たとえクソガキと罵られても

わこ

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6.不機嫌な人Ⅱ

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「ん……」

 また少し寝ていたようだ。西日が射し込む病室は無駄に明るい。おそらくそんなに長い時間は寝ていなかったと思うのだが、風邪のせいか嫌な夢を見た。三ヵ月前に起こった出来事。その時の、あの、悪夢を。

 ゆっくり目を開けて白い天井を目に映せば、ここが現実だと思い知らされてどこかほっと溜め息をついた。夕方のこの明るさは一日の中で最も嫌いな色だ。あの日もこんな風に明るかった。色だけは鮮やかな空気に満たされ、誰もいない部屋の中で俺は母さんのことを呼んだ。

 まだ少し眠い。ウトッとしかけ、勝手にまぶたが閉じていく。
 次に眠りから目覚めた時に俺はまた一人だろうか。夢の中のあの絶望は、もう二度と味わいたくない。







「なんだまた来たのかお前。忙しいような事を言っておきながら実は暇なんじゃないのか」
「うるせえよ」
「お前がいるとあの子が怖がるから帰りなさい。寝てるのを起こすのも可哀想だろう」
「中川の野郎が様子見てくるとそればっか言いやがってクソうぜえ。あいつ寄越すといつまでもここに居座るから代わりに俺が来てやったんだ」
「ほう。代わりに。わざわざ。お前が。明日は槍でも降るのかもな」
「……拾ったガキがうっかり死んでたら目覚め悪いだろ」

 微かに漏れ聞こえてくる話し声を耳にして、再び落ちかけていた意識がうっすらと戻ってくる。もう一度ゆっくりまぶたを開けて、視界に収めた室内は想定外に明るくなかった。
 一瞬前は西日に照らされていると思ったのだが。どうやら寝ぼけていたようだ。着替えとして渡された診療所の着衣が肌に張り付く。
 辺りは薄暗い。廊下で響く二つの声は少しずつ近づいてきた。隙間が空いたままのドアにコンコンコンと響く音。しかし次いで聞こえた声で、控えめなノックの心遣いは完全に無効化された。

「おいガキこら。生きてるか」
「足でドアを開けるなといつも言っているだろうが馬鹿者。病人になんて口利いてるんだ」

 ノックをしたのは朝比奈先生。ドガッと雑な音を立ててドアを蹴り開けたのは比内さん。ノロノロと体を起こすと部屋の明かりをつけた朝比奈先生の呆れたような顔が見えた。

「すまない。起こしてしまったね」
「いえ。ちょっと前に目が覚めたので」

 閉院時間は過ぎている。患者がいなくなった診療所では、働きに来ている看護師さん達が帰り支度をしているようだった。
 ドアの外からは先生に向けて挨拶をする看護師さんの声が聞こえた。それに応えて先生が出ていってしまえば、この部屋の中に残されることになるのは俺達二人。
 気まずい。

「……あの、すみません。また俺のせいで時間取らせてしまって」
「全くだ」
「すみません……」
「…………」

 きっと不愉快に思われた。それを雰囲気で察した。恐々と視線を外し、もう一度謝ったら比内さんは舌打ちと共にこっちに歩いてきた。
 ズカズカと迫って来る恐怖。スーツの上から黒いコートを羽織っているだけなのに、この人が着ると危ない職業の類に見える。怯えて布団を握りしめると、比内さんの手がスッと俺に伸ばされた。

「……ガキが」
「え……」

 クイッと、指先が触れたのは目元。軽く目尻を拭われた事でそこが湿っていたのを感じる。
 自覚できない程度の涙だったけど。十六の男が、みっともない。母親の夢で泣くなんて。
 俺が気まずく視線を落とすと、今度は額を手のひらで覆われた。

「下がったか。熱は」
「……はい」

 昨日に比べれば体は軽い。殴られた箇所の痛みは消えないが。

「ご心配をおかけしまして……」
「別に心配はしていない」
「……すみません」

 結局この人と話していると謝る事しかできなくなる。

「……あの」
「なんだ」
「…………」

 ありがとうと言うのも変だし。また謝ったら睨まれそうだし。

「言いたい事があるならはっきり言え」
「いえ、その……忙しいなら……俺、大丈夫なんで。仕事戻ってください」
「あぁっ?」

 失敗だったと一瞬で悟る。ギロリと鋭く向けられたのは凶悪犯みたいな目つき。

「てめえ……」
「スミマセン……ッ」

 何がスミマセンなのかは知らない。反射で声を張り上げている。余計に苛立った様子の比内さんはシーツにバシッと手を付いてきた。
 間近に迫った顔面に呼吸は停まる。蛇に睨まれるカエルの心境を理解した。

「来てやって早々お前は俺にさっさと帰れと?」
「そ、ういう……つもりでは……」
「ならどういうつもりだ。俺が近くにいたらオチオチ寝てもいられねえんだろ。悪かったな、気が利かなくて。そうとも知らずにこんな犬小屋までノコノコやって来ちまってよ」
「…………」

 理不尽な大人にビクつく。淡々と不満を吐き出されては反論も弁解も俺にはできない。

「事務所にいれば中川がてめえの話持ち込んできてウゼエわ、こんな犬小屋に来てみればガキなんかに邪険にされるわ。俺も可哀想なもんだな。こっちはわざわざ片道四百メートルの距離を歩いて来てやってんだよ。その労力を無駄にさせる気かクソガキが」
「あ……え、っと……」
「犬小屋に長居なんざ俺だってしたくねえ。だが来たからには話の一つくらいはさせろ。じゃねえとまた中川の野郎がああだこうだとうるせ…」

 スパーンッ、と。
 比内さんの言葉は小気味よい音に遮られた。後頭部を押さえる比内さんの背後にはスリッパを持った朝比奈先生が。いつの間に戻ってきたのか、スリッパ片手に静かな怒りを表しながら立っている。
 比内さんは屈めていた身を起こしてゆっくりと後ろを振り返った。朝比奈先生と向かい合って発する声は唸るような低さ。

「……人の頭をなんつーモンで殴ってくれてんだテメエ」
「黙りなさい大馬鹿者が。お前はしばらく陽向くんと話すな」
「ふざけんなクソ野郎。俺が拾ったガキだぞ。話くらい好きにする」
「この子とまともに会話する気のない奴はここに近付くな。第一お前は彼に対する権限は何も持っていない」
「こいつは俺の拾得物だ」
「冬弥……。犬猫じゃないんだ。いい加減いつ誰から人権侵害やら名誉棄損やらで訴訟を起こされても文句は言えないぞ。そしてウチは犬小屋ではない」

 朝比奈医院は清潔感があって落ち着いた診療所だ。決して小さい施設ではなく、一度ならず二度三度と犬小屋呼ばわりされるような場所じゃない。
 だが比内さんはつまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。そしてグワンと俺の方に向き直り、その形相を目の当たりにした俺はヒッと声にならない悲鳴を上げた。

「おいガキ」
「は、はいッ……」

 ガシッと手荒く顎に手を掛けられた。上向きに視線を合わせられ、逃げ場のないベッドの上で戦々恐々と凍り付く。

「住所言え」
「はいっ…………え?」

 即座に返事を叫んだが、次に出てきたのは間抜けな声。俺の面構えが気に入らなかったのか比内さんは顔をしかめ、ズイッと迫ってきたかと思うと至近距離から睨まれた。死にそう。

「現住所だ現住所。今現在てめえが住居としている建物の所在地を言えっつってんだよ。一度で理解しろトロい」
「え……」
「え、じゃねえよ。とっとと吐け」

 スパーンッ、と。またもや響いた、さっきと同じ音。
 またしてもスリッパによって後頭部への打撃を受けた比内さん。地響きでもしそうな程に根深い怒りと恨みを表してジリジリと後ろに振り返った。
 地の底から這い出て来た鬼神のごとく憤慨を露わにする比内さんと、穏やかに、しかし淡々と冷めた眼差しで比内さんを制する朝比奈先生。対峙する二人を目の前にして俺はどうすればいいのかが分からない。

「バカスカと人の頭をスリッパで殴んじゃねえ。非常識にも程がある」
「お前に常識についてとやかく言われる筋合いはない。何をイライラしているか知らないがその子に当たるのはよせ。お前だっていい年なんだから少しは態度を改めなさい」
「うるせえなゴチャゴチャと。住所聞いてただけじゃねえかよ」
「聞き方と言うものがあるだろう。そんな態度だから怖がられるんだ」

 言われて俺の方をチラッと振り返った比内さんは、すぐに前へ向き直って風悪く舌打ちした。
 俺のせいか。これは俺のせいなのか。

「……ガキがっ」

 俺のせいらしい。悪態の付き方がカタギじゃなかった。俺は全身から血の気が引いている。

「ごめんなさい……」
「陽向くん、キミが謝る事は何もない。悪いのはすべてこの男だ」

 すかさず朝比奈先生が俺をフォローしてくれるが比内さんは更にイラ立ったご様子。これはむしろ逆効果だった。
 先生は菩薩のような人だけど比内さんが相手だとそうでもないようだ。俺の目の前では二人が睨み合いながら淡々と言い合っている。
 この二人がどういう関係なのかは知らない。しかしペースを乱さず単調に言葉を投げ合う様子からは、付き合いが長いのだろうことが窺えた。

「何かにつけては人の行動にイチャモンばっかりつけやがって。てめえは俺の保護者か。俺には俺のやり方ってものがある。デカい顔していちいち口出ししてくんじゃねえ」
「お前がそうやっていつまでたっても行いを正さないから毎回毎回こうしてフォローしてやっているんだろうが。いい年した男の保護者なんて誰が好き好んでやると言うんだ。弁護士を続けていくつもりならもう少し自覚と言うものを持て」
「仕事にまでケチ付ける気か。ヤブ医者が、どの口でもの言ってやがる。にこにこと気色ワリぃ笑顔振りまいてジジイババア女こどもを手玉に取るのが趣味のテメエに言われたかねえんだよ」
「口を慎め。自分に愛想がないからと言って人に当たるな。依頼人に顔で怖がられて相談前に帰られる弁護士なんて全国探してもお前くらいだぞ。相手あってこその仕事なんだからもう少し愛嬌を出しなさい」
「はッ。うるせえな善人ヅラが」
「その子供染みた態度を改めろと言うのが分からんのか無礼者」

 なんなんだこの人たちは。
 絶句する俺の目の前で繰り広げられるこの口論。しかしそこは医者と弁護士であって理系と文系のそれぞれ頂点だ。二人とも言葉の端々には理屈っぽさが際立ちはじめた。
 ポンポンポンポンと相手が投げてきた一撃に的確な答えを用意し、倍にした嫌味を投げ合う二人は喧嘩してるのに息がピッタリ。息継ぎ無しのワンフレーズで喋る技はもはや曲芸染みていた。

「だいたいてめえは」
「そう言うお前こそ」
「はいはいはいはいはいストップストーップ!」

 突如二人の諍いに割って入ってきたその人。無謀な乱入者に二人の目が一気にそちらへ向けられた。
 俺もつられてドアの方を見る。スタスタと部屋の中に入ってきたのは中川さんだった。

「ちょっと、なんで喧嘩してんの。先生まで比内と一緒になって何やってんですか。さっきから何度呼んでも誰も出て来てくれないし、勝手に上がってみたら大人二人が大人気ないし。彼すごく困ってるよ。ねえ?」
「え……」

 急に話を振られてキョトンと中川さんを見返した。俺にニコッと笑い掛け、比内さんと朝比奈先生に立ちはだかるツワモノなこの人。

「比内、彼の住所は聞けたの? 早くしないと夜になっちゃうよ。なんのために一日こっわい顔してバリバリ仕事片づけてたのか分かんないじゃん」
「うるせえ。言われなくても今聞いてた所だ」
「そうは見えないけどねえ」

 比内さんと朝比奈先生を交互に見比べて半笑いを浮かべた。中川さんの目が物語る呆れを察してか、小さく息をついたのは朝比奈先生。

「いや、すまない。キミの言う通りだ。大人気なかった」
「先生を怒らせるなんて比内くらいのもんですよ」

 俺や中川さんに向ける態度とは明らかな温度差がある。

「比内キミ、どーせそのコにまた何かひどいこと言ったりしたりしたんでしょ。住所聞きに来ただけでなんでこんな事になるかなあ」
「俺は何もしてない」

 「ほんと?」と中川さんの目が俺に向く。乾いた笑いも板についてきた。
 さっきまではずっと寝てばかりいたから関節が軋む。すぐそばで腰を屈めた中川さんは心配そうに俺の顔を覗き込んだ。その表情からは冗談めいたものが消えている。

「実はね、キミの家に行ってこようと思うんだ。必要な荷物を取ってくるよ。あ、誓ってプライバシーは侵害しないから安心してね。比内とも話したんだけど今は一人で家にいない方が良さそうだから」
「え……でも……」
「ごめんね突然。だけどキミのこと追いかけてた奴らに良識があるとは思えない。比内が派手にやっちゃったみたいだしさ。報復が無いとも言い切れないし」

 報復、と。その言葉に腹の打撲が疼いた。それになぜこの人は、俺があの家で一人きりだと分かったのだろう。
 家に帰っても誰もいない。誰かが待っている訳でもない。あの家にいるのはもう俺だけだ。それを誰かに話したことはなく、嗅ぎ付けたあいつらしかその事実を知らない。
 どうして知っているのか。それを俺が聞く前に、冷静に響いたのは比内さんの声。

「なあ。お前、親はどうした」

 核心をついた、その一言を。

「ちょっと比内。その話は後にしようってさっき決めたじゃん」
「てめえは黙れ」

 やれやれと諦めたように中川さんは肩を竦め、自ら比内さんに場所を譲った。比内さんはすぐ近くから俺の顔を見下ろしてくる。

「連中だって遊びでやってんじゃねえんだ。金を持ってる訳でもねえガキをしつこく追い回すって事は、おおかた親はどこにいるかも分からねえ状況にあるって事だろ。ここに来てからお前が誰かに連絡している様子もなかったようだしな」
「…………」

 話さなくたって見抜かれていた。逃げるように顔を俯かせたがこの人は許してくれない。

「もう一度聞くぞ。親はどうした」

 ギリッと、布団を握りしめる手に力が籠った。今度は自分からこの人を見上げる。鋭い視線を逸らさずに合わせた。
 聞かれたくなかった。言いたい事でもない。可哀想な子供だと、惨めったらしく同情を買うのもまっぴらごめんだ。
 払う金がない。だからこの人達の前からすぐにでも立ち去ろうとした。それが頼れない理由だったけど、本当はただの建前でもある。俺の中にある下らないプライドが助けてなんて言わせなかった。
 だってそれは、あまりにも。

「……父は、事故で死にました。……母は……」

 たった一人の家族だった。俺はそう思っていた。その母さんは、もうとっくに。

「母、は……」

 俺を捨てて、金だけ持って逃げました。

「なんだ」
「…………」
「母親は。なんだ」
「……っ」

 言える訳がない。言いたくない。誰がこんな事を他人に言えるか。知り合って二日しか経っていないようなこの人に、そこまで厳しく問い質されなきゃならない謂れだってない。
 ただでさえこれは惨めなことだ。自分の置かれている状況はひどく惨めでみっともない。母さんの事はそれ以上に、侵されたくない領域だった。
 感情は顔にも出ていたようだ。気づけば唇を引き結び、悔しさをぶつけるように比内さんを見上げていた。それを真っ向から受け止めて、この人は淡々と俺を追いこむ。

「どうした、言え」
「…………」
「聞こえねえのか」
「…………」
「母親はどうしたのかと聞いている」
「…………あなたには関係ない」

 自分でも驚く程に冷めた声が出ていた。
 無言のまま比内さんの目が細められ、それで、ガッと、掴みかかられた。

「比内ッ!」
「なにしてるんだお前は……っ」

 比内さんの手は俺の胸倉に。後ろで声を張り上げた二人を微かに振り返る事もなく、比内さんは俺を見たまま言う。

「テメエらはそこで黙って見てろ」

 冷徹なまでに低い声。二人が止めに入るのを許さずジッと俺を睨み落とした。物を分からせるかのように、きつく目を合わせてくる。

「親切で助けてやろうって大人にその言い草か。随分とデキのいいガキだな」
「…………」

 辛辣な言葉に眉根を寄せた。歯を食いしばり、悔しさともなんとも言えないこの感情を押し殺す。

「口の利き方に気を付けろクソガキが。今ここで俺から離れてお前一人に何ができる。どうせまた無様に捕まって連中のいいようにされるだけだぞ」

 そこまで言うと服からはバッと手を放された。乱雑に放り出され、ベッドがギシッと僅かに揺れる。冷たい視線を俺に向けたまま容赦のない言葉を続けた。

「なんの力もねえガキがイキがるな。お前はおとなしく俺の言う事を聞いていればそれでいい。いま聞くべき事なのかどうか、それを決めるのも全て俺だ。聞かれた質問には正直に答えろ。二度と口答えは許さない」
「…………」
「分かったな」

 黙っていると比内さんはそれ以上何も言わなかった。不愉快そうに舌打ちしただけ。

「おい中川、車付けてあるんだろ。このガキから家の場所聞いて今すぐ行け。荷物取ったらうちまで来い。一時間で済ませろ」

 簡潔に指示を出し、何か言いたげな中川さんをかわして今度は朝比奈先生へと目を移した。
 難しい顔でため息をつく先生。そんな様子を比内さんは気にも留めない。

「平治。こいつの服は」
「上で預かっている。それよりお前、いくらなんでも今のは……」
「テメエの説教なんか聞く気はねえ。その服は後ででいいからこいつに返しておけ。予定変更だ。もう一晩ここに置いておくつもりだったが今から連れていく。熱も下がったなら文句はねえだろ」
「お前な……」

 俺を取り残して話は進む。言い合う二人を呆然と眺めていると、ポンと肩に手を置かれてその顔を仰ぎ見た。

「大丈夫?」
「あ……はい」

 労わるような中川さんの声に小さく頷いて返した。申し訳なさそうにしながら住所を聞かれ、隠すことでもないから答えた。
 あのアパートの一室は今どうなっているだろうか。あいつらがまたいつものように嫌がらせをしていったかもしれない。もしもそうなら中川さんは、うちのドアを見て顔をしかめるだろう。

「所持品は何もないようだったって朝比奈先生に聞いたんだけど、もしかして戸締りせずに家空けちゃった?」

 俺達の横ではまたしても比内さんと朝比奈先生の口論が始まっている。スマホで地図を確認しながら中川さんに聞かれて顔を上げた。
 戸締り。言われて初めて思い出した。慌てて逃げてきたから施錠を気にしている余裕もなかった。
 朝比奈先生からは代えの服を貸してもらった。俺が元々着ていた服は洗濯までしてくれた。所持品がない事にはその時に気付いたのだろう。

「……大丈夫です。泥棒に入られるような家じゃありませんし、入られても盗る物なんてないので。鍵をかける必要もないんです」

 苦笑しながら返したそれは、まあ本心だ。あんな家に入ったところで泥棒がガッカリする。

「そうは言っても物騒な世の中だからねぇ。まあとにかく行ってくるよ。勝手に入っちゃうけど比内の命令だから恨むんなら比内を恨み殺してね。ぎったぎたのぐっちゃぐちゃに恨み辛みを込めて念じないとあのサタンはなかなか死なないから頑張、ッぎゃ」
「聞こえてんだよテメエ」

 ペラペラと並べ立てていた中川さんの腰がズガッと蹴られた。

「いったいなあ、暴力弁護士。殴る蹴るがシュミってのは職業的にもどうかと思うよ」
「無駄口叩いてねえでとっとと行け」
「あーあーはいはい。分かりましたよ行きますよー」

 比内さんをよりイラ立たせ、ヒラヒラと手を振りながら中川さんは一人出て行った。
 向かうのは俺の住むアパートだ。泥棒が入ったところで大した問題にならないくらいだから、あの人がウチに入ったところで然して気になるようなこともない。
 荷物を取りに行くということはつまり、俺はこの人達に保護でもされるという事だろうか。素性も分からないこんな子供を、見返りの要求もなしに匿おうとするなんて。
 他人事のようにぼんやり考えていると、無表情に俺を見下ろしながら比内さんが短く命じた。

「ガキ。立て」
「え?」
「俺達も行くぞ」
「……どこへ?」

 キョトンと見上げる。しかめっつらで舌打ちされた。

「俺の家だ」
「は?」
「不満か」

 問われ、言葉に詰まった。不満とかそういう問題ではないがとりあえず控えめに首を左右に振る。
 話の流れを考えればつまり、そこで匿ってくれるのだろう。ガキは面倒だと言い放ったこの人が、面倒な事になっている俺を、自分の家へと連れ帰る。

「……でも……ご迷惑じゃ……」
「ああ?」
「…………」

 口答えはやめよう。上から睨まれて即座に挫けた。逃げることは許さないとでも言いたげにじっと見下ろしてくる。
 ここはもう大人しく従っておいた方がいい。だるい体をのそのそと動かし、布団から足を出した。診療所のスリッパを履いて立ち上がったところで、ようやく比内さんの冷えた眼差しからも解放される。どんな言葉を投げられるよりも相手を射殺すようなこの目つきが一番恐ろしいと思う。
 おずおずと歩み寄ってはみるもののやはり慣れない。不意に比内さんが腕を上げ、反射でビクッと身構えた。

「…………」
「すみませ……」

 不快感を物語るその目。だが比内さんは自分の着ていたコートを脱いだだけだった。顔を強張らせる俺に、そのコートを押し付けてくる。

「着てろ。俺も車出してくる。戻ってくるまで入り口で待て」

 布団の中にいる分にはいいが、借りた一枚の着衣はそう厚くない。突きつけられたコートを強引に着せられ、俺が何かを口にするよりも前に比内さんは歩き出した。
 スタスタと出て行く後ろ姿。近距離で睨まれれば一瞬で縮こまる思いをするが、こうして距離のある位置から眺めていると、バランスの良すぎる均整な体つきに圧倒させられることになる。

「あんな奴で本当にすまないね」
「え、いえ……。俺が悪いんで……」

 横から声をかけられて慌てて首を左右に振った。先生は困ったように笑みを浮かべ、俺を促してエントランスまで一緒になって歩いていく。

「キミは何も悪くないよ。冬弥はまあなんと言うか、昔から手に負えない所があってね。口も態度もあの通りだから何かとトラブルも多い。俺がこんな事を言うのもなんだけど、どうか許してやってほしい」
「そんな。ずっと助けてもらってばっかりですし……」

 殴られた訳でも蹴られた訳でもない。歯向かったら胸ぐらを掴まれただけだ。黒いコートの袖を握って、視線をぶつけ合った時の厳しい表情を頭に浮かべた。
 怖いのだか優しいのだか良く分からない人だ。クソガキ呼ばわりまでした子供を、自分の家に連れていくなんて。
 ただの親切にしてはいくらなんでも行き過ぎている。赤の他人でしかないガキの面倒を、ここまで見てくれる必要はないのに。

「…………」

 ところで、いつまでだろう。俺があの人の家にいるのは。

「……あの、先生」
「うん?」
「……俺、自分の家にはいつ戻れるんでしょうか……?」
「そうだな……冬弥の気が済むまで、かな?」
「…………」

 血の気が引いた。
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