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第一部
8.2-Ⅰ
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冷静になって考えてみれば冗談だとすぐに分かった。あのキスも、あの言葉も、何をあんなに焦っていたのか。昨日の滑稽な自分を思い出すと情けなさに腹が立つ。
なんと言っても竜崎だ。掴みどころのないあの男。俺をからかって面白がるためなら男とキスくらい普通にしそうだ。
あれは消したい記憶でしかないが、ならば忘れてやればいいだけの話。
俺は今夜もミオにいる。待っている。そう言っていた割に竜崎はまだ来ていない。少量ずつ酒を口にしながら、話し相手になってくれるのは煙草を手放さないこの店主。
「ところでバイトは決まったか?」
「ああ、うん。明日から来てくれって」
「良かったじゃねえか」
連絡してあった店には今日の昼間行ってきたばかり。今回は出来る限りトラブルなく続けたい。クビになる度にいちいちバイト先を探すのは結構手間がかかる。
「今度は何やるんだ?」
全面禁煙もクソもないような店だが一番吸っているのはたぶん昭仁さんだろう。世界中の雇い主がみんなこれくらい適当な人なら働く側は楽だろうに。
「ディスカウントストアの裏方」
「ディスカウントストア?」
「最近駅の方にできたデカい量販店があるだろ。そこだよ。フルタイムじゃねえから別の仕事も探すけど」
「ほう。花屋は?」
「あり得ねえ」
昨日の竜崎との会話を蒸し返されて一瞬で酒が不味くなった。昭仁さんは笑ったが、この人に笑われてもカチンと来ないのはいつも不思議で仕方がない。
これがもしもあいつだったらすでに殴りかかっている。夕べの竜崎の部屋での出来事は、多少トラウマにもなりそうだけれど水に流せない事もない。忘れてやるのは簡単なはず。しかしそうはいかなかった。
手慣れた様子で押さえ込まれた。顔面をぶん殴っても動じない。思えば最初からずっと怪しい奴だった。竜崎恭介。あいつは、なんなんだ。
カツアゲ集団はみんな一様にその顔を青くさせていた。夕べあいつらをけん制したときの竜崎の表情も、普通じゃなかった。
実際に殴りつけて俺も理解した。勝てない。それが即座に分かった。
プカプカと白い煙を散らしている昭仁さんの顔を盗み見る。口が軽い人ではないだろう。いたずら心が、芽生えなければ。
「昭仁さんさぁ……」
「あー?」
「……あいつと付き合い長いんだよな?」
「恭介?」
聞かれてコクッと頷き返した。自分で吐き出した煙の行く先を、昭仁さんは考え込むように見ている。
「長い……と言えるかは微妙だな。知り合ったのは一年くらい前だ」
「……あいつって、なんかあるのか」
「あ?」
「や、なんて言うか……ちょっと……」
なかなか言葉にまとまりにくい。
「どうかしたのか?」
「どう……うーん、いや……いや。うん。まあ……」
歯切れが悪いし格好も悪い。昭仁さんの面白そうな視線もチクチク刺さってきて痛い。
「……前にそこで喧嘩っていうか、俺がフクロにされた時の奴ら……また会ったんだよ、夕べここから帰る途中に」
「お前そういうのよく巻き込まれるな」
「これもうホント昔からで他人と擦れ違うとその度にほぼ必ず因縁つけられるっつーか……いや、それはどうでもいいんだけど。そん時そいつら、竜崎がどうのこうのって妙にあいつのこと気にしてたから。夕べもこの前もすげえ怖がってたっぽいし……なんなのかと思って」
「なるほどな」
ふーっと長く吐き出された煙。それを最後に昭仁さんの手はカウンター上の灰皿に伸びた。その手元で消された煙草が、くすぶった煙を舞い上がらせた。
それと共に向けられた視線。口元にはやや笑みが浮かんでいる。からかうようなその表情に、失敗したかもと薄ら思った。
「気になるワケだ。恭介が」
「……は?」
「まんまとハマってんな」
「ッ違えよ!」
ダンッとカウンターに手を打ち付けた。大袈裟な自分の行動にハッとしてすごすご両手を下ろす。反対に昭仁さんは笑いながら俺の前に手をついてきた。
「んな怒んなよ。あいつの事になるとムキになりすぎだぞお前」
「別に……そんなこと……」
歯切れの悪い返答しかできない。昭仁さんはやはり面白そう。
「お前は何事に対しても我関せずって感じなのにな」
「……そんなか?」
「そんなだろ。隕石落ちてきて日本が潰れてもなんの興味も示さねえと思う」
「…………」
自分のいる国が隕石の落下で潰されたらさすがに気になる。その時点で生きていられれば。
もしかしたら来るかもしれない日本の終末はひとまず置いておくとして、竜崎の事を教えてくれる気があるのかないのかそっちの方が気がかりだ。
竜崎のように存在そのものにイライラさせられる事はないにしても、この人もなかなか真意を掴みにくい。手元では新しい煙草に安っぽいライターで火をつけていた。
「で? なんであいつのことはそんなに気になるんだ?」
「だから気になるっていうか……」
急に話を戻された。しかしながら実際のところ自分でも良く分かっていない。
気にならない。と言ったら嘘になる。かと言ってすごく知りたい訳じゃない。
成り行きでここに通うようになったが、この先ずっとあの男に付きまとわれてやるつもりはないのだし。竜崎のことを俺が知る必要は、一つたりともないはずなのに。
「……いや、いい。なんでもねえや。忘れてくれ」
「全然納得してねえって顔してるぞ」
「…………」
一度してしまった質問の却下をこの店では許してもらえないようだ。
酒に目を落とす。それから再び昭仁さんを見た。食えない男だ、この人も。
「……どうせ教える気なんかねえんだろ」
くくっと笑って返される。それでいてどことなく諭すようなその目。
これを大人の余裕とでも言うのか。嫌味ではないこの雰囲気にはいつもながら敵わない。咥え煙草も似合う店主は、半分減っただけの俺のグラスにトポッと酒を注ぎ足した。
「折角なら本人に聞いてやれ。裕也が俺のこと知りたがってるー、とか言ってバカみてえに喜ぶんじゃねえのか」
「うぜぇ……」
しかもその様子が目に浮かぶ。
「恭介も前はあそこまで馬鹿っぽくなかったはずなんだけどなぁ……。初対面当時の愛想のなさと言ったら裕也といい勝負だったぞ」
「悪かったな愛想がなくて」
「本気でお前に惚れてたりしてな」
「…………」
それはほんのささいな冗談。昭仁さんはそのつもりだったはず。俺がここですべき事はこの冗談を適当に受け流すことで、昭仁さんもそれを想定しているからこんなしょうもない事を言ってくる。
けれど俺の中に浮かんだのは、昨夜のあの部屋での出来事。水に流して忘れたはずだった、あの男の奇行の数々。
どれもこれもあいつが俺にするべき言動ではなかった。あんな忌々しい大事件は記憶から消去したことにして、意地だけで今夜もここに来た。そのはずなのに。
「なんだよ。どした?」
昭仁さんに声を掛けられ、停止しかけていた思考を強引に動かしてグラスを持った。気を紛らわすために酒を口にしても味は良く分からない。
昭仁さんは何も言わない。急に黙り込むのは不自然だろうが、俺も言葉が見つからない。
そしてそんな時、タイミングがいいのか悪いのか判断しかねるこの状況で、古くて重くて若干軋む入り口のドアが音を立てた。店に入ってきたのは、竜崎。
「…………」
グラスを握りしめる指先に少しばかり力がこもった。勝手に強張る体を無視してグラスの中身を凝視する。無言を貫く俺の隣に、竜崎は腰を下ろした。
「いないとか思った」
投げかけられたその一言。肩からはやや力が抜ける。
その声はいつも通りだった。からかうような雰囲気だ。
「……言ったろ。俺の勝手だ」
そっけなく返すとくすくす笑って見せてくる。腹が立つ。
やっぱりだ。冗談だった。普通に考えればそれが妥当だ。この態度を見る限り、昨夜のことを気にしている様子は全くもって窺えない。
「花屋は決まった?」
「決めねえよ」
「じゃあアレか。ペットショップ」
「違ぇっつってんだろしつけえんだよクソがッ」
「うーん、それじゃ客の応対ムリっぽいもんなぁ」
「……ッ」
馬鹿にしたような笑顔とその声。奥歯をギリッと噛みしめて耐えた。
こいつと話しているとそれだけで神経がすり減る。威嚇のために一度だけ睨みつけ、それから顔の向きを前に戻した。
さっさと飲んでさっさと帰る。目標ができた。グイッと一口。
しかしこの視界の隅には横から伸ばされた手が入り込んだ。反射的にばっと腕を引き、振り上げようとするも遅い。俺が逃げ切るよりも早く、竜崎の手がこの腕を掴んだ。
「手首も細いよな。夕べも思ったけど」
「っ……」
人が一番言われたくない事をこいつは気にせずズケズケと言う。掴まれた手首をグイッと引っ張られ、加減のない強引な動作に上体のバランスを一発で崩した。
この店のカウンター席は椅子の間隔がそれなりにゆったりしている。寂れてはいるが広さは十分。それがこの店の特徴だ。
客からしてみれば寛ぐ場所として最適とも言えるだろうが、そんな所で不意打ち気味にガッと腕を引かれてしまうと体勢を元に戻すのは難しい。迎え入れるように椅子から降りて立ち上がった竜崎の胸に、ばふっと体を受け止められた。
「……ッ!?」
片足は椅子の足掛けリングの上。片手はカウンターの上。咄嗟に出た手足だったがほとんど意味は成していない。俺の背中と後頭部には、こいつの手が回されている。
「一日一抱。今日も一日頑張った」
「っ……ふざけんなッ……!」
竜崎を突っぱねて椅子からおりた。夕べから立て続けになんなんだ。またしてもあっさり抱きしめられた。
「妙な標語作ってんじゃねえよクソバカ死ねッ」
何が一日一抱だ。こっちはこの男のせいで一日百怒くらいになっている。どこから喚き声が上がろうが気にする常連達ではないため腹の底から怒鳴り上げた。
予告なく実行される竜崎の奇行に昭仁さんも呆れた笑いだ。しかしこの人の場合はどちらかというと、こいつの言動を面白がっている。
「お前は裕也の機嫌損ねに来てんのか?」
「違ぇよ。無邪気な愛情表現だろ」
「どこがだこのクズ……ッ」
どこまでが本気でどこまでが冗談か。考えることすら煩わしい。握った拳を震わせながら俺が床に立っているのは間違いなく竜崎のせいだが、立つはめになった元凶のこいつは着席を促してきた。自らも椅子に座り直し、まあまあと宥めてくるのがムカつく。
もう帰ってやろうか。足されたばかりのグラスの中身はまだだいぶ残っているが。しかしそれだとなんとなく、こいつに負かされたような気もする。
「…………」
言いたいことは多々あるものの、ぐっと堪えて椅子に座った。
「なあ。信じてねえだろ」
「あぁ……?」
むしゃくしゃした気分はおさまらない。そんな中で隣から言われ、苛立ちを隠さずに目を向けた。
「マジだって話」
「…………」
ここで言うのか、それを。いま。冗談なのは百も承知だが他の人間には知られたくない。
たいしていい思い出のない二十三年半の人生の中でも、ワーストスリーには確実に入る汚点でしかないあの出来事を。
「はっ。バカじゃねえのか。信じるも何もねえだろクソが。テメエのくだらねえ暇潰しにわざわざ付き合ってやれる程の広い心は持ってねえんだよ。残念だったな」
「暇潰しじゃねえ。本気だ」
「うぜえ。いい加減にしろ。次は起きらんねえようにするぞ」
「あーそう、やってみろよ。俺もそん時はキスじゃ止めねえから」
「ッ……」
ビキッと、血管が破裂しそう。一気に頭に血が上った。考えるよりも先に動いていた右足と右腕は止めようがない。
床で踏み込み、拳を突き出し、そうすれば殴れる。普通なら、当たる。相手との距離と踏み込み具合と力加減。経験でどうなるか分かる。
俺の拳はこいつの左頬に深く食い込むはずだった。しかし、そうはならなかった。殴ってない。いや、殴れなかった。
パチンと、小気味良い音が立った。固く握りしめた拳を包んだのは竜崎の手のひら。かわすでもなく、避ける素振りすら見せず、平然と俺の手を止めた。
「ここでする?」
「っ……!」
なんて無様な。完全なる敗北だった。
この男にとって俺なんてきっと子犬とか赤ん坊とかその程度。何をしてもあっさり封じ込められる。だから睨みつけることくらいしかできない。
しかしだ。ここはミオのカウンターであり、会話は昭仁さんにも駄々漏れ。幸いなことにカウンターで飲んでいる客は俺達の他にいないが、おそらく一番聞かれてはならないのがこの人だと思う。
兄貴肌の頼れるマスターは、面白そうな話が大好きだ。
「……キス?」
「っぁ……」
焦りは小さな声に出ていた。竜崎の手を振り払い、慌てて昭仁さんに顔を向けた。
どう誤魔化すか。必死に頭を巡らせたものの、それを邪魔する不届き者が俺の隣に若干一名。
「俺は腰抜かさせる程ウマいらしいよ。なあ、裕也?」
明るく楽しく言いやがった。俺に肯定を求める竜崎の顔には満面の笑みが浮かんでいる。
俺の中でガラガラと、何かが音を立てて崩れた。
「……何やってんだお前ら」
「俺ら相性イイっぽい」
「いや、お前な……裕也固まってんぞ。大丈夫か」
大丈夫じゃない。
理解できないこの男のせいで平和な日常が奪われていく。元より平和とは言い難かったが。ただでさえ何かと絡まれやすいのに、これ以上疲れる要素が増えてしまったら体力よりも精神が持たない。
水に流してやろうとしたのに。無かったことにするはずだったのに。
竜崎は相変わらずご機嫌な様子で、癪に障る笑顔を俺に向けた。
「俺も可哀想だよなあ? 心を込めて愛の告白したって暇潰し呼ばわりで済まされるなんてさ。人の純情踏みにじんなよ」
「っ何が純情だ、大人しくしてりゃいい気になりやがって……ッ」
「お前が大人しかったことなんてあるか?」
「うるせえっ、くたばれクソ野郎ッ」
何が悲しくてこんなことを。たちが悪い。あまりにも悪すぎる。
昭仁さんは昭仁さんで俺を助ける気はないようだった。興味深そうにしつつも傍観を決め込んでいる。この人も考えてみれば謎だが、今はそれどころじゃない。
「どうしても信じねえ?」
「あぁッ!?」
「お前に惚れたっつってんの」
意味が分からない。日本語を話せ。そしてせめて人目に晒されるこの状況をどうにかしたい。
黙って見ていた昭仁さんもそこで口を挟んできた。
「恭介お前、とうとう男に走ったのか」
「昭仁さんッ」
思わず声を張り上げた。言われた竜崎は小さく笑った。
「男走んなくても女にモテるし」
「あーそうかよ、そりゃよかったな。見境なく手ぇ付けてるとそのうち誰かにぶっ刺されるぞ」
昭仁さんの冗談交じりの忠告にも竜崎はへらへら笑う。グラスを一度クイッと傾け、言葉は昭仁さんに向けつつ視線だけは俺の方に寄こした。
「ぶっ刺されてもいいって思うほど惚れた奴に限って懐かねえんだよ」
総毛立った。死ぬかもしれない。俺が言葉を失くした一方、昭仁さんが次の瞬間には思いっきり噴き出している。
大好きな喫煙を一時中断してまで顔を背ける程の事態らしい。右手に煙草を持たせながら、よっぽどツボに入ったようで小刻みに肩を震わせている。
「…………昭仁さん」
「いや……フハっ、わりぃ。ついな、つい。お前も大変だな裕也」
「…………」
他人事ではあるだろうけど。その反応はあんまりだ。
隣にいるこの男の口も今すぐ縫い付けてやりたい。
「裕也なかなか強情でさ、惚れたっつっても伝わらねえんだ。どうすりゃいいと思う?」
「俺に聞くな。普段女オトすときの要領でやりゃいいじゃねえか」
「だってさ、裕也。とりあえずホテル行こうか?」
「死ねッ」
この最低な誘い文句に乗る女がこの国にいるのか。いるよな。知ってる。割といる。日本は品行方正な国じゃない。
しかし俺は女でもなければそこまでの考えなしでもない。腹に据えかねる言動の数々にもこれ以上は付き合いきれなかった。
グラスにはまだ酒が残っているが、我慢の限界。席を立つ。
「なんだよ、待てって。まだいろよ」
毎日こうして引き止められるのにも、もういい加減うんざりしている。
「……放せ。お前といるとイライラする」
「マジか、いい兆候じゃん。俺に惚れるのも時間の問題だな」
「…………」
疲れた。こいつが話してんのって本当に俺と同じ言語か。
何も聞かなかったことにしてカウンターに酒代を置いた。座っていた席から離れる俺をこいつは生ぬるく呼んでくる。
「ゆうやー」
「……吊るしてぇ」
ふざけた語調が気に障る。振り向かずにぼそっと呟いた。金を回収した昭仁さんの顔には含んだような笑みが浮かんでいた。
店のドアを外から閉めると同時に勝手に出てくる重い溜め息。
本当に疲れた。一日の疲れがどっと増したような気がする。ほんの少しの時間だろうとあの男の近くにいると心身ともに疲弊させられる。
ミオの前の暗い細道は相変わらず人気がない。思えばここが全ての始まりだった。ちょっとした事故のような、あの出来事さえなかったら。俺の身に現在降りかかっている不幸が訪れることもなかっただろうに。
地面に転がって袋叩きにされていた場所を歩きながらまたしても溜め息。止まらずに足を進めた。早くしないと、まずいモノが来る。
「裕也っ、待てって!」
「…………」
しつこく追ってきたのはもちろん竜崎。酒を飲みに来ておきながら十分そこそこで店から出てくるとは馬鹿げている。
「ホントに帰る事ねえじゃん。もっと飲んでけよ」
「飲み足りねえなら戻れ。付いてくんな」
「裕也がいなきゃ意味ねえし」
「あぁっ?」
「お前目当てで来たんだから」
つい、ぐっと押し黙ってしまった。肩をつかまれ、向かい合わせにされる。ささやかな街灯しかない夜のこの暗がりで、竜崎の顔が俺の目にうつった。
「信じろよ」
「……は?」
「本気だ」
「…………」
切り替えの早さにもついて行けない。ついさっきまであれだけふざけていたのは誰だよ。
竜崎の手を振り払い、体の向きを前方に戻した。無視を決め込み歩きだす。当然のように竜崎も付いてきた。
俺が歩調を速くさせれば竜崎もそれに合わせる。撒きたくても隣からピッタリ離れない。一度立ち止まって睨みつけたら、竜崎も同じく立ち止まって俺と目を合せてくる。
イライラする。というよりも。不審だ。
「……ストーカーかテメエ。本気で気味わりぃからやめろ」
「じゃあ信じる?」
「しつけえよ」
「お前に惚れてる。マジなんだ」
「……バカじゃねえの」
冗談にしては行き過ぎている。かと言って仮に本気だったとしても、男から惚れられなければならない理由はどこにもない。
そもそもどうして俺なのか。こいつの言うことが冗談だろうと本気だろうと、俺が竜崎という男を受け入れてやることはまずあり得ない。
女にだってカラダ以上の関心は持てないのに、相手が男ならなおさらだ。向けられる好意に対して抱くのは嫌悪感のみ。
「男の相手探してるならそういう店行きゃすぐ見つかんだろ」
「だから男なんかシュミじゃねえっての。俺はお前だから興味持ってる」
「……なんで」
「裕也だから惚れた」
「…………」
それは答えになっていない。
足を止めなければよかった。追い払おうとしても所詮ムダ。じっと強く見つめられ、思うように動けなくなった。
「…………」
肉食獣。獰猛なトラ。血に飢えた狼。そんなふうに思える。
「……なんで俺だよ」
聞く必要もないのに聞いている。竜崎はふっと笑った。
「恋は思案の外って言うだろ?」
「……あ?」
「男だろうがなんだろうが気づいた時にはもう惚れてた。裕也だから本気になった。俺も最初はまさかこんなのありえねえって思ってたけど夕べキスして思い知った。そういう訳だ。納得?」
できるはずがない。
「……どんな理屈だよ」
「だから理屈じゃねえんだって。惚れちまったもんは仕方ねえだろ」
「開き直んな。こっちからすりゃいい迷惑だ」
面倒臭い。何が面白くて竜崎は俺に構うのだろう。
寄ってくる人間なんていなかった。少なくとも、まともな奴は。頭も尻も軽そうな女か、敵意を持ったバカな野郎か、それ以外の他人からは避けられがちになるのがほとんど。
中学の頃から徐々にそうなって、高校では知らぬところで悪い噂まで出回った。遠巻きに眺めてくる生徒の中にもロクな連中はいなかったけど。
なぜかしょっちゅう絡まれるから、身を守ったその結果として暴力沙汰を起こすことになった。厄介者のように扱われ、周りには誰も寄り付かない。
そんなことにも慣れてしまっていた。その方がこちらも都合が良かった。
だから今のこの状況は、俺にとっては異常事態だ。仕事でもないのに毎日同じ奴と会っている。必要以上に他人と関わるなんて、そんな面倒なものはない。相手がこいつなら余計にそうだ。
目の前にいるこの男ほど不可解な人間には会った事がない。こうも捉えどころがなくてヘラヘラしているように見せかけてはいても、眼光の鋭さは隠しきれていない。
その目でじっと俺を見ていた竜崎は、何を思ったか手を伸ばしてきた。ヒタリと触れる。左側の頬。包み込むように軽く撫でられても両足は固まって動かなかった。ただただ不信感に顔をしかめ、あからさまに不快な感情を見せつけてやるだけで精一杯。
「お前……俺にどうしろってんだよ」
自分で聞きながら、身構える。しかし竜崎から返ってきたのは予想とは違う反応だった。
「別にどうしろとも言わねえけど」
「……は」
「裕也も俺に惚れてくれるってんならそれに越したことねえけどな。俺のものになれなんて言ったところでお前が大人しく従うはずねえし、関係を強要する気はねえよ」
微かに笑みを浮かべて竜崎は言う。そこからは余裕しか感じ取れない。
「……そこまで分かってんなら付きまとうな。惚れただのなんだのくだらねえこと抜かしやがって。テメエの戯言に付き合ってられるほどこっちは暇じゃねえんだよ」
何もかもが理解不能だ。冗談だろうと本気だろうとそんな事はもうどうでもいい。
頬に添えられただけのその手をパシッと軽く払いのけた。地面に張り付いている足を無理やり上げて歩き出す。
ところが進めた距離はわずか。竜崎の腕が俺の手首を後ろからガシッと鷲摑みにした。
加減のない、強い握力。それだけで簡単に阻まれる。カッと頭に血がのぼり、振り向きながら声を張り上げた。
「いちいち引き止めんじゃねえッ!」
「今すぐ惚れろとは言わねえよ。でも俺だってしたいようにする」
「ぁあッ!?」
「オチねえとは言い切れねえからな」
ニッと吊り上げられた口角。暗がりの中でそれを直視し、一瞬で言葉が出なくなった。
俺の手首を拘束したまま、間にあった距離を竜崎が縮めた。
「お前が俺をどう思おうと自由だ。俺がお前に何をしようと、それは俺の自由だろ?」
聞かされたのはとんでもない屁理屈。絶句している間にもじりじりと詰め寄られ、一歩ずつ追い込まれた末に固いブロック塀が背中に当たった。
これじゃまるで昨夜と、同じ状況。息をのむ。いや、そんな場合じゃない。前にも後ろにも逃げられないなら残すは左右しかないが、成功する見込みはなかった。
掴まれた手首をガッと壁に押し付けられて、逃亡を完全に封じられる。考えは読まれ、一歩先を行き、素早い動作も力の強さも太刀打ちできる要素は何もない。
「はなせ……」
「なんで? ここで俺に何かされると思ってる?」
顔が近い。すぐにでも触れそう。そんな距離だから背けることもできない。
視線だけを斜めに下ろして悔しさに歯を食いしばった。屈辱的な状況の中、聞こえたのはこいつの楽しげな声。
「まあ、するけど」
「ッ……」
唇に触れた感触。目を見開いた。一度ならず二度までも。正確に言うと三度目になるが。
ほとんど噛みついてくるのに近い。体を押さえつけられながら、強引なキスを必死に拒む。
すると突然、竜崎が引いた。色気も何もあったものじゃない、攻撃的なキスが止んだ。ゆっくりくすぐるような動きで、唇の表面を舐められた。
背筋をゾワッと這い上がる。ただの悪寒ならその方がよかった。今にも喉がヒクつきそうなのをギリギリのところで堪えるが、竜崎に掴まれたままの腕からは徐々に力が抜けていく。
「っんん……」
防ぎきれず、舌先に触れる。ぬるっとして生温かい。
重ねられた唇は密着したまま擦れていた。濡れた舌にねっとり舐め上げられる、その感覚を余すことなく、全神経が拾い上げた。
最低だ。こんな男。なんの恨みがあってここまで。
訳が分からなくなりそうなほど口の中をめちゃくちゃに甚振られる。舌が絡まり、水音が響いた。その音がやけに、卑猥だった。
「ん……」
一瞬だけ唇がわずかに離れ、しかしすぐにまた重なっている。
手首の拘束はいつの間にか形だけのものになっていた。竜崎の手が俺の腕を壁に当てているに過ぎないから、逃げようと思えばできただろう。抵抗を試みる価値は少なくともある。
なのにできない。拒絶の意思はあるはずなのだが、体がそれを実行しない。
悔しいくらいに上手いキスだ。キス一つでここまで気持ちよくなった事って、あっただろうか。
「は、ぁ……っ」
絡まった舌がそこで離れた。あろう事かそれを、引き止めそうになる。
寸前ではっと我に返ったのは不幸中の幸いだ。あり得ない事をしかけた自分に途中で気づいて青ざめた。
ところが打ちひしがれている暇はない。耳たぶに、ぞわっとした感触が。
そこを這うのは竜崎の舌。前にピアスをしていたその箇所を、舌先でゆっくりなぞられた。
「……っめ、ろ……ッ」
今度こそまぎれもなく鳥肌だ。竜崎の腕を振り払った。ついでにドンッと肩を押し返し、ギッと睨む。威嚇を込めて。
「ッ何が強要しねえだよクソが……っ」
意味が分からない。分かりたくもない。
叫び上げた俺の目の前で、竜崎は満足そうに笑った。
「別に強要はしてねえじゃん。逃げようと思えばいくらでもできただろ?」
「っ……」
「俺は俺のしたいようにしただけ。何も嘘は言ってねえよ。お前も満更じゃねえって感じだったしこれならオチるのも時間の問題だな。強要なんかするまでもねえ」
「テメエ……っ」
猥褻罪でもなんでもいいからこのまま警察に突き出してやりたい。
むざむざと付け込む隙を与えた。こいつはそれを執拗につついてくる。
「認めろって。よかったんだろ?」
「……ふざけんな。自信過剰も大概にしろ」
「嘘付けよ逃げなかったくせに」
ぐっと詰まる。何も言えない。あそこで拘束を緩めたのはもしやわざとだったのか。
ただの馬鹿な男ではないようだ。重症度の高い自信過剰なうえに悪質な策略家でもあった。
たちが悪い。そうとしか言えない。沸々と込み上げてくる怒りを腹の底から感じつつ、その原因を作り上げている竜崎を睨みつけた。
力ではまず敵わない。言葉で対抗しようにも噛み合わない。最終的には俺がイライラするだけ。ならば俺の手の中には、果して何が残されているのか。
竜崎の笑顔は毒だ。俺には悪魔にしか見えない。残酷で冷徹で非道で外道で、嫌悪と恐怖がない交ぜになる。
「これから毎日しようか」
「……何を」
「キスを。裕也が俺にオチるまで毎日」
「……はっ?」
考えただけで死にそうだ。
「まともにものも言えねえのかテメエは……っ」
「なんで。俺すげえまともだろ」
「テメエなんか変人の極みだ。近寄んじゃねえクズ。ヘンタイ。死ね。今死ねっ」
ガッ、ともう一度竜崎の肩を押しのけ、背を向けてその場から即座に逃げ去る。最初の数歩だけ距離を取ったあとは全力で走り出した。
戦わずに逃げるなど武士の恥じなんて言っていられる状況ではない。あのままあの男に捕まっていたらただでは済まない事になる。
だから走った。途中からはもう死ぬ気で走った。息は間違いなく上がっているのに、しかし背中はずっと寒い。後ろから迫ってくる足音がある。人の猛ダッシュにあっさり追いついき、すぐ後ろでその声を聞いた。
「待てって!」
「ッぃ……」
後ろからガシッと腕をつかまれ、声にならない悲鳴が漏れた。
走れた距離はわずか数十メートル。脚力の差まで見せつけられた。
「逃げんなよ、足にはそんな自信ねえんだから」
「っ……どこがだッ」
俺はすでに息も絶え絶え。一方の竜崎は余裕の面構え。
こうなってくると疑惑もいよいよ異次元の方向に向かって行く。竜崎の正体は人外の生物か。この男ならばなんだかそれもあり得そうだ。
「で?」
「あぁッ!?」
「毎日する?」
「しねえっつってんだろッ、しつけえっ!」
疲れた。もう本当に疲れた。頼むからこの辺で勘弁してくれ。立て続けに声を張り上げていると喉は痛むし声が枯れそう。必死の攻防と全力疾走で体力ももう限界だ。
逃げ道がないという状態は人間を焦らせるものらしい。いつもの喧嘩なら相手が複数人だろうと大抵は突破できるのに、竜崎が相手になるとどうもがいても追い詰められる。
手は変わらず掴まれたまま。緊張を解かずに竜崎と顔を突き合わせている。なんと言っても、この目だ。この、目つき。他人を陥れることのできる奴しか、こんな目つきは見せてこない。
「……放せ」
露骨に嫌悪感を示して言ったが竜崎の顔から笑みは消えない。獲物を甚振って楽しんでいる、残虐で獰猛な獣みたいだ。
「放したら毎日するって約束する?」
「いい加減にしろよテメエ」
「ただ放してやったんじゃ俺にはなんのメリットもねえじゃん」
「お前のメリットなんか知るかっ」
俺の立場はどう見ても不利。実権を握っているのは竜崎。
仕方ねえなとでも言いたげな様子で、上から目線でうなずいて見せてきた。
「じゃあ分かった。毎日キスってのは保留な」
「なんだよ保留ってッ、放せクソッたれ!」
「裕也からキスして。そしたら放してやる」
「…………はぁあッ!?」
あまりの要求に反応も遅れた。当の本人はニコニコニコニコと。
「ほら、帰りてえんだろ? どうする? キスするまでは放さねえぞ」
「っ誰が、そんな……放せクソがッ」
「だから放してほしいならしろって」
「ふざけんな!」
堂々巡りだ。話が進まない。ならばもう、仕方がない。
そう思って賭けに出た。決して意図を悟られないようにキツく目を合わせたまま、自由な左手で拳を作ってギリッとがっちり握りしめた。
一発だ。この一発だけ当たればそれでいい。拘束が弱くなったその瞬間。そのわずかな一秒に賭けて逃げる。
殴るなら、頬は駄目だ。腕を振り上げる一瞬をこいつは見抜く。そのため狙う場所は決まっている。人間の急所の一つとなる箇所。うまくやれば呼吸もせき止められる。
みぞおちだ。
「ッ……!」
一秒にも満たない出来事だった。拳は鳩尾にのめり込むどころか、腹を掠りもしていない。
どうなったか。無様な結果だ。どこでどう読まれたのか分からない。
両腕とも見事に、拘束された。
「……てめぇ……」
「危ねえな全くお前は。おちおち気も抜いていらんねえよ」
「っ……くそッ。しねッ、ぶっ殺す、マジ死ねっ!」
こんな情けないことがあるか。キャンキャンと悪態をつくことしかできない。
俺の両腕を捕らえる竜崎はくすくすと笑っていた。
「ほらどうすんだ? このまま一晩明かす気か? 俺はそれでも構わねえけど」
「俺は構う。放せ。……放せッ」
「だからキスしろって。これ一回だ。安いもんだろ」
「…………」
思いっきり強要してんじゃねえか。強要どころかこれは脅迫だ。
卑怯な男を目の前にして俺に残された選択肢は一つ。逃げられない。反撃もできない。この屈辱的な要求を飲む以外に道はないと判明している。
キス自体はたしかに安い。生娘じゃあるまいし、それくらい別になんともない。問題なのは俺のプライド。および、精神的苦痛。
竜崎に。この計算高く悪質な男に。こともあろうに、俺からキス。三日三晩の悪夢じゃ済まない。
「する気になった?」
「…………」
クソ野郎。死ねばいいのに。
腹の立つ態度をぐっと堪えて自分を精一杯落ち着かせた。たった一回だ。一度キスするだけでこのクソみたいな状況から解放される。
苦虫を噛み潰したような顔ってのはこういうことだろう。おそらくそんなツラで竜崎を睨みつけ、それから顔をやや上に向かせた。
スッと、掠める。竜崎の唇に。自分の唇を軽く押し付けた。数秒で即座にパッと顔を離し、忌々しく吐き捨ててやる。
「……これでいいんだろ。放せ」
要求通にしたにもかかわらずまだ俺は捕まったまま。冷ややかに言ってやると竜崎は首を左右に振った。
「ダメ」
「っんでだよ、言う通りしたろ!」
「今のがキスって言えるか。言えねえよ。ふざけてねえでちゃんと舌入れろ。それまでは俺も放さない」
「…………」
はじめて本気の殺意を抱いた。
「っ……ふざけてんのはテメエだろコラいつまでも調子のってんじゃねえぞッ」
「舌入れて俺のこと気持ちよくさせてみろよ。さっき俺がしてやったみたいに」
「なっ……」
「できんだろ。やれ」
なんて嫌な男だ。俺に命令するな。何がしてやっただ。無理やりしてきた奴が偉そうに。
「この……っ」
「ああ、それとも何。自信ない? 俺ほど上手くはできないからそんな逃げ腰になってんだろ」
「っ……わいてんじゃねえッ!」
ヤケだった。少なくともキスするときの心境ではない。目を剥いて竜崎と顔面を突き合わせ、勢いに任せて唇を塞いだ。
両手はこの通り使えないから、顔の角度だけで竜崎をとらえた。受け入れる準備が万全の口内に舌を突っ込んで深くつながる。
売り言葉に、買い言葉。そんな慣用句が頭に浮かんだ。それを無視して深く深く、噛みつくようなキスを仕掛ける。
舌を絡めて撫で上げた。時折ちゅっと、軽く吸いつく。聞きたくもない濡れた音が耳に届いても無視を決め込んだ。
どうせなら分からせてやる。男からされるキスで腰を抜かすということが、同じ男という生き物にとってどれだけ屈辱的な事か。思い知れ。こんな男は、窒息死でもしてしまえ。
「ん……」
合間に漏れ聞こえてくるこの声がどちらのものかはっきりしない。知らなくていい。知りたくもない。これは俺に残された意地だ。
両腕の拘束がそっと離れた。その手は腰に回される。抱き寄せられたが、逃げたら負けだ。ここで主導権を握られたら最後、プライドを捨て去り決死の覚悟で臨んだ俺のこの闘志まで木っ端みじんに砕け散る。
これは負けてはならない勝負だ。竜崎の後ろ頭に掴みかかって、ぐっとこっちから引き寄せた。その唇にしゃぶりついて執拗にむさぼり尽くした。
長いし、深いし、ずっと触れている。互いの唾液で互いの舌を濡らし合う卑猥な行為が続いた。
絡まる舌がいやらしくぶつかる。挑発するように竜崎の上顎をゆっくりと舐め上げたら、仕返しとでも言わんばかりに舌をとらえられ、チュクッと、吸われた。
「ンッ……ん……」
ただのキスだけど、脈拍は早い。どうしてだかそれ以上に甘い。
おかしい。こんなはずじゃなかった。なんだか変だ。良くない方向に流されている。
屈辱を味あわせ、そしてあわよくば窒息死。そんな悲願とともに仕掛けたキスは、妙なことになってきていた。
俺が今しているこれはなんだ。舌と舌が触れるのが官能的で、重なる唇は熱をもっている。竜崎に抱かれる体も熱い。嫌で嫌で仕方がないのに、不快とは正反対だった。
認めたくない。でも認めざるを得ない。だめだ、これ。気持ちいい。
「ッ……は……っどうだ。これで、満足か……っ」
あと一歩。もう一歩先へ行っていたら確実に負けていた。それが分かったから寸前で思いとどまり、ゆっくりと舌を引いた。名残惜し気にそれを許した竜崎に、まずは突っかかっておく。
危なかった。まだクラクラしている。こいつはなんなんだ。歩く麻薬か。
内心の動揺を悟られないように最大限の強がりを言い放ち、自分で引き寄せた竜崎の体を押しのけるようにバッと両手を離した。
「……もういいだろ、帰る。これ以上俺に付きまとうな」
細道に街灯は乏しい。暗くて良かったと心底思う。火が出そうなほど顔が熱いが、この明度なら分からないだろう。
こいつは人の腰に腕を回したままこの顔をジロジロと見てくる。その目だけは本気で無理だ。ただでさえなんとも言えない気分なのに、これ以上追いつめられるのは拷問。
「よかった」
「は……?」
「やっぱ俺ら合うよ。最高に気持ちいい」
「……っ、馬鹿が。お前の感想なんかいらねえんだよ。いい加減放せッ」
一層頭に血がのぼってきた。真顔でそんなことを言ってくる人間はどこを探してもこいつくらいだ。
「あーヤッバ、かなりクるな。これはハマるわ」
「るっせえ黙れっ」
竜崎の腕から逃れてズカズカ大股で歩き出す。物騒な発言しかできない男が近くにいると背を向けるだけの事でも怖い。
ヤマアラシばりに警戒しながら歩く俺に竜崎も付いてくる。走っても撒けないのはさっき知ったから、イライラするのをひたすら堪えた。人のそんな努力さえもぶち破ってくるのがこの男だが。
「で。どうする?」
「なにがだよ、付いてくんな」
「途中まで方向同じなんだから仕方ねえだろ」
当たり前のように隣を歩く。こいつの行き先と俺の行き先とで分かれ道に出るまでまだもう少し。
耐えろ。挑発には乗るな。こいつに乗せられてもいい事は何もない。
「さっき保留にしたやつ。どうする?」
「だから何が」
「オチるまで毎日キスするって話」
「なんっ……」
耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ。
「…………するわけねえだろ。お前は俺にあそこまでさせといてまだそんなこと言ってんのか」
「あれはあれ。これはこれ。裕也もやっぱ満更でもないっぽいし」
「っテメエいっぺん死んでこい……ッ」
駄目だ無理だ耐えられっこない。むしろ今ここで殺してやりたい。
「野垂れ死ねクソ野郎がっ……!」
掴みかからなかっただけでも、俺にしては我慢できた方だ。
なんと言っても竜崎だ。掴みどころのないあの男。俺をからかって面白がるためなら男とキスくらい普通にしそうだ。
あれは消したい記憶でしかないが、ならば忘れてやればいいだけの話。
俺は今夜もミオにいる。待っている。そう言っていた割に竜崎はまだ来ていない。少量ずつ酒を口にしながら、話し相手になってくれるのは煙草を手放さないこの店主。
「ところでバイトは決まったか?」
「ああ、うん。明日から来てくれって」
「良かったじゃねえか」
連絡してあった店には今日の昼間行ってきたばかり。今回は出来る限りトラブルなく続けたい。クビになる度にいちいちバイト先を探すのは結構手間がかかる。
「今度は何やるんだ?」
全面禁煙もクソもないような店だが一番吸っているのはたぶん昭仁さんだろう。世界中の雇い主がみんなこれくらい適当な人なら働く側は楽だろうに。
「ディスカウントストアの裏方」
「ディスカウントストア?」
「最近駅の方にできたデカい量販店があるだろ。そこだよ。フルタイムじゃねえから別の仕事も探すけど」
「ほう。花屋は?」
「あり得ねえ」
昨日の竜崎との会話を蒸し返されて一瞬で酒が不味くなった。昭仁さんは笑ったが、この人に笑われてもカチンと来ないのはいつも不思議で仕方がない。
これがもしもあいつだったらすでに殴りかかっている。夕べの竜崎の部屋での出来事は、多少トラウマにもなりそうだけれど水に流せない事もない。忘れてやるのは簡単なはず。しかしそうはいかなかった。
手慣れた様子で押さえ込まれた。顔面をぶん殴っても動じない。思えば最初からずっと怪しい奴だった。竜崎恭介。あいつは、なんなんだ。
カツアゲ集団はみんな一様にその顔を青くさせていた。夕べあいつらをけん制したときの竜崎の表情も、普通じゃなかった。
実際に殴りつけて俺も理解した。勝てない。それが即座に分かった。
プカプカと白い煙を散らしている昭仁さんの顔を盗み見る。口が軽い人ではないだろう。いたずら心が、芽生えなければ。
「昭仁さんさぁ……」
「あー?」
「……あいつと付き合い長いんだよな?」
「恭介?」
聞かれてコクッと頷き返した。自分で吐き出した煙の行く先を、昭仁さんは考え込むように見ている。
「長い……と言えるかは微妙だな。知り合ったのは一年くらい前だ」
「……あいつって、なんかあるのか」
「あ?」
「や、なんて言うか……ちょっと……」
なかなか言葉にまとまりにくい。
「どうかしたのか?」
「どう……うーん、いや……いや。うん。まあ……」
歯切れが悪いし格好も悪い。昭仁さんの面白そうな視線もチクチク刺さってきて痛い。
「……前にそこで喧嘩っていうか、俺がフクロにされた時の奴ら……また会ったんだよ、夕べここから帰る途中に」
「お前そういうのよく巻き込まれるな」
「これもうホント昔からで他人と擦れ違うとその度にほぼ必ず因縁つけられるっつーか……いや、それはどうでもいいんだけど。そん時そいつら、竜崎がどうのこうのって妙にあいつのこと気にしてたから。夕べもこの前もすげえ怖がってたっぽいし……なんなのかと思って」
「なるほどな」
ふーっと長く吐き出された煙。それを最後に昭仁さんの手はカウンター上の灰皿に伸びた。その手元で消された煙草が、くすぶった煙を舞い上がらせた。
それと共に向けられた視線。口元にはやや笑みが浮かんでいる。からかうようなその表情に、失敗したかもと薄ら思った。
「気になるワケだ。恭介が」
「……は?」
「まんまとハマってんな」
「ッ違えよ!」
ダンッとカウンターに手を打ち付けた。大袈裟な自分の行動にハッとしてすごすご両手を下ろす。反対に昭仁さんは笑いながら俺の前に手をついてきた。
「んな怒んなよ。あいつの事になるとムキになりすぎだぞお前」
「別に……そんなこと……」
歯切れの悪い返答しかできない。昭仁さんはやはり面白そう。
「お前は何事に対しても我関せずって感じなのにな」
「……そんなか?」
「そんなだろ。隕石落ちてきて日本が潰れてもなんの興味も示さねえと思う」
「…………」
自分のいる国が隕石の落下で潰されたらさすがに気になる。その時点で生きていられれば。
もしかしたら来るかもしれない日本の終末はひとまず置いておくとして、竜崎の事を教えてくれる気があるのかないのかそっちの方が気がかりだ。
竜崎のように存在そのものにイライラさせられる事はないにしても、この人もなかなか真意を掴みにくい。手元では新しい煙草に安っぽいライターで火をつけていた。
「で? なんであいつのことはそんなに気になるんだ?」
「だから気になるっていうか……」
急に話を戻された。しかしながら実際のところ自分でも良く分かっていない。
気にならない。と言ったら嘘になる。かと言ってすごく知りたい訳じゃない。
成り行きでここに通うようになったが、この先ずっとあの男に付きまとわれてやるつもりはないのだし。竜崎のことを俺が知る必要は、一つたりともないはずなのに。
「……いや、いい。なんでもねえや。忘れてくれ」
「全然納得してねえって顔してるぞ」
「…………」
一度してしまった質問の却下をこの店では許してもらえないようだ。
酒に目を落とす。それから再び昭仁さんを見た。食えない男だ、この人も。
「……どうせ教える気なんかねえんだろ」
くくっと笑って返される。それでいてどことなく諭すようなその目。
これを大人の余裕とでも言うのか。嫌味ではないこの雰囲気にはいつもながら敵わない。咥え煙草も似合う店主は、半分減っただけの俺のグラスにトポッと酒を注ぎ足した。
「折角なら本人に聞いてやれ。裕也が俺のこと知りたがってるー、とか言ってバカみてえに喜ぶんじゃねえのか」
「うぜぇ……」
しかもその様子が目に浮かぶ。
「恭介も前はあそこまで馬鹿っぽくなかったはずなんだけどなぁ……。初対面当時の愛想のなさと言ったら裕也といい勝負だったぞ」
「悪かったな愛想がなくて」
「本気でお前に惚れてたりしてな」
「…………」
それはほんのささいな冗談。昭仁さんはそのつもりだったはず。俺がここですべき事はこの冗談を適当に受け流すことで、昭仁さんもそれを想定しているからこんなしょうもない事を言ってくる。
けれど俺の中に浮かんだのは、昨夜のあの部屋での出来事。水に流して忘れたはずだった、あの男の奇行の数々。
どれもこれもあいつが俺にするべき言動ではなかった。あんな忌々しい大事件は記憶から消去したことにして、意地だけで今夜もここに来た。そのはずなのに。
「なんだよ。どした?」
昭仁さんに声を掛けられ、停止しかけていた思考を強引に動かしてグラスを持った。気を紛らわすために酒を口にしても味は良く分からない。
昭仁さんは何も言わない。急に黙り込むのは不自然だろうが、俺も言葉が見つからない。
そしてそんな時、タイミングがいいのか悪いのか判断しかねるこの状況で、古くて重くて若干軋む入り口のドアが音を立てた。店に入ってきたのは、竜崎。
「…………」
グラスを握りしめる指先に少しばかり力がこもった。勝手に強張る体を無視してグラスの中身を凝視する。無言を貫く俺の隣に、竜崎は腰を下ろした。
「いないとか思った」
投げかけられたその一言。肩からはやや力が抜ける。
その声はいつも通りだった。からかうような雰囲気だ。
「……言ったろ。俺の勝手だ」
そっけなく返すとくすくす笑って見せてくる。腹が立つ。
やっぱりだ。冗談だった。普通に考えればそれが妥当だ。この態度を見る限り、昨夜のことを気にしている様子は全くもって窺えない。
「花屋は決まった?」
「決めねえよ」
「じゃあアレか。ペットショップ」
「違ぇっつってんだろしつけえんだよクソがッ」
「うーん、それじゃ客の応対ムリっぽいもんなぁ」
「……ッ」
馬鹿にしたような笑顔とその声。奥歯をギリッと噛みしめて耐えた。
こいつと話しているとそれだけで神経がすり減る。威嚇のために一度だけ睨みつけ、それから顔の向きを前に戻した。
さっさと飲んでさっさと帰る。目標ができた。グイッと一口。
しかしこの視界の隅には横から伸ばされた手が入り込んだ。反射的にばっと腕を引き、振り上げようとするも遅い。俺が逃げ切るよりも早く、竜崎の手がこの腕を掴んだ。
「手首も細いよな。夕べも思ったけど」
「っ……」
人が一番言われたくない事をこいつは気にせずズケズケと言う。掴まれた手首をグイッと引っ張られ、加減のない強引な動作に上体のバランスを一発で崩した。
この店のカウンター席は椅子の間隔がそれなりにゆったりしている。寂れてはいるが広さは十分。それがこの店の特徴だ。
客からしてみれば寛ぐ場所として最適とも言えるだろうが、そんな所で不意打ち気味にガッと腕を引かれてしまうと体勢を元に戻すのは難しい。迎え入れるように椅子から降りて立ち上がった竜崎の胸に、ばふっと体を受け止められた。
「……ッ!?」
片足は椅子の足掛けリングの上。片手はカウンターの上。咄嗟に出た手足だったがほとんど意味は成していない。俺の背中と後頭部には、こいつの手が回されている。
「一日一抱。今日も一日頑張った」
「っ……ふざけんなッ……!」
竜崎を突っぱねて椅子からおりた。夕べから立て続けになんなんだ。またしてもあっさり抱きしめられた。
「妙な標語作ってんじゃねえよクソバカ死ねッ」
何が一日一抱だ。こっちはこの男のせいで一日百怒くらいになっている。どこから喚き声が上がろうが気にする常連達ではないため腹の底から怒鳴り上げた。
予告なく実行される竜崎の奇行に昭仁さんも呆れた笑いだ。しかしこの人の場合はどちらかというと、こいつの言動を面白がっている。
「お前は裕也の機嫌損ねに来てんのか?」
「違ぇよ。無邪気な愛情表現だろ」
「どこがだこのクズ……ッ」
どこまでが本気でどこまでが冗談か。考えることすら煩わしい。握った拳を震わせながら俺が床に立っているのは間違いなく竜崎のせいだが、立つはめになった元凶のこいつは着席を促してきた。自らも椅子に座り直し、まあまあと宥めてくるのがムカつく。
もう帰ってやろうか。足されたばかりのグラスの中身はまだだいぶ残っているが。しかしそれだとなんとなく、こいつに負かされたような気もする。
「…………」
言いたいことは多々あるものの、ぐっと堪えて椅子に座った。
「なあ。信じてねえだろ」
「あぁ……?」
むしゃくしゃした気分はおさまらない。そんな中で隣から言われ、苛立ちを隠さずに目を向けた。
「マジだって話」
「…………」
ここで言うのか、それを。いま。冗談なのは百も承知だが他の人間には知られたくない。
たいしていい思い出のない二十三年半の人生の中でも、ワーストスリーには確実に入る汚点でしかないあの出来事を。
「はっ。バカじゃねえのか。信じるも何もねえだろクソが。テメエのくだらねえ暇潰しにわざわざ付き合ってやれる程の広い心は持ってねえんだよ。残念だったな」
「暇潰しじゃねえ。本気だ」
「うぜえ。いい加減にしろ。次は起きらんねえようにするぞ」
「あーそう、やってみろよ。俺もそん時はキスじゃ止めねえから」
「ッ……」
ビキッと、血管が破裂しそう。一気に頭に血が上った。考えるよりも先に動いていた右足と右腕は止めようがない。
床で踏み込み、拳を突き出し、そうすれば殴れる。普通なら、当たる。相手との距離と踏み込み具合と力加減。経験でどうなるか分かる。
俺の拳はこいつの左頬に深く食い込むはずだった。しかし、そうはならなかった。殴ってない。いや、殴れなかった。
パチンと、小気味良い音が立った。固く握りしめた拳を包んだのは竜崎の手のひら。かわすでもなく、避ける素振りすら見せず、平然と俺の手を止めた。
「ここでする?」
「っ……!」
なんて無様な。完全なる敗北だった。
この男にとって俺なんてきっと子犬とか赤ん坊とかその程度。何をしてもあっさり封じ込められる。だから睨みつけることくらいしかできない。
しかしだ。ここはミオのカウンターであり、会話は昭仁さんにも駄々漏れ。幸いなことにカウンターで飲んでいる客は俺達の他にいないが、おそらく一番聞かれてはならないのがこの人だと思う。
兄貴肌の頼れるマスターは、面白そうな話が大好きだ。
「……キス?」
「っぁ……」
焦りは小さな声に出ていた。竜崎の手を振り払い、慌てて昭仁さんに顔を向けた。
どう誤魔化すか。必死に頭を巡らせたものの、それを邪魔する不届き者が俺の隣に若干一名。
「俺は腰抜かさせる程ウマいらしいよ。なあ、裕也?」
明るく楽しく言いやがった。俺に肯定を求める竜崎の顔には満面の笑みが浮かんでいる。
俺の中でガラガラと、何かが音を立てて崩れた。
「……何やってんだお前ら」
「俺ら相性イイっぽい」
「いや、お前な……裕也固まってんぞ。大丈夫か」
大丈夫じゃない。
理解できないこの男のせいで平和な日常が奪われていく。元より平和とは言い難かったが。ただでさえ何かと絡まれやすいのに、これ以上疲れる要素が増えてしまったら体力よりも精神が持たない。
水に流してやろうとしたのに。無かったことにするはずだったのに。
竜崎は相変わらずご機嫌な様子で、癪に障る笑顔を俺に向けた。
「俺も可哀想だよなあ? 心を込めて愛の告白したって暇潰し呼ばわりで済まされるなんてさ。人の純情踏みにじんなよ」
「っ何が純情だ、大人しくしてりゃいい気になりやがって……ッ」
「お前が大人しかったことなんてあるか?」
「うるせえっ、くたばれクソ野郎ッ」
何が悲しくてこんなことを。たちが悪い。あまりにも悪すぎる。
昭仁さんは昭仁さんで俺を助ける気はないようだった。興味深そうにしつつも傍観を決め込んでいる。この人も考えてみれば謎だが、今はそれどころじゃない。
「どうしても信じねえ?」
「あぁッ!?」
「お前に惚れたっつってんの」
意味が分からない。日本語を話せ。そしてせめて人目に晒されるこの状況をどうにかしたい。
黙って見ていた昭仁さんもそこで口を挟んできた。
「恭介お前、とうとう男に走ったのか」
「昭仁さんッ」
思わず声を張り上げた。言われた竜崎は小さく笑った。
「男走んなくても女にモテるし」
「あーそうかよ、そりゃよかったな。見境なく手ぇ付けてるとそのうち誰かにぶっ刺されるぞ」
昭仁さんの冗談交じりの忠告にも竜崎はへらへら笑う。グラスを一度クイッと傾け、言葉は昭仁さんに向けつつ視線だけは俺の方に寄こした。
「ぶっ刺されてもいいって思うほど惚れた奴に限って懐かねえんだよ」
総毛立った。死ぬかもしれない。俺が言葉を失くした一方、昭仁さんが次の瞬間には思いっきり噴き出している。
大好きな喫煙を一時中断してまで顔を背ける程の事態らしい。右手に煙草を持たせながら、よっぽどツボに入ったようで小刻みに肩を震わせている。
「…………昭仁さん」
「いや……フハっ、わりぃ。ついな、つい。お前も大変だな裕也」
「…………」
他人事ではあるだろうけど。その反応はあんまりだ。
隣にいるこの男の口も今すぐ縫い付けてやりたい。
「裕也なかなか強情でさ、惚れたっつっても伝わらねえんだ。どうすりゃいいと思う?」
「俺に聞くな。普段女オトすときの要領でやりゃいいじゃねえか」
「だってさ、裕也。とりあえずホテル行こうか?」
「死ねッ」
この最低な誘い文句に乗る女がこの国にいるのか。いるよな。知ってる。割といる。日本は品行方正な国じゃない。
しかし俺は女でもなければそこまでの考えなしでもない。腹に据えかねる言動の数々にもこれ以上は付き合いきれなかった。
グラスにはまだ酒が残っているが、我慢の限界。席を立つ。
「なんだよ、待てって。まだいろよ」
毎日こうして引き止められるのにも、もういい加減うんざりしている。
「……放せ。お前といるとイライラする」
「マジか、いい兆候じゃん。俺に惚れるのも時間の問題だな」
「…………」
疲れた。こいつが話してんのって本当に俺と同じ言語か。
何も聞かなかったことにしてカウンターに酒代を置いた。座っていた席から離れる俺をこいつは生ぬるく呼んでくる。
「ゆうやー」
「……吊るしてぇ」
ふざけた語調が気に障る。振り向かずにぼそっと呟いた。金を回収した昭仁さんの顔には含んだような笑みが浮かんでいた。
店のドアを外から閉めると同時に勝手に出てくる重い溜め息。
本当に疲れた。一日の疲れがどっと増したような気がする。ほんの少しの時間だろうとあの男の近くにいると心身ともに疲弊させられる。
ミオの前の暗い細道は相変わらず人気がない。思えばここが全ての始まりだった。ちょっとした事故のような、あの出来事さえなかったら。俺の身に現在降りかかっている不幸が訪れることもなかっただろうに。
地面に転がって袋叩きにされていた場所を歩きながらまたしても溜め息。止まらずに足を進めた。早くしないと、まずいモノが来る。
「裕也っ、待てって!」
「…………」
しつこく追ってきたのはもちろん竜崎。酒を飲みに来ておきながら十分そこそこで店から出てくるとは馬鹿げている。
「ホントに帰る事ねえじゃん。もっと飲んでけよ」
「飲み足りねえなら戻れ。付いてくんな」
「裕也がいなきゃ意味ねえし」
「あぁっ?」
「お前目当てで来たんだから」
つい、ぐっと押し黙ってしまった。肩をつかまれ、向かい合わせにされる。ささやかな街灯しかない夜のこの暗がりで、竜崎の顔が俺の目にうつった。
「信じろよ」
「……は?」
「本気だ」
「…………」
切り替えの早さにもついて行けない。ついさっきまであれだけふざけていたのは誰だよ。
竜崎の手を振り払い、体の向きを前方に戻した。無視を決め込み歩きだす。当然のように竜崎も付いてきた。
俺が歩調を速くさせれば竜崎もそれに合わせる。撒きたくても隣からピッタリ離れない。一度立ち止まって睨みつけたら、竜崎も同じく立ち止まって俺と目を合せてくる。
イライラする。というよりも。不審だ。
「……ストーカーかテメエ。本気で気味わりぃからやめろ」
「じゃあ信じる?」
「しつけえよ」
「お前に惚れてる。マジなんだ」
「……バカじゃねえの」
冗談にしては行き過ぎている。かと言って仮に本気だったとしても、男から惚れられなければならない理由はどこにもない。
そもそもどうして俺なのか。こいつの言うことが冗談だろうと本気だろうと、俺が竜崎という男を受け入れてやることはまずあり得ない。
女にだってカラダ以上の関心は持てないのに、相手が男ならなおさらだ。向けられる好意に対して抱くのは嫌悪感のみ。
「男の相手探してるならそういう店行きゃすぐ見つかんだろ」
「だから男なんかシュミじゃねえっての。俺はお前だから興味持ってる」
「……なんで」
「裕也だから惚れた」
「…………」
それは答えになっていない。
足を止めなければよかった。追い払おうとしても所詮ムダ。じっと強く見つめられ、思うように動けなくなった。
「…………」
肉食獣。獰猛なトラ。血に飢えた狼。そんなふうに思える。
「……なんで俺だよ」
聞く必要もないのに聞いている。竜崎はふっと笑った。
「恋は思案の外って言うだろ?」
「……あ?」
「男だろうがなんだろうが気づいた時にはもう惚れてた。裕也だから本気になった。俺も最初はまさかこんなのありえねえって思ってたけど夕べキスして思い知った。そういう訳だ。納得?」
できるはずがない。
「……どんな理屈だよ」
「だから理屈じゃねえんだって。惚れちまったもんは仕方ねえだろ」
「開き直んな。こっちからすりゃいい迷惑だ」
面倒臭い。何が面白くて竜崎は俺に構うのだろう。
寄ってくる人間なんていなかった。少なくとも、まともな奴は。頭も尻も軽そうな女か、敵意を持ったバカな野郎か、それ以外の他人からは避けられがちになるのがほとんど。
中学の頃から徐々にそうなって、高校では知らぬところで悪い噂まで出回った。遠巻きに眺めてくる生徒の中にもロクな連中はいなかったけど。
なぜかしょっちゅう絡まれるから、身を守ったその結果として暴力沙汰を起こすことになった。厄介者のように扱われ、周りには誰も寄り付かない。
そんなことにも慣れてしまっていた。その方がこちらも都合が良かった。
だから今のこの状況は、俺にとっては異常事態だ。仕事でもないのに毎日同じ奴と会っている。必要以上に他人と関わるなんて、そんな面倒なものはない。相手がこいつなら余計にそうだ。
目の前にいるこの男ほど不可解な人間には会った事がない。こうも捉えどころがなくてヘラヘラしているように見せかけてはいても、眼光の鋭さは隠しきれていない。
その目でじっと俺を見ていた竜崎は、何を思ったか手を伸ばしてきた。ヒタリと触れる。左側の頬。包み込むように軽く撫でられても両足は固まって動かなかった。ただただ不信感に顔をしかめ、あからさまに不快な感情を見せつけてやるだけで精一杯。
「お前……俺にどうしろってんだよ」
自分で聞きながら、身構える。しかし竜崎から返ってきたのは予想とは違う反応だった。
「別にどうしろとも言わねえけど」
「……は」
「裕也も俺に惚れてくれるってんならそれに越したことねえけどな。俺のものになれなんて言ったところでお前が大人しく従うはずねえし、関係を強要する気はねえよ」
微かに笑みを浮かべて竜崎は言う。そこからは余裕しか感じ取れない。
「……そこまで分かってんなら付きまとうな。惚れただのなんだのくだらねえこと抜かしやがって。テメエの戯言に付き合ってられるほどこっちは暇じゃねえんだよ」
何もかもが理解不能だ。冗談だろうと本気だろうとそんな事はもうどうでもいい。
頬に添えられただけのその手をパシッと軽く払いのけた。地面に張り付いている足を無理やり上げて歩き出す。
ところが進めた距離はわずか。竜崎の腕が俺の手首を後ろからガシッと鷲摑みにした。
加減のない、強い握力。それだけで簡単に阻まれる。カッと頭に血がのぼり、振り向きながら声を張り上げた。
「いちいち引き止めんじゃねえッ!」
「今すぐ惚れろとは言わねえよ。でも俺だってしたいようにする」
「ぁあッ!?」
「オチねえとは言い切れねえからな」
ニッと吊り上げられた口角。暗がりの中でそれを直視し、一瞬で言葉が出なくなった。
俺の手首を拘束したまま、間にあった距離を竜崎が縮めた。
「お前が俺をどう思おうと自由だ。俺がお前に何をしようと、それは俺の自由だろ?」
聞かされたのはとんでもない屁理屈。絶句している間にもじりじりと詰め寄られ、一歩ずつ追い込まれた末に固いブロック塀が背中に当たった。
これじゃまるで昨夜と、同じ状況。息をのむ。いや、そんな場合じゃない。前にも後ろにも逃げられないなら残すは左右しかないが、成功する見込みはなかった。
掴まれた手首をガッと壁に押し付けられて、逃亡を完全に封じられる。考えは読まれ、一歩先を行き、素早い動作も力の強さも太刀打ちできる要素は何もない。
「はなせ……」
「なんで? ここで俺に何かされると思ってる?」
顔が近い。すぐにでも触れそう。そんな距離だから背けることもできない。
視線だけを斜めに下ろして悔しさに歯を食いしばった。屈辱的な状況の中、聞こえたのはこいつの楽しげな声。
「まあ、するけど」
「ッ……」
唇に触れた感触。目を見開いた。一度ならず二度までも。正確に言うと三度目になるが。
ほとんど噛みついてくるのに近い。体を押さえつけられながら、強引なキスを必死に拒む。
すると突然、竜崎が引いた。色気も何もあったものじゃない、攻撃的なキスが止んだ。ゆっくりくすぐるような動きで、唇の表面を舐められた。
背筋をゾワッと這い上がる。ただの悪寒ならその方がよかった。今にも喉がヒクつきそうなのをギリギリのところで堪えるが、竜崎に掴まれたままの腕からは徐々に力が抜けていく。
「っんん……」
防ぎきれず、舌先に触れる。ぬるっとして生温かい。
重ねられた唇は密着したまま擦れていた。濡れた舌にねっとり舐め上げられる、その感覚を余すことなく、全神経が拾い上げた。
最低だ。こんな男。なんの恨みがあってここまで。
訳が分からなくなりそうなほど口の中をめちゃくちゃに甚振られる。舌が絡まり、水音が響いた。その音がやけに、卑猥だった。
「ん……」
一瞬だけ唇がわずかに離れ、しかしすぐにまた重なっている。
手首の拘束はいつの間にか形だけのものになっていた。竜崎の手が俺の腕を壁に当てているに過ぎないから、逃げようと思えばできただろう。抵抗を試みる価値は少なくともある。
なのにできない。拒絶の意思はあるはずなのだが、体がそれを実行しない。
悔しいくらいに上手いキスだ。キス一つでここまで気持ちよくなった事って、あっただろうか。
「は、ぁ……っ」
絡まった舌がそこで離れた。あろう事かそれを、引き止めそうになる。
寸前ではっと我に返ったのは不幸中の幸いだ。あり得ない事をしかけた自分に途中で気づいて青ざめた。
ところが打ちひしがれている暇はない。耳たぶに、ぞわっとした感触が。
そこを這うのは竜崎の舌。前にピアスをしていたその箇所を、舌先でゆっくりなぞられた。
「……っめ、ろ……ッ」
今度こそまぎれもなく鳥肌だ。竜崎の腕を振り払った。ついでにドンッと肩を押し返し、ギッと睨む。威嚇を込めて。
「ッ何が強要しねえだよクソが……っ」
意味が分からない。分かりたくもない。
叫び上げた俺の目の前で、竜崎は満足そうに笑った。
「別に強要はしてねえじゃん。逃げようと思えばいくらでもできただろ?」
「っ……」
「俺は俺のしたいようにしただけ。何も嘘は言ってねえよ。お前も満更じゃねえって感じだったしこれならオチるのも時間の問題だな。強要なんかするまでもねえ」
「テメエ……っ」
猥褻罪でもなんでもいいからこのまま警察に突き出してやりたい。
むざむざと付け込む隙を与えた。こいつはそれを執拗につついてくる。
「認めろって。よかったんだろ?」
「……ふざけんな。自信過剰も大概にしろ」
「嘘付けよ逃げなかったくせに」
ぐっと詰まる。何も言えない。あそこで拘束を緩めたのはもしやわざとだったのか。
ただの馬鹿な男ではないようだ。重症度の高い自信過剰なうえに悪質な策略家でもあった。
たちが悪い。そうとしか言えない。沸々と込み上げてくる怒りを腹の底から感じつつ、その原因を作り上げている竜崎を睨みつけた。
力ではまず敵わない。言葉で対抗しようにも噛み合わない。最終的には俺がイライラするだけ。ならば俺の手の中には、果して何が残されているのか。
竜崎の笑顔は毒だ。俺には悪魔にしか見えない。残酷で冷徹で非道で外道で、嫌悪と恐怖がない交ぜになる。
「これから毎日しようか」
「……何を」
「キスを。裕也が俺にオチるまで毎日」
「……はっ?」
考えただけで死にそうだ。
「まともにものも言えねえのかテメエは……っ」
「なんで。俺すげえまともだろ」
「テメエなんか変人の極みだ。近寄んじゃねえクズ。ヘンタイ。死ね。今死ねっ」
ガッ、ともう一度竜崎の肩を押しのけ、背を向けてその場から即座に逃げ去る。最初の数歩だけ距離を取ったあとは全力で走り出した。
戦わずに逃げるなど武士の恥じなんて言っていられる状況ではない。あのままあの男に捕まっていたらただでは済まない事になる。
だから走った。途中からはもう死ぬ気で走った。息は間違いなく上がっているのに、しかし背中はずっと寒い。後ろから迫ってくる足音がある。人の猛ダッシュにあっさり追いついき、すぐ後ろでその声を聞いた。
「待てって!」
「ッぃ……」
後ろからガシッと腕をつかまれ、声にならない悲鳴が漏れた。
走れた距離はわずか数十メートル。脚力の差まで見せつけられた。
「逃げんなよ、足にはそんな自信ねえんだから」
「っ……どこがだッ」
俺はすでに息も絶え絶え。一方の竜崎は余裕の面構え。
こうなってくると疑惑もいよいよ異次元の方向に向かって行く。竜崎の正体は人外の生物か。この男ならばなんだかそれもあり得そうだ。
「で?」
「あぁッ!?」
「毎日する?」
「しねえっつってんだろッ、しつけえっ!」
疲れた。もう本当に疲れた。頼むからこの辺で勘弁してくれ。立て続けに声を張り上げていると喉は痛むし声が枯れそう。必死の攻防と全力疾走で体力ももう限界だ。
逃げ道がないという状態は人間を焦らせるものらしい。いつもの喧嘩なら相手が複数人だろうと大抵は突破できるのに、竜崎が相手になるとどうもがいても追い詰められる。
手は変わらず掴まれたまま。緊張を解かずに竜崎と顔を突き合わせている。なんと言っても、この目だ。この、目つき。他人を陥れることのできる奴しか、こんな目つきは見せてこない。
「……放せ」
露骨に嫌悪感を示して言ったが竜崎の顔から笑みは消えない。獲物を甚振って楽しんでいる、残虐で獰猛な獣みたいだ。
「放したら毎日するって約束する?」
「いい加減にしろよテメエ」
「ただ放してやったんじゃ俺にはなんのメリットもねえじゃん」
「お前のメリットなんか知るかっ」
俺の立場はどう見ても不利。実権を握っているのは竜崎。
仕方ねえなとでも言いたげな様子で、上から目線でうなずいて見せてきた。
「じゃあ分かった。毎日キスってのは保留な」
「なんだよ保留ってッ、放せクソッたれ!」
「裕也からキスして。そしたら放してやる」
「…………はぁあッ!?」
あまりの要求に反応も遅れた。当の本人はニコニコニコニコと。
「ほら、帰りてえんだろ? どうする? キスするまでは放さねえぞ」
「っ誰が、そんな……放せクソがッ」
「だから放してほしいならしろって」
「ふざけんな!」
堂々巡りだ。話が進まない。ならばもう、仕方がない。
そう思って賭けに出た。決して意図を悟られないようにキツく目を合わせたまま、自由な左手で拳を作ってギリッとがっちり握りしめた。
一発だ。この一発だけ当たればそれでいい。拘束が弱くなったその瞬間。そのわずかな一秒に賭けて逃げる。
殴るなら、頬は駄目だ。腕を振り上げる一瞬をこいつは見抜く。そのため狙う場所は決まっている。人間の急所の一つとなる箇所。うまくやれば呼吸もせき止められる。
みぞおちだ。
「ッ……!」
一秒にも満たない出来事だった。拳は鳩尾にのめり込むどころか、腹を掠りもしていない。
どうなったか。無様な結果だ。どこでどう読まれたのか分からない。
両腕とも見事に、拘束された。
「……てめぇ……」
「危ねえな全くお前は。おちおち気も抜いていらんねえよ」
「っ……くそッ。しねッ、ぶっ殺す、マジ死ねっ!」
こんな情けないことがあるか。キャンキャンと悪態をつくことしかできない。
俺の両腕を捕らえる竜崎はくすくすと笑っていた。
「ほらどうすんだ? このまま一晩明かす気か? 俺はそれでも構わねえけど」
「俺は構う。放せ。……放せッ」
「だからキスしろって。これ一回だ。安いもんだろ」
「…………」
思いっきり強要してんじゃねえか。強要どころかこれは脅迫だ。
卑怯な男を目の前にして俺に残された選択肢は一つ。逃げられない。反撃もできない。この屈辱的な要求を飲む以外に道はないと判明している。
キス自体はたしかに安い。生娘じゃあるまいし、それくらい別になんともない。問題なのは俺のプライド。および、精神的苦痛。
竜崎に。この計算高く悪質な男に。こともあろうに、俺からキス。三日三晩の悪夢じゃ済まない。
「する気になった?」
「…………」
クソ野郎。死ねばいいのに。
腹の立つ態度をぐっと堪えて自分を精一杯落ち着かせた。たった一回だ。一度キスするだけでこのクソみたいな状況から解放される。
苦虫を噛み潰したような顔ってのはこういうことだろう。おそらくそんなツラで竜崎を睨みつけ、それから顔をやや上に向かせた。
スッと、掠める。竜崎の唇に。自分の唇を軽く押し付けた。数秒で即座にパッと顔を離し、忌々しく吐き捨ててやる。
「……これでいいんだろ。放せ」
要求通にしたにもかかわらずまだ俺は捕まったまま。冷ややかに言ってやると竜崎は首を左右に振った。
「ダメ」
「っんでだよ、言う通りしたろ!」
「今のがキスって言えるか。言えねえよ。ふざけてねえでちゃんと舌入れろ。それまでは俺も放さない」
「…………」
はじめて本気の殺意を抱いた。
「っ……ふざけてんのはテメエだろコラいつまでも調子のってんじゃねえぞッ」
「舌入れて俺のこと気持ちよくさせてみろよ。さっき俺がしてやったみたいに」
「なっ……」
「できんだろ。やれ」
なんて嫌な男だ。俺に命令するな。何がしてやっただ。無理やりしてきた奴が偉そうに。
「この……っ」
「ああ、それとも何。自信ない? 俺ほど上手くはできないからそんな逃げ腰になってんだろ」
「っ……わいてんじゃねえッ!」
ヤケだった。少なくともキスするときの心境ではない。目を剥いて竜崎と顔面を突き合わせ、勢いに任せて唇を塞いだ。
両手はこの通り使えないから、顔の角度だけで竜崎をとらえた。受け入れる準備が万全の口内に舌を突っ込んで深くつながる。
売り言葉に、買い言葉。そんな慣用句が頭に浮かんだ。それを無視して深く深く、噛みつくようなキスを仕掛ける。
舌を絡めて撫で上げた。時折ちゅっと、軽く吸いつく。聞きたくもない濡れた音が耳に届いても無視を決め込んだ。
どうせなら分からせてやる。男からされるキスで腰を抜かすということが、同じ男という生き物にとってどれだけ屈辱的な事か。思い知れ。こんな男は、窒息死でもしてしまえ。
「ん……」
合間に漏れ聞こえてくるこの声がどちらのものかはっきりしない。知らなくていい。知りたくもない。これは俺に残された意地だ。
両腕の拘束がそっと離れた。その手は腰に回される。抱き寄せられたが、逃げたら負けだ。ここで主導権を握られたら最後、プライドを捨て去り決死の覚悟で臨んだ俺のこの闘志まで木っ端みじんに砕け散る。
これは負けてはならない勝負だ。竜崎の後ろ頭に掴みかかって、ぐっとこっちから引き寄せた。その唇にしゃぶりついて執拗にむさぼり尽くした。
長いし、深いし、ずっと触れている。互いの唾液で互いの舌を濡らし合う卑猥な行為が続いた。
絡まる舌がいやらしくぶつかる。挑発するように竜崎の上顎をゆっくりと舐め上げたら、仕返しとでも言わんばかりに舌をとらえられ、チュクッと、吸われた。
「ンッ……ん……」
ただのキスだけど、脈拍は早い。どうしてだかそれ以上に甘い。
おかしい。こんなはずじゃなかった。なんだか変だ。良くない方向に流されている。
屈辱を味あわせ、そしてあわよくば窒息死。そんな悲願とともに仕掛けたキスは、妙なことになってきていた。
俺が今しているこれはなんだ。舌と舌が触れるのが官能的で、重なる唇は熱をもっている。竜崎に抱かれる体も熱い。嫌で嫌で仕方がないのに、不快とは正反対だった。
認めたくない。でも認めざるを得ない。だめだ、これ。気持ちいい。
「ッ……は……っどうだ。これで、満足か……っ」
あと一歩。もう一歩先へ行っていたら確実に負けていた。それが分かったから寸前で思いとどまり、ゆっくりと舌を引いた。名残惜し気にそれを許した竜崎に、まずは突っかかっておく。
危なかった。まだクラクラしている。こいつはなんなんだ。歩く麻薬か。
内心の動揺を悟られないように最大限の強がりを言い放ち、自分で引き寄せた竜崎の体を押しのけるようにバッと両手を離した。
「……もういいだろ、帰る。これ以上俺に付きまとうな」
細道に街灯は乏しい。暗くて良かったと心底思う。火が出そうなほど顔が熱いが、この明度なら分からないだろう。
こいつは人の腰に腕を回したままこの顔をジロジロと見てくる。その目だけは本気で無理だ。ただでさえなんとも言えない気分なのに、これ以上追いつめられるのは拷問。
「よかった」
「は……?」
「やっぱ俺ら合うよ。最高に気持ちいい」
「……っ、馬鹿が。お前の感想なんかいらねえんだよ。いい加減放せッ」
一層頭に血がのぼってきた。真顔でそんなことを言ってくる人間はどこを探してもこいつくらいだ。
「あーヤッバ、かなりクるな。これはハマるわ」
「るっせえ黙れっ」
竜崎の腕から逃れてズカズカ大股で歩き出す。物騒な発言しかできない男が近くにいると背を向けるだけの事でも怖い。
ヤマアラシばりに警戒しながら歩く俺に竜崎も付いてくる。走っても撒けないのはさっき知ったから、イライラするのをひたすら堪えた。人のそんな努力さえもぶち破ってくるのがこの男だが。
「で。どうする?」
「なにがだよ、付いてくんな」
「途中まで方向同じなんだから仕方ねえだろ」
当たり前のように隣を歩く。こいつの行き先と俺の行き先とで分かれ道に出るまでまだもう少し。
耐えろ。挑発には乗るな。こいつに乗せられてもいい事は何もない。
「さっき保留にしたやつ。どうする?」
「だから何が」
「オチるまで毎日キスするって話」
「なんっ……」
耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ。
「…………するわけねえだろ。お前は俺にあそこまでさせといてまだそんなこと言ってんのか」
「あれはあれ。これはこれ。裕也もやっぱ満更でもないっぽいし」
「っテメエいっぺん死んでこい……ッ」
駄目だ無理だ耐えられっこない。むしろ今ここで殺してやりたい。
「野垂れ死ねクソ野郎がっ……!」
掴みかからなかっただけでも、俺にしては我慢できた方だ。
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