たとえクソガキと罵られても

わこ

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32.因縁

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「付き合ってたんだよ。比内とトワちゃん」
「…………えッ!?」
「三週間で破局したけど」

 なーんか喉が渇いたなー。誰かが俺の大好きなリンゴジュース持ってきてくれたら嬉しいなあ。
 廊下ですれ違ってペコリと会釈した俺に、中川さんがそう言ったのはついさっき。

 なので持って行った。要望通り氷はめいっぱい。細いストローもさしてある。中川さんがリンゴジュース大好きな人なのはこの時に初めて知った。
 透明なコップに入ったそれはデスクの端に置こうとした。ところがなぜかそのまま連れられた先は、中央の横長ソファー。

 仕事は慣れた? 無理はしてない? 光ちゃんは優秀だし頼りになるでしょ。正人くんは元々IT系の人だからパソコンめっちゃ強いよなんでもできちゃうよ教えてほしいことあったら遠慮せずに聞きな。あー、あとそうそう。比内はどうだい。家でも顔合わせてバイト先でも顔合わせるとかまさに地獄だよね。可哀想に。いやいやいいよ、みなまで言うな。キミの心境は痛いほど分かる。陰険な雇い主に毎日イビられて辞めたいとか悩んでないかい大丈夫?

 ソファーのど真ん中を促されてもギリギリのところで丁重に断っていた。その間にも中川さんはニコニコと隙間なく喋っていた。
 どうやってここから退出しよう。あんまりもたもたしていると比内さんに怒られる。
 しかし中川さんの口は止まらず比内さんの悪口は激化していき、ついには有馬先生まで話題にのせると、付き合っていた。そんな言葉が飛び出してきた。

「付き合っ……え……?」

 パシパシとまばたきが止まらない。あの二人が。比内さんと有馬先生が。まさか。いや、まさか。ありえない。
 たしかに外観だけなら文句なしの美男美女。隣同士に並べばお似合いと言えるだろう。しかし実情はあまりにも険悪で顔を合わせれば空気がピリッとし、多少だろうと意見がぶつかろうものならそこからは過激な戦争がはじまる。

 そんな二人が、付き合っていた。まさかだろ。けれど中川さんはそう言う。三人は元々同期なわけであるから、お互いの過去を知っている間柄でもあるというわけで。
 いけないとは思いつつも、湧き出た好奇心は止められなかった。

「あの……いつ頃……?」
「学生時代」
「……なぜ今はあんな感じに」
「相性の問題としか言いようがないね」
「相性……」
「似た者同士ほど過剰にいがみ合ったりするでしょ?」
「…………」

 ごまかしきれない好奇心は顔にまで出ていたのだろう。にんまりと笑った中川さんは、とうとう俺の腕をくいっと引いた。
 促されたというよりむしろ積極的にソファーにちょこんとお座り。中川さんもこの隣にドサッと座りこんできた。

 比内さんのお説教を回避するためには早々に腰を上げてここを出ていくべきだが、気になる。比内さんは有馬先生と付き合っていた。すごく気になる。なんだそれ。なんだそれ。
 中川さんは俺の野次馬根性を的確に読み取ったようだ。にっこりと笑って一拍置いてから、芝居がかった口調で始められた。

「二人の出会いは忘れもしない。あれは俺達が三回生の時。学部内でも評判の二人が初対面した瞬間だった」

 中川さんは楽しそう。俺は結構うずうずしている。

「比内もトワちゃんもあの見てくれだ。大体想像つくだろうけど二人とも一年の時からやたら目立ってた。比内のあれはもはや日本人離れしてるし、トワちゃんなんか美人なうえに何やらせてもトップだったからね」

 そんな感じかもしれない。有馬先生はキリッとしていて一分の隙もなく頭良さそう。比内さんも完全にそのタイプだが、有馬先生の場合はさらに真っ直ぐピンと張り詰めているイメージだ。

「まさしく才色兼備ってやつさ。法学部男子の注目の的で女子達からもキャーキャー言われてた。とにっかくもう、モテるんだよ。男からも女からもね。美人で頭良くてカッコいいから」

 マンガみたいな人だ。

「なのにそれがまさか……あんな冷血漢に告るとは」

 はあっと深く残念そうに溜め息をついてリンゴジュースをすすったこの人。細いストローでグイグイとコップのかさが減らされていく。
 その様子を目で追いながら、さっそく黙っていられず問いかけた。

「有馬先生の方から……?」
「彼女ああ見えて面食いなんだ」
「なるほど……」
「あの瞬間に確信したよね。神様は平等なんかじゃないって」

 人類の大半は一生のどこかで必ず気づくであろうそれ。生き物の生みの親のカミサマとかいう奴はユースティティアみたいな目隠しなんてしていないだろうからな。

「……それで比内さんもオッケーを?」
「うん。女避けに」
「はい?」
「語れば語るほど嫌な野郎だ」

 リンゴジュースはコトッとテーブルに戻された。中川さんはまたしても深々と溜め息。

「あいつは女子から告られるたびに毎回断り通してたんだけど、そんなささやかなひと手間でさえもいよいよめんどくさくなってきたんだよ。そんな時に不幸にも現れたのがトワちゃんさ。比内にとってはちょうどいい盾だ。最強の彼女を作ることによって破り難いバリアを張った」

 こっちもマンガみたいな人だ。

「え、じゃあ……恋愛感情はなかったってことですか……?」
「あいつにちょっとでも愛があれば三週間で破局なんて事態にはならなかったかもしれないね」
「オッケーした理由知られて破局に……?」
「いいや、その辺は関係ない。あ、でもこの話トワちゃんには絶対内緒ね。あの子めちゃめちゃプライド高いから今更こんなことがバレたら即刻事務所辞めかねない」

 とんでもない話を聞いてしまった。中川さんのこの言い方は決して冗談などではない。

「別れに至った直接の原因は模擬裁判だった」
「模擬裁判……?」
「法学部で履修できる科目の一つでね、弁護士役とか裁判官役とか配役割り振って裁判の演習をするんだよ。それで比内が弁護士に当たった時の検察官役がたまたまトワちゃんだったんだ」

 順番と配役はクジ引きで決めたからこれもまた神様のイタズラだろうね。中川さんはどこか遠い目をして言った。

「あの時の演習室を一言で例えるならそう。地獄絵図だ。追及と弁護を淡々と交わしながら睨み合う二人に挟まれた証人役の子はいやもう実に……可哀想だった」
「…………」

 残念ながら想像できる。あの二人のちょっとした喧嘩を近くから見ているだけでも俺は凍りついたというのに、あれの間に挟まれながら体感するなんて絶対に地獄だ。

「担当教授からは絶賛されてたけど見学してた他の学生一同はひたすら自信を喪失することになった。俺を含めてね。ごく一般的かつ善良な法学部生をたった一回の模擬法廷で圧倒しきったその結果」
「結果……?」
「二人は別れた」
「……えーっと」
「アーティストで言うところの方向性の違いってやつかな」

 ピンとこない。

「演習が終わった後も二人はしばらく言い争ってた。とはいえどっちの論理展開もイヤミなほどに粗がないんだから決着なんか付くはずもない。ただの模擬裁判が平行線辿っちゃったせいで未だに緊張状態続いてるんだよ。彼らが険悪なのはそのせいだ。クソしょうもないうえに傍迷惑な話でしょ?」
「…………」

 二人のあのギスギスした態度は学生時代からの因縁なのか。さすがにちょっと長すぎないか。

 お互いにあまり顔は会わせなくても必要があれば話は普通にしている。弁護士さんにも専門分野とか得意分野とかは色々あるみたいだから協力して動くこともあるようだ。
 しかしちょっとでも意見が食い違うとその瞬間に火花が飛び散る。ここでバイトするようになってまだ俺は日が浅いがすでに何度かその光景を目にした。あれは熱波というよりも、高温すぎて逆に冷たく感じるタイプの鋭い火花だ。

 まるで背景に吹雪でも見えるような。吹雪どころか周りを氷漬けにしそうな。冷静に淡々とあくまで事務的に、仕事上仕方なしに言葉を交わしているかのように。

「そんな仲悪いのにどうして一緒に仕事なんて……」
「俺がトワちゃんをナンパしてきたんだよ。検事辞めたって風のうわさで聞いたもんだから」

 再びリンゴジュースに手を伸ばしながら中川さんはサラリと答えた。当然のように言われた俺は、二秒くらい飲み込めない。

「……有馬先生って検察にいたんですか?」
「そうだよ。超ヤリ手の検察官。だから辞めたって聞いた時は俺も比内もすげえびっくりした。彼女はあのまま突き進んで確実に出世街道乗ると思ってたから」
「へえ……」

 みんな元々違う所で働いていたとは言っていたけど、そもそも弁護士ではなかったのか。ヤメ検とかいう言葉だけならサスペンスドラマやなんかで聞いたことがある。その実物が目の前にいた。

 聞けば聞くほどかっこいい。検事。似合う。いかにもって感じだ。悪人をバシバシ成敗しそう。
 平等で公平で正義的な雰囲気が見るからに漂っている。有馬先生はまさしくユースティティアみたいな人だろう。
 けれども悪人じゃない比内さんのことだけはビリビリに目の敵にしている。目の敵にされている比内さんも目の敵にし返しているが。

「おいコラ」

 その時ガチャッと、音がした。ドアだ。咄嗟に目を向け、ぴしっと固まる。
 そこには苛立ちを顔面で表現しながら比内さんが立っていた。

「何してやがるテメエら。遊んでねえで働けゴミども」

 静かながらも響いた低音。ついに俺もゴミって言われた。
 すぐさまこの視線は上に行く。腰が抜けそう。どうしよう。これは蹴られるか。謝る暇も与えられないうちから、ズンズンこっちに迫ってくる。

「いつまでも戻って来ねえと思ったら何してんだお前は。こんなとこで油売ってんじゃねえ」
「ッはい、すみませんっ!」

 慌ててズサッと立ち上がる。比内さんと出会ってからというもの腹から声が出るようになった。
 そんな俺を捕獲でもするかのように、ガシッと腕を掴んでくる。

「さっさと来い。中川の蹴散らし方なら夕べ教えてやっただろうが」
「陽向に何を教えてんのさ」

 ギロッと中川さんに向けられたその視線。ついでに眉間の立て筋もビキッと一本増えていた。

「黙れこの野郎。テメエは陽向に用を言いつけんじゃねえ」
「用って程じゃないよ、リンゴジュース持ってきてもらっただけだもん。ついでに事務所の内情を教えてただけだもん」
「ああっ?」
「比内とトワちゃんの関係がどんな感じだか俺が言っておかないと誰も陽向に教えないでしょ?」
「そんなことを教えろと誰が頼んだ」

 ここまでの話の中身とそれを俺が知ってしまった事実を見事にバラされた。比内さんの視線は俺に戻ってきた。

「おい、マセガキこら。お前も余計な詮索してんじゃねえぞ」
「ごめんなさい……」
「知りたい事があるなら俺に言え。お前に知る必要がある内容なら答える。それ以外は諦めろ。あとな、これは夕べも言ったが中川には基本的に近付くな。どうしてもこいつに茶を出してえならドアから顔めがけてぶん投げてやれ」
「ひっど。え、ひっど。どんな差別」
「うるせえ、仕事しろ。行くぞ陽向。この部屋には二度と近寄るな」

 二の腕をガッシリ掴まれて連行。人間に捕まった宇宙人はこんな気分になるのかもな。
 このままお説教の一つでも食らうかと思ったら、出ていく間際にその声は後ろの中川さんへ向かって投げられた。

「このガキの十分間分の時給はお前の報酬から差し引く」
「うっそん」
「俺の雑用係を私的利用するんじゃねえ」
「事務員は召使いじゃねえとか言ってたの自分じゃんかよこの暴君が」
「黙れゴミ虫」

 バンッとドアを閉めた比内さんの機嫌がすこぶる悪くなったのは言うまでもない。

 そのまま比内さんの部屋に連れられ、申しつけられた入力作業。こっちに持ってきていたノートパソコンに向かいつつ、デスクに戻った比内さんをチラ見。さっきほど眉間は寄っていないがいつもながら顔は怖い。

「すみませんでした……」
「まったくだ。何を明るく捕まってんだよガキ」
「すみません……」

 好奇心に負けた負い目もあるから弁解の余地もない。
 フルタイムではもちろんないからそもそも俺に休憩時間はない。そのはずだが適度な休憩はもらえているのに、全然関係ないことをしてしまった。

「あの……十分間分は俺の時給から……」
「そんなこと気にする暇があるなら手を動かせ。それ終わったら郵便の仕分けしろ。それも終わったら向こうに戻って七瀬を手伝え」

 法律事務所には毎日色んな郵便物が届く。事務所宛てにも届くし比内さん宛てにも届くし、有馬先生にも中川さんにもあらゆる所からあらゆる封書が。
 その仕訳とお届け係も今は俺の役割だ。比内さんに届けた午後の分の封筒の束は、届けた時のままテーブルに乗っかっている。言われた通り作業を始めつつもチラリとまたその顔を窺った。

 そうやって時折チラチラ見ている俺が鬱陶しくなったのだろう。比内さんがウザそうに顔を上げた。そして小さく、はぁっと溜め息。

「……心配しなくても一円も引かねえよ。中川もちゃんと分かってる。そもそもあいつは時給労働のお前とは違って年俸制だ」

 雇い主に溜め息をつかせただけでは飽き足らず、そのうえにお気遣いまで受けた。

「年俸……」
「意味わかるか」
「……なんとなく、はい」
「そうかよ。じゃあ手を動かせ時給泥棒」

 時給泥棒。

「…………すみません」
「そう思うなら黙って仕事しろ」
「はい……」

 これ以上時給を泥棒しちゃいけない。雇い主の命令通り、その後は黙って仕事した。
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