たとえクソガキと罵られても

わこ

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39.城塞の危機Ⅲ

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 中川さんは結局晩ごはんの南蛮漬けもしっかりと平らげた。
 ふぅー、食った食ったー。そう言って腹を叩く中川さんは比内さんに死ぬほど睨まれていたが、一ミリも気にすることなく食後のコーヒーを希望した。

 飲みたいなと言われて嫌ですとは言えない。お出ししたら比内さんはさらに中川さんを睨み殺した。苛立ちの視線はこっちに向いていなくても自分の目の前でそんな顔をされたら俺が怖い。今日の比内さんはずっとそんな顔だ。
 しかし俺の横でズズッとコーヒーをすすっている中川さんはというと、やっぱり一ミリも気に留めなかった。斜め前からの殺人光線を浴びていようともにこやかなままコーヒーを飲みほした。そして席を立った。

「ちょいとトイレ借りるよー」
「借りるな。帰れ」
「ついでに現役DKの部屋を覗いてみたい」
「こいつの部屋に立ち入ったら殺す。帰れ」
「ひなたー。ちょっとだけ入っていいー?」
「あ、はい」
「いいってさー」

 朗らかに言いながらリビングを出ていく。部屋に残された俺は今度こそ、比内さんから睨まれた。

「奴に取り込まれるな。感染して最終的に死ぬぞ」
「あぁ……はは……なんか」
「まったく……」

 眉間の皺は普段の五割り増し。考えるまでもなく嫌そうだ。




 俺の部屋に立ち入ったらしい中川さんは、いつぞやゲーセンで取って俺にくれた黒猫の抱き枕を連れて戻ってきた。
 デカいぬいぐるみを右腕に抱えながら、比内さんの冷ややかな眼差しもなんのその、座り心地のいい横長ソファーに堂々と真っ直ぐ向かっていく。

「ういー、よっこいせーっと」

 真ん中にドサッと腰を下ろした。その隣には猫を座らせて頭にむぎゅッと抱き着いた。

「今日も一日頑張ったあ。中川さんは頑張ってて偉いなあ。すごくエライよ。泣けてくるよ」

 自分で自分をねぎらって、今にも寝転がりそうな勢いでクッタリしている。徐々に姿勢も崩れていく。猫ともども背もたれからズルズルと崩れていった先、本当にそこで寝転がったためその姿はここから見えなくなった。
 ここまでおおよそ八秒間。冷めた眼差しでソファーの背もたれをただ見つめる比内さんの顔。

「ほら見ろ。お前が甘やかすからああなる」
「えっと……すみません」

 これ俺のせいなのか。

「にしてもこの部屋いいよなあ。落ち着く」
「落ち着くな帰れ」
「そうだ、いいこと思いついた。三人で一緒に暮らそう」
「沸いてんのかテメエは。帰れ」
「ひなたーぁ。こっちおいでー」
「呼ぶんじゃねえ」

 ソファーの横から腕だけ出しておいでおいでと手招きされる。比内さんと顔を見合わせ、深々とつかれた溜め息。俺より先に比内さんがそっちへ足を向けたからその半歩後ろをついていく。
 人んちのソファーに横たわる中川さんは、黒猫をぎゅうぎゅうに抱き潰していた。

「陽向はどう思うよこの部屋。寛げるけど俺としてはもうちょっと散らかってた方がさらに好感度高いかな」
「お前の好みは聞いてねえ。帰れ。その前にまずは起きろ。立て。寛ぐな」

 腕を無理やり引っ張り起こされ、中川さんも渋々と言ったように上体を起こした。
 猫をクッタリ抱きしめながらソファーに深く腰掛け直すのは、まだ帰らないという意志表明かのよう。

「部屋の中くらい生活感出したらいいじゃん。ここの要塞の守りは堅いからセキュリティ面は最高だけど」

 中川さんに手を引かれて俺も隣に腰を下ろした。チラリと比内さんを窺う。ふざけた顔の猫だかふざけている中川さんだかを睨み落としていた。居心地は最悪だ。

「せっかく広いんだからもっとこう遊び心をさあ。随所にデカいぬいぐるみでも置いとけよ。陽向もそう思うでしょう?」
「いえ……そうでも……スッキリしてて俺は住みやすいかと……」
「えぇ、本当? 無理してない? ただでさえ入るのに苦労するお城みたいなマンションなんだよ? 入ったら入ったで中までこんな殺風景なんて凍えちゃうよ」
「いえいえ……あ、でも確かに最初の頃オートロックにはちょっと緊張してました。開かなかったらどうしようって」
「わかるー、後ろに他の住人いるときに限って弾かれたりするから恥ずかしいんだよね。駅改札でエラー出たときの気分」

 通過する権利は持っているのに通っちゃダメと機械に言われるのは虚しい。間違えて診察券かざしちゃってたりしたときはさらに恥ずかしい。

「みんな誰しも通る道だよ。ほんの少し前の比内くんも同じようにビビッてただろうから気にすることない」

 中川さんを見下ろす比内さんの眼光がそこでまたギッと鋭くなった。この人がオートロックの前であたふたする様子は想像できないが、少し前とはどういう事だろう。ずっとここに住んでいたのではないのか。
 ふと気にかかったそれを俺が聞く前に、中川さんはすでに話し出している。

「比内も今じゃ一丁前にこんないいとこ住んでるけど、二年前まではセキュリティ概念ゼロって感じの安いマンションにいたんだよ」
「ボロ屋みてえに言うんじゃねえ」
「そんなようなもんだったって。自分が所属してる事務所の代表があんなとこ住んでんのはさすがにちょっと悲しかった」

 比内さんがボロ屋に。それこそ想像がつかない。

「しかも本人はそこが気に入ってるときた」
「一人で住むには十分だった。広さだけこんなあっても仕方ねえ」
「欲がないなキミはほんとに」
「テメエがどこまでもがめついだけだろ」

 このマンションはいかにも高級そうだけど比内さんの生活は至ってシンプル。もっと言っていいなら質素だ。仕事と関係のないところだと自分にはほとんどお金をかけない。
 そういう人が、中川さん曰く、ボロ屋みたいな安いマンションに気に入って住んでいた。今の住処を知っている俺からするとなんとも想像はつきにくいけど、普段の行動を考えればそこまで不可解ではないのかも。贅沢を好むような人ではない。

「……気に入ってたなら、なんで引っ越してきたんですか?」

 となれば次に来る疑問は当然こうだ。口に出すなり比内さんはなぜか急に黙り込んだ。
 しかし反対に中川さんは、よくぞ聞いたとでも言わんばかりにニッと口角を吊り上げた。

「事件があったんだ」
「事件?」

 穏やかではなさそうな単語。すぐに制するのは比内さん。

「つまんねえ話聞かせなくていい」
「つまんないとか言っていいの? あれは大事な教訓だったろうよ。いついかなるときも危機に対する心構えは重要だってことがよく分かる。キミの大切な陽向のリスク回避能力を高めるにはちょうどいい事例だ」
「…………」

 中川さんも負けずに食い下がり、比内さんの三秒の無言を承諾とみなしたようだ。
 俺の肩には横からポスッと腕が回された。

「あれは比内が離婚訴訟を担当したときのことだった。依頼人女性の元旦那からね、恨みを買っちゃったことがあってさ」
「元旦那さん……?」
「そう。奥さんと別れることになったのは比内のせいだとか言って逆恨みして」
「そんなことあるんですか……」
「あそこまで極端なのは稀だと思うけどなくはないよ。長くこんな仕事してればそりゃまあ恨みの一つや二つくらいは誰だって買うだろうね。おまけに比内はこの感じだし余計に」

 どんなにギロッと睨まれても絶対に動じないのが中川さんだ。

「ついには自宅まで特定されちゃって、そっからはもう大変だったよ。いたずらに嫌がらせにとやる事がどんどんエスカレートしてってさ」
「あぁ……」
「被害届出せって皆ずっと言ってたんだけど、比内がこれまた頑なでね。普段は自分が依頼人相手におんなじアドバイスしてる男がだよ? 自分が実際その立場に立ってみちゃうと全く真逆の行動するから。複雑な人間心理が浮き彫りだ」
「…………」

 知識も心構えもある比内さんがそうなるのだから、誰でもおそらくはそうなる。比内さんの場合は仕事のこともあるし、大事にしたくないというのもきっとあったはず。

「それで結局……どうなったんですか?」
「襲われた」
「えッ?」
「撃退したけど。コテンパンに」
「あ、あぁ……良かった」
「いや良くないよ。駆けつけたこっちとしては過剰防衛になるんじゃないかって逆の意味でヒヤヒヤしたよ」
「…………」

 ヤミ金を伸したときの比内さんを一瞬で思い出した。

「とにかくそこまでの実害出ちゃうと警察に突き出さない訳いかないし、これ以上放っといて仕事に支障きたすのもあれだから比内もそこでようやく折れた。セキュリティ万全のここに引っ越したのはそれから間もなくのことでしたとさ。それが二年前ね」

 ここのエントランスはオートロック。暗証番号式のポストは中身が二重構造という徹底ぶり。
 屋外にもエレベーターにも各階通路にも満遍なく死角なしに設置された防犯カメラ。さらに玄関の鍵はディンプルキーでダブルロックになっている。極めて厳重なマンションだ。
 そういえば俺がここに転がり込んで部屋を与えられたあの時、あの部屋は本当に使われていないようだった。広さだけあっても仕方がないと言うくらいなのだから、セキュリティを最重要視してここを選んだのかもしれない。

 比内さんの思わぬ過去を聞いた。一緒に暮らしている割には何も知らない事を思い知る。
 すでに俺の中の驚愕は強いが、中川さんの話はここで終わらなかった。

「しかもあれはさあ、ただの恨みじゃなかったっぽいんだよね」
「え……と言うと……?」
「ねえ?」

 顔を上げて比内さんに同意を求めた中川さん。しかし聞かれた本人は、ふいっと気まずそうに視線を逸らした。

「……そんな胸クソ悪い昔話は忘れた」
「胸クソ悪くなるくらいには鮮明に覚えてんでしょ?」
「…………」
「俺の胸で泣いとく? 貸すよ?」
「殺虫剤取ってくる」

 イラっとした面持ちとともに本当にリビングから出ていった。比内さんの部屋に殺虫剤なんてあったっけ。

「……何があったんですか?」
「うーん……本当にあれはなんだったんだろう。憎さ余ってって奴なのかねえ」
「はい……?」
「供述内容も相当に支離滅裂だったからなんとも断言のしようがないんだけど……。逮捕されたそいつの家の中はさ、壁中がビッシリ比内の写真で埋め尽くされてて」
「え……」
「侵入されて襲われた時もね、どうも目的がそっちって言うか」
「そっち……?」
「ただ単にブン殴りに来た感じではなかったんだよ」
「……はぁ……え?」
「たとえ正気を失うほど怒りに駆られていたとしてもだ。殴り飛ばしたい相手のシャツを真っ先に引きちぎるなんて不自然でしょ?」
「……シャツ?」
「そう、シャツ。ボタン全部飛んでた」
「…………」
「恨みによるストーカーにしてはあまりにもアレな感じだった」
「…………わ」

 察した。

「最初は本当に嫌がらせのつもりで付け回してたんだと思うんだよ。でもねえ……拗らせたのかねえ」
「…………」

 知らなかった。二年前にそんな事が。比内さんはもちろんそんなの言わないし。言われたとしても反応に困るし。
 いやでも、しかし。その犯人。なんて命知らずな。

「あれだけ綺麗な顔してると苦労することも多いんですね……」
「同意しかできないんだけどそれは比内の前で言わない方がいい。あいつにとって顔の造作を褒めるセリフは全部が侮辱語だから禁句。美人とかイケメンとか綺麗な顔してるとか。神々しい的な比喩っぽいやつもダメ」

 うっかり言ってしまわなくて良かった。何せ初めて会ったときなんかは精巧な人形みたいだと思った。
 あえて比内さんの気に障りたい中川さんのような言動は俺にはできない。

「比内もさあ、あんな性格な訳だけどあんな性格にでもなっとかなきゃ身を守れなかったのかもしれないね。あの顔で中身おっとりしてたらどうぞ狙ってくださいって言ってるようなもギャぃっだッ!」

 ビュンッと、豪速球みたいな音が。何かが物凄い威力で横からぶっ飛んできた。それはガッと中川さんの顔面に命中し、床にバサリと落っこちたのはやたら分厚い本だった。
 本なのにとんでもない打撃音がした。中川さんは鼻の頭を押さえている。

 金棒引きずってやって来る鬼のように、ソファーへと近づいてくる比内さん。その顔に息をのむでもなく、中川さんは驚愕の眼差しを向けた。

「え……え、え、え、ひひひどっ、えッ、ウソ人間にこれ投げる!?」
「害虫を仕留めようと思ったんだが残念ながら生きてるな」
「酷いよッ!」

 中川さんを挟んでこちらにいる俺にも風圧だけがゴウゴウと伝わった。なんだかもう本気でヤりに来ている。
 やけに分厚い凶器を改めて見下ろしてみれば、少し古くなった六法だ。比内さんは毎年最新版の六法を買っているそうだが、これはたしか処分すると言っていたやつ。いらない本でなおかつ丁度良く打撃を加えられるこれこそ、比内さんの殺虫剤。

「ゴミ虫がいつまで居座るつもりだ」
「どこ所属の鬼畜なんだよお前は。暴力弁護士のトラブルまみれな過去についてはウチの優秀なスタッフにもきちんとお話をしておくべきだろ」
「しなくていい」

 今度はシンプルにボスッと殴られた。これもまた結構な音がした。
 でも中川さんには耐性があるのでケロリとしている。ソファーに深く埋まって足を組んだ。

「こう見えて比内ってば良からぬ輩に狙われやすいんだ」
「黙れ」
「少年時代は電車で痴漢被害に遭ったことも多数」
「遭ってねえよ死ね」
「えー嘘つくなよ朝比奈先生から前に聞いたもん確かだよ。見せてくる系の変質者なんかとは異様に遭遇率高かったって」
「うるせえ」

 とりあえず床の六法は拾い上げた。重い。それよりも朝比奈先生から聞いたというその話が気になる。

「見せてくる系ってなんですか?」

 ミシッと、一瞬だけ空気が凍える。比内さんが明らかにげんなりした。しまった、これはたぶん俺のせいだ。

 もうこれ以上は付き合っていられないとでも言いたげな様子で、ソファーに背を向けて行ってしまった。
 キッチンに向かうその後ろ姿を中川さんはのほほんと眺めながらも、意気揚々と先を続ける。

「たまにいるでしょ。全裸にコートの変態なんかがさ。突如ターゲットの前に現れてバッと」
「……あ」
「チャリンコ乗ったおっさんが道ですれ違いざま局部だけ出して見せてきたりとか」
「……は……」
「変態のやり口も様々だ。そうやって中高時代の比内くんは他人の汚ぇイチモツをしょっちゅう見せつけられる被害に遭ってたんだよ。可哀想に」
「…………」

 聞くんじゃなかった。見せてくる系。ちょっと考えれば分かる事だった。

「笑い事では……」
「ナイナイ、全っ然笑えない。どうしてああいうのが世の中には一定数いるのか心底謎だよ。おかげで比内はすっかり男嫌いだ」
「…………」

 色々と聞くんじゃなかった。しかも本人が同じ部屋の中にいるというこの状況で。

「ちなみになんであんなよりにもよって山に人を埋めてきた直後みてえな顔してる男の前に変態が出没するかって言うとそれはだね、昔の比内は今よりもだいぶマシな人相していたからです。小学生時代は天使みたいな可愛らしさで中高の頃はご近所でも評判になるくらいの美少年でした。って朝比奈先生が言うんだから間違いない。実はこっそり昔の写真見せてもらったこともあるんだけど本当だったよ。顔だけはマジ天使、っギャンッッ」

 ガゴンッと。中川さんの後頭部にヒット。
 またしても何かがものすごい勢いで後ろからぶっ飛んできた。ソファーの背もたれの向こう側でカコンと床に落ちた殺虫剤二号。振り返ってチラリと見下ろしてみれば、コーヒーの空き缶が虚しくカラコロ転がっている。空き缶のはずなのになぜか異様に重たい音がした。

 顔面に続いて後頭部を押さえる事になった中川さん。美少年とか天使とか言うから。自分でさっき禁句って言ったのに。
 ソファーの前に回り込んできた比内さんは完全に鬼の形相だ。ガッと、中川さんの胸倉を掴み上げた。

「テメエを山に埋めてやる」
「勘弁してよ、明日は口頭弁論だよ俺」

 翌日に裁判を控えている弁護士が一体何をやっているのだろう。
 その後も中川さんは懲りることなく、一時間ちょっと居座った。
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