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30.比内法律事務所Ⅰ
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学校が終わると制服のまま比内法律事務所に向かうようになった。
正式なバイト初日は昨日。事務所に行くなり比内さんの部屋にて、まずは契約書を突き付けられた。
「よく読め。隅々までしっかり把握しろ。多少だろうと疑問があれば飲み込まずに正直に聞け。急かす気はない。とにかくちゃんと読め。十二分に納得した上で了承できる場合のみサインしろ」
そう言われたのでちゃんと読んで納得したためサインした。細かい契約と業務内容を比内さんと話した後は、七瀬さんと長谷川さんのいる事務室で細々した作業をしていた。
それは今日もほとんど変わらず、書類整理に郵便物の仕分けに、ちょっとした入力作業に。どれも七瀬さんが丁寧に教えてくれるし長谷川さんもちょくちょく声をかけてくれる。
上司にお茶出しなどという文化はこの事務所には存在しないそうだ。来客時は別としても基本的にその辺はなんでもセルフ。欲しけりゃ自分で淹れろ。事務員は召使じゃねえ。それが比内さんの方針らしい。
反対に七瀬さんの前の職場の上司で横柄かつ上から目線のアレオレ詐欺頻発部長は、お茶くみを完全に女の仕事だと決めつけているタイプだったと言う。
なので、
「実社会に適用されてないだけで雇う側も働く側も本来の立場は対等だ。顎で使われる理由は誰にもないだろ」
と、比内さんに言われた時は感動通り越して敬愛したと七瀬さんは熱く語った。以前の勤め先がよっぽど辛かったのかもしれない。
それでも手が空いているときとか、自分が給湯室に立ったときとか、七瀬さんも長谷川さんもなんやかんやでお茶を運んでいる。
それは上司だからというより純粋な気遣いだろう。俺もたとえイチミクロンだろうと役に立てるならなんでもしたいから二人と同じようにする。
今しがた比内さんの部屋を出てきた。中川さんはもうすぐ帰ってくるだろうけど現在は外出中。トレーの上にカップを一つだけ乗っけて、向かったのは有馬先生の部屋の前。
前からこの事務所には時々来ていた。しかし有馬先生と会う事はあまりなかった。顔を合わせても会釈程度で、そのため言葉を交わす機会はこれまでほとんど持てなかったが、雑用係として雇ってもらったためこちらからドアをノックする用事ができた。
昨日もそうだった。今日もそうだ。でもまだ少し緊張する。比内さんとどことなく似ているけれど、あの人とはまた違った種類の強いオーラがある女性。
「有馬先生、失礼します。お茶をお持ちしました」
ノックへの返答を聞いた後にドアを開ければその人はデスクに。作業の手を止めちらりと顔を上げてくれる。パソコン越しに目が合った。
「ありがとう」
「いえ。何かご用はありますか?」
ゴミ箱を片付けるとか用済みの書類を部屋から下げるとか俺にできるのはそれくらいだ。
七瀬さんは法律事務全般を任されながら秘書業務も経理業務も一手に担ってバリバリ仕事を捌いている。同じくパソコンに向かう長谷川さんは情報セキュリティ方面も受け持ち、必要があれば軽いフットワークでどこへでも繰り出す調査要員でもある。忙しくしている二人の負担を減らすために雇ってもらったのが俺。
誰にでもできるけれどやるとなると手間な作業を引き受けるべく微妙にぎこちなくお尋ねすれば、有馬先生はテーブルに出ているファイルを見ながら静かに言った。
「そこの書類なんだけど、ラベルごとに振り分けて光ちゃんに渡してもらえる? その横の封筒もお願い。彼女に預ければその後の指示はしてくれるから」
「分かりました」
三冊分の薄いファイルと、口の閉じていない大判の茶色い封筒を手に取った。
一礼して出ていくだけのつもりが、そこでふと気付いた視線。なんか見られてる。
「……ここに高校生がいるって不思議な感じ」
「あ……すみません」
「いいえ。新鮮でいいなと思って」
言いつつ席を立ち、こっちに出てくる。初対面の時にも思ったがスラッとしていて迫力がある。
俺の前で足を止めると、じっとこの顔を覗き込まれた。
「ねえ。ちょっとほっぺた触ってもいい?」
「……はい?」
「初めてあなたを見た時からずっと思ってたんだけど……」
いいとも悪いとも言わないうちからヒタリと頬に触れられた。想像に反して温かい手のひらがスルッと表面を撫でてくる。
「あぁ……やっぱり。すべっすべ。なんなのこれ羨ましい。お手入れは? どうしてるの?」
「お、お手?……いや、あの……特に何も……」
「綺麗な子ってみんなそう言うの」
高校生の男の九割はきっとこの答えになるはず。
「時間は大切にしなさいね。気づいた時には十代なんてとっくに終わってるんだから」
「あ……はい」
「戻れるものなら私もあの頃に戻りたい」
「…………」
どうしよう。指先でツンツンされながら突っ立つ。弾くことも引く事もできずに視線だけがキョロキョロ泳いだ。
有馬先生ってこんな感じだったか。いやほぼ話したことがないからそもそもよく知らないんだけど。動くに動けず棒立ちになっていると、ポンっと今度は両肩に手が乗った。
「あなたがいるとこっちもいい刺激になる」
「オイこらババア」
とんでもない暴言が響いた。後ろのドアから豪快に入ってきたのはここの代表。比内さんだ。
バンッと少々乱雑に部屋のドアが閉められた時には、平静だった有馬先生の目つきが一瞬にしてギロリと鋭くなっている。
「誰がババアだこのヤクザ顔」
「能面みてえなツラしたテメエに言われる筋合いねえんだよ年増が」
なんだこの暴言の投げ合い。この人たちは弁護士のはず。そして同期で同い年のはず。もう一つ言うなら二人とも全く人から貶されるような姿形ではない。
ズカズカと大股でやって来た比内さんは俺の二の腕をガシッと掴んだ。何事かを言う暇すら与えられずにその背の後ろにバッと追いやられている。
大人二人が何やらバチバチだ。
氷点下の暴雨を思わせるほど冷徹な目をする有馬先生。カエルなら窒息しているだろう睨みであっても屈する気配さえ見せることなく、その眼前に仁王立ちでドンッと構える比内さん。
「ウチのガキにベタベタ触ってんじゃねえ。痴女かお前は、このセクハラ弁護士」
「失礼なこと言うのはやめなさい。そもそもあなたの子じゃないでしょ」
「俺はこいつの後見人だ」
「それがなんだって言うの偉そうに。未成年後見人に人間関係まで制限する権限なんてないじゃない」
怖い。寒い。寒いのに火花が見えそう。
今にも具現化しそうな険悪なムードに早くも俺の腰は引き気味。有馬先生に鋭い睨みでけん制し返した比内さんは、チッとガラの悪い舌打ちとともに俺の腕を再び掴んだ。
「来い陽向。俺の部屋で資料の整理してろ」
「はぁ? ちょっと待ちなさい、その子はあなた専用のアシスタントじゃないんだから。今は私が仕事頼んでるの。二番目の奴は二番目に頼め」
足を止めた比内さんは有馬先生と再び対峙。ジリッと睨み合うのをやや後ろから声もなくこそこそ窺う。
もしかして。いや、もしかしなくても。この二人、めちゃくちゃ仲が悪い。思ったそばからさっそく始まっていた。
「こいつを雇ってんのは俺だ。便利なアシスタントが欲しけりゃ自分で雇え」
「前に私が連れてきた子を散々に泣かせたあげく三日で追い出したのはあなたでしょ」
「多少の指摘で泣きだすような根性もクソもねえバカ女を連れて来たお前が悪い」
「前時代的な発想と発言はそろそろ慎んだらどうなの。あなたみたいな男がいるから社会から女性への差別が一向になくならないんじゃない」
「男だろうと女だろうと使えねえ奴に用はねえ。男だ女だとハナから分けて考えてんのはお前らじゃねえか。真っ当な指摘ですら難癖付けられていちいち騒がれなきゃならねえようじゃ現代的な人間様はこの先何も喋れなくなるな」
「つまらない講釈垂れるしか能のないあなたにはきっと分からないでしょうけど配慮を欠いた一つの発言が人の行動を制限するだけの原因になることは山ほどあるの。偏った価値観は人間の権利を強奪するのに十分ってことよ」
「気に障る発言が出てくるたびに権利侵害とでも訴えりゃ体裁は保てるだろうよ。個人的な範囲の問題をなんでもかんでも社会的な問題に仕立て上げようとする奴らの手口だ」
「あなたそれでよく堂々と弁護士が名乗れるわね。今すぐ資格返上してきたらどう」
「お前こそこんな職業やってて物事の本質も見極められねえのか。バッジ返してきたらどうだ」
「ここまでの礼儀知らずは他に会ったことがない」
「イチャモン付ける心づもりで対話してる人間のために作法を身につけてなんになる。だいたいお前は昔から、」
「あんたと昔話する気はないんだよ。敬意も何も分からない人間が偉そうに御託並べ立、」
「敬意だの尊厳だの語るよりも先にまずはテメエで何喋ってるか認識し、」
「人が話してる時に遮らないでくれるッ?」
「それはお前だろうが棚上げしてんじゃねえ」
なんだか、既視感があるような。ああ。そうだ。四百メートル先にある朝比奈クリニックだ。先生の診療所でも確かこんなことがあった。懐かしいな。そんなに昔のことじゃないけど。
早口で淡々と交わされる激論は終わりそうな気配がない。呆然としつつも非常に気まずく、居場所がない俺は一体どうすれば。
「陽向陽向。こっちおいで」
天の救い。などと一瞬思ったが振り返ってみれば中川さんだった。外出先から戻ったようだ。
少しだけ開けたドアからこそこそと顔だけを出して、チョイチョイと手招きしてくる。俺もできればそっちに行きたいがチラリとだけ二人を窺った。まだやってる。
「あ……でも……」
言い淀むも再び手招きされて、そそっとその場から俺一人が離れた。
言い合いは落ち着くどころかどんどんとヒートアップしていく。しまいにはよく分からない法律用語まで飛び交い始めた。
ちょっとお茶を持ってきただけでどうしてこんなことになるのか。中川さんがここにいることにも気づいていないような雰囲気だ。
「こうなるとしばらく終わらないから放っといていいよ。そのファイル光ちゃんにでしょ?」
「あ、はい」
「あっち行こう。民度低いコメント欄以下の口論は少年の倫理観に害悪だ」
民度低い呼ばわりされた二人は冷徹に睨み合いながら言い合っている。ファイルを持ったまま腕を引かれ、中川さんについていく道を選んだ。
優しそうな七瀬さんと明るそうな長谷川さんのいる事務室に戻ってようやく落ち着く。さっきのあれはなんだったのか。考えるまでもなく口論だろう。
持ってきたファイルは有馬先生に言われた通りラベルごとに振り分けて、大きい茶封筒と一緒に七瀬さんに手渡した。封筒の中身を確認した七瀬さんはさっそく作業を開始している。すぐ横では中川さんがいつの間に持ち出してきたのか、デカい煎餅をバリバリかじりながら空いている椅子に半端に腰かけた。
「ねえ光ちゃん、この後はもう比内とトワちゃんに来客なかったよね?」
「はい、ありません。本日予定していた打ち合わせは全て終了しています」
事情は聞かずとも分かっているのか、心得たように七瀬さんが答えた。パソコンから顔を上げた長谷川さんも苦笑いを浮かべている。
「また始まっちゃったんですかあの二人」
「うん、いま超バトってる。今回もなんか長引きそう」
「前はどれくらいいきましたっけ?」
「二週間と三時間だね。その前の時の記録ギリギリ更新しなかったんだよ」
キョトンとする俺には中川先生が目を向けてきた。
「あの二人の相性ってやつは激烈に悪くてさ。一度口論が始まっちゃうとその後はまともに口も利かなくなるんだ」
そこまで酷いのか。確かにあの二人が顔を突き合わせて仕事をしているところは見たことがないが。
「さっき比内さんから部屋で資料の整理しろって言われたんですけど……」
「ああ、いいよ気にしなくて。本当に必要ならまた呼ぶだろうから」
「そうですか……」
「あいつはどうせトワちゃんから陽向を奪い取りたかっただけだ。大人げない男だよ全く」
この人はあの状況をどこから見ていたのだろう。
煎餅持ちながら仕切り直すかのようにパンッと一度手をたたき、晴れやかな顔を俺に向けてきた。
「さーて、陽向。手が空いたなら俺と一緒に朝比奈先生のとこにでも…」
「中川先生、それは認められません」
それを七瀬さんが即座に遮った。
「比内先生から指示を受けています。中川先生の個人的な所用のために陽向くんを付き合わせる事は許さないようにと」
「クソッ。あの鬼。なんて卑怯な」
比内さんの手回しが早い。
七瀬さんは仕事熱心な人で雇用主にとても忠実でもある。比内さんと中川さんが対立したときはその中身のいかんにかかわらず即決で比内さんの援護に回る。
「陽向くん、ちょっとおつかい頼んでもいい?」
「はい」
「この封筒全部まとめてポストに入れてきてほしいの」
差し出されて受け取った封筒の束。そのうち一通はついさっき有馬先生の所から持ってきた大判のものだ。
ダイレクトメールの類ではなさそう。弁護士事務所って本当にやる事が膨大なんだな。
「あとね、こっちは帰ってきてから頼みたいんだけど……」
七瀬さんが顔を向けた方を見れば、事務室の端っこ。そこのシュレッダー。
大型のそれの脇には大量の書類が積み上げられている。中サイズの段ボールの中に入ってはいるものの、高さが足りずに積み上げた紙が五センチくらいはみ出していた。
「シュレッダーかけようかけようってずーっと思いつつどんどん溜まっちゃってて。ここにあるやつお願いしたいんだけど」
「分かりました。全部いいんですか?」
「うん、確認してあるから大丈夫。ゴミ袋そこの棚の一番下の引き戸に入ってるから一杯になったら交換してね」
「はい」
雑用だろうとなんだろうとできることがあるなら引き受ける。そのために無理言って始めさせてもらったバイトだ。
ひとまずはポストに向かおうとした俺にシレッとついてこようとした中川さんは、顔だけはにこやかな七瀬さんの手にガシッと掴まれて部屋に連行されていった。七瀬さんは常に比内さんの味方だ。
正式なバイト初日は昨日。事務所に行くなり比内さんの部屋にて、まずは契約書を突き付けられた。
「よく読め。隅々までしっかり把握しろ。多少だろうと疑問があれば飲み込まずに正直に聞け。急かす気はない。とにかくちゃんと読め。十二分に納得した上で了承できる場合のみサインしろ」
そう言われたのでちゃんと読んで納得したためサインした。細かい契約と業務内容を比内さんと話した後は、七瀬さんと長谷川さんのいる事務室で細々した作業をしていた。
それは今日もほとんど変わらず、書類整理に郵便物の仕分けに、ちょっとした入力作業に。どれも七瀬さんが丁寧に教えてくれるし長谷川さんもちょくちょく声をかけてくれる。
上司にお茶出しなどという文化はこの事務所には存在しないそうだ。来客時は別としても基本的にその辺はなんでもセルフ。欲しけりゃ自分で淹れろ。事務員は召使じゃねえ。それが比内さんの方針らしい。
反対に七瀬さんの前の職場の上司で横柄かつ上から目線のアレオレ詐欺頻発部長は、お茶くみを完全に女の仕事だと決めつけているタイプだったと言う。
なので、
「実社会に適用されてないだけで雇う側も働く側も本来の立場は対等だ。顎で使われる理由は誰にもないだろ」
と、比内さんに言われた時は感動通り越して敬愛したと七瀬さんは熱く語った。以前の勤め先がよっぽど辛かったのかもしれない。
それでも手が空いているときとか、自分が給湯室に立ったときとか、七瀬さんも長谷川さんもなんやかんやでお茶を運んでいる。
それは上司だからというより純粋な気遣いだろう。俺もたとえイチミクロンだろうと役に立てるならなんでもしたいから二人と同じようにする。
今しがた比内さんの部屋を出てきた。中川さんはもうすぐ帰ってくるだろうけど現在は外出中。トレーの上にカップを一つだけ乗っけて、向かったのは有馬先生の部屋の前。
前からこの事務所には時々来ていた。しかし有馬先生と会う事はあまりなかった。顔を合わせても会釈程度で、そのため言葉を交わす機会はこれまでほとんど持てなかったが、雑用係として雇ってもらったためこちらからドアをノックする用事ができた。
昨日もそうだった。今日もそうだ。でもまだ少し緊張する。比内さんとどことなく似ているけれど、あの人とはまた違った種類の強いオーラがある女性。
「有馬先生、失礼します。お茶をお持ちしました」
ノックへの返答を聞いた後にドアを開ければその人はデスクに。作業の手を止めちらりと顔を上げてくれる。パソコン越しに目が合った。
「ありがとう」
「いえ。何かご用はありますか?」
ゴミ箱を片付けるとか用済みの書類を部屋から下げるとか俺にできるのはそれくらいだ。
七瀬さんは法律事務全般を任されながら秘書業務も経理業務も一手に担ってバリバリ仕事を捌いている。同じくパソコンに向かう長谷川さんは情報セキュリティ方面も受け持ち、必要があれば軽いフットワークでどこへでも繰り出す調査要員でもある。忙しくしている二人の負担を減らすために雇ってもらったのが俺。
誰にでもできるけれどやるとなると手間な作業を引き受けるべく微妙にぎこちなくお尋ねすれば、有馬先生はテーブルに出ているファイルを見ながら静かに言った。
「そこの書類なんだけど、ラベルごとに振り分けて光ちゃんに渡してもらえる? その横の封筒もお願い。彼女に預ければその後の指示はしてくれるから」
「分かりました」
三冊分の薄いファイルと、口の閉じていない大判の茶色い封筒を手に取った。
一礼して出ていくだけのつもりが、そこでふと気付いた視線。なんか見られてる。
「……ここに高校生がいるって不思議な感じ」
「あ……すみません」
「いいえ。新鮮でいいなと思って」
言いつつ席を立ち、こっちに出てくる。初対面の時にも思ったがスラッとしていて迫力がある。
俺の前で足を止めると、じっとこの顔を覗き込まれた。
「ねえ。ちょっとほっぺた触ってもいい?」
「……はい?」
「初めてあなたを見た時からずっと思ってたんだけど……」
いいとも悪いとも言わないうちからヒタリと頬に触れられた。想像に反して温かい手のひらがスルッと表面を撫でてくる。
「あぁ……やっぱり。すべっすべ。なんなのこれ羨ましい。お手入れは? どうしてるの?」
「お、お手?……いや、あの……特に何も……」
「綺麗な子ってみんなそう言うの」
高校生の男の九割はきっとこの答えになるはず。
「時間は大切にしなさいね。気づいた時には十代なんてとっくに終わってるんだから」
「あ……はい」
「戻れるものなら私もあの頃に戻りたい」
「…………」
どうしよう。指先でツンツンされながら突っ立つ。弾くことも引く事もできずに視線だけがキョロキョロ泳いだ。
有馬先生ってこんな感じだったか。いやほぼ話したことがないからそもそもよく知らないんだけど。動くに動けず棒立ちになっていると、ポンっと今度は両肩に手が乗った。
「あなたがいるとこっちもいい刺激になる」
「オイこらババア」
とんでもない暴言が響いた。後ろのドアから豪快に入ってきたのはここの代表。比内さんだ。
バンッと少々乱雑に部屋のドアが閉められた時には、平静だった有馬先生の目つきが一瞬にしてギロリと鋭くなっている。
「誰がババアだこのヤクザ顔」
「能面みてえなツラしたテメエに言われる筋合いねえんだよ年増が」
なんだこの暴言の投げ合い。この人たちは弁護士のはず。そして同期で同い年のはず。もう一つ言うなら二人とも全く人から貶されるような姿形ではない。
ズカズカと大股でやって来た比内さんは俺の二の腕をガシッと掴んだ。何事かを言う暇すら与えられずにその背の後ろにバッと追いやられている。
大人二人が何やらバチバチだ。
氷点下の暴雨を思わせるほど冷徹な目をする有馬先生。カエルなら窒息しているだろう睨みであっても屈する気配さえ見せることなく、その眼前に仁王立ちでドンッと構える比内さん。
「ウチのガキにベタベタ触ってんじゃねえ。痴女かお前は、このセクハラ弁護士」
「失礼なこと言うのはやめなさい。そもそもあなたの子じゃないでしょ」
「俺はこいつの後見人だ」
「それがなんだって言うの偉そうに。未成年後見人に人間関係まで制限する権限なんてないじゃない」
怖い。寒い。寒いのに火花が見えそう。
今にも具現化しそうな険悪なムードに早くも俺の腰は引き気味。有馬先生に鋭い睨みでけん制し返した比内さんは、チッとガラの悪い舌打ちとともに俺の腕を再び掴んだ。
「来い陽向。俺の部屋で資料の整理してろ」
「はぁ? ちょっと待ちなさい、その子はあなた専用のアシスタントじゃないんだから。今は私が仕事頼んでるの。二番目の奴は二番目に頼め」
足を止めた比内さんは有馬先生と再び対峙。ジリッと睨み合うのをやや後ろから声もなくこそこそ窺う。
もしかして。いや、もしかしなくても。この二人、めちゃくちゃ仲が悪い。思ったそばからさっそく始まっていた。
「こいつを雇ってんのは俺だ。便利なアシスタントが欲しけりゃ自分で雇え」
「前に私が連れてきた子を散々に泣かせたあげく三日で追い出したのはあなたでしょ」
「多少の指摘で泣きだすような根性もクソもねえバカ女を連れて来たお前が悪い」
「前時代的な発想と発言はそろそろ慎んだらどうなの。あなたみたいな男がいるから社会から女性への差別が一向になくならないんじゃない」
「男だろうと女だろうと使えねえ奴に用はねえ。男だ女だとハナから分けて考えてんのはお前らじゃねえか。真っ当な指摘ですら難癖付けられていちいち騒がれなきゃならねえようじゃ現代的な人間様はこの先何も喋れなくなるな」
「つまらない講釈垂れるしか能のないあなたにはきっと分からないでしょうけど配慮を欠いた一つの発言が人の行動を制限するだけの原因になることは山ほどあるの。偏った価値観は人間の権利を強奪するのに十分ってことよ」
「気に障る発言が出てくるたびに権利侵害とでも訴えりゃ体裁は保てるだろうよ。個人的な範囲の問題をなんでもかんでも社会的な問題に仕立て上げようとする奴らの手口だ」
「あなたそれでよく堂々と弁護士が名乗れるわね。今すぐ資格返上してきたらどう」
「お前こそこんな職業やってて物事の本質も見極められねえのか。バッジ返してきたらどうだ」
「ここまでの礼儀知らずは他に会ったことがない」
「イチャモン付ける心づもりで対話してる人間のために作法を身につけてなんになる。だいたいお前は昔から、」
「あんたと昔話する気はないんだよ。敬意も何も分からない人間が偉そうに御託並べ立、」
「敬意だの尊厳だの語るよりも先にまずはテメエで何喋ってるか認識し、」
「人が話してる時に遮らないでくれるッ?」
「それはお前だろうが棚上げしてんじゃねえ」
なんだか、既視感があるような。ああ。そうだ。四百メートル先にある朝比奈クリニックだ。先生の診療所でも確かこんなことがあった。懐かしいな。そんなに昔のことじゃないけど。
早口で淡々と交わされる激論は終わりそうな気配がない。呆然としつつも非常に気まずく、居場所がない俺は一体どうすれば。
「陽向陽向。こっちおいで」
天の救い。などと一瞬思ったが振り返ってみれば中川さんだった。外出先から戻ったようだ。
少しだけ開けたドアからこそこそと顔だけを出して、チョイチョイと手招きしてくる。俺もできればそっちに行きたいがチラリとだけ二人を窺った。まだやってる。
「あ……でも……」
言い淀むも再び手招きされて、そそっとその場から俺一人が離れた。
言い合いは落ち着くどころかどんどんとヒートアップしていく。しまいにはよく分からない法律用語まで飛び交い始めた。
ちょっとお茶を持ってきただけでどうしてこんなことになるのか。中川さんがここにいることにも気づいていないような雰囲気だ。
「こうなるとしばらく終わらないから放っといていいよ。そのファイル光ちゃんにでしょ?」
「あ、はい」
「あっち行こう。民度低いコメント欄以下の口論は少年の倫理観に害悪だ」
民度低い呼ばわりされた二人は冷徹に睨み合いながら言い合っている。ファイルを持ったまま腕を引かれ、中川さんについていく道を選んだ。
優しそうな七瀬さんと明るそうな長谷川さんのいる事務室に戻ってようやく落ち着く。さっきのあれはなんだったのか。考えるまでもなく口論だろう。
持ってきたファイルは有馬先生に言われた通りラベルごとに振り分けて、大きい茶封筒と一緒に七瀬さんに手渡した。封筒の中身を確認した七瀬さんはさっそく作業を開始している。すぐ横では中川さんがいつの間に持ち出してきたのか、デカい煎餅をバリバリかじりながら空いている椅子に半端に腰かけた。
「ねえ光ちゃん、この後はもう比内とトワちゃんに来客なかったよね?」
「はい、ありません。本日予定していた打ち合わせは全て終了しています」
事情は聞かずとも分かっているのか、心得たように七瀬さんが答えた。パソコンから顔を上げた長谷川さんも苦笑いを浮かべている。
「また始まっちゃったんですかあの二人」
「うん、いま超バトってる。今回もなんか長引きそう」
「前はどれくらいいきましたっけ?」
「二週間と三時間だね。その前の時の記録ギリギリ更新しなかったんだよ」
キョトンとする俺には中川先生が目を向けてきた。
「あの二人の相性ってやつは激烈に悪くてさ。一度口論が始まっちゃうとその後はまともに口も利かなくなるんだ」
そこまで酷いのか。確かにあの二人が顔を突き合わせて仕事をしているところは見たことがないが。
「さっき比内さんから部屋で資料の整理しろって言われたんですけど……」
「ああ、いいよ気にしなくて。本当に必要ならまた呼ぶだろうから」
「そうですか……」
「あいつはどうせトワちゃんから陽向を奪い取りたかっただけだ。大人げない男だよ全く」
この人はあの状況をどこから見ていたのだろう。
煎餅持ちながら仕切り直すかのようにパンッと一度手をたたき、晴れやかな顔を俺に向けてきた。
「さーて、陽向。手が空いたなら俺と一緒に朝比奈先生のとこにでも…」
「中川先生、それは認められません」
それを七瀬さんが即座に遮った。
「比内先生から指示を受けています。中川先生の個人的な所用のために陽向くんを付き合わせる事は許さないようにと」
「クソッ。あの鬼。なんて卑怯な」
比内さんの手回しが早い。
七瀬さんは仕事熱心な人で雇用主にとても忠実でもある。比内さんと中川さんが対立したときはその中身のいかんにかかわらず即決で比内さんの援護に回る。
「陽向くん、ちょっとおつかい頼んでもいい?」
「はい」
「この封筒全部まとめてポストに入れてきてほしいの」
差し出されて受け取った封筒の束。そのうち一通はついさっき有馬先生の所から持ってきた大判のものだ。
ダイレクトメールの類ではなさそう。弁護士事務所って本当にやる事が膨大なんだな。
「あとね、こっちは帰ってきてから頼みたいんだけど……」
七瀬さんが顔を向けた方を見れば、事務室の端っこ。そこのシュレッダー。
大型のそれの脇には大量の書類が積み上げられている。中サイズの段ボールの中に入ってはいるものの、高さが足りずに積み上げた紙が五センチくらいはみ出していた。
「シュレッダーかけようかけようってずーっと思いつつどんどん溜まっちゃってて。ここにあるやつお願いしたいんだけど」
「分かりました。全部いいんですか?」
「うん、確認してあるから大丈夫。ゴミ袋そこの棚の一番下の引き戸に入ってるから一杯になったら交換してね」
「はい」
雑用だろうとなんだろうとできることがあるなら引き受ける。そのために無理言って始めさせてもらったバイトだ。
ひとまずはポストに向かおうとした俺にシレッとついてこようとした中川さんは、顔だけはにこやかな七瀬さんの手にガシッと掴まれて部屋に連行されていった。七瀬さんは常に比内さんの味方だ。
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