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43.目隠しの女神Ⅱ
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甘ったるいコーヒーを飲みほした中川さんは、セコイらしいどこかの社長を守るために出かけて行った。
飄々としている人が何を考えているのか掴み切るのは難しい。もう一歩のところでいまいち分からない。いつも明るいあの態度はかえって底の知れないところがある。
中川さんが残していったカップをテーブルの上から引きあげる。トレーに乗せたカップのその中身。底には半透明の残骸がやや厚みをなして沈殿していた。
微妙に溶けきらなかったコーヒーシュガーだ。給湯室では俺の隣で何本もの紙製スティックがプチプチと封を切られていた。
「さっき来てた人は何をしたんですか」
そういえば砂糖ドバドバ入れてた割にかき混ぜてなかったよなあの人。そんなことを頭の片隅で思い出していたらつい気が緩んだ。
口走り、言ってしまってからそこでようやくハッとする。しかし時すでに遅し。その目はスッとこっちに向いていた。
「すみません……。俺が聞くことではなかったです」
体ごと執務机に向けて即座に言い直す。俺はバイトだ。わきまえなければ。
けれど怒られる様子はない。比内さんは手にしていたペンをペン立てに戻し、椅子の背もたれに寄り掛かった。
「犯罪被害者の遺族に対する度重なる誹謗中傷」
「え?」
「毎日暇そうで羨ましい限りだ」
さっき来ていた人は何をしたのか。俺の質問に対するそれが答えだ。
遺族、ということは、そういう事になる。命を奪われた誰かがいる。奪われたその人は死んでもなお集団の悪意に晒される。
これはよくある話の一つ。SNSにひとたび浸ればどこにでも転がっているのだろうし、テレビでもちょくちょく話題になっている。傲慢で、酷く悪質な行為が。
「……なんで最近、そういう事ばかり起こるんでしょうね」
昔は良かったなどとこの年でイキるつもりは毛頭ないが、今が最高かと聞かれればネット世代の俺にも分からない。
便利にはなった。確実にそのはず。社会科の教科書の戦後の項目に出てきた三種の神器の時代よりも遥かに。ネットもスマホもない社会なんてもはや考える事もできない。
豊かになっているはずなのに、同時にどんどんおかしくなっていく。窮屈でとにかく息苦しい。ギスギスとした仄暗い感情だけが増殖していくようにさえ思える。
苦く淹れてきた熱めのコーヒーに、比内さんは静かに口をつけた。
その所作を見る。この人はなんでも丁寧だ。丁寧に取り零しなく、受け取ってしまう。
「この国に限ったことではねえと思うが、被害者が責められるのは昔からある風潮だ。今に始まったことじゃねえ」
カップは音もなくソーサーに戻された。その取っ手を軽く持ったままの、比内さんがどこを見ているかは分からない。
「殺しも詐欺も性被害もイジメも、何かが起きたときそこには必ず原因があると俺達は思い込む。その方が説明しやすいからだ。原因があるからその結果が起きた。こうだったからこうなった。そういう構造がないと落ち着かねえんだよ」
冷静な言葉への反論の余地はなかった。だって、俺もそうだから。
「世の中に自分の理解が及ばねえ物事がどれだけあるかなんて考えもしない」
考えなくても原因くらい簡単に想像がつくと、自信に満ち満ちて得意げに思う。
「刑事事件はその典型だ。被告人に同情すべきケースも時にはあるがそうじゃねえ事も多い。まともに理性の働く奴ならブレーキがかかってやらねえ事をやっちまうから犯罪者になる。そいつがやらかした行動から納得のいく理由なんてそもそも得られるはずがない」
声の温度も、喋り方も一定。語気は緩めないが強める様子もない。しかしそこで少しだけ皮肉的な薄い笑みを浮かべ、ほんの小さく息をついた。
「それでも俺達の低レベルな脳ミソは筋の通ったストーリーを欲しがる。しかもなるべくシンプルなのがいい。誰が見ても分かる原因が必要だ。だから事情を何も知らねえ奴ほど、自分の納得しやすい筋書きを好き勝手に後付けしていく」
比内さんの武骨だが長い指は、コーヒーカップの繊細な取っ手をなぞるようにして離れていった。
「そうやって反射的に頭の中で弾き出す結論は大抵こうだ。やられた方にも問題があったに違いない」
その声はずっと落ち着いているが、染み込んでくるみたいだった。ジワジワと理解させられる。
窮屈なのも、無理はないだろう。息苦しくなるのは当然だろう。ディストピア小説の中で起こるような事が、現実の世界で起きている。
悪いものを悪いと言って何が悪い。その正当化が過剰な攻撃に繋がる。正論が必ずしも正しいとは限らないのに。もしも本当にやられた側にもなんらかの落ち度があったとしても、それとこれとは別の話だ。
どっちもどっちとかいう綺麗事で済ませてしまえば楽だろうし、何も知らない部外者が喧嘩両成敗などという名目で裁くのは気持ちいいかもしれない。
お互い様で片付けておくのは一番手間を省ける手段で、表向きは公平で、道徳的で、しかしそれは人間としての思考をただ単に放棄しているだけだ。それ以前にその物事となんの関係もないただの人間が、人の善悪を判定する権利など持っているはずがない。
「公正世界仮説だのなんだの気取って言いたがる奴らもいるが、つまるところ俺らはバカなんだろうよ」
知恵だけは中途半端につけてきたくせに原始的な脳も捨てきれない。所詮はそんな程度の動物だ。物事を深く考える前に不確実な直観に意識が傾く。
出来損ないの生き物でしかないから、見たものは自分の見たいようにだけ受け取る。そして自分こそが正しいと思い込む。
「無知は面白いように人を殺せる」
「…………」
「俺達は生きてる限り全員が殺人鬼予備軍だ」
ピクリと、右手の中指が僅かに跳ねた。罪を犯す。ただ単に法に背くのではなく、時には誰かを傷つけることもある。鬼みたいな顔をして。
自分だけはそうはならない。自信を持ってそう言える人が果たしてどれだけいるだろうか。たとえば何らかの被害を受けた誰かがすぐ目の前にいた時、テレビやネットで見た時、瞬間的に、咄嗟に思い浮かべる。
慌てて打ち消したところでもう遅い。それが本来の俺自身だ。表に出すことは決してしなくてもどこかで認めなければならない。それはどんなに小さなものでも、確実に自分の中に存在している。
トレーを両手で持って突っ立たまま、間抜けにも動けなくなる。黙り込んだ俺の視線の先では比内さんが大判の茶封筒を開けていた。
俺は今雇われ労働中で、雇い主は仕事の真っ最中。封筒から取り出されたのは何かの書面だろう。
比内さんによる法的な処理を待っているクライアントは沢山いる。仕事はいくらでも湧いてくる。そのうちの一つに取り掛かりながら、この人はつまらなそうに付け足した。
「こんな偉そうな話しときながら加害者のために金で動く俺は重罪どころの騒ぎじゃねえな。どうせロクな死に方はしない」
投げやりに自分の未来を予知して、その目は不意に俺に向いた。
「他に聞きたいことは」
「え……」
「明るい話は死んでもできねえが胸糞悪くなる話だったらいくらでもできるぞ。自分のやってる事を聞かせるだけだ」
あ、と小さく声にならない声が漏れたがそれだけだ。何も返事はできなかった。そんなことない。そんな返答は、きっと望まれてすらいない。
自分は善とは異なるのであると偽りなく言い切れてしまう大人に、少し戸惑う。同時に、気圧される。視線は徐々に落ちていく。何もかもを見透かされそうで一歩、下がりかけた。その前に、比内さんが言った。
「軽蔑するか」
はっとして顔を上げた。驚いた。俺にそう聞くのは意外だった。誰からどう思われようとも気にしないようなこの人が、そんな事を言うとは思わなかった。
善ではない。ならば悪なのかと聞けば、この人はどう答えるだろう。視線はすでに交わらない。俺が顔を上げると入れ替えに比内さんの目が手元の書面に落ちた。
冷静だから、一見すると温度はない。けれどその目がとても綺麗な榛色なのはもう知っている。目は合わなくても声は、届く。
「いいえ。しません」
だから答えた。思ったままを。今度は躊躇わずはっきりと。胸糞悪くなる話だとしても、俺はこの人を軽蔑しない。
比内さんの視線が再び上がることはなく、ここから見えるその表情も変わらなかった。この人は自分が誰からどう思われようとも全く気にしない人で、もっと大事なことを知っている。自分の仕事を全うする道を何があろうと最優先に選ぶ。
誰にでも弁護を依頼する権利はある。弁護を引き受けたのであれば依頼人の利益を第一に考える。それが弁護士に課せられた義務だ。
「……そうか」
無表情のまま静かに落とされた一言。
依頼主の利益のために動くのは弁護士の役目だが、この人は血の通った人間だ。心だけは殺さない。
***
トレーの上に一人分のカップだけを乗せて後にした比内さんの執務室。給湯室まで歩く道のりは、中川さんが外出したためかやけに静かなように感じた。
だから二人のいる事務室に戻るとどことなく安心できる。自分の定位置に着席すれば、隣で七瀬さんが顔を上げた。
「陽向くん、メールチェックお願い。今日の十三時以降の分から」
「はい。分かりました」
この事務所にもホームページはある。長谷川さんが全部一から作ったらしく、無料相談の希望もそこから出せる仕様だ。そのメールチェックを俺も最近やらせてもらうようになった。人の悩みは尽きる事がない。
個人事務所のホームページとはいえ作りは丁寧でしっかりしている。大手事務所と比べても遜色ないくらいの出来栄えだろう。良くあるようなテンプレ感もなく、胡散臭さは微塵もない。
さすがは長谷川さん。この人に情報周りを任せれば大体のことは解決する。中川さんも有馬先生も七瀬さんもそう言うし、何より比内さんが一任している。
その長谷川さんの言うところによれば、弁護士事務所のマーケティングは媒体がウェブだろうと紙だろうと色々と気を使うらしい。どんな業種でもある程度はそうだろうが、職務内容の性質からして広告上のルールの縛りはまあまあに厳しいのだという。
アピールしたくてもしづらい部分は多い。それもあってかお客様の声などというページを作っている弁護士事務所もそれなりにあるそうだ。しかしここのサイトにそんなページはない。
弱い人間の立場に立ってくれた。守ってくれた。助けてくれた。正義のために戦ってくれた。
そう言って深々と頭を下げてから去っていく依頼主も多いのに、ここではそれらの多くの声を、発信するつもりが最初からないようだ。
比内法律事務所にいる人達はみんな、正義を守るとか弱者の味方とかの綺麗な言葉はほとんど使わない。自分を善人だとは決して言わない。言わないんじゃない。思っていない。自分の仕事の意味を自覚し、その全てを受け止め、受け入れる。
しばらく身を置いて俺にも分かった。ここの人達はみんなそう。否定もしなければ言い訳もしない。正当化しようなどとは考えもしない。
ついさっきの比内さんを思い出す。潔癖すぎる。中川さんは言った。
俺が見ているのは自分の行動に、責任を持っている大人達の姿だ。
飄々としている人が何を考えているのか掴み切るのは難しい。もう一歩のところでいまいち分からない。いつも明るいあの態度はかえって底の知れないところがある。
中川さんが残していったカップをテーブルの上から引きあげる。トレーに乗せたカップのその中身。底には半透明の残骸がやや厚みをなして沈殿していた。
微妙に溶けきらなかったコーヒーシュガーだ。給湯室では俺の隣で何本もの紙製スティックがプチプチと封を切られていた。
「さっき来てた人は何をしたんですか」
そういえば砂糖ドバドバ入れてた割にかき混ぜてなかったよなあの人。そんなことを頭の片隅で思い出していたらつい気が緩んだ。
口走り、言ってしまってからそこでようやくハッとする。しかし時すでに遅し。その目はスッとこっちに向いていた。
「すみません……。俺が聞くことではなかったです」
体ごと執務机に向けて即座に言い直す。俺はバイトだ。わきまえなければ。
けれど怒られる様子はない。比内さんは手にしていたペンをペン立てに戻し、椅子の背もたれに寄り掛かった。
「犯罪被害者の遺族に対する度重なる誹謗中傷」
「え?」
「毎日暇そうで羨ましい限りだ」
さっき来ていた人は何をしたのか。俺の質問に対するそれが答えだ。
遺族、ということは、そういう事になる。命を奪われた誰かがいる。奪われたその人は死んでもなお集団の悪意に晒される。
これはよくある話の一つ。SNSにひとたび浸ればどこにでも転がっているのだろうし、テレビでもちょくちょく話題になっている。傲慢で、酷く悪質な行為が。
「……なんで最近、そういう事ばかり起こるんでしょうね」
昔は良かったなどとこの年でイキるつもりは毛頭ないが、今が最高かと聞かれればネット世代の俺にも分からない。
便利にはなった。確実にそのはず。社会科の教科書の戦後の項目に出てきた三種の神器の時代よりも遥かに。ネットもスマホもない社会なんてもはや考える事もできない。
豊かになっているはずなのに、同時にどんどんおかしくなっていく。窮屈でとにかく息苦しい。ギスギスとした仄暗い感情だけが増殖していくようにさえ思える。
苦く淹れてきた熱めのコーヒーに、比内さんは静かに口をつけた。
その所作を見る。この人はなんでも丁寧だ。丁寧に取り零しなく、受け取ってしまう。
「この国に限ったことではねえと思うが、被害者が責められるのは昔からある風潮だ。今に始まったことじゃねえ」
カップは音もなくソーサーに戻された。その取っ手を軽く持ったままの、比内さんがどこを見ているかは分からない。
「殺しも詐欺も性被害もイジメも、何かが起きたときそこには必ず原因があると俺達は思い込む。その方が説明しやすいからだ。原因があるからその結果が起きた。こうだったからこうなった。そういう構造がないと落ち着かねえんだよ」
冷静な言葉への反論の余地はなかった。だって、俺もそうだから。
「世の中に自分の理解が及ばねえ物事がどれだけあるかなんて考えもしない」
考えなくても原因くらい簡単に想像がつくと、自信に満ち満ちて得意げに思う。
「刑事事件はその典型だ。被告人に同情すべきケースも時にはあるがそうじゃねえ事も多い。まともに理性の働く奴ならブレーキがかかってやらねえ事をやっちまうから犯罪者になる。そいつがやらかした行動から納得のいく理由なんてそもそも得られるはずがない」
声の温度も、喋り方も一定。語気は緩めないが強める様子もない。しかしそこで少しだけ皮肉的な薄い笑みを浮かべ、ほんの小さく息をついた。
「それでも俺達の低レベルな脳ミソは筋の通ったストーリーを欲しがる。しかもなるべくシンプルなのがいい。誰が見ても分かる原因が必要だ。だから事情を何も知らねえ奴ほど、自分の納得しやすい筋書きを好き勝手に後付けしていく」
比内さんの武骨だが長い指は、コーヒーカップの繊細な取っ手をなぞるようにして離れていった。
「そうやって反射的に頭の中で弾き出す結論は大抵こうだ。やられた方にも問題があったに違いない」
その声はずっと落ち着いているが、染み込んでくるみたいだった。ジワジワと理解させられる。
窮屈なのも、無理はないだろう。息苦しくなるのは当然だろう。ディストピア小説の中で起こるような事が、現実の世界で起きている。
悪いものを悪いと言って何が悪い。その正当化が過剰な攻撃に繋がる。正論が必ずしも正しいとは限らないのに。もしも本当にやられた側にもなんらかの落ち度があったとしても、それとこれとは別の話だ。
どっちもどっちとかいう綺麗事で済ませてしまえば楽だろうし、何も知らない部外者が喧嘩両成敗などという名目で裁くのは気持ちいいかもしれない。
お互い様で片付けておくのは一番手間を省ける手段で、表向きは公平で、道徳的で、しかしそれは人間としての思考をただ単に放棄しているだけだ。それ以前にその物事となんの関係もないただの人間が、人の善悪を判定する権利など持っているはずがない。
「公正世界仮説だのなんだの気取って言いたがる奴らもいるが、つまるところ俺らはバカなんだろうよ」
知恵だけは中途半端につけてきたくせに原始的な脳も捨てきれない。所詮はそんな程度の動物だ。物事を深く考える前に不確実な直観に意識が傾く。
出来損ないの生き物でしかないから、見たものは自分の見たいようにだけ受け取る。そして自分こそが正しいと思い込む。
「無知は面白いように人を殺せる」
「…………」
「俺達は生きてる限り全員が殺人鬼予備軍だ」
ピクリと、右手の中指が僅かに跳ねた。罪を犯す。ただ単に法に背くのではなく、時には誰かを傷つけることもある。鬼みたいな顔をして。
自分だけはそうはならない。自信を持ってそう言える人が果たしてどれだけいるだろうか。たとえば何らかの被害を受けた誰かがすぐ目の前にいた時、テレビやネットで見た時、瞬間的に、咄嗟に思い浮かべる。
慌てて打ち消したところでもう遅い。それが本来の俺自身だ。表に出すことは決してしなくてもどこかで認めなければならない。それはどんなに小さなものでも、確実に自分の中に存在している。
トレーを両手で持って突っ立たまま、間抜けにも動けなくなる。黙り込んだ俺の視線の先では比内さんが大判の茶封筒を開けていた。
俺は今雇われ労働中で、雇い主は仕事の真っ最中。封筒から取り出されたのは何かの書面だろう。
比内さんによる法的な処理を待っているクライアントは沢山いる。仕事はいくらでも湧いてくる。そのうちの一つに取り掛かりながら、この人はつまらなそうに付け足した。
「こんな偉そうな話しときながら加害者のために金で動く俺は重罪どころの騒ぎじゃねえな。どうせロクな死に方はしない」
投げやりに自分の未来を予知して、その目は不意に俺に向いた。
「他に聞きたいことは」
「え……」
「明るい話は死んでもできねえが胸糞悪くなる話だったらいくらでもできるぞ。自分のやってる事を聞かせるだけだ」
あ、と小さく声にならない声が漏れたがそれだけだ。何も返事はできなかった。そんなことない。そんな返答は、きっと望まれてすらいない。
自分は善とは異なるのであると偽りなく言い切れてしまう大人に、少し戸惑う。同時に、気圧される。視線は徐々に落ちていく。何もかもを見透かされそうで一歩、下がりかけた。その前に、比内さんが言った。
「軽蔑するか」
はっとして顔を上げた。驚いた。俺にそう聞くのは意外だった。誰からどう思われようとも気にしないようなこの人が、そんな事を言うとは思わなかった。
善ではない。ならば悪なのかと聞けば、この人はどう答えるだろう。視線はすでに交わらない。俺が顔を上げると入れ替えに比内さんの目が手元の書面に落ちた。
冷静だから、一見すると温度はない。けれどその目がとても綺麗な榛色なのはもう知っている。目は合わなくても声は、届く。
「いいえ。しません」
だから答えた。思ったままを。今度は躊躇わずはっきりと。胸糞悪くなる話だとしても、俺はこの人を軽蔑しない。
比内さんの視線が再び上がることはなく、ここから見えるその表情も変わらなかった。この人は自分が誰からどう思われようとも全く気にしない人で、もっと大事なことを知っている。自分の仕事を全うする道を何があろうと最優先に選ぶ。
誰にでも弁護を依頼する権利はある。弁護を引き受けたのであれば依頼人の利益を第一に考える。それが弁護士に課せられた義務だ。
「……そうか」
無表情のまま静かに落とされた一言。
依頼主の利益のために動くのは弁護士の役目だが、この人は血の通った人間だ。心だけは殺さない。
***
トレーの上に一人分のカップだけを乗せて後にした比内さんの執務室。給湯室まで歩く道のりは、中川さんが外出したためかやけに静かなように感じた。
だから二人のいる事務室に戻るとどことなく安心できる。自分の定位置に着席すれば、隣で七瀬さんが顔を上げた。
「陽向くん、メールチェックお願い。今日の十三時以降の分から」
「はい。分かりました」
この事務所にもホームページはある。長谷川さんが全部一から作ったらしく、無料相談の希望もそこから出せる仕様だ。そのメールチェックを俺も最近やらせてもらうようになった。人の悩みは尽きる事がない。
個人事務所のホームページとはいえ作りは丁寧でしっかりしている。大手事務所と比べても遜色ないくらいの出来栄えだろう。良くあるようなテンプレ感もなく、胡散臭さは微塵もない。
さすがは長谷川さん。この人に情報周りを任せれば大体のことは解決する。中川さんも有馬先生も七瀬さんもそう言うし、何より比内さんが一任している。
その長谷川さんの言うところによれば、弁護士事務所のマーケティングは媒体がウェブだろうと紙だろうと色々と気を使うらしい。どんな業種でもある程度はそうだろうが、職務内容の性質からして広告上のルールの縛りはまあまあに厳しいのだという。
アピールしたくてもしづらい部分は多い。それもあってかお客様の声などというページを作っている弁護士事務所もそれなりにあるそうだ。しかしここのサイトにそんなページはない。
弱い人間の立場に立ってくれた。守ってくれた。助けてくれた。正義のために戦ってくれた。
そう言って深々と頭を下げてから去っていく依頼主も多いのに、ここではそれらの多くの声を、発信するつもりが最初からないようだ。
比内法律事務所にいる人達はみんな、正義を守るとか弱者の味方とかの綺麗な言葉はほとんど使わない。自分を善人だとは決して言わない。言わないんじゃない。思っていない。自分の仕事の意味を自覚し、その全てを受け止め、受け入れる。
しばらく身を置いて俺にも分かった。ここの人達はみんなそう。否定もしなければ言い訳もしない。正当化しようなどとは考えもしない。
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