たとえクソガキと罵られても

わこ

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55.記憶の底

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 藪の中にある貸家の一帯には野良猫が何匹も住み着いていた。可愛いのもいれば汚いのもいる。多分すぐに死んじゃうんだろうなと、子供でも分かるようなのも稀にいた。

 かおるくんの家に遊びに行ったとき、かおるくんが特に可愛がっていたのはガリガリの幽霊みたいなキジトラ猫だった。あばらが浮き出て見えるほど痩せている。すばしっこくかけていくけれど、元気そうな猫には見えない。
 目ヤニだらけの汚い猫で、なのにそれをかおるくんは気にかけている。その様子を俺も近くで見ていた。
 食べ物はあげちゃダメ。危ないから触っちゃダメ。お母さんは言い聞かせていたが、かおるくんの熱心な態度にいつの間にか負けていたようだ。

 貧相なキジトラ猫はある時を境にして、くっきり浮き出たあばらの線が徐々に薄くなっていった。
 最近ゴハンをあげているんだ。かおるくんがそう言ったのを聞いて、俺も一緒にその猫を観察するようになった。
 幽霊みたいな汚いノラ猫が綺麗な通い猫に変わっていくのを俺は数日おきに見ていた。濡れ縁のそばに発泡スチロールでできた専用のベッドがとうとう置かれたのを機に、死にかけの猫は家猫となった。

 メスの猫だ。かおるくんはスズと名付けた。首輪に鈴をつけたからかもしれない。
 すぐにでも死にそうだった命はかおるくんによって救われていた。ある日のこと、スズのお腹が大きくなっている事に気づいた。
 避妊も去勢もそんな言葉も、手術がある事すら知らなかった。当時の俺達はただただ子猫が生まれてくるのを楽しみに待っていた。

 それで、そのあとは。スズの子猫は。どこに行った。覚えていない。あれからどうなったのだったか。
 何匹生まれたのか。毛色は。オスとメスの数は。状態はどうか。元気だったのか。子猫たちの母猫になるはずのスズは、あの後どこに、行ったんだっけ。









「俺の靴かおるくんにあげてもいい?」
「え……?」
「小さい方の。青いやつ」

 誕生日に父さんから靴をもらった。小学生の間で流行っていたスニーカーだ。青色が嬉しくて、けれど箱から出して履いてみたそれは俺の足には小さくて、きつくて履けないと正直に言ったら少しムッとされたのを覚えている。
 翌日に父さんはワンサイズ大きな靴を買って帰ってきた。サイズはピッタリになった。でも色が違った。黒だ。それしかなかったからそれでいいだろと言われ、俺がその靴を履くことは結局なかった。

 かおるくんは俺と同い年だが、一つか二つ小さいと思われる程度には背が低くて痩せていた。靴のサイズももちろん俺とは異なり、かおるくんならあの青い靴をおそらくピッタリに履けるだろう。
 青いスニーカーがこの家からなくなっていても、父さんが気付くことはまずない。それにかおるくんの家の状況は母さんもある程度分かっていたはずだ。

「……おいで陽向」

 母さんに頭を撫でられた。それで、褒められた。いい子だねって、母さんは言った。嬉しかった。

 俺からはかおるくんに渡さなかった。子供心に、そうした方がいいと思った。誰からのプレゼントであるのか、かおるくんに知らせたくなかった。
 だから青いスニーカーは母さんが、かおるくんのお母さんに渡してくれた。

 学校の前には歩道橋がある。大通りの向かいから登校してくる生徒は毎日ここを上り下りする。朝の登校中、その歩道橋をおりているとき、かおるくんの足元に気が付いた。
 青いスニーカーだ。少し前まで、その靴はうちの靴箱にあった。そのことをかおるくんはきっと知らない。白い箱に入れたままにしていたそれを、その日、かおるくんが履いていた。

 学校の前にある歩道橋で、かおるくんの足元を見た。青いスニーカー。それは俺のだった。

「ねえ、かおるくん……」

 一段、かおるくんが階段をのぼり、その靴を俺ははっきりと見て。出来心、というには、あまりにも。だけど止める理由が、俺にはなかった。
 かおるくんが履いていた青いスニーカーを見下ろしながら、当然のように。この口から明るく出ていったのは。

「そのくつ、買ったの?」

 シンと、一瞬、静かになった気がした。空気が。空間が。あの、歩道橋が。
 それをたぶん俺は、分かってなかった。

「……うん……。買ってもらった」

 買ってもらった。そう言ったかおるくんの顔を、今さらもう、思い出せない。
 どんな顔をしたのだったか。表情はぼんやりとして定まらないが、しかし気まずそうな声だったのは、頭の片隅にまだ残っている。

「そうなんだ。よかったね」
「……うん」

 カオルくんの顔は思い出せない。だが自分が笑ったのは、よく覚えている。心の奥底から深く深く、愉快でたまらなく、口角を吊り上げた。

 自分があげた靴を買ったのかと聞いた。それが俺の靴だったと知らされていないカオルくんは、でも気まずそうに言った。買ってもらった。とてもとても小さな声で。
 あの言い方はきっと分かっていた。貰い物なのだと、知っていた。誰がくれたのかは知らないけれど、お母さんがある日、誰かから貰ってきた。
 貰い物の青いスニーカーを、買ってもらったとカオルくんは言った。気まずそうに。どこか、恥ずかしそうに。
 それを聞いて。それで、俺は。心から。

 笑った。




***




 ハッと、そこで目が覚めた。どんよりと重くのしかかる、胸の悪さだけが残っている。
 ベッドの上でキシッと上体を起こした。吸い込みすぎた空気を吐き出すように、深くて長い溜め息が出ていく。

「…………」

 吐き出していたのは途中で止めた。溜め息をつく、権利などない。
 なんてことを。なんて、酷い事を。俺はあの時、幼馴染に何をした。何を言った。
 悪いとすら思っていなかった。自分が借金で追い詰められるまで、なんの自覚もなかった。あれが果たしてどういう事か。自分がしたのはどういう事だったのか。

 お金がなくて恥ずかしいと思った、恥ずかしいと思った自分に気づいてしまったその瞬間まで、一切、まるで、理解していなかった。思いもよらない真実だった。
 あの言動がどれだけ残酷だったか、想像する意味さえ俺にはなかった。

 青いスニーカーをかおるくんにあげた。居心地悪そうにそれを見下ろしながら、かおるくんは言った。買ってもらったと。
 あの一言を小さな声で聞いて、その瞬間俺に起こったのはきっと、高揚だ。嬉しい。そんな程度じゃない。とてつもない快感だった。

 なんて。なんて、嫌な奴だろう。底意地の悪さが滲み出ていた。体に染みついている。これが俺の本性だ。
 施し、他人に恥辱を植え付け、自分以外の誰かを見下した。


 自分がこうなって初めて後悔した。酷いことをしてしまった。酷いことをしていると気づかせないように、言わせないように注意しながら、ずっと酷いことをしていた。
 後悔している。分かってる。許されない。あんなふうになるのは惨めだと、自分が思っていた状況に俺自身が陥ってようやく、後悔すべき理由に気づいた。
 もしもそうなっていなければ、後悔なんてしないままだったかもしれない。気づき、後悔している今は、もう遅い。謝る事もできない。



 いま、比内さんたちを間近で見ていて、あの場所にいればいるほど、息が詰まる。自分のしたことを思い知る。
 あの人たちはどう思うだろう。失望される。俺が怖いのは失望だ。怖くて怖くて、たまらない。

 いい子だねと、みんなに言われながら昔から育ってきた。お勉強できてお利口だね。大人しくできて偉いね。他の子よりもちゃんとしている。ひなたくんは本当にいい子。

 比内さんが俺を気にかけたのは、俺がいい子、だからではない。中川さんはそう言った。いい子だから助けるのではないと。
 中川さんのあの言葉は、全部を見抜いているみたいだった。




 人に助けてもらう資格が俺にはない。なるべくしてこうなった。こうなったのは全部、俺のせいだ。
 自業自得だった。嫌なやつだから。こんな奴だからだ。ああなったのは俺が嫌な奴だからで、悪い事をしたからこうなったのに、俺は助けられた。助かってしまった。

 かおるくんはいなくなった。飼い猫になった死にかけの猫は、そうだ。俺は何も知らない。かおるくんと一緒にあの猫も、スズも、藪の中の家からいなくなっていた。
 連れて行ったのか、どうしたのか、分からない。濡れ縁のそばに置かれた発泡スチロールの専用ベッドは、途中で猫用のハウスに代わって室内に置かれるようになった。でもあの貸家の扉にはもうすでに鍵がかかっていた。だから中がどうなっているのか、ハウスはあるのかも確認できない。

 カーテンのかかっていない、すでに無人となっていたあの家。濡れ縁越しの掃き出し窓から、そっと覗いてみた部屋の中はガランとしているように思えた。
 それ以降、あの藪の中には行かなくなった。


 スズは、連れて行ったのだろうか。スズの子猫は、ちゃんと生まれたのだろうか。
 死にかけの汚い猫に、当然のように手を伸ばすのがかおるくんだった。本物の優しい子をそばで見ながら、俺はひどい事を考えた。

 スニーカーをかおるくんにあげてもいいか。
 母さんに言えば褒めてもらえると分かっていた。いい子だと言われたくて、実際にいい子だと言われた。人に与えられる子だと思われたかった。優しい子だと思われたかった。
 あの時俺の頭を撫でた母さんは、どんな顔を、していただろうか。

 思い出せない。あの時の母さんの顔も。
 でも母さんはもしかしたら、気づいていたのかもしれない。俺が誰に、似ているか。

 俺はかおるくんみたいに親切なわけでも優しいわけでもない。友達のことを思いやったわけでもない。誰かに何かを施すのはただ単に、気持ちが良かった。いいや、違う。それ以下だ。あれは恵むための行為ですらなかった。
 あの時の俺が欲しかったのは、優越感。一番、くだらないものだ。施す側でいられる自分を、得意げに誇っていただけだ。

 人を辱めることで、自分よりも下の誰かを作った。自分が上だという確信を手に入れた。あまりにも残酷で、低俗でしかなく、性根からの嫌な人間でなければできないはずの事だった。
 腐っていたのは俺達から金を奪っていった奴らじゃない。俺はいい子なんかじゃない。そんなのとは全くの真逆だ。いい子に見えるように装って、人を騙しているだけだ。


 「…………」

 ベッドの上で膝を抱えた。そんな資格さえ持っていないのに、震えそうな体を抱きしめた。

 友達に屈辱を与えて、気持ちよくなって、笑顔になれる。
 それが俺だ。死にかけの猫に手は伸ばさない。匿って家を作ってやることはしない。可哀想と言っておきながら、本当は薄汚いと思ってる。あんなの触りたくないと思ってる。


 軽蔑していた父親に、誰よりも近かったのが俺だ。自分のしたことを今さら思い知った。自分がなんなのかを思い出してしまった。
 目も耳も塞いでしまいたくなる。全部なかったことにしたい。

 だって俺は最低の、クズだ。
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