たとえクソガキと罵られても

わこ

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57.真実の所望Ⅱ

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 そうやってボソボソと、この男は話し始めた。

 上からは比内さんに見下ろされ、顔を上げずに上げられず、それで時折俺の方を見ては、逃げるようにさっと逸らしていく。
 床を見ながら、この人は喋っていた。何が、どうして、こうなったのか。

「俺が融資に手間取っていることを知ったあいつは、笑ったよ。心底嬉しそうだった。お前は昔からそうだったって……そう言って笑ったんだ」

 父さんがそうしたらしい。銀行の融資を取り付ける前の出来事。そしてその後の事も、この人は途切れ途切れに話した。それを俺達は黙って聞いた。黙る事で比内さんが、喋らせていた。
 連帯保証までの経緯はおおよそで、比内さんが推測していた通りだった。

「藤波……あいつは……いつも俺を下に見ていた。学生の頃からずっとそうだった。人を見下すのが好きなんだよ。いるだろ、そういう奴、世の中には沢山。あいつは……そういう人種だったんだ」

 恨み言を吐き連ね、床の上についた手には思わず感情が籠ったのだろう。グッと、両手全ての指に力が入ったのはここからも見えた。

「上から目線で言ってきた。保証人になってやってもいいって。お前一人じゃどうせ無駄だとまで……お前みたいのには、誰も貸してくれないからと……それで、知り合いがいるからと言って、俺を銀行に連れて行った。気分の良さそうな……、顔をっ、していた……そうやってまた俺を見下した」

 この男の、この、言い方。死んでもなお、こうして恨んでいる人がいる。死んだ後に自分の家族が酷い目に遭う原因を作った男に、心の底から憎まれている。
 見栄っ張りで、いい格好をしたがる。そんな父親の姿を俺は知っている。だから簡単に想像できた。余裕のある顔をして、心地よさげに連帯保証人を引き受けたのだろう。そうなるよう、自ら買って出た。

 しかしそこから数年後、唐突にそれは起きたそうだ。得意にしてもらっていた会社の一つが突如として出した不渡り。状況はどんどん転落していき、売掛金を回収できなくなったことで資金繰りは一気に悪化。あらゆる計画が崩れ、歯車が狂った。
 経営状況は一瞬で最悪の状態にまで陥った。資金が不足していた元の状態よりも遥かに取り返しのつかない事態と成り果て、倒産寸前の状況まで追い詰められた。

「もう、破産は免れないような状況になっていた……そんな時だ……本当に、偶然、これは偶然で……あいつと……会った……」

 あいつ。この男は続けて言った。中学時代の友人だと。その友人に居酒屋で会った。
 中学の同級生と不意に再会したその時、気づいたのは向こうだが、それは本当に偶然だったらしい。流れで同じテーブルについてお互いの近況を話し、そいつが金融業にいることを知った。

 酔っていたのもあってついつい弱音を吐き、ついでに愚痴を零し、連帯保証人になってくれた男の話をしたそうだ。そいつのことが心底、嫌いだと。
 それを聞き、その男は言ったらしい。酒を飲みながら、嘲笑うかのように。

「どうせならそいつも、道連れにしてやれ……そう言われた……」

 世の中ってのはとことん不公平にできてる。運の良さを実力だと勘違いしてる金持ちなんてそこら中にのさばってんじゃねえか。たまたま金を手にしただけで付け上がってるような連中だよ。お前が嫌いなそいつもそうだろ。

「……お前がいつも不幸なのは、他の誰かが、幸運だからだって……」

 運に恵まれただけのその男から金をむしり取ってやれ。いいじゃねえか。いざとなりゃ肩代わりしてやろうってくらい気前のいい男なんだろ。
 だったらいっそのこと根こそぎもらっちまえよ。会社は失うかもしれねえが、代わりに大金が手に入る。人生なんて金さえあればやり直すのも楽勝だよ。なあ、山分けしよう。運良く人生勝ってる奴から、幸せを分けてもらって何が悪い。

 そう話を持ち掛けられた。この男は気まずそうな顔でそう語った。
 その友人の勤め先だという、事務所に行ったのは翌日だった。

「良くない会社だというのは行かなくても気づいていた。だけどこっちも切羽詰まってたんだ。それでつい……あいつらの話に乗って……」

 形だけだよ。一応はな。
 そう言われ、契約書に署名して、消費貸借契約の外観だけ作ったのだという。外観を実際上にするために、本当に口座には振り込みもされた。

「頼みがあると言って、藤波を呼び出した。そこで最初に土下座まで、した……それがよっぽど……あいつのお気に召したらしい」

 どこかまたオドオドとしてここまで喋っていたこの男だが、そこで再び指先にだけグッと、強く力が込められた。

「あいつを……散々おだてた。銀行からの借り入れのおかげで軌道に乗ったことにして、馬鹿みたいに持ち上げた。安定しているように見える会計帳簿まで作って、嘘の資料でしかないキャッシュフローも、全部、あいつらが用意して……そうやって健全だと信じ込ませたんだ……事業拡大とかなんとか、そんなのを適当に並べ立てて、連帯保証書に……署名させた」

 話を、この喋り方を、見て、聞いていれば自ずと分かる。この男はきっと気が小さい。サインさせたその当時も気が気ではなかったのだろう。
 思い出しながら語る今ですら、恥辱の一方で怯えたように、その時の緊張感に、耐えられないような顔をして。

「俺が一番、びっくりしたよ……簡単に騙せた。あんなにもあっさり……騙す以前に、偽装した資料も何もあいつはロクに見もしなかった。誰よりも疑り深いくせに見栄の方がよっぽど強いんだ。昔から俺の前では特にそうだった。あそこまで上手くいくなんて俺だって思っていなかったのに……あいつはまた笑って、名前を書いた」

 元金以外は詳細を見もせず、契約内容を読むこともなく、サインしたらしい。簡単に。形式的で上辺だけの保証契約とは訳が違う。連帯保証契約だ。

 そんな事で優位性を示した。お前と違って自分にはこれだけの余裕があるのだと、見せつけるかのように。
 この男は怯えながらも苦々しくそう言った。この男が言うその、想像が、どうしたって俺にもできてしまう。
 父さんは本当にずっとそうだった。人より上に、いたい人だった。

「憎らしかった……藤波が、とにかく。昔からずっと。だからあいつから金を奪ってやれれば、それでいいと思ってた……」

 チラリと、その目が俺を見上げた。後ろめたいような顔をして、その視線はまたしても下げられた。

「それがまさか、こんなことになるなんて……あのタイミングであいつが死ぬなんて……」

 個人資産を切り崩しながら銀行への返済を続けてきたが、会社の倒産は回避できなかった。この人はあらゆるものを失った。
 それとほぼ同時期、その少し前に、連帯保証人の父さんが突如死んだ。何があったのか、何が起きていたのか、一切知らないまま俺達が、全部を相続して引き継いだ。

 今になって聞かされているこれは、この男の目から見たにすぎない事実だ。しかしそれが、実際に起きた出来事。驕り高ぶっていた父親は、クズみたいなこの男に騙された。
 微かに震える男を見下げ、再び口を開いたのは比内さんだ。

「いつだったかお前の学校にまで脅迫しに来たクソ野郎がいただろ。この男のオトモダチはあいつだ」
「ッキミたちを苦しめたかったわけじゃないんだ! それだけはどうか、どうか、信じてくれっ、本当に、本当に申し訳ないことをしたと、思ってる……っ」

 声を急に大きくさせて、震わせながら、床に這いつくばって俺の方ににじり寄るこの男。その前に比内さんが割って入った。

「こいつに寄るな」

 落される声は異様なまでに冷静。ビクリと男の肩が跳ねた。

「お前の内心がどうだったかは聞いてない。さっさと名乗り出て詐欺だったと証言していればこいつの母親は財産を失わなかった」
「それは……っ」
「それどころか死んだふりとはな」
「だからっ、無かったんだよ金がッ……すでにもうその時には生きていくだけでやっとだった……!」
「それはこいつらも同じだ」
「っ……」
「どのみちこの親子の所に銀行から請求が行くのは避けられなかった。だがそこで終わらせる事もできたはずだ。こいつを地獄に突き落としたのが銀行だとでも思ってんのか」

 銀行に払えるだけの余力はあった。実際に返済しても、生活はほとんど変わらなかった。住む場所にも食べるものにも困るような状況では決してなかった。
 全部壊れたのは、あいつらが来てから。あれさえなければおそらく今でも、母さんと俺はあの家にいた。

「……やめてくれと……頼んだ。あの人たちは関係ないと。でも、無理だった……」

 床に頭を擦りつけそうなくらい身を低くして、カタカタと淀んだ口調で呟く。言いながら僅かに顔を上げ、比内さんの後ろの俺を見て、それからまた怯えたように比内さんを青い顔で見上げた。

「あいつらから、口座に振り込まれた金……あれは形だけのはずだったのに、その利息分を返せと言ってきた。俺だってそこまでバカじゃない。あの金にだけは手を付けていなかった。すぐにでもそっくりそのまま返せると何度も言ったのにあいつらは、受け取らないんだよ……ッ」

 この人の目が再び、俺に向いた。比内さんを避け、床に這いつくばりながら必死になって縋り付いてくる。比内さんがまた間に入る前に、ガッと、俺の左足をこの人の手が掴んだ。

「あいつらはっ……なあッ、あいつらは! ッ銀行とは、違う。まともじゃないのは子供のキミだって見ればすぐに分かったはずだろ、あんなっ……あんな、明らかにおかしな言いがかりに応じるなんて……最初から一円も、渡さずにいれば、奴らもいずれは手を引いたはずんだよっ、それなのに……それをキミの母親が……あんな金をみすみす、払う、方が……」

 悪い。そう言いたかったのだろう。
 震わせながら絞り出していた声をその寸前でようやっと堪えたように、この男は俺から手を離した。俯いて、体を小刻みに揺らしていた。

「俺にも……家族がいるんだ。あれからずっと離れて暮らしてる……キミ達への取り立てを邪魔をするようなら、今度は、俺の家族にも手を出すと……」
「何が家族だ。お前に家族はいない。妻とも娘ともとっくに縁は切ってんだろ」
「それはっ……俺が……この、状況だから……」
「それで偽造離婚か?」
「ッ……!!」

 俺もそこで顔を上げた。この男を上から見下す、比内さんの様子は変わらず冷たい。全部を隈なく調べたうえで、この男をここに連れて来たのだと分かった。

「人一人破滅させるためにずいぶんなリスクを負ったもんだな。お前のそのつまらねえ復讐のせいでなんの罪もない親子が全てを被った」
「だからッ……」
「テメエで言ったんじゃねえか。お前の組んだ相手がどういう連中なのか、それくらい最初から分かってたんだろ」
「……っ」

 比内さんの目は俺に向いた。一度男を見下げてから、淡々と言葉を続けた。

「この男にハメられたのはお前の親父だけじゃねえ」
「え……」
「こいつに破滅させられた人間は多い。こいつのようにまんまと連中の口車に乗って、一生コキ使われる羽目になったクズどももな」

 ビクッと、この男の肩が揺れた。

「前にも話したろ。払いきれずに折れた人間がそのあとどこでどうされるのか」

 呆然と立ち尽くしたまま、俺もこの男を一度見下げた。
 闇金はそもそも、追い詰めているその相手が払いきれるなどとはハナから思っていない。そんな話を、思い出す。

「たとえお前に使い道があったとしても、ガキ一人にあそこまで固執するのはいくらなんでも不自然だった。元金はとっくに回収できてたわけだからなおさらに」
「…………」
「あいつらがお前を追い回してたのは、金ヅルを呼び込むこの男への見せしめの意味も強かったはずだ」

 言葉は出てこない。ただ、震える男を目にする。

「連中の手元には二重三重で仕留めた獲物がゴロゴロしてたんだ。払いきれなくなった人間にはさらに次の獲物を持ってこさせる。そうすりゃ入ってくる金は面白いように増えただろうよ」

 あいつらの目的は金でしかなく、俺はただの、エサだった。

「食い物にされたのはお前だけじゃねえ。あれはれっきとした組織犯罪だった」
「…………」

 そんな事のために、俺達は。

 闇金が逮捕されたニュースならばあの朝に俺も見た。しかしそれ以降の事は何も知らない。それはただ俺が知らなかっただけで、表立って取り上げられないだけで、どこででも普通に起きているんだ。
 系列の組織はいくつもあったと中川さんが教えてくれた。上から落ちてきた人間を、使う場所ならいくらでもあった。

「お前の親父を騙して以来こいつは詐欺の片棒を担いでた。お前と同じ目には遭いたくなかっただろうからな。この手の人間はすぐ思い通りになる。別れた家族を引き合いに出すにも、お前ら親子の存在はさぞかし都合がよかっただろうよ」
「俺もっ……俺だってッ、被害者だ、騙されてたんだッ……! 全部むしり取られた、何もかも全部……ッ!!」
「ああ、そうだな。お前は被害者だ。半グレ共にハメられたのも破産したのも借金したのも仕事が上手くいかなかったのも何もかもお前以外の誰かが悪い。なあ?」
「……っ」

 ギリッと、この男の顔が醜く歪んだ。今にも泣きだしそうな男に、比内さんは詰め寄った。その顔を真上から、見下して。

「ふざけんなよ。ナメてんのかテメエ」

 一際低く、言葉を投げ落とし、言葉と同じくらい冷たい目でこの男を追い詰める。

「自分の利益のために赤の他人を売った。それがお前のしたことだ。お前のせいでこいつが何を失ったと思う」

 ぐっと詰まったこの男。答えられるはずがないだろう。
 何も言えなくなったのを一瞥すると、比内さんの目はまたこちらに向いた。

「どうする陽向」
「……え」
「お前の望むようにしてやる」

 突如として差し出されたその申し出に、一瞬のうちは反応できない。ただ床の上のその男が、一層怯えた顔をしたのを見ただけ。

「社会的に殺す事はできてもすでにこの有り様だ。再起不能にするくらい簡単なことだが、それじゃお前の気が済まねえだろ」
「気が、って……」
「俺が取り返してきた金のほとんどは連中がお前から巻き上げた暴利分だ。あれの元金はそもそも返済義務のねえ不法原因給付だったが、お前にはあともう一つあるよな。銀行に支払った分が」

 最初に取られた。持っていかれた。法律に沿って結ばれた正式な契約の結果、そうなった。その金を。

「それはこの男に請求できる。求償権と言ってな。これは法的に認められている正当な権利だ」

 そこでまた、声は俺に向けながら、比内さんは男を見下ろした。

「権利には使い所ってもんがあるんだよ。むやみやたらに振り回すよりもはるかに強い武器になる」

 俺にあるのは正当な権利。じゃあ、俺がその求償権を行使すれば、この男は返済から逃れられない。俺の法的な身分はまだどうしたって未成年だけど、俺には後見人の、弁護士が付いている。

「……しかしまあ、今のこの男に支払い能力があるはずもない」

 男にスッと、視線を落とした。目はそちらを捉えたままに、声だけを俺に向けてくる。

「目には目をだ。昔からよく言うだろ」

 それは、やられたらやり返す世界最古の法律。そうじゃない。やられた範囲内であれば、やり返せしてもいいというルールだ。

「なあ陽向。好きなように選べ。お前とお前の母親が味わってきたのと同じことを、こいつの家族にもしてやろうか?」
「ッやめてくれ……!!」

 バッと、とうとうなり振り構わず男は比内さんに縋り付いた。惨めに、足に両腕を回し、頼むからと。それだけはどうかと。痛烈な叫び声だけが響く。
 男の腕を振り払いはしない。しかし比内さんは、口調も表情も変えない。

「お前の家族はお前が何をしてきたかなんも知らねえんだろ。だから今ものうのうと平和に暮らしてる。それをぶち壊すのも一瞬だが」
「やめてくれ……っ頼む……ッ」
「こいつはそうやって頼む暇もなかった。何も知らなかったところにある日突然奪われたんだ」
「頼むからッ……家族は何も悪くない……っ!」
「ああ、だろうな。このガキだって何も悪くない」

 縋り付いてくる男に比内さんは自ら手を伸ばした。ガッと乱暴に胸ぐら掴み上げ、真上からその顔を見下す。

「不幸が降ってかかるのは何も悪人だけとは限らねえ。お前の女とガキはどうだ。おそらく悪人ではないだろうな。他人を騙した男とたまたま家族だったってだけの話だ。運が悪かったとしか言いようがねえよ」

 いつかに聞かされたその言葉を、比内さんは、今度は、この人に言った。
 上からただ、見ている。手つきとは裏腹に酷く静かに、冷徹に。

「一度でも踏み外しちまったらな、どん底に落ちるのは簡単なことだぞ」

 耳を割く、無残な悲鳴が、その瞬間部屋中に響き渡った。真っ青になって泣き叫んだ。
 泣いていた。いい年をした男が。涙を流して泣き喚いていた。そこにあるのは憐れな人間の姿だけ。

 比内さんは動かなかった。ただ男を見下ろし、男は泣き叫び。泣き叫ぶ惨めなその姿を見ても、なぜか、なんとも思えない。どんな感情が湧いてくることもなく、ただ俺もそれを見下ろした。
 比内さんから胸ぐらを無造作にバッと離され、力なく床にくずおれた物体をただ、眺めた。

「陽向」

 叫び上げられる耳障りな悲鳴がこれだけ部屋に響いているのに、比内さんの静かな声だけは当たり前のように耳に入ってくる。

「お前が決めろ。俺はお前の代理人だ。お前が望んだ通りに動く」

 自分でも驚くほど冷静だった。しかし床に崩れたこの男だけは、この部屋で唯一冷静ではなかった。
 比内さんのその言葉を聞いた途端にはっと顔を上げ、それによって俺と目が合う。俺に目を合わせてきた。死にかけのトカゲみたいにこっちに必死で這いつくばってくる、その目は、俺に縋っていた。

「たす、助けて……助けてっ、頼む……なんでもするッ……お願いだから……っ!」
「…………」

 初めてかもしれない。こんなに冷めた気分は。こんなに汚らしく喚く大人というものを、生まれて初めて目にしただろう。
 無残を通り越して滑稽だ。こうもつまらない人間のために、俺と母さんは全部を取られたのか。

 足にまたしても縋りついてくる。震える手で俺の左足を掴んで、こんな子供に泣き縋ってくる。必死の形相で懇願していた。
 頼む。どうか。お願いだから。そればかりを何度も喚く。これでは壊れて使い物にならなくなったオモチャと何も変わらない。
 壊れたオモチャは捨てられる。俺の足にしがみつきながらこの男はただただ懇願していた。それを酷く、冷めた気分で見下ろした。

「…………いりません」

 ぱっと、ここまで一向に鳴りやまなかった耳をつんざく叫び声がその瞬間に掻き消えた。
 俺の足を痛いくらいに掴んだまま、無様に見上げてくるこの滑稽な人間を、見下して言ってやる。俺の望みを。

「何もいらないです」

 この人が泣き声を急に止めたから、部屋は不気味なほどシンとしていた。

「何も望みません。こんな人から」

 望むはずがない。最初から何かが欲しかったわけじゃない。俺が欲しいのは、こんな事じゃない。

「今さら何を取り返したって、俺にはなんの意味もない」

 シラケた気分だ。他人を見ながら、やっぱりこんなのは初めて思った。無様だと。この人はなんて、無様なのだろう。
 自分の子供くらいの年のガキなんかに見下されながら、この男はまた泣きついてきた。さっきまでの怯えた手つきではなく、強く、はっきり、足に縋ってくる。

「あり、ありがとうッ、ありがとうっ……ありがとうキミは……キミには、なんて……謝ったら……っ」
「…………放してください」
「申し訳ない事をしたとずっとそればかり思ってた、っ……本当だっ、キミ達親子に謝りたくて、ずっと……ずっと本当に、すまない事を……ッ」
「……放せよ……」
「キミ達に恨みがあった訳じゃないんだよっ……俺はただ藤波をッ……」
「……放せ」

 バッと無造作に、ほとんど蹴りつけるように振り払った。
 跳ね返された瞬間に目を見開いたこの男。その顔で見上げてくる。こうまでしても追い縋るような意地汚いその目には、込み上げてくるものすらもう何もない。

「触るな」

 出ていった声は自分でも、驚くほどに落ち着いていた。

「謝っていいなんて誰が言いましたか」

 ヒクリと、この男は詰まったような顔を見せた。
 驚いたのだろうか。屈辱だろうか。ずっと自分を下に見ていた、そんな男のその子供にまで、見下されて腹立たしいのだろうか。

 どうでもいい。俺達家族にはこの人に金を返せと言う権利があるらしい。だがこの人間には俺達に謝る権利などないはずだ。そんなものは、俺が与えない。

「あなたも俺と顔を合わせたくはなかったんでしょうけど……」

 怯えとは違う、単なる驚愕とも違う、そういう顔で俺を見るこの男には。

「二度と俺と母の前に現れないでください。あなたとはこれ以上関わりたくない」

 俺の望みは一つだけ。ただの拒否を示したい。これだけの事をされたのだから。

 俺の答えを聞いて動いたのは、この男から決して目を逸らさずにいた比内さんだ。男を俺からさらに遠ざけ立たせて、机のそばで黙って待機していた見知らぬその人のことを呼んだ。

「昭仁」
「おう」
「連れてけ」
「はいよ」

 言われてすぐにその人はこちらへ。来た時と同様、物でも扱うような乱雑な動作で桧山の腕を掴んで歩かせた。
 途端に怯えた様子を取り戻したこの男は、やめてくれ待ってくれと慌てて言い連ね叫んでいるが誰も耳を貸しはしない。
 引きずられるようにして連れていかれるのを眺めつつ、ドアの前まで行ったところで比内さんはショウジと呼んだその人に簡潔に言った。

「後は任せる」
「りょーかい。高ぇぞ」

 呑気な物言いとは裏腹にその手つきには容赦がない。
 無理やり引きずられていく男は徐々に喚く声を大きくさせて、とうとう暴れようとしたところでドアの前にいた中川さんが動いた。ショウジというその男性の反対側から桧山を無理やり歩かせていく。

 揉み合いながら三人が外に出て、部屋に入って来た時以来一切喋らずにいた中川さんは、ここでもまだ無言のままパタリと静かにドアを閉めていった。それによって空間は閉ざされたけれど、ついには泣はじめたその声がドア越しにも聞こえてくる。


 この後あの男がどうなるのかは知らない。知りたくもない。興味もない。
 ショウジ、というあの人が誰なのかも知らないけれど、中川さんも付いていったという事は、しかるべき場所に連れていかれるのだろう。

 それ以上の事は、俺には関係ない。
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