……」
「そればっかだなお前。どこでそんなデマが流れてんだよ」
そそのかすとは人聞きの悪い。デマだとはっきり言いきった俺に、加賀はやや表情を固くさせた。
「だって……だって、アンタが恭介さんに取り入ってるとか……組を潰すために恭介さんに近付いたとか……」
「待てよオイ、どんな噂だそりゃ。どこで何を聞いたか知らねえがデタラメにも程がある。なんで俺がそんなことしなきゃなんねえんだよ」
「……うそだ」
「嘘じゃねえっての。そもそもあいつの実家のことだってついこの前まで知らなかった。つーか今も組の所在地すら知んねえし」
ネット検索で出てきそうな時代だがわざわざそんな事をするつもりはなかった。噂に尾ひれがつくのは世の中の常だろうけど、ヤクザとは無縁の人生の俺が組を潰しても得がない。
加賀も俺を見てごく普通の一般人なのは分かっただろう。それもあってか噂を否定され、顔にはみるみる焦りが出ていく。
「そんな…………」
絶望的な表情だ。なんだか可哀想になってくる。次第にきょろきょろと視線をさ迷わせ、それでも考えはまとまらなかったようで情けない顔で俺を見てきた。
そして何を思ったか。急にオロオロしだした様子で座布団から降り、テーブルの横にずれ、俺からも全身が見える位置で両手を床の上にバンッとついた。
「す……すみませんでしたッ!!」
「はッ?」
バッと、見事なまでの綺麗な土下座。まさかの事態にこちらも唖然。この手の体育会系には慣れていない。
「おい、おい、やめろ、分かった。そういうのはやらなくていい」
「俺……アンタのせいだって……アンタのせいで恭介さんが出てったきり戻ってこないんだって……。ずっと探してて、この街入ったらそういう噂ばっか聞くようになったから……っ」
「分かった、いいから、大丈夫だ分かった。とにかく落ち着け。まずは頭上げろ」
可哀想なほどプルプル震え出したからこっちまでオロオロさせられる。
土下座などそうそう目にする機会がないのは俺じゃなくても同じこと。近くの客もチラチラと俺達の様子を盗み見ている。
とても綺麗な土下座をする青年。そんな奴の前にいるのは、道を歩いているだけで目つきが気に食わねえと絡まれる事も多々あるこんな俺。
最悪だ。俺が悪者みたいだ。加賀のそばに慌てて寄って、頭を上げるように言って宥めた。
「謝んなくていいからやめとけ。ああ、ほらメシ来たぞ。米と麺一緒に来た、よかったな。とりあえずメシ食え。腹いっぱいになって落ち着け。言いたい事があるならその後ちゃんと聞いてやる」
「こ、こんなっ……こんなっ、いい人だなんて……俺ぜんぜん知らなくてえぇ……っ」
「泣くなッ!」
とんでもない奴が出てきた。
「ああ?」
「……アンタが宮瀬裕也か」
その男の顔を見た時、思い浮かんだのは子犬だった。
バイトを終えて店を出たところだった。竜崎はまだいない。一人で裏口に出た。そこで待ち構えていたそいつは、威嚇するようにこっちを睨みつけていた。
年は俺より下だろう。ずいぶん若く見えるが、十代かもしれない。幼さの残る顔には不釣り合いなまでの物騒な目つきで、人の名前を呼び捨てたこいつは今にも飛びかかってきそうだった。
この顔に見覚えはない。恨みを買うような記憶もない。かと言って無視を決め込みあしらうのも雰囲気からして難しそうだったため、そこから程近い場所で適当な飲食店を選んだ。
入ったのは安い居酒屋。店内はすでに騒がしく、仕切りのない座敷に通された。
夕方になると冷え込みも一層厳しくなってくるこの季節。わざわざ居酒屋に移動したのは、何よりもまず外で寒い中話し込むのは避けたかった。そして万が一話が付かずに不穏な空気になった場合にも、周りに大勢の人間がいる場で乱闘騒ぎを起こすような男には見えなかったのも一つ。
広々とした店ではあるが、隣のテーブルとの間にはちょっとした衝立すらない。こうも賑やか場所であるならより安全を確保できるだろう。
「それで。誰だお前」
安全じゃないのはこいつの精神状態。猫であれば毛を逆立ててフーフー言っていそうな様子だ。まだまだガキっぽいこの男から向けられるのは威嚇の眼差し。
第一印象は子犬だった。今もやはり子猫っぽい。犬猫を連想させる男は見た目こそ従順そうなものの、実際にはなかなかの頑固。さっきから口を割る気配がない。
「あのなあ……どこの誰だか知りもしねえ奴にこっちだってわざわざ付き合ってやってんだよ。何も話す気がねえんなら帰るぞ」
「…………恭介さん」
「あ?」
ぼそっと、小さく呟かれたその名。恭介という名前で思い当たるのは、俺にはあの馬鹿しかいない。
「……お前誰だ。なんで俺のとこに来た」
「とぼけんじゃねえよ。噂だって流れてんだ」
「うわさ……?」
威嚇的な態度は最初からだったが、今もじっと睨みつけてくる。噂とはなんだとこっちから聞く前に、こいつが唸るように言った。
「……お前のせいで……」
「は……?」
「お前が恭介さんをそそのかしたんだろっ……!」
思わず頭を抱えたくなる。なんの話だが知らないが、そそのかしたとは言い掛かりもいいとこ。
不当な疑惑を突きつけてくる相手が通りすがりのヤンキーだったら、シカトするなりブチのめすなり簡単な対処の方法もあるだろうが相手は子犬っぽいこいつ。そもそもヤンキーが相手だったらこんな店に連れてこない。連れて来たからには事情を知りたいがこいつはいきり立っている。
「ちょっと……いったん落ち着け」
竜崎の名前をさん付けで呼ぶくらいだ。あいつの敵ではないだろう。
「お前、名前は。呼びにくい」
「……加賀。加賀樹」
イキっちゃいるけど根はいい子なんだろうな。下の名前まで教えてくれた。
「じゃあ、加賀。俺になんの用があって来た。噂だけで人一人を探し出したからにはそれなりの理由があるんだろ?」
「…………」
問いかけたら今度は唇をかみしめた。どうしたものか。殴って解決できる相手ではないし、対処に困って肩を落とした。そんな時にタイミングよく運ばれてきたのはウーロン茶。それとコップ二つ。
店員が置いていったグラスを加賀の前にザザッと寄越して、年齢がどうにも定かでないので無難な液体を注いでやる。
「これ飲め。とりあえずは落ち着いてくれると助かる。それで話したくなったら話してみろ」
野良犬の警戒を解く態でそれとなく言ってみれば、眉間を寄せつつも本当にいささか警戒を緩めて目を合わせてきた。
と同時に、ぐうぅっと聞こえた。腹だ。こいつの腹の虫。これだけ賑やかな店内なのに、はっきり聞こえるほどデカい音だった。
「…………」
「腹減ってんのか?」
「……うるせえ」
減っているそうだ。
どうせこのあとに行く所はミオしかない。急いでいる訳でも忙しい訳でもない。この男が落ち着くまで付き合ってやっても差し支えはなかった。
目の前に人間不信の子犬がいる。しかもそいつが腹を空かせている。こういう場合にはどうするか。決まってる。答えなんて一つしかない。
「おい、加賀」
「……なんだよ」
「米と麺ならどっちが好きだ」
「は……?」
それに対する答えを聞く前に、近くを通りかかった店員に声をかけた。腹にたまりそうな主食と、定番の居酒屋メニューを伝える。
勝手にポンポン注文する俺をキョトンとした顔でこいつは見ていた。そういう顔をすると年相応なうえに子犬感が一段と増す。
「米と麺どっちもくるぞ。残さず食えよ」
「何言って……」
「いいからちょっと待ってろ。ここの店は割とすぐに出てくる」
「…………」
警戒心バリバリの子犬にとってはあまりにも想定外のことだったらしい。メニューを適当に手放した俺をあり得ないとでも言いたげに見ている。そして半ば放心気味だ。
「アンタが……」
「おう。今度はなんだ」
「恭介さんを、そそのかしたって……」
「そればっかだなお前。どこでそんなデマが流れてんだよ」
そそのかすとは人聞きの悪い。デマだとはっきり言いきった俺に、加賀はやや表情を固くさせた。
「だって……だって、アンタが恭介さんに取り入ってるとか……組を潰すために恭介さんに近付いたとか……」
「待てよオイ、どんな噂だそりゃ。どこで何を聞いたか知らねえがデタラメにも程がある。なんで俺がそんなことしなきゃなんねえんだよ」
「……うそだ」
「嘘じゃねえっての。そもそもあいつの実家のことだってついこの前まで知らなかった。つーか今も組の所在地すら知んねえし」
ネット検索で出てきそうな時代だがわざわざそんな事をするつもりはなかった。噂に尾ひれがつくのは世の中の常だろうけど、ヤクザとは無縁の人生の俺が組を潰しても得がない。
加賀も俺を見てごく普通の一般人なのは分かっただろう。それもあってか噂を否定され、顔にはみるみる焦りが出ていく。
「そんな…………」
絶望的な表情だ。なんだか可哀想になってくる。次第にきょろきょろと視線をさ迷わせ、それでも考えはまとまらなかったようで情けない顔で俺を見てきた。
そして何を思ったか。急にオロオロしだした様子で座布団から降り、テーブルの横にずれ、俺からも全身が見える位置で両手を床の上にバンッとついた。
「す……すみませんでしたッ!!」
「はッ?」
バッと、見事なまでの綺麗な土下座。まさかの事態にこちらも唖然。この手の体育会系には慣れていない。
「おい、おい、やめろ、分かった。そういうのはやらなくていい」
「俺……アンタのせいだって……アンタのせいで恭介さんが出てったきり戻ってこないんだって……。ずっと探してて、この街入ったらそういう噂ばっか聞くようになったから……っ」
「分かった、いいから、大丈夫だ分かった。とにかく落ち着け。まずは頭上げろ」
可哀想なほどプルプル震え出したからこっちまでオロオロさせられる。
土下座などそうそう目にする機会がないのは俺じゃなくても同じこと。近くの客もチラチラと俺達の様子を盗み見ている。
とても綺麗な土下座をする青年。そんな奴の前にいるのは、道を歩いているだけで目つきが気に食わねえと絡まれる事も多々あるこんな俺。
最悪だ。俺が悪者みたいだ。加賀のそばに慌てて寄って、頭を上げるように言って宥めた。
「謝んなくていいからやめとけ。ああ、ほらメシ来たぞ。米と麺一緒に来た、よかったな。とりあえずメシ食え。腹いっぱいになって落ち着け。言いたい事があるならその後ちゃんと聞いてやる」
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