たとえクソガキと罵られても

わこ

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65.呪縛と決別

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 小学校の授業参観が好きだった。同じクラスの友達からは、必ず母さんを褒められたから。
 お母さん若いね。美人でいいな。そう言われるのがうれしくて、自慢で、若くて綺麗な母親がいることを誇らしいと感じていた。

 どちらかと言えば裕福な家だ。周りの子よりも暮らしは贅沢。そんな自覚は持っていた。欲しいと言わなくても欲しいものをもらえた。不自由とは無縁の生活だった。
 黙っていてもなんでも手に入る。気づいた時にはすでに持っているから何かを欲しいと喚くこともない。
 大人しくてお利口ないい子。そうやって周りの大人たちは俺を見ながら笑って言った。そう言われる俺を隣で見ながら、母さんはとても控えめに笑い、けれども嬉しそうな顔をしていた。

 俺が褒められると母さんは嬉しい。俺がいい子だと母さんは喜ぶ。
 誇らしかった。すべてが、自慢だった。俺は最初から全部持っている。なんでもある。思い通りにできる。
 そうやってずっと、勘違いしていた。







「……マザコンだったのかな」
「誰が?」

 ウーロン茶の入ったコップをテーブルに差し出された。もう一個のコップに口を付けながら、晃はこの隣に座った。
 それを見ながら単語で呟く。

「……俺」
「は? どこが?」

 ウーロン茶片手に物凄く顔をしかめて見せてくる。

「いいか、あのな。マザコンっていうのはな、いい年してお母さんに服とかおやつとか買ってきてもらってお小遣いまで与えられてるような人のことを言うんだよ。家事なんか一個もまともにできないし困ったときはお母さんに泣きついて全部を決めてもらうような人だよ。お母さんの言うこと聞いておけば間違いないって思ってる人だよ。彼女の前でお母さんの手料理が一番とか平気で言っちゃう人だよ。モラハラ男にマザコンが多いのはやってもらって当たり前感覚が大人になっても抜けないからだよ。お母さんみたいに自分のことを誰よりも一番に考えて完璧に世話してくれる人間を求めてるんだよ。だから奥さんの気持ちを考えもしないで実家で両親と同居するとかある日突然宣言するんだよ。基本的にキモいんだよ」

 なんだかすごい畳みかけられた。

「お母さん助けるために借金返済してきた勤労学生は絶対に当てはまらない。つーかむしろ対極だから。何度も言うけど陽向はもっとワガママになった方がいい」
「そんなこと…」
「あるからね。たまには自分のためだけに生きなきゃ」
「うーん……」
「ちなみに俺は今日自分がクッキー食いたいから陽向をここに呼んだ」
「焼かないよ」
「焼いてよ」



 ホテルの給仕バイトを午後に終えた晃と駅で落ち合い遅めの昼メシに行った。
 忙しいけど時給はいいとか話しながらやって来た晃の自宅。広くて綺麗なこの家に、相変わらずご両親は不在だった。


 先週末の一件を、晃にだけは聞いてもらった。
 母さんが見つかったことを。父さんの昔の知り合いで、女の子と男の子がいて、その人と内縁関係を結んでいたと。

 俺の前ではいつも泣いていたのに、あの家族の前では笑ってた。とても幸せそうだった。
 俺は何も守れていなくて、必要なのは俺じゃなかった。全否定されたみたいだった。底の見えない崖の上から勢いよく落っことされたような、足の指からジワジワと全身の感覚がなくなっていく。あの時のそんな心境は鮮明に、体の隅々にまで蘇ってくるが、たぶん大丈夫だ。だって話せた。
 自分でも驚く程にスラスラ喋れたのはきっと、俺に天丼を食わせてくれたあの大人がいたからだ。


「さてと。じゃあそろそろクッキー焼こうか」
「焼かないからな」
「焼いてよお願い。小麦粉とか全部買ってあるから」
「なんでそんな用意だけいいの」
「陽向のクッキーうまい」

 褒められて悪い気はしないけどなぜダチの家でクッキー焼くことになるんだ。

 横から晃がせっついてくる。仕方ないからクッキー作るかと、ソファーから腰を上げようとした。
 しかしその時、唐突にガチャリと。外から開かれたリビングのドア。音につられて思わず顔を上げ、晃も同じようにそっちに目を向けた。

「あれ、里美さん?」

 ドアの向こうからは一人の女性が入ってきた。誰だろう。若い、女性だ。とても綺麗な装いの。
 その人を里美さんと呼んだ、晃の顔をチラリと盗み見た。

「どしたの。忘れ物?」
「うん、スマホ部屋に置いてっちゃって」

 その人はパタパタと慌ただしく駆けていく。ダイニングの横にある階段を急ぎ足で上って行った。
 お母さんとは思えないような見た目だったが、晃にお姉さんはいない。その女性はスマホを手に持って戻って来ると、そこでチラリと俺にも目を向けた。

「ごめんなさいね、バタバタと。お友達?」
「うん、そう。ヒナタ」

 うなずいた晃の横で、慌てて立ち上がり口を開いた。

「お邪魔しています……はじめまして」
「はじめまして。ゆっくりしていってね」
「どうも……」

 ペコリとぎこちなく頭を下げればにっこり笑って返された。
 感じのいい人だ。座ったままの晃に向けて、この人はまた申し訳なさそうに言った。

「ゴハンとか大丈夫?」
「心配ないよ、カードあるし」
「いつもごめんね」
「平気平気。それより早く行かないとまずいんじゃない?」
「あっ、うんゴメン。行ってきます!」
「いってらっしゃい」

 ヒラヒラと手を振った晃と、パタパタ小走りに出ていくその女性。
 腕を下げた晃に再びチラリと目を向けて、俺もそれとなく腰を下ろした。聞いていいものかどうかを迷う。しかし言いたくないならば、晃は何も言わないだろう。

「……お母さん?」
「うん」
「……里美さん……?」
「うん。一滴も血は繋がってないから」

 思わず口を閉じた。

「後妻ってやつ」

 サラリと言い連ねるこの態度。半ば予想通りの答えだったが、晃は気にした風もなくウーロン茶を手に取った。

「俺の実の母親はさ、この家をほとんど追い出されるみたいにして出ていったんだよ」
「え……」
「浮気したのは親父の方だけどな。その相手があの人。里美さん」

 晃はなんでこんな、今日の天気の話でもするみたいな顔をしているんだ。

「二年前にこの家で話し合いになった。学校から帰ったら親父と母さんと里美さんがいて、選べって言われた。どっちに付いてくか」
「…………」
「ちょいちょいちょい待った待った、そんな顔すんなってよくあることじゃん。俺ももうその時中三だったし、勝手に決められるよりは全然マシでしょ」

 カラリと笑って晃は言う。笑ってするような話ではないが、やはりその顔はあっけらかんと。

「ここに残るって俺が言った瞬間の、親父と里美さんの顔は今でもよく覚えてる。母さん相手にザマア見ろって感じにさ。勝ち誇ったような顔してたよ。自分が産んだ息子に捨てられた哀れな母親を見る目だった」
「…………」

 おそらく人はその表情を、嘲笑と呼ぶのだろう。晃の言葉からそう感じ取れた。口調はどこまでも平然としているが。

「だから三人で暮らし始めた時、二人には最初に言った。里美さんを今後お母さんって呼ぶことだけは絶対にないって。そしたら二人とも押し黙ってた。そりゃそうだよな。不倫してた負い目くらいはあんな大人達にもあったっぽい」

 しょうもない噂話とくだらない話は大好きだけれど、つまらない話は大嫌いなのが晃だ。
 つまらない話はもってのほかだが、しょうもない噂話にもくだらない話にも笑って参加する割に、鵜呑みにはしない。いつもどこか一歩引いて見ている。笑っているし愛想もいいからそうとは一見思えないけど、晃にはそういう雰囲気がある。だからこそ俺は、晃にだけは話せた。

「お母さんの方に付いてくっていうのは……」
「うん?」
「あ、いや……ごめん。ただ、恨んでないの……? お父さんと、その人のこと……」

 晃は進路指導の直村みたいな押しつけがましい大人を毛嫌いしている。どの生徒も直村には近寄りたがらないが、晃のはどちらかというと、嫌悪に近い。

 周りの大人を信じない。信じたところでどうせ意味はない。比内さんたちに会うまでの俺はそう思っていたし、今でもそう思うから分かる。晃のこの軽い口振りは決して温厚な訳ではなくて、諦めているように、俺には聞こえる。
 事実いま晃はとうとう、つまらなそうに鼻で笑った。

「大人三人が三人とも自分を一番大事にした結果こうなったってだけの話だ。母さんだって追い出されたっつっても金はガッツリもらってった訳だし」
「……そう……」
「俺だってあの三人と同じだよ。母さんについていかなかったのは自分を一番大事にしたからだ。どうするのが得かだけ考えた」

 冷たい、ように聞こえるけれど。そんな事はない。本当に残酷な事をしていてその自覚すらできていないのは、子供にそれを選ばせる親の方だ。

「親が離婚するくらい別にどうでもいい。そんなことより、人が受験控えてる時期に面倒な事してくれやがった状況の方を恨んだ。だから環境も変えたくなかった」
「……そっか」
「母さんが完全に被害者かって言うと、そうとも言えないだろうし」
「え……?」

 大して飲みもしないまま持っていたウーロン茶のコップを、晃はそこでコトリと置いた。

「親父の会社がデカくなるにつれて母さんのブランドバッグは増えていった。最初はウォークインクローゼットが母さんの宝箱になったよ。化粧品もアクセサリーも今はもう全部片づけられたけど、どの部屋も買い物の痕跡で溢れかえってた」
「どの部屋も……」
「そう。使う訳でもないのに同じような物いくつも買って、SNSに投稿しては大勢に自慢して喜ぶの繰り返し。そういう人だったんだ。仕方ない」

 金を持つとはそういう事だ。それまでよりもちょっとお金を持てるようになったとき、そのちょっと増えた分を、どう使うかにはその人の人格が出る。いいとか悪いとかの話ではなく、それが金というものだ。
 数字が大きくなればなる程、その桁が増えればその分、より強い力をまるで自分自身が持ったかのように錯覚してしまう。いつの間にか。自分だけはそんな事にならないと思っていてもいつしか、気づけば、人より優れ、人より高位で、人よりも価値ある人間なのだと知らないうちに思い込む。

「あれでも昔は料理が好きな人だった。化粧なんかほとんどしないし服にも靴にも興味ない感じで……だけど自由にできる金が増えるにつれてキッチンが使われる時間は減った。金さえ払えば手料理なんかよりよっぽどいいもの食べられるとか言って、毎日忙しそうにしてたよ。エステとかネイルサロンとか色々」
「……あのキッチン……」
「綺麗だろ? 母さんが水回りのリフォームしたいって言ったんだ。なのに出来上がったら完全に料理しなくなった。爪もキッチンも汚すのが嫌だったんだってさ。俺にも親父にも汚れるから使うなって。フォロワーのみんなに見せびらかすためにせっかく新しくしたんだからな」

 ダイニングテーブル越しに、綺麗なオープンキッチンをこの場から眺めた。汚すから使いたくないのであれば、あれはもうただの飾りになってしまう。

 あの立派な調理場は、使われていないと晃が前に言った。母親は自分より料理ができないと言っていたのも覚えている。でもそういえば晃はその母親のことを、あの人って、言っていなかったか。
 あの時晃が言ったあの人は、里美さんという継母のことだ。キッチンが使われていないのは、今は、という話なのだろう。
 昔は使われていた。リフォーム前の、今はもうないキッチンが。晃の実の、お母さんによって。



 晃はどこまでも明け透けだった。里美さんは元々お父さんの会社の社員の人だとも教えてくれた。
 立ち上げた時から一緒に働いている女性だそうだ。今は公私ともにパートナーとして。
 父親とその女性がいつの間にかそうなっていて、いつの間にか家族が壊れたと。

「ホントは最初から壊れてたのかもしんないけどな」
「……晃はこれで、よかった……?」

 いいはずがない。これ以上の愚問もないから聞いていいのかどうかは分からない。だけどやっぱり晃なら、言いたくないなら言わないだろう。
 フンと少し呆れたように笑って、至って平気な顔をして言う。

「あの二人が親としてどうなのかとか、そんなのいちいち考えるだけ無駄だよ。分かんねえもん。じっくり見たって」
「……ごめん。なんも知らなかった」
「お前以外の誰にも言ってないから」
「……良かったのか。俺に話して」
「陽向は俺に話してくれただろ?」

 横からふっと、その顔がこっちに向いた。諦めでも呆れでもなんでもなく、ただ笑った顔がそこにある。

「嬉しかったよ。何かあるんだろうとは想像してたけど、誰にも話さない奴だと思ってたから」
「…………うん」

 たとえどんなに仲良くなった友達だとしても、話せる人と、話せいない人がいる。
 俺は晃に聞いてほしいと思った。晃も俺に今、話してくれた。

「昔の家族はもうない。でも俺はまだいい方だ。好き勝手できてるし、あと少しでここから出ていける。部屋借りて、あの人達とは顔合わせずに暮らしたい」
「……大学は?」
「行くよ、もちろん。金だけは今のとこ余裕ありそうだからなこの家。大学出るまで最大限の援助はこっちも受けるつもりでいる」

 晃ならどこにでも行けそうだ。都内だろうと関西だろうと北の方だろうと、なんなら国外でも目指せそう。

「陽向だったらこうはしないよな」
「え……?」
「俺はこれを当然の権利だと思ってる」

 都内だろうと関西だろうと北の方だろうと、海外であればなおさら、金はかかる。その援助を晃は親から受ける。
 当然の権利、ではない場合ももちろんある。家庭や状況によっては。それを自分の権利だと言った晃はここで初めて、少し自信がなさそうに笑った。

「ヤな奴だと思う?」
「……思わないよ」

 さっきのやり取りを聞いていて、カードを持たされているのを知った。自由にできる金を持っている晃が、時給のいいバイトをしているのはなんでだろう。おそらくは信頼の薄くなった親に、援助させるのはどういう気分だろう。

 ヤな奴だなんて思わない。俺だって同じだ。母さんを決して恨まない自分には、もう戻らない。これ以上大人に振り回されてたまるか。
 そう決めた。後ろばっかりはもう見ない。恨んだ自分を受け止めないと、きっと前には進めない。

「……晃」
「うん」
「クッキー作ろう」
「うん?」

 晃は今日クッキー食いたいらしい。だったら食おう。食うために作る。

 悲しいときは食うといい。怒っているときも食うといい。これがどういう感情か分からないときも、とりあえず何か食ったらいい。
 生き物は食わなければいずれ死ぬ。生き物が生きた物であるためには食う事をやめてはいけない。それが生きるっていうことだ。

 だからソファーから立ち上がり、晃の腕を引っ張りながら人の家のキッチンに向かった。
 メシ作れ。あの時比内さんは俺に言った。今なら分かる。どういう意味か、よく分かってる。晃もきっと分かっているから、流しにジャーッと水を出した。手を洗った晃に俺も続く。

「俺はこの前比内さんと天丼作った」
「相変わらず人物像よく分かんない弁護士さんだな」
「エビの代わりにトリ天」
「いいな美味そう」

 ピカピカの調理台の上に道具と材料を出していった。調理台も、道具も全部、汚れたら綺麗にしたらいい。汚れた物を綺麗にできるのは俺達が生きた人間だからだ。
 ただ食って終わりじゃないのが人間と動物の違いだ。これが人間の選んだ生き方。だから今からここで、クッキーを焼く。

「あのさ晃」
「うん」
「キッチンは使うためにあるんだと思うよ」

 デジタル式のキッチンスケールにボウルを乗せて数値をゼロに戻した。
 薄力粉の袋と粉ふるいをポンポンと渡しながら当たり前のことを堂々と言ったら、晃ははじめキョトンとし、すぐにフハッと、おかしげに笑った。

「だな。次母さんに会ったときは教えとく」

 明らかな用途があっても使い道を見失う人もいる。
 見失い途方に暮れたとしても、誰かに言われて気づくかもしれない。ちょっと忘れていただけで、もしかしたら思い出すかもしれない。

 俺と晃は今まさに、今日を生きるためにクッキーを作ってる。
 玉ねぎ切れない晃だけれど、粉を振るうのは上手かった。
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感想 16

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みんなの感想(16件)

あり
2024.08.19 あり

何年も前から密かに追っていましたが、そろそろ我慢できなくてコメントしてみました。描写が丁寧で没入感があってとても大好きです。更新が待ち遠しくていつもサイトを開いてましたが、最近頻繁に更新してくださるのでとても嬉しいです!物語もどんどん進んできていて展開が楽しみです。これからも応援しています!

わこ
2024.08.19 わこ

ありさん、とっても嬉しいコメントをどうもありがとうございます! スローペースにも程があるような更新状況にもかかわらず、見守ってくださっていた方がいらっしゃるんだと思うと本当に涙出ます!!
あと数話くらい、キリのいい所までは途切れず投稿する予定でおります。その後はまたお待たせしてしまいそうですが、お時間あるときにお付き合いいただけたら幸いです。ちょっとでも楽しんでいただけるように頑張ります!

解除
麦チョコ
2023.12.22 麦チョコ

自分の好みにドストライクすぎるストーリーで、言葉選びや文章の書き方も大好き過ぎて語彙力消失中です( ᐙ )
この作品に出会えて良かったです!
これからも応援してます!

わこ
2023.12.23 わこ

麦チョコさん、コメントありがとうございます。気に入ってもらえてとっても嬉しいです!!
私の語彙力も失踪しがちなので頭の中を文章にできず更新がスローペースになっていますが、あたたかい応援を糧にしてまだまだこれからも頑張ります!

解除
ひな
2023.12.03 ひな

この作品大好きです!
陽向くん、比内さん、中川さん3人の会話が面白くてほのぼのしながら読んでます笑
続きがとても気になる、、💭

わこ
2023.12.03 わこ

ひなさん、お気に召していただけて嬉しいです。続きもお届けできるように頑張ります!
コメントありがとうございました!!

解除

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