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第一部
4.1-Ⅳ
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作業場バイトとは言っても俺の役割は雑用に過ぎない。資材や廃材の搬入搬出に、作業前の準備とか後片付けとか。
それでも現場が現場なだけに重労働であることに変わりはない。認めたくはないが竜崎の言った通り、体力的にもなかなかに堪えた。
高卒で無資格で職は転々と。そんな経歴の人間にとっては毎日飯が食えているだけでもありがたい方なのだろう。重労働だろうが少々危険だろうが罵声が飛んでこようがなんだろうが金をもらえるなら限界まで耐える。
そうして今日もくたくたになって安アパートに帰った後は、迷うことなく風呂場へ直行。風呂付きの部屋に住めているのも救いだ。
熱めのシャワーを頭から浴びれば汗や埃はすぐに流せる。けれども疲れは流されてくれない。モクモクと立ち込める浴室の湯気は、見ているだけで残りの体力を奪っていくような気さえする。
だがこのバイトも今日で終わった。限界まで耐えきった。俺にしては珍しく仕事仲間とのトラブルもなかった。
それがどうにもほっとしたのか、自然と出てきた小さな溜め息。微かなそれは水音に打ち消されてすぐになかった事にできた。
狭い風呂場から出て部屋に戻り、ベッドの端に腰をおろした。無造作にバサバサとタオルを動かし濡れた髪の水気を吸い取る。
疲れた。何もする気になれない。メシはどうしよう。冷蔵庫には何があっただろうか。
食ったあとの予定も特になく、だが寝るにはまだ早い。一人でこのまま夜を過ごすか、盛り場に出て適当にふらふらするか。
考えるのも面倒になってベッドにドサッと体を倒した。乾いていない髪が頬を擦る。顔の向きを変えて払おうとすると、ベッドサイドの棚に置いてある小さなピアスが目に入った。
小ざっぱりしたデザインのそれは男物とも女物ともはっきりとは定まらない。小さな赤い石が嵌め込まれた、ユニセックスで、シンプルなピアスだ。それはもう使い物にはならないが使えるかどうかに意味はない。手元に大事な物が戻った。十分だ。失くさずに済んだ。
元の持ち主は俺ではなかった。いつも笑っている人だった。薄らと記憶に残っている明るいあの面影は、あれから何年過ぎても若いまま。あと数年すればその年齢も追い越す。
女々しいと思う。いくつになっても、こんな物一つ捨てられない。
起き上がってピアスを手に取った。これを探し出して俺に渡した竜崎の顔を思い出す。あの顔を思い浮かべただけで腹が立ってきて仕方ないが、わだかまったままの感情が燻っているのもまた事実。
「…………」
舌打ちしていた。きっとしかめっ面になっている。
思い立ったら行動も早く、髪も乾ききっていないうちに部屋着から普段着に替えた。支度を済ませたら部屋を後にする。目指す場所は決まっていた。
考えてみれば借りを作ってばかりだ。不本意だが俺はあの男に二つもの借りがあった。助けてもらう理由はない。笑顔が癪に障る男。そんな相手に借りを作ったままでいるのは俺が嫌だ。
会いたくないし、顔も見たくないが。嫌なことほど早く済ませてしまった方が楽になれる。
そうして着いた先は古い建物。ミオ、と書かれた粗末な看板が掛かっているあの店だ。踏み込む寸前の躊躇はあったが意を決して重いドアを開けた。
聞こえてきた声は前回と変わらない。いかにも酒場で、けれども和やか。だだっ広いだけでボロい空間のすぐ右側に目を向ければ、酒を片手にカウンターの前に座っている奴の姿を捉えた。
「お」
ドアの前にいる俺に気付いた。こっちに顔を向けた竜崎はヒラヒラと手を振ってくる。
ムカつく。不愉快だから視線を逸らした。カウンターの内側では店主が相変わらず煙草を吸っている。その人も同じく俺に目を向けて口元を和ませた。
「よう。元気そうじゃねえか」
「この前は騒がせて悪かった」
「気にすんな」
気さくに笑いかけてきた店主にそのまま席を促された。
竜崎を警戒して睨みつつ、奥の席に行くつもりでその後ろを通りすぎたその時、パシッと腕を掴まれている。すかさず殺す勢いで睨んだがこいつは自分の隣に誘った。
「やっと来たな」
「……うるせえよ」
やむを得ず左隣の席に座った。満足そうな笑顔が腹立つ。
しかし俺には目的がある。そのためにわざわざやって来た。竜崎から目を逸らし、苛立ちを押さえて吐き捨てた。
「奢ってやる」
「は?」
「奢ってやるっつってんだよ。好きなだけ飲め」
不思議そうな竜崎のその顔。しかしすぐあとには興味を持ったようで、薄く笑みを浮かべて言った。
「どういう風の吹き回しだ」
「いいから黙って奢らせろッ」
「そこでキレるの?」
今度は半笑い。俺が何をしても笑うつもりか。
「……テメエに借り作っとくのは許せねえ。分かったら黙って注文しろ」
「ああ、なるほど。そういうこと。素直にありがとうでよくねえ?」
「うるせえカス」
「口悪いなぁ」
いちいち面白そうに笑いやがって。いくら睨みつけてやってもヘラヘラした態度を崩さない。
黙って見ていた店主は竜崎の前で片肘をついた。この人も笑顔だがこっちはまともそうだ。
「良かったじゃねえかよ恭介。ちゃんと金置いてってくれんならどれでも好きなの飲ませてやるぞ」
「マジ? じゃあ一番高いの」
「テメエには遠慮ってもんがねえのか」
ここはもっと謙虚になるところだろう。お世辞にも高級とは言えない店だが、後ろの棚からボトルを取り出した店主を密かに窺った。
俺の内心に気づいた店主にはくくっと薄く笑われる。ここで前言撤回するのはいくらなんでも格好がつかない。
「……いいよ、入れろ。死ぬまで飲ませろ」
精一杯の見栄を張ったら気前良さげに店主が笑った。手に持った煙草を口にくわえて、竜崎のグラスにトポトポ酒を注いだ。
「いいじゃねえの潔くて。こいつなんかセコくてよぉ。ウチはそこらの店より断然友好価格だっつーのに金払ったためしがねえ」
「マスコットだとでも思えよ。こんなに可愛い招き猫いねえって」
「何運んでくっか分んねえな」
相変わらず馬鹿らしい会話を繰り広げなら店主は俺にも同じ酒を。友好価格と豪語するくらいだ。問題はないだろう。ないと思いたい。
引っ込みがつかなくなったためヤケクソにグラスを傾けた。店主はふうっと煙を吐いた。その口角は上がっている。これは高いかも。借りなんて作るもんじゃない。
高めの酒は度数も高かった。流した液体が喉を焼く。咳込みそうになるのを堪えてコトッと静かにグラスを置いた。横目でチラ見した竜崎は、これと同じ酒のはずなのになんでもなさそうな顔をしている。
張り合うのも無意味だが。敗北感は否めない。
「腹は痣消えた?」
「あ?」
その視線がふと俺に向いたかと思うと竜崎はそう切り出した。
こいつの言う事は何もかも不審だ。眉をひそめると竜崎もグラスを置いて、カウンターに右肘をつきながら俺に体を向けてくる。
「この前のとこ。すげえ色してたから」
「ああ……別に……」
フクロ叩きに遭った時の傷はもうほとんど残っていない。腹にだけは薄らと痣が残っているものの、筋肉痛以下のささやかな痛みを時折感じる程度のものだ。むしろ言われるまで忘れていた。
「あいにくそこまでひ弱じゃねえよ。女じゃねえんだ。頑丈にできてる」
腹の痣がどうのこうのよりも、この男の纏わりつくような強い視線がただただ不快だ。この飲み方で本当に合っているのかよく分からないキツめの酒に口をつけて目をそらした。
心配されるような義理はない。赤の他人だ。借りを返すために今夜は来ただけ。しかし竜崎は口の端を吊り上げ、俺から目を離す気配もなかった。
「頑丈ねえ……」
「……なんだよ」
「いいや? 頑丈っつー割にはずいぶん細ぇなあと思って」
「っんだと……ッ」
それは紛れもない侮辱。カウンターに手ついて思わず固く身構えていた。
すぐにでも立ち上がって掴みかかりたいのを寸前で堪える。俺が睨みつけて威嚇している間に竜崎は椅子から降りた。
すぐ目の前。この距離なら殴れる。目測でリーチを考えつつも警戒は解かずにいたが、突如降りかかる。衝撃が。
「なんっ……!?」
この前の、あの朝の記憶が一瞬にして蘇った。竜崎の両腕にすっぽりと収まる。椅子に腰かける俺と立っているこいつ。高低差により俺の頭は、ちょうど竜崎の肩下辺り。
抱きしめられた。二度目だ。意味がわからない。
怒りでワナワナと頭に血が昇るが、それ以上にショックで動けない。
「……急に何をしてんだお前は」
固まる俺。その俺を抱きしめる竜崎。
カウンターの内側から店主に声をかけられたこの野郎はポンポンと俺の腰を撫でた。
「うん。やっぱ細い。なんか癖になるんだよこの抱き心地」
「……っは、なせッ……ざけんな!!」
「イタタタタっ、こら暴れんなよ」
自由な足で竜崎を蹴りつけた。腕の力が緩んだその隙に両肩を思いっきり突き飛ばす。
「なんなんだよほんとにテメエはッ!?」
「この前の抱擁が忘れらんなくてつい」
「何がついだ……ッ」
袋叩きにされた方が精神的にはまだ耐えられる。
竜崎は涼しい顔で隣の椅子に座り直した。苛立つ俺に追い打ちをかけるかのように、平然と言ってのけるのは店主。
「お前らいつの間に仲良くなったんだ?」
「…………」
悪気があるのか、それともないのか。店主の様子に肩を落とした。おかげでほんの少しばかり冷静さが戻ってくる。
「そう見えるのか。いい訳ないだろ。こんなふざけたクソ野郎となんで仲良くなんなきゃならねえんだ」
「俺達もう仲良しじゃん」
「はぁッ?」
「朝から熱く抱き合った仲だろ」
「抱き合ってねえッ」
目の前がくらくらしてくる。絡まれるのには慣れきっていてもこの手のタイプとは出会ったことがない。
近くのテーブル席にいる客の視線はチラチラとこっちに向けられてくる。こういう店は常連が多いだろう。ここにいる他の客たちにとってただでさえ俺は見ない顔。目立たないようにするどころか注目が集まって早くも帰りたい。
からかわれるくらいなら殴り合いになった方がいい。借りなんて返しに来るんじゃなかった。
笑顔の竜崎にはイライラしかしないが、カウンターの向こうでは店主が新しい煙草に火をつけていた。
「まあ、いいコンビなんじゃねえの。喧嘩になるなら外出てやれよ」
「俺をこいつと括んじゃねえッ」
「括られとけよ。昭仁さん認定だぞ」
「知るかっ、このクソ変人!」
怒鳴り散らしたのはいつ振りだったか。内心で心底項垂れる。もう来ない。今度こそ、二度と来ない。
自分の中で強く誓ったその時、階段の方でガガガガッと。何かが崩れるような音がした。
客達もみんな気づいたようだ。こぞって階段の方に視線を向けたが、それ以上は特に気に留める様子もなくそれぞれ変わらずまた楽しんでいた。
二階に誰か、他にいたのか。店主と竜崎に視線を戻したが、二人とも気にする素振りすら見せない。
少しすると階段の方ではギシギシとゆっくり音が立った。古い木材が軋むその音は少しずつ一階に近付いてくる。再び後ろを振り返ってみた時、よろよろと足元をふらつかせた男が降りてくる様子が目に入った。
気力だけで立っている。そんな印象を真っ先に受けた。その男はここまで歩いてくると、カウンター越しに店主へ向けて弱々しく掠れた声で言った。
「ザマァねえよ。悪かったな。またあんたに助けられた」
発せられたその言葉。微かに笑みを見せる顔はかえって痛々しいように感じた。
「高額請求するから覚悟しとけ。まだ行くにはもったいねえぞ。請求額はベッド代込みだ」
「ははっ。とんだボロ儲けだな」
なんだ、そのやり取り。ベッド代とは。黙ったまま密かに成り行きを見守る。
弱り果てているこの男。カタギじゃないのが一発で分かる。もしも昼間の街中で擦れ違ったら大抵の人は目を逸らすだろう。
二言三言言葉を交わし、竜崎の肩にもポンと気安く手を乗せて男は店を出ていった。店内に動揺を見せる人間は一人もいない。これが普通の出来事ならば、この店はいかにも怪しすぎる。
見るからに、その筋の男。そんな人間が当たり前のように出入りする店なのか。
「……今のって……」
呟いた俺に対して、二人ともただ小さく笑みを浮かべて返しただけだった。
部外者は知る必要がない。そういう意味だろうと理解してそれ以上のことは聞かない。古くて寂れたこのバーが、変な店だということは分かった。
俺の隣でふざけた行動ばかり取りやがるこいつだってそうだ。最初に会った時にも感じた。威圧感というか、底知れぬ雰囲気。それは単なる気のせいでは、どうやらなかったのかもしれない。
不信感は明確に募った。しかしここで下手なことを言って面倒に巻き込まれたらそれこそ厄介。
見なったことにしよう。無言のままそう決めて、チビチビと酒を口にした。
それでも現場が現場なだけに重労働であることに変わりはない。認めたくはないが竜崎の言った通り、体力的にもなかなかに堪えた。
高卒で無資格で職は転々と。そんな経歴の人間にとっては毎日飯が食えているだけでもありがたい方なのだろう。重労働だろうが少々危険だろうが罵声が飛んでこようがなんだろうが金をもらえるなら限界まで耐える。
そうして今日もくたくたになって安アパートに帰った後は、迷うことなく風呂場へ直行。風呂付きの部屋に住めているのも救いだ。
熱めのシャワーを頭から浴びれば汗や埃はすぐに流せる。けれども疲れは流されてくれない。モクモクと立ち込める浴室の湯気は、見ているだけで残りの体力を奪っていくような気さえする。
だがこのバイトも今日で終わった。限界まで耐えきった。俺にしては珍しく仕事仲間とのトラブルもなかった。
それがどうにもほっとしたのか、自然と出てきた小さな溜め息。微かなそれは水音に打ち消されてすぐになかった事にできた。
狭い風呂場から出て部屋に戻り、ベッドの端に腰をおろした。無造作にバサバサとタオルを動かし濡れた髪の水気を吸い取る。
疲れた。何もする気になれない。メシはどうしよう。冷蔵庫には何があっただろうか。
食ったあとの予定も特になく、だが寝るにはまだ早い。一人でこのまま夜を過ごすか、盛り場に出て適当にふらふらするか。
考えるのも面倒になってベッドにドサッと体を倒した。乾いていない髪が頬を擦る。顔の向きを変えて払おうとすると、ベッドサイドの棚に置いてある小さなピアスが目に入った。
小ざっぱりしたデザインのそれは男物とも女物ともはっきりとは定まらない。小さな赤い石が嵌め込まれた、ユニセックスで、シンプルなピアスだ。それはもう使い物にはならないが使えるかどうかに意味はない。手元に大事な物が戻った。十分だ。失くさずに済んだ。
元の持ち主は俺ではなかった。いつも笑っている人だった。薄らと記憶に残っている明るいあの面影は、あれから何年過ぎても若いまま。あと数年すればその年齢も追い越す。
女々しいと思う。いくつになっても、こんな物一つ捨てられない。
起き上がってピアスを手に取った。これを探し出して俺に渡した竜崎の顔を思い出す。あの顔を思い浮かべただけで腹が立ってきて仕方ないが、わだかまったままの感情が燻っているのもまた事実。
「…………」
舌打ちしていた。きっとしかめっ面になっている。
思い立ったら行動も早く、髪も乾ききっていないうちに部屋着から普段着に替えた。支度を済ませたら部屋を後にする。目指す場所は決まっていた。
考えてみれば借りを作ってばかりだ。不本意だが俺はあの男に二つもの借りがあった。助けてもらう理由はない。笑顔が癪に障る男。そんな相手に借りを作ったままでいるのは俺が嫌だ。
会いたくないし、顔も見たくないが。嫌なことほど早く済ませてしまった方が楽になれる。
そうして着いた先は古い建物。ミオ、と書かれた粗末な看板が掛かっているあの店だ。踏み込む寸前の躊躇はあったが意を決して重いドアを開けた。
聞こえてきた声は前回と変わらない。いかにも酒場で、けれども和やか。だだっ広いだけでボロい空間のすぐ右側に目を向ければ、酒を片手にカウンターの前に座っている奴の姿を捉えた。
「お」
ドアの前にいる俺に気付いた。こっちに顔を向けた竜崎はヒラヒラと手を振ってくる。
ムカつく。不愉快だから視線を逸らした。カウンターの内側では店主が相変わらず煙草を吸っている。その人も同じく俺に目を向けて口元を和ませた。
「よう。元気そうじゃねえか」
「この前は騒がせて悪かった」
「気にすんな」
気さくに笑いかけてきた店主にそのまま席を促された。
竜崎を警戒して睨みつつ、奥の席に行くつもりでその後ろを通りすぎたその時、パシッと腕を掴まれている。すかさず殺す勢いで睨んだがこいつは自分の隣に誘った。
「やっと来たな」
「……うるせえよ」
やむを得ず左隣の席に座った。満足そうな笑顔が腹立つ。
しかし俺には目的がある。そのためにわざわざやって来た。竜崎から目を逸らし、苛立ちを押さえて吐き捨てた。
「奢ってやる」
「は?」
「奢ってやるっつってんだよ。好きなだけ飲め」
不思議そうな竜崎のその顔。しかしすぐあとには興味を持ったようで、薄く笑みを浮かべて言った。
「どういう風の吹き回しだ」
「いいから黙って奢らせろッ」
「そこでキレるの?」
今度は半笑い。俺が何をしても笑うつもりか。
「……テメエに借り作っとくのは許せねえ。分かったら黙って注文しろ」
「ああ、なるほど。そういうこと。素直にありがとうでよくねえ?」
「うるせえカス」
「口悪いなぁ」
いちいち面白そうに笑いやがって。いくら睨みつけてやってもヘラヘラした態度を崩さない。
黙って見ていた店主は竜崎の前で片肘をついた。この人も笑顔だがこっちはまともそうだ。
「良かったじゃねえかよ恭介。ちゃんと金置いてってくれんならどれでも好きなの飲ませてやるぞ」
「マジ? じゃあ一番高いの」
「テメエには遠慮ってもんがねえのか」
ここはもっと謙虚になるところだろう。お世辞にも高級とは言えない店だが、後ろの棚からボトルを取り出した店主を密かに窺った。
俺の内心に気づいた店主にはくくっと薄く笑われる。ここで前言撤回するのはいくらなんでも格好がつかない。
「……いいよ、入れろ。死ぬまで飲ませろ」
精一杯の見栄を張ったら気前良さげに店主が笑った。手に持った煙草を口にくわえて、竜崎のグラスにトポトポ酒を注いだ。
「いいじゃねえの潔くて。こいつなんかセコくてよぉ。ウチはそこらの店より断然友好価格だっつーのに金払ったためしがねえ」
「マスコットだとでも思えよ。こんなに可愛い招き猫いねえって」
「何運んでくっか分んねえな」
相変わらず馬鹿らしい会話を繰り広げなら店主は俺にも同じ酒を。友好価格と豪語するくらいだ。問題はないだろう。ないと思いたい。
引っ込みがつかなくなったためヤケクソにグラスを傾けた。店主はふうっと煙を吐いた。その口角は上がっている。これは高いかも。借りなんて作るもんじゃない。
高めの酒は度数も高かった。流した液体が喉を焼く。咳込みそうになるのを堪えてコトッと静かにグラスを置いた。横目でチラ見した竜崎は、これと同じ酒のはずなのになんでもなさそうな顔をしている。
張り合うのも無意味だが。敗北感は否めない。
「腹は痣消えた?」
「あ?」
その視線がふと俺に向いたかと思うと竜崎はそう切り出した。
こいつの言う事は何もかも不審だ。眉をひそめると竜崎もグラスを置いて、カウンターに右肘をつきながら俺に体を向けてくる。
「この前のとこ。すげえ色してたから」
「ああ……別に……」
フクロ叩きに遭った時の傷はもうほとんど残っていない。腹にだけは薄らと痣が残っているものの、筋肉痛以下のささやかな痛みを時折感じる程度のものだ。むしろ言われるまで忘れていた。
「あいにくそこまでひ弱じゃねえよ。女じゃねえんだ。頑丈にできてる」
腹の痣がどうのこうのよりも、この男の纏わりつくような強い視線がただただ不快だ。この飲み方で本当に合っているのかよく分からないキツめの酒に口をつけて目をそらした。
心配されるような義理はない。赤の他人だ。借りを返すために今夜は来ただけ。しかし竜崎は口の端を吊り上げ、俺から目を離す気配もなかった。
「頑丈ねえ……」
「……なんだよ」
「いいや? 頑丈っつー割にはずいぶん細ぇなあと思って」
「っんだと……ッ」
それは紛れもない侮辱。カウンターに手ついて思わず固く身構えていた。
すぐにでも立ち上がって掴みかかりたいのを寸前で堪える。俺が睨みつけて威嚇している間に竜崎は椅子から降りた。
すぐ目の前。この距離なら殴れる。目測でリーチを考えつつも警戒は解かずにいたが、突如降りかかる。衝撃が。
「なんっ……!?」
この前の、あの朝の記憶が一瞬にして蘇った。竜崎の両腕にすっぽりと収まる。椅子に腰かける俺と立っているこいつ。高低差により俺の頭は、ちょうど竜崎の肩下辺り。
抱きしめられた。二度目だ。意味がわからない。
怒りでワナワナと頭に血が昇るが、それ以上にショックで動けない。
「……急に何をしてんだお前は」
固まる俺。その俺を抱きしめる竜崎。
カウンターの内側から店主に声をかけられたこの野郎はポンポンと俺の腰を撫でた。
「うん。やっぱ細い。なんか癖になるんだよこの抱き心地」
「……っは、なせッ……ざけんな!!」
「イタタタタっ、こら暴れんなよ」
自由な足で竜崎を蹴りつけた。腕の力が緩んだその隙に両肩を思いっきり突き飛ばす。
「なんなんだよほんとにテメエはッ!?」
「この前の抱擁が忘れらんなくてつい」
「何がついだ……ッ」
袋叩きにされた方が精神的にはまだ耐えられる。
竜崎は涼しい顔で隣の椅子に座り直した。苛立つ俺に追い打ちをかけるかのように、平然と言ってのけるのは店主。
「お前らいつの間に仲良くなったんだ?」
「…………」
悪気があるのか、それともないのか。店主の様子に肩を落とした。おかげでほんの少しばかり冷静さが戻ってくる。
「そう見えるのか。いい訳ないだろ。こんなふざけたクソ野郎となんで仲良くなんなきゃならねえんだ」
「俺達もう仲良しじゃん」
「はぁッ?」
「朝から熱く抱き合った仲だろ」
「抱き合ってねえッ」
目の前がくらくらしてくる。絡まれるのには慣れきっていてもこの手のタイプとは出会ったことがない。
近くのテーブル席にいる客の視線はチラチラとこっちに向けられてくる。こういう店は常連が多いだろう。ここにいる他の客たちにとってただでさえ俺は見ない顔。目立たないようにするどころか注目が集まって早くも帰りたい。
からかわれるくらいなら殴り合いになった方がいい。借りなんて返しに来るんじゃなかった。
笑顔の竜崎にはイライラしかしないが、カウンターの向こうでは店主が新しい煙草に火をつけていた。
「まあ、いいコンビなんじゃねえの。喧嘩になるなら外出てやれよ」
「俺をこいつと括んじゃねえッ」
「括られとけよ。昭仁さん認定だぞ」
「知るかっ、このクソ変人!」
怒鳴り散らしたのはいつ振りだったか。内心で心底項垂れる。もう来ない。今度こそ、二度と来ない。
自分の中で強く誓ったその時、階段の方でガガガガッと。何かが崩れるような音がした。
客達もみんな気づいたようだ。こぞって階段の方に視線を向けたが、それ以上は特に気に留める様子もなくそれぞれ変わらずまた楽しんでいた。
二階に誰か、他にいたのか。店主と竜崎に視線を戻したが、二人とも気にする素振りすら見せない。
少しすると階段の方ではギシギシとゆっくり音が立った。古い木材が軋むその音は少しずつ一階に近付いてくる。再び後ろを振り返ってみた時、よろよろと足元をふらつかせた男が降りてくる様子が目に入った。
気力だけで立っている。そんな印象を真っ先に受けた。その男はここまで歩いてくると、カウンター越しに店主へ向けて弱々しく掠れた声で言った。
「ザマァねえよ。悪かったな。またあんたに助けられた」
発せられたその言葉。微かに笑みを見せる顔はかえって痛々しいように感じた。
「高額請求するから覚悟しとけ。まだ行くにはもったいねえぞ。請求額はベッド代込みだ」
「ははっ。とんだボロ儲けだな」
なんだ、そのやり取り。ベッド代とは。黙ったまま密かに成り行きを見守る。
弱り果てているこの男。カタギじゃないのが一発で分かる。もしも昼間の街中で擦れ違ったら大抵の人は目を逸らすだろう。
二言三言言葉を交わし、竜崎の肩にもポンと気安く手を乗せて男は店を出ていった。店内に動揺を見せる人間は一人もいない。これが普通の出来事ならば、この店はいかにも怪しすぎる。
見るからに、その筋の男。そんな人間が当たり前のように出入りする店なのか。
「……今のって……」
呟いた俺に対して、二人ともただ小さく笑みを浮かべて返しただけだった。
部外者は知る必要がない。そういう意味だろうと理解してそれ以上のことは聞かない。古くて寂れたこのバーが、変な店だということは分かった。
俺の隣でふざけた行動ばかり取りやがるこいつだってそうだ。最初に会った時にも感じた。威圧感というか、底知れぬ雰囲気。それは単なる気のせいでは、どうやらなかったのかもしれない。
不信感は明確に募った。しかしここで下手なことを言って面倒に巻き込まれたらそれこそ厄介。
見なったことにしよう。無言のままそう決めて、チビチビと酒を口にした。
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