たとえクソガキと罵られても

わこ

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5.不機嫌な人Ⅰ

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 ずっと信じて疑わなかった。生まれた時から周りの環境は常に恵まれたものだったから。
 帰る場所は広くて綺麗な家。父さんは元証券マンで、今は起業して経営コンサル。母さんは優しくて若くて綺麗。それに何より、とても温かい。
 不自由を感じたことなんてないし、そうなるとも思っていなかった。

 あなたのお父さんは立派な人なのよ。幼い頃から俺にそう言い聞かせてきたのは母さんだ。優しく微笑みながら言った母さんの顔は今でも忘れることができない。
 あの言葉の中にはどれだけの、本心が込められていたのか。今となっては知る由もないが。俺が見ていたのは幻想だった。


 父さんと結婚した数年後、母さんの家族は亡くなった。
 俺にとってはじいちゃんとばあちゃん。二人とも生まれてすぐに何度か会った事はあるらしいが、俺の記憶にあるのは写真で見たじいちゃんの顔だけ。ばあちゃんとは何度か会ったのを微かに覚えてはいるものの、印象に残っているのはどうしても棺の中で眠る静かな顔だ。

 両親が親しくしていた人からの紹介で母さんはで父さんと知り合い、そして結婚するに至った。詳しく聞いたことはないが厳格な家庭だったらしい。物腰は常に穏やかでありながら世間知らずな所はなくて、聡明な女であり続ける事を良しとしている雰囲気があった。
 妻としても、そして母親としても。幼かった俺から見た母さんはいつでも心の強い人だった。
 優しくて頼りになって、家を空ける事が多かった父さんの代わりを黙って務める。そんな人。優しさも厳しさも強さも全部、いつも俺に示していたのは母親という存在だった。

「同居……?」
「親父が死んでお袋家に一人だろう。やっぱり心配なんだよ。家事のついでだとでも思って面倒を見てくれないか」
「……ええ。もちろん」
「お前が専業主婦で良かった」
「…………」

 俺が十歳の時だ。夕食後のリビングのソファーから父さんは母さんにそれを言った。キッチンで食器をカチャカチャと片づける母さんの手伝いをしていた俺が、隣を見上げて目にしたものは表情の消えた横顔だった。
 それは今まで見た事のないような母さんの顔だった。どうしてあんな顔をしたのか、それも漠然と感じ取れた。母さんが了承するのを見越したような父さんの物言いを、見下したようなあの態度を、幼心に不快だとも思った。俺の心境を察したのだろう母さんによってすぐさま宥められてしまったが。

 それからしばらくしてばあちゃんはウチにやって来た。ばあちゃんは父さんとの同居が嬉しいようで、孫である俺の事もこれ以上ないほどに可愛がってくれた。
 物知りで俺に甘くて、いつでも上品なばあちゃんを始めの頃は嫌いじゃなかった。だけど母さんに対する言葉の端々に嫌なものを感じ取って行くうちに、俺の中でその印象は簡単に崩れていった。
 掃除をすればやり方がなっていないと叱りつけ、洗濯物の干し方ひとつにも過剰なまでの指摘を続けた。料理を出せば口に合わないと言って自分で作り直す事さえ。できない嫁だ、どうしてこんな女があの子の妻なのだろうかと。そう言って、毎日毎日。

 嫁いびりって言葉くらいは俺だって知っていた。ばあちゃんの執拗な責め立てに対して、すみませんと頭を下げる母さんを何度見て来たか分からない。ばあちゃんが優しいのは父さんと俺だけ。一番世話になっているはずの母さんにはいつも辛く当たっていた。
 子供の目にも余る執拗ないびりと悪質な言葉の数々。幼かった俺は時々ばあちゃんに食ってかかろうとすることもあった。その度に俺を止めたのはいつも決まって母さんだった。

「大丈夫。陽向は気にしなくていいの」
「でもっ……俺がばあちゃんに言ってやるよ。母さんの事イジメんなって」
「いいえ、ダメよ。おばあちゃんはお母さんの事を虐めてる訳じゃないもの」
「ウソだッ」
「……あなたは何も心配する事ない。お母さんは強いから平気」

 いつもそうだった。大丈夫かと聞くと必ず、大丈夫、気にしないと。そう笑って、憤る俺の頭を撫でて宥めて。
 数年経って息を引き取ったばあちゃんを前にして、淡々とした表情を浮かべていた母さんは何を思っていたのか。家族の前では常に笑顔を浮かべていた母さんの気持ちを、息子である俺は全くと言っていいほど何も理解していなかった。



***



「……母さん」
「…………」
「……平気?」
「……ええ。大丈夫。おいで、陽向」

 たぶん、これは憶測でしかないけれど、母さんはあの家でずっと自分を押し殺して生きてきた。自分を縛り付けていた物から解放された日の母さんの顔は、憑き物でも落ちたみたいで、そのくせ疲れ切っているようにも見えた。
 父さんが死んだ。俺が中一の時だった。通夜の夜、座敷に一人正座しながら母さんはどこか遠くを見ていた。
 父さんはこの一ヵ月をずっと病院のベッドで過ごした。会社に行く途中で大きな事故に巻き込まれてからそれきりだ。事故から一度も目覚めることなく、呆気ないまでにあっさりと生きる事をやめてしまった。俺と母さんを二人だけ残して。

 母さんに親族がいないのと同じように、両親が他界した父さんにも近しい血縁者は居なかった。通夜と葬儀で疎らに姿を見せる一応の親族も、盆正月に会いに行く事すらないような遠縁だけだ。辛うじて苗字くらいはお互いに認識がある。そんな程度の関係だった。
 訪れてくるのは仕事で関わりのあった人達や、父さんの個人的な知り合いがほとんど。見ず知らずの参列者に自分の役目として挨拶をする母さんは、気丈な振る舞いをしていると言うより、心がそこに存在してなかった。母さんが涙を見せる事は最後まで一度もなくて、置いて行かれた俺達には大きな家だけが手元に残った。

 生活が変わったかと言えば、変わるものなんてほとんどない。ただそこにあったはずの家族の姿が一人減ったというだけのこと。
 父さんの葬儀からしばらくの間は会社関係の処理のため、会社の人がうちを何度か訪ねてくる日が続いたが、その後はこれまで通り俺は毎日学校に行き、母さんは昼間の少しの時間で事務職のパートに出るようになった。

 母さんが自分の両親から受け継いだ財産と、父さんの遺した資産や、事故後に下りた保険金。それらを合算すればおそらくは当面働く必要もなかっただろう。
 父さんは見栄っ張りな人だった。それもあってか預金は多くなかった。それでも二人で生活するのに相応な程度の金なら手元にあったはずだ。
 でも母さんは外に出たがった。働くことで保っていた。たぶん、きっと、あの家は、母さんの好きな場所ではなかった。



「陽向」
「うん?」
「春休みになったらどこか行こっか」

 広い家の広いリビング。夕食の時に母さんが言った。
 家族三人で旅行に行った記憶が俺にはない。父さんは俺が生まれた時から典型的な仕事人間だったし、母さんは自分からあれがしたいこれがしたいと言うような人でもなかったし。その代わりに学校の長期休みに入るとその都度、どこか行きたい所はないかと幼かった俺に母さんは聞いた。
 ちょっと遠出して行って帰って来られる範囲。遊園地だとか動物園だとか、そういう場所に連れ出してくれたのを良く覚えている。
 けれどそれもばあちゃんとの同居が決まる前までだ。ばあちゃんが来てから母さんはあの家の家政婦のように扱われていた。

「どこでもいいの。近くてもいいし遠くてもいい。陽向の好きな場所に行こう」
「……うん」

 俺の答えに、母さんはホッとしたような表情を見せた。その顔に内心で芽生えるのは複雑な感情だった。
 ほんの一時だけだったけど、父さんが死んでからの母さんは俺への執着を強く見せた。その頃の俺は十三で、いつまでも母親とくっついていたい時期からはすっかり離れていた。どちらかと言えば距離を置きたい。自分の趣味とか学校の友達とか、そっちに重点を置きたい気持ちは正直なところ俺にもあった。
 だけど放っておけなかった。目に見える姿はいつも通りだし変わらず強い母親だけど、俺が突き放す事によって何かが変わりそうで怖かった。

 たった二人だけの家族だ。家も金もあるけれど、もしもそれさえなくなったとしら本当にお互いの存在しかなくなる。
 母さんは得たかったはずの自由を手に入れた。でもたぶん、一人になるのは嫌だったのだろう。まだまだ子供で世間も知らず、漠然とした不安を抱える俺も、一人にされるなんて事態は想像してすらいなかった。
 けれど世の中なんてものはあまりにも無情にできている。そこにずっとあり続けると思っていた日常を、失くすのはとても簡単だった。

 父さんの死から半年ほど経ったある日のこと。その通知はなんの前触れもなく母さんに宛ててこの家に届いた。送り主はここの地方銀行。他の郵便物を確認する流れで母さんの手がそれを取った。
 中の書面に目を通すのを、何も考えず俺も近くから見ていた。そして母さんの顔色が、サッと変化したのに気付いた。

「母さん……?」

 突如思い立ったように腰を上げ、珍しく慌ただしい様子でリビングを出て行った。さすがに不審に思ってその後を追いかけると、隣の和室に駆け込んで壁際の棚の引き出しを開けている。
 権利書やら契約書やら、その類の書類など。母さんの手によってきちんとまとめて保管されている書類の束が全てこの部屋に置いてある。掃除以外ではあまり入らないその部屋で母さんの様子を窺っていると、引き出しの奥から取り出されたのは一つの黒い冊子だった。
 俺も隣から覗き込んだ。父さんの葬儀の時の芳名録だ。厳しい顔をしてページをめくっていた母さんは、ひとつの名前を捉えた瞬間、表情をピシリと硬くさせた。

「なに……。どうかしたの?」
「…………」

 聞いても母さんは答えない。顔を青くさせて震えるその手元では、指先に力を込めるあまりクシャリと紙面に皺が寄っていた。

「……陽向」

 ようやく呟かれた俺の名前。少しだけ、怖いと思った。
 震える指先が示しているのは、おそらく、いや紛れもなく、怒りや憤りの感情だった。それが誰に向けられているのかこの時の俺にはまだ分からない。だから怪訝に眉間が寄っていく。

「……お父さん……私達には何も言わない人だったよね……」
「え……?」
「いいえ、でも……大丈夫……このくらいなら、すぐ用意できる……」
「……母さん?」

 良く分からない。母さんが何を思って、何を言っているのか。
 不安定に、俺にではなくむしろ自分へ言い聞かせるかのように呟き、ふらりと立ち上がった時の顔にはまるで生きている様子がなかった。
 そばに俺がいる事を分かっているのかいないのか。フラフラとした足取りでリビングに戻った母さんはどこかに電話をかけていた。しかし大分コールを鳴らしてもその相手は出なかったようだ。静かに切ると厳しい顔をして、ほんの小さく口を開いた。

「……ごめんね。ちょっと出かけてくる」
「え、なに……どこ行くんだよ」
「もしも家に電話が入っても出なくていいから」

 目は合わない。淡々と事務的に告げられる。母さんの手には依然として銀行から届いた手紙と、黒い芳名録があった。
 それらをカバンにしまい込み、手早く身支度を整えてきた。家を出る時には先程までとは打って変わって凛とした顔つきになっていた。

 昔から母さんは聡明な人だ。銀行から届いた通知を目にしたその時、生前の父さんがした事を悟った。
 返還債務の履行請求書。金を返すよう促す通知だ。その金を借りたのは父さんじゃない。父さんの昔馴染みだと言う会社経営の知人が借りた。その人がどうやら、債務不履行に陥った。それでうちに一括請求が来た。

 父さんは生前その人の連帯保証人になっていた。この時になって初めて知った。
 その人には母さんも過去に一度だけ言葉を交わした事があったらしい。けれど借金の事実は一切耳にした事がなかった。

 芳名録にその名前を見つけ、葬儀に来ていた事は分かっている。銀行からの通知を持って母さんはその人に会いに行ったが、自宅は売りに出されていた。近所の人によるとずいぶん前にそこの一家は引っ越していったと。
 そこで母さんが次に訪れたのは会社住所であるはずのビル。分かったのはそれがバーチャルオフィスで、ポストの会社名のラベルを剥がした跡だけが残っていたそうだ。
 現住所は分からない。会社も撤退した後とあっては、それ以上の行方は追えなかった。


「父さん……なんでこんな大事なこと黙ってたんだろうな」
「……いいえ。私が良く調べておかなかったからいけないの。ごめんね」
「っ母さんが謝ること……」
「でも大丈夫。陽向が心配することは何もないから」

 隠される事はなかった。当時中学生だった俺にも母さんは全て打ち明けてくれた。
 まさかあの父親が負債を持っていたなんて。元は他人のものだとしても、連帯保証人になったからには同等のリスクは承知だったはず。それを家族に一言も言わない。そんなのって、いくらなんでも。

 元の債務者であるその知人とは結局連絡が取れなかった。つまりは逃げたという事だろう。葬儀にまで出ていたくせに。顔も知らないその男を俺は恨まずにはいられなかった。あとはおそらく、父さんのことも。
 けれど母さんはと言えば恨みごとの一つさえなく、返済義務を果たすためにただ淡々と手を回していた。
 借金の事実を知らなかった。しかし知らなかったでは済まない。そうやって自分を責めた。
 全てのことを一人で背負った。その華奢な肩に、ひとりで、全てだ。

 無知で何も分からない子供なりに、せめて俺にも手助けできるものが何か一つくらいあれば。
 そう思っていたけれど何もさせてはもらえなかった。たとえ多少の負担であろうと、母さんが俺に強いることはない。

 銀行に対して支払いを行っても俺達の生活に際立って変化はなかった。それでも元々あったはずの貯えが想定外に減ることとなったわけで、母さんには何かしら思うところがあったのかもしれない。パートで働きに出ていたのを、フルタイムに変えたのはその頃だ。
 せめて夕食くらいは俺が作る。そう提案してみれば、部活は休んじゃダメだと笑っていつも言い返されるだけ。俺に包み隠さず事実を伝えてくれた母さんは、俺の生活が金のせいで変わる事を何よりも嫌った。

 そこにあるのは母親としてのプライドか。死んだ夫の債務調査を怠ったと言う、責めるにしては余りにも酷な理由による負い目なのか。
 なぜなのか俺は知らない。どうしてそこまで意地になるのか分からない。一人で負担を背負い込む母さんが今にも倒れるのではないかと、気が気ではない日々が続いた。


「引っ越す? ここ」
「……なあに、突然」

 家族二人にこの広さは必要ない。不自由のない生活を与えられてきた俺だけど、物にも環境にもそこまで強い執着心は持っていなかった。

「その辺のもっと安いアパートとかさ、色々あるだろ。ここじゃ掃除だって面倒だし。俺は別に住めればどこだって…」
「だめ」

 短く、けれど強い声が俺を遮った。その口調とは裏腹に、少しだけ泣きそうに見えた母さんの顔に思わず怯んだ。

「陽向は……そんなこと考えないで。私一人でもあなたの事はちゃんと養える。高校だって大学だって好きな所を選んでいいの。あなたに辛い思いはさせない」
「…………」
「ほら、しっかり食べて。陽向は好きな事を思いっきりやりなさい」

 その笑顔には無理があった。大切にされているのが分かる。だけどきっと、そこには多分、母さんの中にはプライドもあった。
 思えばこの頃からすでに兆しは見え始めていたのかもしれない。一人の人間が背負うにしては色んなものが大きすぎた。
 母さんが強いのは母親だからだ。俺がいるから。守らなければいけないと思っていたからこその態度だ。だけど実際の母さんは、細身で、とても小さな女だ。一人の人間としてはどれだけ、その強さを保てたのだろう。



***



 事態が更に悪い方向へと動いたのは間もなくして。その時にはもう、住む家がどうだと言っていられる余裕なんてなかった。
 父さんの知人が借り入れをしていたのは真っ当な金融機関だけではなかったらしい。そしてそれもまた、父さんの保証債務になっていた。債権者のやり口を目の当たりにした俺と母さんが、人生のどん底に突き落とされるまでに要した時間はほとんどない。


「奥さんアンタ、連帯保証の意味くらい分かってんでしょ。こっちはすぐにでもあんたらのとこに請求かける事だってできたんですよ。それをわざわざギリギリまで桧山に求めてやってたんだ。感謝して欲しいくらいだね」
「…………」
「払うもん払ってくれりゃ大人しく帰りますよ。これだけいい家住んでるんですから簡単でしょう?」

 突然うちを訪れたのはスーツを着た男二人組。
 こいつらが桧山と呼んだ人は父さんが保証人になった男だ。その人が死んだと、そんな知らせを突き付けにやって来た。
 桧山さんとは一向に音信は途絶えたままだった。それもそのはずだ。もういないのだから。その人はつい最近まで、こいつらに追い回されていた。

「参りましたよ、金も返さず勝手に死なれちゃあね。だから本当に助かります。あんたの旦那が代わりに払ってくれるって死ぬ前にサインしてくれたんだから」
「……連帯保証なら、契約書は三通あるはずでしょう。夫の遺品にはそんな物なかった。あなた達が持っているそれが本物だって証拠はどこにも……」
「はあッ、なんですか奥さん。俺らが嘘言ってるとでも? なんなら筆跡鑑定でも出してみますか。ちゃーんと出ますよ、アンタの旦那が死ぬ前に書いた名前だ。責任逃れしようったってそうはいかねえんだよ」

 ここに来て、前触れもなくいきなり家に押しかけて来た。きっとこいつらは初めから俺達に請求書を叩き付けるつもりでいたんだ。
 桧山さんに支払い能力のない事が分かり、それでも執拗に追い詰めた。俺達には自殺だと言ったが、結果的に死に追いやったこいつらが殺したようなものだろう。
 人が一人死に、金を返さなければどういう事になるかを口には出さずに教え込む。父さんが持っていた資産はおそらく徹底的に調べられている。根こそぎ搾り取る標的を、こいつらは端からこの家に決めていた。

「銀行には返したんでしょ? ならウチにも返して下さいよ。ねえ奥さん?」
「…………」
「ああ、それとも何。世の中いろんな所にいろんな需要がありますからね。……お子さん、売りたい?」
「ッやめて!」

 部屋に行っていなさいと言われても頑なに拒否して母さんの隣にいた。その俺に、こいつの薄汚い目が向いた。
 途端に母さんは叫び声を上げ、横から俺を抱きしめた。震えた細い腕に守られる。卑しい笑みを浮かべながら俺達を眺めるそいつらを、殺したい思いで睨み付けた。

 何がその人にとっての弱味か。守りたいと思うものは何か。こいつらはこうやってすぐに見抜く。そしてそこを攻めてくる。
 母さんは強い。俺を守る事が当たり前だと思っている。今まで当然のように守られてきた。
 だからなおさら、俺を引き合いに出された母さんが折れるまでに時間はかからなかった。そいつらから後日改めて送りつけられてきたのは、決して小さくはない額面の請求書。俺達は一気に底深くへと突き落とされることになった。

 なのに、それじゃ終わらない。あいつらは銀行とは違う。
 要求に従い支払額を渡してしまった俺達は、法外な利息の恐怖というものを現実に思い知らされた。

『一度払って終わりじゃ済まねえぞ。元金含めてきっちり返せ』

 外はまだまだ明るかった。明るいうちにかかってきた。脅迫まがいの暴言を、電話越しに受けたのは俺だった。固定電話の受話器から漏れる怒鳴り声を聞いた母さんは、慌てて電話栓を引っこ抜いて、強張った顔でどこか一点を見ていた。

「母さん……」
「……大丈夫」

 この日からだ。俺達の生活は一変した。



***



「っ……ぅっ……」
「……母さん?」

 数年のうちに生活はすっかり様変わりしてしまった。それでもなんとかやってきたが、半年前のあの日の事だけは頭から離れない。
 小さなアパートの中には俺と母さんしかいない。真夜中の暗い部屋、隣ですすり泣く声を聞いて目を覚ました。

「ふ……っく……」
「…………」

 最近はもう、いつもこうだ。また一人で泣いている。
 上体だけを起こして隣の布団を見下ろした。ずっと色んなものを背負ってここまで立ち続けてきた母さんは、この頃は人が変わったかのように気弱な表情を常に見せていた。
 様子がおかしいとはっきり分かる。中学卒業間近になった頃、進学はせずに働くなどと突如言い出した俺を宥め、高校だけは出ておきなさいと諭したのは母さんだった。その時の面影はもう残っていない。

 転落するような錯覚を起こした。何をしてもどう頑張ってみても全てが上手い方向にいかない。
 かつての広い家はもう俺達の持ち物ではなくなっていた。一人で住むにも狭いような、窮屈なアパートの古びた一室が今の俺と母さんの家だ。
 憔悴しきった嗚咽を隣の布団から途切れ途切れに響かせて、うずくまって身を震わせる母さんに手を伸ばした。幼い頃、泣き止まない俺に母さんがしてくれたように。ポンポンと手を添えて宥める。これでどうにかなったらいいのに。

「……心配ないって」
「っぅ………」
「……俺がもっと頑張るから」

 少しずつ少しずつ、母さんがおかしくなっていくのが分かる。どんなに辛くてもしっかり前を見て足を立たせてきた人だ。借金返済に追い立てられる日々がどれだけ続いていても、絶対に泣き言だけは言う事がなかった人だ。
 今の俺達には頼れる所がどこにもない。手を伸ばして届くのはお互いだけだ。狭くて暗いこの部屋の中で、支えは親子の関係だけだった。

 高校に入ってからは俺もコンビニで早朝と夕方のバイトに出るようになった。朝のシフトは八時まで。それが終わってから自転車を飛ばして、学校に着くのはいつもギリギリ。
 深夜に働けるのであればもっと収入もいいだろうけど年齢による縛りがある。高校にも行ってほしい。それが母さんの願いでもあった。アルバイトは原則禁止と定めているあの学校で、どうにか得られた許可に従えばこの程度の範囲でしか働く事はできなかった。
 母さんを宥めながら夜を過ごし、朝日が出るにはまだ早い時間に布団から抜け出した。学校が終わったらスーパーに寄って帰ろう。たまにはウマい物でも食って、気休めでも少しくらい母さんが元気になればいい。

「……陽向」

 出て行く支度を整えているとか細い声が俺を呼んだ。布団の中では多分まだ泣いている。近づいてしゃがみ込み、暗い部屋の中で囁き落とした。

「俺行くね。母さんはまだ寝てろよ。きっと疲れてるんだ」
「ごめんなさ、………」
「母さんは何も悪くない」
「ご、め……なさ……」
「…………」

 どうにもならなかった。歯を食いしばって泣きたくなる自分を押し殺す事しかできなかった。
 強かったはずの母さんがこんなふうに壊れるなんて。幼い頃は親と言う存在はいつでも大きく絶対的で、常に正しいと思っていた。けれど今になって思えば、親だって人間なのだと、そんな当たり前の事に気づかないでいただけだった。

 完璧であろうとは思わない。だけど堕落だけはしないように。一度折れればすぐに崩れる。自分を叱りつけてでも前だけを見ていないと、少しでも弱さを見せてしまったら、俺はもう立ち上がれない。
 落ちた時に引き上げてくれる手はどこにもない。ずっと俺を守ってくれた母さんにはこれ以上泣いてほしくない。だから今度は俺が母さんを支える番だ。
 そう思っていた。それが俺にとって唯一の、自分を立たせる支えでもあった。



「……母さん?」

 今日は確か、この時間に外の仕事は入っていなかったはず。それなのに、ただいまと言う俺の声に応えてくれる人はどこにもいない。
 いつにもましてガランとして見える。狭い部屋の中は吐き気がするような寒さと空虚さに覆われていた。

「かあ、さん……?」

 久々に牛肉を買ってきた。スーパーの特売に駆け込んで、残り僅かだったうちの一つをギリギリで手に掴んできた。
 夕食の材料が入った買い物袋を床に下ろし、部屋を見渡しても人のいる気配は感じられない。とても綺麗とは言い難いがあるだけマシな風呂にもトイレにも、どこにも母さんはいなかった。
 ふと気づいて、玄関を振り返る。普段は俺と母さんの靴しかないそこに、今は俺の一足分だけがポツンと投げ出してある。畳んだ布団はいつも通り押し入れにあった。古いキッチンも古いテーブルもいつもとなんら変わりはない。
 でも、そうか。そうだ。ないんだ。一人分の、生活の痕跡が。

「…………」

 今ここにあるのは俺の物だけだった。母さんが普段使っていた物が何一つとして残っていない。元々大して持っていなかった服も、何もかも、母さんの物だけがこの部屋から消えてなくなっている。
 嘘だろ。思っても、声には出ない。心臓の音だけが耳に響いた。自分でも驚くほど冷静な頭は俺に次の行動を促す。

 部屋の隅。滅多に開けない棚の引き出しに手を掛けた。そこに入っている物を俺が自ら使った事はない。取り立てに来るあいつらからはひっそりと隠してきた俺名義の預金通帳。記帳は少し前で止まっている。俺が高校に進学した時だ。
 大金と言うほどの額でもないけど、俺と母さんが二人で生活していくために少しばかりずつ切り崩してきた。上に乗ったはんこを避け、古びた通帳を手に取って開く。紙の上の記録は数ヵ月前と変わらない。一緒に入れてあるカードを見下げ、強張った顔は元に戻らず通帳を持ったまま家を出た。

 ここから歩いて行ける距離には無人のATMがある。思い違いだとの確証が欲しくて足早にそこを目指した。
 誰もいない箱の中に駆け込み、震えそうな手元を抑えて通帳を通す。引き出しでもなく入金でもなく、俺はただ、この通帳が示す最後の記録を知りたかった。

「…………ハ、ハっ……」

 絶望が頂点を超えると人は笑い出すらしい。異様に明るいその場所で、勝手にこぼれた笑い声。
 記録は確かだ。ちゃんと残ってる。数回に分けて繰り返された二十万円ずつの引き出し。すべて今日の日付の、その残高は。

「…………ゼロじゃないだけマシか」

 ここに証拠がはっきり残ってる。認めるしかない。置いて行かれた。
 母さんはもう、ここにはいない。
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