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62.真実の所望Ⅶ
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米の粒が手のひらに当たる。水の音が、時々シャーシャー聞こえる。目は開いているけど閉じているみたいだ。でもやっぱり開いているから、隣に比内さんがいるのも分かってる。
なぜか書斎にはいかなかった。ずっと隣にいてくれるから、了承も何も得ていないまま勝手に無駄話を始めている。
「俺達を騙したあの男のことは許せないけど、本当にもうそれだけなんです。腹が立つ以上は何もない」
ジャコジャコ洗うのを止めた。手のひらには米の粒がくっついてくる。
「なのに母さんのことは……」
白く濁った水を、ジャーッと捨てた。
「……恨みそうになる」
なんでもない人に貶められるのと、信じていた人に裏切られるのとでは、重みが違う。母さんは後者だ。
守っているつもりになっていた。俺が耐えれば母さんを守れる。もう泣かせないで済む。あんなボロボロには、もう。
そんな心境だけがまだ、唯一の支えだったのに。
バカだった。そんなんじゃなかった。辛うじて残っていた金を持ち去り、息子を身代わりにするような人だ。その行動が全てだったのに、信じていた。まだどこかで。
俺には母さんしかいなかった。母さんのためだと思ってさえいれば、身代わりにだってなり続けていられた。それなのに、あれだけ守りたかったはずが、裏切られたと知った途端に、過ぎった、恨みが。憎んだ。何よりも大事だったはずの母さんを。
それを抑え付けておけない俺に、比内さんは静かに返した。
「恨んでねえと思い込むよりマシだ」
「…………」
どうして佐久間さんの家に行ったのか。経緯として考えられるパターンはいくつか。
初めて会った時からずっと二人は会っていた。だがこれは可能性が薄い。もしもそうなら母さんは一時的にでも、俺にあそこまで依存しなかっただろう。放っておいたらどうにかなってしまうような、そういう執着的な雰囲気があった。だからなるべく、そばにいた。
あり得るとすれば、闇金の取り立てに苦しんでいた真っただ中の頃。あの辺りのどこかで再会した。しかしそれは俺を置いて逃げた後だろうか、前だろうか。逃げた後に偶然、再会したのか。それとも、再会した二人が計画を立てて、俺を置いて逃げたのか。
あの頃の母さんはもうボロボロだった。立ち上がれないような状況の中で、かつて手を貸してくれた人と再会したら、何を思い、どう行動するだろう。母さんはよく泣きながら言っていた。ごめんなさい。あれは、どういう意味だ。
どんな意味だったかは分からない。どんな意味でも、もう今さらだ。二人はいつからだったのか。それだって、知ったところでどうにもならない。
いつからだろうと、どんな理由だろうと、少しでも気を抜けば恨み始める。恨んで憎んで、父さんにしたのと同じように、軽蔑してしまうかもしれない。
釜の中に移した米に水を浸して、炊飯器にセットした。電源を入れて炊飯ボタンを押す。便利な家電の前で立ち尽くす。
難しい事なんて何もない。ボタン一個でなんでもできる。人間もこれくらい、単純なつくりだったらよかった。
「もう一つだけ、言っていなかったことがある」
米をセットしたところでとうとう黙り込んだ俺の後ろで、比内さんはいくらか控えめに言った。しかし俺が振り向けば、そこから先の口調に迷いはない。
「今度こそ本当にこれが最後だ。俺はお前の母親が何をしたか知ってる」
その言い方に、思わず眉間には僅かな力が入った。
何をしたかも何もない。母さんは何もしなかった。しかしそこまで考えて、思いつく。俺の目の前にいるのは日々法律を扱っている人だ。
母さんは何もしないという事を、した。
「お前も知っておくべきだ」
「……今さら……」
「そうだな」
「…………」
「どれもこれも、もしもの話だ。これ以上に無意味な話もねえが、あの状況を回避する手立てならあった。お前が母親を庇う理由を俺は潰せる」
できるだろう。比内さんなら。だってこの人は弁護士だ。
必要最低限しか言ったりしたりしないけど、俺に必要だと判断したなら、絶対に言う人だ。
「闇金はもとより、お前ら親子はそもそもどこにも金を返す必要なんてなかった。適切な対処さえ取れていればな」
「……相続放棄の事ですか」
「それもある」
「……でもあの時は、もうとっくに……株の売却も……」
「ああ。だからこれはもしもの話だ」
「…………」
必要がないのであれば、最初からそんな前置きもしない。
「そもそも相続放棄したからと言って借金が消えてなくなるわけじゃない。だからこそ仮に放棄していた場合、間には弁護士が入った」
「弁護士……」
「二人しかいねえ相続人が二人とも相続を放棄すれば相続財産清算人が必要になる。家裁が清算人として選任するのは一般的に弁護士だ。その後でたとえ闇金がお前らに直接何かを言ってきたとしても、相談できる相手にはなっていたと思う」
「…………」
「最初の時点で専門家を名乗る人間が出てきていれば、多少なりとも状況は変わってただろうよ」
母さんだってもしも借金を知っていれば、相続放棄なり限定承認なり必要な手続きをしただろう。
でもしなかった。知らなかったから。第一に母さんは相続のことより、会社をどうするかが不安だったと思う。
そんな時に葬儀から少しすると佐久間さんが現れて、父さんが持っていた株式は全て会社に買い取ってもらう事になった。佐久間さんの手助けを得ながらも、母さんがどこかホッとした顔をしていたのは覚えている。だからあれが財産の処分行為になるとかそういう意識はしていなかった。ただ少し、肩の荷が下りただけで。
熟慮期間である三ヵ月を過ぎていようがいまいが、株式を処分した時点で相続は放棄できなくなる可能性が高い。比内さんに説明されて俺はこれを後から知ったが、原則としてはそうなるらしい。相続財産の一部でも処分すれば単純承認したものとみなされる。
状況を整理するためのあれこれを、比内さんが最初に俺に確認した。
だから俺達が借金を相続するまでの流れは比内さんだってもう十分に把握している。それを今ここでわざわざ、またしても持ち出してきた。
「それでもこの件は確かに、全ての責任がお前の母親にあるとは言えない。相続放棄なんてほとんどやる奴はいねえからな。真っ先に思いつく方が珍しい」
「なら…」
「言っただろ。手立てはいくつかある。相続した後だとしても、事態を回避する機会ならあった」
俺の言葉に被せるようにして続ける。比内さんが言うのは、必要な事だけ。
「お前もよく分かってる通り、家族が死んで財産を相続したなら基本的には負債もそのまま引き継いだことになる。ただしこれは原則だ。お前らは連帯保証の事実をその時まで全く知らなかった。そうだろ」
「……はい」
「借金があると知った時から三ヵ月以内なら申し出ができた。即座に弁護士でも頼って家裁に申述していれば何らかの検討はされていたはずだ。少なくとも何もかもが降っかかってくることはなかった。闇金なんてのはもってのほかだろ」
俺達を追い詰めたのは何か。父さんの死ではない。銀行からの催告でもない。
公正な誰かが間にいれば、俺達を食い物にはできなかったはずの奴らだ。
「何よりもな、非上場の小規模会社とはいえお前の父親は会社の代表だった。その後の手続きを一人でやるには限界があって当然だ」
「…………」
「自分の夫にそういう肩書があるなら、何かしら専門の人間の協力は必要になる。財産の調査も含めてな」
母さんだってそれは分かっていた。だから真っ先に会社の存在が、気がかりの対象になった。
最終的に母さんが個人で依頼した先は、自宅の登記など事務手続き面を任せられる有資格者だけだった。だけど会社の事はほとんど全て、佐久間さんをはじめとする会社の人と、会社の顧問弁護士と、あとは会社の契約税理士がやってくれた。
母さんの役割の大半は、書類のサインに、押印に。そっちの手続きにしばらく追われていたから、父さんの個人的な資産を調査するどころではなかった。
会社の弁護士と名乗った男性からは、会社の負債に関して父さんが負っている連帯保証はないと聞かされていた。それで安心したのもあったのだと思う。相続人は母さんと俺の二人だけ。ならば他にゴタつく理由もない。本当だったら。
その時点では桧山もまだギリギリで銀行への返済を続けていたようだから、俺達の所へ銀行からの催告が来たのはもっと後になってから。そこではじめて、父さんに個人的な連帯保証債務があったのだと知った。
「お前の母親は誰にも頼ろうとしなかった。俺らみてえな職業の人間にも、周りにいる知人の一人にさえ」
最初から最後まで頼ったのはただ一人。向こうからやって来た佐久間さんだけ。その人に、ただただ受動的に。その後で起こったそれ以外を、母さんは全部、自分一人で背負ってしまった。
なんでだろう。なぜ一人で背負った。どうしてああも頑なに、家族の事に、自分の現状に、他人を立ち入らせたがらなかった。
「社会のせいにも時代のせいにもしようと思えばいくらでもできるが、どんな無知でも助けを求める事くらいならできたはずだろ。でもそれをしなかった。おそらくは最善の選択肢を除外して、一人で抱え込んで対処した結果に起こったのがお前のあの状況だ」
比内さんの静かな言葉の、その全てが突き刺さってくる。あの頃母さんが一人で抱えようとしたのは。その理由を、今の俺なら、分かると思う。
恥ずかしかったんだ。俺と同じで、母さんもああなった事が恥ずかしかった。借金なんてあるのは恥ずかしい。対処できなかったのは恥ずかしい。恥ずかしい状況なんて、他人には見られたくない。
父さんが死んですぐの頃、母さんは何があっても俺に負担がかからないようにした。家を移り住むことも拒否した。俺が母さんを手伝うのも拒んだ。あなたは自分のやりたいことをやりなさい。そう言って、そのままの暮らしを守った。
母さんが守りたかったのはなんだったんだろう。俺だろうか。それとも、プライドだろうか。考えたことがないわけじゃない。だってどっちだろうと、俺の母さんだった。
俺の母さんは聡明な人だ。頭のいい人。強い人。だから母さんならきっと間違ったことはしない。間違えないと、思っていたかった。
そんなことない。違った。俺も目を逸らしていた。俺こそが間違っていた。
大人でも人の親でも間違う事はいくらでもある。父さんの姿を見ていれば、それくらいガキの俺にも理解できていたはずだった。
でも俺には母さんしかいないから、母さんは、せめて母さんだけは、絶対で、あってほしかった。
比内さんが聞かせてくるのは正論だ。俺が打ち砕ける隙はどこにもない。
相続放棄していればこんな事にはならなかった。どこかしら公的な機関を頼っていれば全てを毟り取られる事はなかった。散々に事態を悪い方向に転落させて、最後の最後で俺を裏切って自分だけ男の所に逃げた。
「…………」
息が詰まる。吐き気がする。
逃げたくも、なるんじゃないのか。だって好きじゃない家にずっと尽くしてきた。あれだけ尽くしても散々な扱いを受けてきた。その挙句に借金だけ残された。自由になったと思ったら、途端にだ。
逃げたくなるのも当然だ。そのせいであれだけ毎日ボロボロになって泣いていたのだから。
母さんはたまたま母親という立場を背負わされていたにすぎない、一人の女の人なのだから。
「母さんは悪くない」
はっとした。言ったのは俺じゃなかった。
俺が言いたい事を見透かしたように、比内さんが淡々と言った。
「……え」
「そう思いたいんだろ。今でもまだそうだ。仕方なかったと」
「…………」
「残念だがそれは正解じゃねえ」
見透かされ、そして打ち砕かれた。言い返せない正論を突き付けられて、反対側の逃げ道まで塞がれた。
途端に行き場を失くした俺を、この人は真っすぐ前から見てくる。
「助けてくれと言えねえ人間は多い。困窮している奴ほどそうだ。だが何を捨て置いてでも、言わなきゃならねえときがある」
ここに俺が来た時もそうだった。比内さんはあの時も今と同じ顔をして、俺に言えと言った。助けてくれと。
「お前がああなったのは母親の責任だ。全てとは言わなくても、あそこまでの状況に追い込んだのはお前を捨てたあの女だ」
捨てたと、比内さんにはっきり言われたのは、これが二度目。金を持って一人で逃げた母さんを、俺はあの時だって。まだ。
「どうだ。母親を恨むだけの根拠なら十分にそろったぞ」
目を背けていた。現実を見ないようにした。けど本当は知っていた。母さんは、帰ってこない。
「恨んだところで何かが変わるわけじゃない。だが親を恨んじゃいけねえ決まりも今のこの国にはない」
「…………」
「誰かを恨むのも罵りたくなるのもそれはただ俺達が人間だってだけの話だ。愛情深い神サマではないし慈悲深い仏サマとも違う。高尚でご立派なお考えしか持ってねえってんならな、そいつはもう人間じゃねえよ」
この人は色んな人間を見てきたはずだ。他人から何かをされた人も、他人を憎んでいる人も、意地汚い人も、不満ばかりの人も、お金が欲しい人も、嫌いで嫌いでたまらない相手を蹴落としたくて憤っている人も。
現実に晒され、それを受け入れて生きている。だけど誰よりも理想主義者だ。
それが比内弁護士という人。比内冬弥という一人の人間。こんなガキでも見捨てない人だから、適当な気休めだけは言わない。
「恨んでいい。ただしそこから目を逸らすな。恨みを持ったテメエを認めろ」
前からじっと射抜かれる。この人は目の前にいる人をちゃんと見る。
立ち尽くす俺は視線を逸らせないのか、それとも逸らさずにいるのだろうか。最初は怖いだけだったこの人の目が、綺麗なハシバミ色をしているのを今の俺はよく知っている。
「いつまでもつまらねえ過去に囚われたまま生きたくねえならな」
ポンッと、大きな手のひらが頭に乗った。
それをやんわり離しながら、比内さんが向かうのは冷蔵庫。ガサゴソと食材を出してくる。
「……あの……」
「腹減ってんだよ。さっさと作ってさっさと食うぞ」
「…………」
さっさと作るという割に、調理台に用意されていくのはバットに、卵に、小麦粉に。見るからに手間のかかりそうな。
「……何を……」
「今夜は天丼だ」
晩メシ作れと比内さんは言った。献立は、比内さんが今決めた。
たった今知らされた今夜のメニューは、二人で作ることになった。
この大人はいつだって手際がいい。今もまた俺の目の前で、テキパキとてんぷらの準備が始まる。
野菜切れと静かに言われ、使いかけの玉ねぎを手に取った。洗って、包丁とまな板を用意して、半月にサックリ刃を入れる。冷えているから切っても、目には染みない。
「…………ありがとうございます」
いまだに瞼はやや熱っぽくて、でもすでに涙は枯れている。出るものなんてもう何もないけど、比内さんは俺との約束を果たす。
この人は、何も見なかった事にしてくれた。
「エビはねえけどな」
あまりに些細な約束だろうと律儀に果たす比内さんは、俺のそばに、いてくれる。
はじめてこの家で天丼を作った。エビ天の代わりにトリ天になった。天丼のタレは比内さんの力作。しかしこの部屋に天丼は、思った通り似合わなかった。
あり合わせの野菜と冷凍鶏肉を衣で包んで揚げて仕上げた。エビ不在の家庭的な天丼は、泣きたくなるほど、美味かった。
なぜか書斎にはいかなかった。ずっと隣にいてくれるから、了承も何も得ていないまま勝手に無駄話を始めている。
「俺達を騙したあの男のことは許せないけど、本当にもうそれだけなんです。腹が立つ以上は何もない」
ジャコジャコ洗うのを止めた。手のひらには米の粒がくっついてくる。
「なのに母さんのことは……」
白く濁った水を、ジャーッと捨てた。
「……恨みそうになる」
なんでもない人に貶められるのと、信じていた人に裏切られるのとでは、重みが違う。母さんは後者だ。
守っているつもりになっていた。俺が耐えれば母さんを守れる。もう泣かせないで済む。あんなボロボロには、もう。
そんな心境だけがまだ、唯一の支えだったのに。
バカだった。そんなんじゃなかった。辛うじて残っていた金を持ち去り、息子を身代わりにするような人だ。その行動が全てだったのに、信じていた。まだどこかで。
俺には母さんしかいなかった。母さんのためだと思ってさえいれば、身代わりにだってなり続けていられた。それなのに、あれだけ守りたかったはずが、裏切られたと知った途端に、過ぎった、恨みが。憎んだ。何よりも大事だったはずの母さんを。
それを抑え付けておけない俺に、比内さんは静かに返した。
「恨んでねえと思い込むよりマシだ」
「…………」
どうして佐久間さんの家に行ったのか。経緯として考えられるパターンはいくつか。
初めて会った時からずっと二人は会っていた。だがこれは可能性が薄い。もしもそうなら母さんは一時的にでも、俺にあそこまで依存しなかっただろう。放っておいたらどうにかなってしまうような、そういう執着的な雰囲気があった。だからなるべく、そばにいた。
あり得るとすれば、闇金の取り立てに苦しんでいた真っただ中の頃。あの辺りのどこかで再会した。しかしそれは俺を置いて逃げた後だろうか、前だろうか。逃げた後に偶然、再会したのか。それとも、再会した二人が計画を立てて、俺を置いて逃げたのか。
あの頃の母さんはもうボロボロだった。立ち上がれないような状況の中で、かつて手を貸してくれた人と再会したら、何を思い、どう行動するだろう。母さんはよく泣きながら言っていた。ごめんなさい。あれは、どういう意味だ。
どんな意味だったかは分からない。どんな意味でも、もう今さらだ。二人はいつからだったのか。それだって、知ったところでどうにもならない。
いつからだろうと、どんな理由だろうと、少しでも気を抜けば恨み始める。恨んで憎んで、父さんにしたのと同じように、軽蔑してしまうかもしれない。
釜の中に移した米に水を浸して、炊飯器にセットした。電源を入れて炊飯ボタンを押す。便利な家電の前で立ち尽くす。
難しい事なんて何もない。ボタン一個でなんでもできる。人間もこれくらい、単純なつくりだったらよかった。
「もう一つだけ、言っていなかったことがある」
米をセットしたところでとうとう黙り込んだ俺の後ろで、比内さんはいくらか控えめに言った。しかし俺が振り向けば、そこから先の口調に迷いはない。
「今度こそ本当にこれが最後だ。俺はお前の母親が何をしたか知ってる」
その言い方に、思わず眉間には僅かな力が入った。
何をしたかも何もない。母さんは何もしなかった。しかしそこまで考えて、思いつく。俺の目の前にいるのは日々法律を扱っている人だ。
母さんは何もしないという事を、した。
「お前も知っておくべきだ」
「……今さら……」
「そうだな」
「…………」
「どれもこれも、もしもの話だ。これ以上に無意味な話もねえが、あの状況を回避する手立てならあった。お前が母親を庇う理由を俺は潰せる」
できるだろう。比内さんなら。だってこの人は弁護士だ。
必要最低限しか言ったりしたりしないけど、俺に必要だと判断したなら、絶対に言う人だ。
「闇金はもとより、お前ら親子はそもそもどこにも金を返す必要なんてなかった。適切な対処さえ取れていればな」
「……相続放棄の事ですか」
「それもある」
「……でもあの時は、もうとっくに……株の売却も……」
「ああ。だからこれはもしもの話だ」
「…………」
必要がないのであれば、最初からそんな前置きもしない。
「そもそも相続放棄したからと言って借金が消えてなくなるわけじゃない。だからこそ仮に放棄していた場合、間には弁護士が入った」
「弁護士……」
「二人しかいねえ相続人が二人とも相続を放棄すれば相続財産清算人が必要になる。家裁が清算人として選任するのは一般的に弁護士だ。その後でたとえ闇金がお前らに直接何かを言ってきたとしても、相談できる相手にはなっていたと思う」
「…………」
「最初の時点で専門家を名乗る人間が出てきていれば、多少なりとも状況は変わってただろうよ」
母さんだってもしも借金を知っていれば、相続放棄なり限定承認なり必要な手続きをしただろう。
でもしなかった。知らなかったから。第一に母さんは相続のことより、会社をどうするかが不安だったと思う。
そんな時に葬儀から少しすると佐久間さんが現れて、父さんが持っていた株式は全て会社に買い取ってもらう事になった。佐久間さんの手助けを得ながらも、母さんがどこかホッとした顔をしていたのは覚えている。だからあれが財産の処分行為になるとかそういう意識はしていなかった。ただ少し、肩の荷が下りただけで。
熟慮期間である三ヵ月を過ぎていようがいまいが、株式を処分した時点で相続は放棄できなくなる可能性が高い。比内さんに説明されて俺はこれを後から知ったが、原則としてはそうなるらしい。相続財産の一部でも処分すれば単純承認したものとみなされる。
状況を整理するためのあれこれを、比内さんが最初に俺に確認した。
だから俺達が借金を相続するまでの流れは比内さんだってもう十分に把握している。それを今ここでわざわざ、またしても持ち出してきた。
「それでもこの件は確かに、全ての責任がお前の母親にあるとは言えない。相続放棄なんてほとんどやる奴はいねえからな。真っ先に思いつく方が珍しい」
「なら…」
「言っただろ。手立てはいくつかある。相続した後だとしても、事態を回避する機会ならあった」
俺の言葉に被せるようにして続ける。比内さんが言うのは、必要な事だけ。
「お前もよく分かってる通り、家族が死んで財産を相続したなら基本的には負債もそのまま引き継いだことになる。ただしこれは原則だ。お前らは連帯保証の事実をその時まで全く知らなかった。そうだろ」
「……はい」
「借金があると知った時から三ヵ月以内なら申し出ができた。即座に弁護士でも頼って家裁に申述していれば何らかの検討はされていたはずだ。少なくとも何もかもが降っかかってくることはなかった。闇金なんてのはもってのほかだろ」
俺達を追い詰めたのは何か。父さんの死ではない。銀行からの催告でもない。
公正な誰かが間にいれば、俺達を食い物にはできなかったはずの奴らだ。
「何よりもな、非上場の小規模会社とはいえお前の父親は会社の代表だった。その後の手続きを一人でやるには限界があって当然だ」
「…………」
「自分の夫にそういう肩書があるなら、何かしら専門の人間の協力は必要になる。財産の調査も含めてな」
母さんだってそれは分かっていた。だから真っ先に会社の存在が、気がかりの対象になった。
最終的に母さんが個人で依頼した先は、自宅の登記など事務手続き面を任せられる有資格者だけだった。だけど会社の事はほとんど全て、佐久間さんをはじめとする会社の人と、会社の顧問弁護士と、あとは会社の契約税理士がやってくれた。
母さんの役割の大半は、書類のサインに、押印に。そっちの手続きにしばらく追われていたから、父さんの個人的な資産を調査するどころではなかった。
会社の弁護士と名乗った男性からは、会社の負債に関して父さんが負っている連帯保証はないと聞かされていた。それで安心したのもあったのだと思う。相続人は母さんと俺の二人だけ。ならば他にゴタつく理由もない。本当だったら。
その時点では桧山もまだギリギリで銀行への返済を続けていたようだから、俺達の所へ銀行からの催告が来たのはもっと後になってから。そこではじめて、父さんに個人的な連帯保証債務があったのだと知った。
「お前の母親は誰にも頼ろうとしなかった。俺らみてえな職業の人間にも、周りにいる知人の一人にさえ」
最初から最後まで頼ったのはただ一人。向こうからやって来た佐久間さんだけ。その人に、ただただ受動的に。その後で起こったそれ以外を、母さんは全部、自分一人で背負ってしまった。
なんでだろう。なぜ一人で背負った。どうしてああも頑なに、家族の事に、自分の現状に、他人を立ち入らせたがらなかった。
「社会のせいにも時代のせいにもしようと思えばいくらでもできるが、どんな無知でも助けを求める事くらいならできたはずだろ。でもそれをしなかった。おそらくは最善の選択肢を除外して、一人で抱え込んで対処した結果に起こったのがお前のあの状況だ」
比内さんの静かな言葉の、その全てが突き刺さってくる。あの頃母さんが一人で抱えようとしたのは。その理由を、今の俺なら、分かると思う。
恥ずかしかったんだ。俺と同じで、母さんもああなった事が恥ずかしかった。借金なんてあるのは恥ずかしい。対処できなかったのは恥ずかしい。恥ずかしい状況なんて、他人には見られたくない。
父さんが死んですぐの頃、母さんは何があっても俺に負担がかからないようにした。家を移り住むことも拒否した。俺が母さんを手伝うのも拒んだ。あなたは自分のやりたいことをやりなさい。そう言って、そのままの暮らしを守った。
母さんが守りたかったのはなんだったんだろう。俺だろうか。それとも、プライドだろうか。考えたことがないわけじゃない。だってどっちだろうと、俺の母さんだった。
俺の母さんは聡明な人だ。頭のいい人。強い人。だから母さんならきっと間違ったことはしない。間違えないと、思っていたかった。
そんなことない。違った。俺も目を逸らしていた。俺こそが間違っていた。
大人でも人の親でも間違う事はいくらでもある。父さんの姿を見ていれば、それくらいガキの俺にも理解できていたはずだった。
でも俺には母さんしかいないから、母さんは、せめて母さんだけは、絶対で、あってほしかった。
比内さんが聞かせてくるのは正論だ。俺が打ち砕ける隙はどこにもない。
相続放棄していればこんな事にはならなかった。どこかしら公的な機関を頼っていれば全てを毟り取られる事はなかった。散々に事態を悪い方向に転落させて、最後の最後で俺を裏切って自分だけ男の所に逃げた。
「…………」
息が詰まる。吐き気がする。
逃げたくも、なるんじゃないのか。だって好きじゃない家にずっと尽くしてきた。あれだけ尽くしても散々な扱いを受けてきた。その挙句に借金だけ残された。自由になったと思ったら、途端にだ。
逃げたくなるのも当然だ。そのせいであれだけ毎日ボロボロになって泣いていたのだから。
母さんはたまたま母親という立場を背負わされていたにすぎない、一人の女の人なのだから。
「母さんは悪くない」
はっとした。言ったのは俺じゃなかった。
俺が言いたい事を見透かしたように、比内さんが淡々と言った。
「……え」
「そう思いたいんだろ。今でもまだそうだ。仕方なかったと」
「…………」
「残念だがそれは正解じゃねえ」
見透かされ、そして打ち砕かれた。言い返せない正論を突き付けられて、反対側の逃げ道まで塞がれた。
途端に行き場を失くした俺を、この人は真っすぐ前から見てくる。
「助けてくれと言えねえ人間は多い。困窮している奴ほどそうだ。だが何を捨て置いてでも、言わなきゃならねえときがある」
ここに俺が来た時もそうだった。比内さんはあの時も今と同じ顔をして、俺に言えと言った。助けてくれと。
「お前がああなったのは母親の責任だ。全てとは言わなくても、あそこまでの状況に追い込んだのはお前を捨てたあの女だ」
捨てたと、比内さんにはっきり言われたのは、これが二度目。金を持って一人で逃げた母さんを、俺はあの時だって。まだ。
「どうだ。母親を恨むだけの根拠なら十分にそろったぞ」
目を背けていた。現実を見ないようにした。けど本当は知っていた。母さんは、帰ってこない。
「恨んだところで何かが変わるわけじゃない。だが親を恨んじゃいけねえ決まりも今のこの国にはない」
「…………」
「誰かを恨むのも罵りたくなるのもそれはただ俺達が人間だってだけの話だ。愛情深い神サマではないし慈悲深い仏サマとも違う。高尚でご立派なお考えしか持ってねえってんならな、そいつはもう人間じゃねえよ」
この人は色んな人間を見てきたはずだ。他人から何かをされた人も、他人を憎んでいる人も、意地汚い人も、不満ばかりの人も、お金が欲しい人も、嫌いで嫌いでたまらない相手を蹴落としたくて憤っている人も。
現実に晒され、それを受け入れて生きている。だけど誰よりも理想主義者だ。
それが比内弁護士という人。比内冬弥という一人の人間。こんなガキでも見捨てない人だから、適当な気休めだけは言わない。
「恨んでいい。ただしそこから目を逸らすな。恨みを持ったテメエを認めろ」
前からじっと射抜かれる。この人は目の前にいる人をちゃんと見る。
立ち尽くす俺は視線を逸らせないのか、それとも逸らさずにいるのだろうか。最初は怖いだけだったこの人の目が、綺麗なハシバミ色をしているのを今の俺はよく知っている。
「いつまでもつまらねえ過去に囚われたまま生きたくねえならな」
ポンッと、大きな手のひらが頭に乗った。
それをやんわり離しながら、比内さんが向かうのは冷蔵庫。ガサゴソと食材を出してくる。
「……あの……」
「腹減ってんだよ。さっさと作ってさっさと食うぞ」
「…………」
さっさと作るという割に、調理台に用意されていくのはバットに、卵に、小麦粉に。見るからに手間のかかりそうな。
「……何を……」
「今夜は天丼だ」
晩メシ作れと比内さんは言った。献立は、比内さんが今決めた。
たった今知らされた今夜のメニューは、二人で作ることになった。
この大人はいつだって手際がいい。今もまた俺の目の前で、テキパキとてんぷらの準備が始まる。
野菜切れと静かに言われ、使いかけの玉ねぎを手に取った。洗って、包丁とまな板を用意して、半月にサックリ刃を入れる。冷えているから切っても、目には染みない。
「…………ありがとうございます」
いまだに瞼はやや熱っぽくて、でもすでに涙は枯れている。出るものなんてもう何もないけど、比内さんは俺との約束を果たす。
この人は、何も見なかった事にしてくれた。
「エビはねえけどな」
あまりに些細な約束だろうと律儀に果たす比内さんは、俺のそばに、いてくれる。
はじめてこの家で天丼を作った。エビ天の代わりにトリ天になった。天丼のタレは比内さんの力作。しかしこの部屋に天丼は、思った通り似合わなかった。
あり合わせの野菜と冷凍鶏肉を衣で包んで揚げて仕上げた。エビ不在の家庭的な天丼は、泣きたくなるほど、美味かった。
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キヨフミには最近悩みがあった。3歳児と5歳児を抱えての家事と諸々、加えて勉強。父はとうになく、母はいっさい頼りにならず、妹は受験真っ最中だ。この先俺が生き残るには…そうだ、「泡影堂」にいこう。
高校生×漢方医の先生の話をメインに、二人に関わる人々の話を閑話で書いていく予定です。
メイン2章、閑話1章の順で進めていきます。恋愛は非常にゆっくりです。
俺以外美形なバンドメンバー、なぜか全員俺のことが好き
toki
BL
美形揃いのバンドメンバーの中で唯一平凡な主人公・神崎。しかし突然メンバー全員から告白されてしまった!
※美形×平凡、総受けものです。激重美形バンドマン3人に平凡くんが愛されまくるお話。
pixiv/ムーンライトノベルズでも同タイトルで投稿しています。
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感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_
Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109
素敵な表紙お借りしました!
https://www.pixiv.net/artworks/100148872
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