たとえクソガキと罵られても

わこ

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59.真実の所望Ⅳ

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 帰宅してから途中にしてあった洗い物を再開させた。比内さんは書斎に行ったから、今日だってきっと暇ではなかった。
 自分のために時間を使ってくれる誰かがいるのは当然じゃない。俺はたまたま運に恵まれ、そういう大人達に囲まれている。そんな大人の比内さんとは昼食の時もろくに目を合わせられなかった。まだどこか内心はぼんやりとして、ついさっき起こった出来事が画面越しのフィクションみたいに思えた。

 死んだと思っていた男は生きていた。この先あの男がどうなろうと俺の知った事ではないが、比内さんがどうして今日、俺をあの場に連れて行ったのかは気になる。



「……あの人が生きてるってことは、最初から気づいてたんですか」

 ようやく聞けたのは夕食の時だった。
 目の前の席から寄越された視線。俺を一瞥し、比内さんは箸を止めた。

「底辺の半グレ集団とは言え、あの手の連中は損得で動く。お前ら親子から金を毟り取る盾にしてたのはほとんどが違法な利息分だ。人一人この世から葬り去るほどの大層なリスクを冒すにしては、元金の額が小さすぎた」

 そう見当をつけて、ずっと探してくれていたのか。それで系列を含む組織構造まで調べたのか。だからあの頃、父さんのことも聞いてきたのか。
 最初の時に比内さんには証拠となる全てを提示した。そもそもがめちゃくちゃな金利だったから計算も何もなかったのだろうが、推定できる範囲内でおおよその元金も算出されていた。
 全部意味があってした事だったんだ。必要な事だけを話すこの大人は、必要のない事ならしない。

 ならばどこまでが本心だったのだろう。比内さんが桧山に対して、事務所で言っていたことは。どこまでがただの脅しで、どこからは辞さない覚悟だったのか。
 それは明確には分からないけれど、あの男の家族のことだって調べ上げていた。逃がすつもりだけはなかったはずだ。中川さんまであそこにいたのは、なんとしても逃がさないための、措置だ。

「こんなに色々してくれたのに……ごめんなさい……俺……」

 桧山を連れて来た男性も、中川さんも、比内さんの頼みとは言え俺のために時間を使った。色んな人の時間を借りたくせして、復讐さえできない俺は腰抜けだ。

 求められなかった。どうしても。これ以上はもう、同じにだけはなりたくなかった。
 あの男の家族を俺達と同じ目にあわせる。名前も顔も知らない親子に、そんなことは望めなかった。その人たちに何かをしたところで何も変わらないと知っている。

 意味のない事をしたくないのは俺の意思だ。しかし帰りの車の中でも今も、比内さんは俺を責めない。

「言っただろ。この件に関して俺はお前の代理人だ。お前の望むとおりにやる」
「…………」

 俺が何を望んでも、この人は叶えようとしてくれた。あれをただの脅しで済ませるかどうか、その決定権は俺にあった。

 顔はいつの間にか下がっていた。夕食の乗った皿に目が行く。今夜は肉じゃが。こういうのも、母さんのやる事を見て、教わりながら手伝って、覚えた。
 俺はどうするべきだったんだろう。自分のために俺はああした。桧山の家族を巻き込んでいたら、少なくとも、あの男は決壊したはず。立ち直れなくなっただろう。
 俺にとってそれは、無価値だ。

「……ここに母さんがいなくて良かった」

 あんな男に興味はない。俺が欲しいのはそんなものではなかった。返せと言ってももう無理だけど、それでももう母さんは、泣かないで済む。

「……なぜ」
「いくらなんでもショックだったと思います。あんな話、聞かされてたら」
「…………」

 止めていただけだった箸を、比内さんは音を立てずに置いた。

「……お前にはもう一つ話しておかなきゃならねえことがある」

 その、言い方。思わず顔を上げている。
 パチリと視線が絡んでも比内さんは目を逸らさないが、その顔つきは、なんだ。珍しい。

「お前の母親の居所が分かった」
「……え?」
「いや……すまない。こっちはとっくに分かってた。だが黙っていた。俺の勝手な判断だ」
「…………」

 初めて聞く。なにも、知らなかった。そりゃそうだ。だって、黙っていたって。比内さんが。

「……どこに……」

 質問できることと言ったらこれくらい。最初に頭に浮かび、同時に最も聞きたい事をそのまま言葉にすれば、比内さんは一拍置いた。その質問は、問いかけで返された。

「佐久間という名前に心当たりはあるか」
「え……」
「お前も会っているかもしれない」
「え、いや……いえ……」

 知らない。動揺とともに首を左右に振ると、比内さんがそこで腰を上げた。リビングのローテーブルまで行って、取ってきたのはスマホ。
 それを見せられた。見せられたというか、手渡された。普段ならそんな事はしないはずだが、スマホを。

 躊躇いつつも受け取って、表示されているのが画像だと分かる。男性の、証明写真のような。
 その写真の顔を見て、昔の事を徐々に、思い起こした。

「……あ……」

 この顔。知っている。佐久間さん。そうだ。
 父さんの会社の創業メンバーの一人だ。確か、財務活動の統括を任されていたとか。詳しい事は知らないが、そういう人。

 初めてこの人に会ったのは父さんの葬式だった。俺は母さんの隣にいて、そこで一般的な、儀礼的な挨拶を交わした。その時はそんな程度のやり取りしかなかったが、しかしそれからまた少しして、何度かうちに訪ねてきた。
 父さんが死んだ。でも会社は残る。その会社には法人格があるから、会社そのものもその資産も相続の対象ではない。母さんにはもちろん父さんの仕事を引き継ぐつもりなんてなくて、だから父さんが所有していた会社の株式は、その会社に買い取ってもらった。

 元々は会社からの申し入れであったそうだ。
 株式を全て買い取らせてほしい。相続が発生した場合の会社定款を携えながらそれを伝えに来たのが佐久間さんで、会社が契約している弁護士や税理士とともにやって来た。それを実行するために手を貸してくれたのもこの人だった。

 何から何までサポートしてくれた。母さんがそう言っていたのだけは覚えている。
 そういう事があったという話だけなら、比内さんにも以前にしていた。

 けれど、俺が知っているのはそこまで。あの時は銀行からの通知が来るなどと思ってもいないような頃だった。手続きが済んだ後は佐久間さんと会う事もなかった。母さんだって同じだったはずだ。
 だから今その名前を聞かされても、すぐには思い出せなかった。比内さんにも出来事を伝えただけで、この人の名前を出したことはない。
 俺と母さんにはほとんど接点のないはずの人。その人の情報を比内さんは、持っていた。

「この人が……何か……」
「もう一つのメモの方見てみろ」
「…………」

 言われて素直にスワイプさせる。この画像のほかに、詳細に記してあった。箇条書きと、簡潔な文章で。

 佐久間博和。今年小学校に入学した女の子がいる。二歳下の男の子も。奥さんとは二年前に離婚。その女性は一人で家を出た。
 そこからしばらくした後に、それまで住んでいた家から父と子三人で引っ越した。そこに移り住む前の住所も細かく記載されていた。元奥さんと暮らしていたその住所、市名、町名には、見覚えがある。

 知っていた。見覚えも聞き覚えもある。俺と母さんが住んでいたあのアパートの、すぐ隣町。

「…………」

 比内さんはこれをメモと言ったが、そんなどころではない。これは、調査資料だ。
 今暮らしている一軒家の、写真のデータもここにある。やはり住所の詳細も。ここから見ればずいぶんと、遠く離れているその場所。

「そこにいる」
「え……」
「お前の母親が今いる場所だ。この男の家に住んでる」
「…………」

 言い直されても分からない。だけど、なんでとは、聞けない。
 どうしてここに。それを聞いたら、比内さんは答えるだろう。それを自分で聞いてしまったら、この資料の意味も何もかもを受け入れなければならなくなる。

「事務所に桧山を連れて来た男がいただろ」
「……はい……」
「これは全てあいつが調べた。あの男からの情報なら確かだ」
「…………」

 桧山を連れてきて、桧山を連れて行った男性。誰だか知らないが、全部を知っている雰囲気だった。あの人が、これも調べた。

 佐久間さん。父さんが始めたあの会社はすでに辞めているようだ。今は別の会社の役員をしている。
 その都合で住む場所も変えた。住処を変えたその場所に、母さんも。一緒に。

「ここに……」
「ああ」

 佐久間さんが引っ越した時期は、母さんが出ていった時期と重なる。

「…………」

 なんで。どうして。だって、関わりなんてなかったはずなのに。
 会社の株式を手放した。それで終わった。その時点では特に親しい様子ではなかったと思う。あの後も会っていたような話は聞いていない。そんな様子も感じられなかったし、おそらくはそれが事実だ。

 なら、いつだ。いつから。
 俺と母さんが移り住んだボロアパートの、隣町に佐久間さんはいた。その頃、だろうか。偶然会ったのか。母さんは駅前のスーパーにパートで行っていた。そこで、あるいはその付近で再会する可能性も、ゼロではない。


 力なくスマホを比内さんに返した。これ以上は見ていられない。比内さんは何も言わず画面を落とし、夕食の席に戻った。
 こんなにも味のしない肉じゃがを、果たして俺は作っただろうか。
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