たとえクソガキと罵られても

わこ

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31.比内法律事務所Ⅱ

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 渡された資料から指示された情報を抜粋し、七瀬さんが作った表にひたすら入力する作業をしていたら途中で声をかけられた。
 俺の定時はきっかり守られる。終了を合図されるのは十八時ちょうど。今日はここまででいいよ、お疲れ様。七瀬さんにそう言われてページをカチッと保存した。あんまり役に立っている気がしない。

 向かったのは比内さんの部屋。三回のノックの後にはさっきとは打って変わって落ち着いた声が聞こえてきた。入れ。
 この大人にもずいぶん慣れたと思っていたが、雇い主とバイトという立場になるとまた違った緊張感がある。デスクの前に行けばわざわざ顔を上げてくれるし淡々とした話し方は普段通りだが。一言二言だけ言葉を交わし、その場でぺこりと軽く頭を下げた。

「それではお先に失礼します」
「ああ。お疲れ」

 比内さんにはまだまだ仕事が山積み。雑用ならばできることもあるけど、比内さんが抱えているものを俺が手伝う事はできない。

「……陽向」
「はい?」

 几帳面に整えられた部屋をあと一歩で後にするところ。ドアノブに手をかけると同時に静かに呼ばれて振り返った。

「言わなくても分かってると思うが、有馬は何も間違ってない」
「はい……?」
「ああいう奴に救われる人間は多い。ただし権利の主張ってのはやたらにやればいいってもんでもねえ」

 少し前のさっきのアレを言っているのはさすがに分かった。思わずドアノブから手は外れている。

「見栄えのいい制度だけ整えたってな、本当に助けが必要な人間を救えないならなんの意味もない。誰かの権利を守ることで誰かの権利を奪うこともある。俺らがやってんのはそういう商売だ」

 うなずくのは少しためらう。比内さんの口調はやはり淡々としていた。いつも通りの喋り方だ。けれど綺麗な色素を持ったその目はまっすぐに俺を見ている。

「お前もここでバイトするなら多少は知っとけ。違法と不当は同一じゃねえ。こっちが勝とうが負けようが、胸くそ悪い結果を見ることが少ないとは言えねえからな」
「…………」
「有馬に言わせりゃこれもつまらねえ講釈だ。いいぞ行って。中川に捕まらねえように帰れよ」

 ふっと、そこで比内さんの視線が下がった。話はこれでおしまいということだ。これ以上ここに黙って突っ立っていても邪魔になるだけで役には立たない。
 再び一礼して今度こそ部屋を出てきた。パタンと閉めたドアの前では、そのまま少しだけ動けずにいた。







 事務所を出たら猫に出くわした。ドアの真ん前を陣取って寝ている。白が交じったトラ柄の猫だ。こいつが前に比内さんをたぶらかした奴だろうか。

 猫の前でゆっくりしゃがみ込んでも逃げる気配は全然なかった。地面に寝そべったままゴロゴロとして、見るからに完全なるリラックス状態。そっと手を伸ばしてみれば、こちらから撫でるまでもなくモフッと頭をこすりつけてきた。
 かわいい。よく見れば左耳の先端が桜の花びらみたいな模様にカットされている。首輪はないから飼われてはいないと思うが、この懐き方を見ると地域猫のような存在なのかもしれない。

 さくら耳の猫にするための処置を小さな体に施そうとするのは人間側の都合でしかない。苦しめたくはない。可哀想にも思う。かといって見境なく増えられてしまってはこちらが困ることになる。
 それでも怖い思いをする子たちが少しでも減るようにとの計らいはここからも感じられる。苦しめたくないと思うのは、俺たちが人間だからだ。

 人間側がちゃんと注意を払えば猫とは上手く共存できる。人間同士はちゃんとやろうとしても上手くいかないことが多い。

 この世に完璧なものなんてない。法律を作るのが人間であれば法律を使うのも人間だ。使いようはいくらでもある。だから比内さんのような人がいる。
 誰かを守るために使われるそれによって現に俺は救われた。それはなんらかの害を防御できる反面、誰かを攻撃することもできて、表面上に見えている物事とその裏側が同じとは限らない。

 世の中に存在するのは単純な善と悪だけはない。どっちが白でどっちが黒か、ほんの少し見方を変えるだけでも道筋は大きく変化する。善意と善意、正義と正義が、正面からぶつかることだってある。
 自由とか権利とか正義とか。他者の尊重。個人の尊厳。そういうのはとにかく難しい。いつだって一筋縄ではいかない。だって俺たちは人間だから。一つから分裂したわけではなく、一つの集合体でもなくて、一つ一つの人間だから。

 隣り合ったパズルのピースみたいに綺麗に連結できるのであれば何も問題は起きないけれど、俺たちの形は驚くほどにいびつだ。
 だから反発し、誰かが傷つく。散々に痛めつけようとする。執拗に、二度と立てなくなるまで。

「…………にゃあ」

 面倒くさい。そうとでも呟いておかなければ今にも押しつぶされそうだ。それを偽物の猫語に代えたら、懐っこい茶トラ白は本物のニャアで返してくれた。

 何が正しいか分からないなら結局は自分で考えるしかない。猫はこんなに可愛いけれど答えを教えてはくれないだろう。
 答えだなんてつまらないものを、求めるのは人間だけだ。
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