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3.鬼畜と菩薩と楽天家Ⅰ
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体が重い。それに痛い。
室内は暖かかった。独特の空気感はあるけれど。内側から感じる寒気は悲しい事に健在のようだ。
「しかしなあ、お前みたいな怖い顔をした男に出て行けなんて言われて居座れる子供はなかなかいないと思うぞ。心配するくらいなら初めから無下に扱わなければいいだろう」
「ですよねー。俺もそう言ったんですよ。まあ比内が素直になったらそれはそれで怖いですけど」
「ああ確かに。同感だ。それは大層気味が悪い」
「てめえらまとめて蹴り倒すぞ」
声が聞こえた。多分あの人もいる。あの人。比内さん。
重いまぶたをゆっくり押し上げた。頭をのろまに動かすと、清潔な白い天井と同じく白っぽいカーテンが目に入る。
「ぅ……ッ」
痛い。起き上ろうとした瞬間、腹に痛みが走って挫けた。
小さく呻き、右腕に繋がったチューブにも気づく。その先を目で追うと吊るされた点滴に行き着いた。ここから少し離れた位置で、寄り固まって話し込んでいるのは三人の大人の男。
「あ、起きた? どーお、具合」
「大丈夫かい。ああ、いいよ起きなくて。点滴ももうすぐ終わるからまだ寝ていなさい」
目覚めた俺に気づいて近付いてきたのは、さっきの事務所で比内さんと一緒にいた明るい人だ。それからもう一人。白衣を着た人も。背の高いその男性は初めて見る顔だった。温和そうな雰囲気を優しげな目元が思わせる。
白衣の人の物腰は柔らかく、歳は四十代くらいだろうか。ベッドのすぐそばまで来ると俺の腕を取って確認しだした。点滴の落ち具合を見てから、そっと額に手を乗せられる。
「解熱剤は打ったが効くまでには時間がかかるからね。体も相当つらかっただろう。今はゆっくり休むといいよ」
「はい……あの……」
ここには俺に危害を加えるものが何もない。その事だけは理解できた。
見慣れない場所に寝ていて、知らない人間も増えていて、色々と飲み込めないまま辺りをぐるりと一周見回す。どう考えても病室だ。ぼんやりしながら横を見上げると陽気なその人に笑いかけられた。
「安心していいよ。もう大丈夫だから」
白衣の人のすぐ真横に立ち、頭をポンポンと撫でてくる。
「……ここは」
「先生の診療所だよ。朝比奈内科の院長さん。怪我の手当ても朝比奈先生がしてくれたんだ」
視線で隣を示しながら教えられた。横たわった姿勢のまま、その先生にぎこちなく頭を下げた。
先生は柔らかく微笑み、ポンポンと子供を褒めるような手つきで俺の頭を撫でてくる。この人もか。
「……おい。そいつ起きたなら俺は事務所戻るぞ。いつまでもヤブ医者のネグラに居座っていられる程こっちは暇じゃねえからな」
「お前もそろそろ俺に対する敬意と言うものを持ったらどうだ」
「そんなもん持ってて何になる」
俺達からやや離れた位置。不機嫌そうに吐き捨てた比内さんはドアの方へと歩いていく。咄嗟に上体を起こしかけたが、ズキリと腹部に痛みが走って顔をしかめただけだった。
「あの、比内さん……ありがとうございました。また助けてもらって」
助け方は死ぬほど怖かったけど。比内さんの背に向けて声を張った。
開けたドアを手で押さえながら比内さんは俺を振り返った。冷静な目に見据えられる。
「さっさと治せ。いちいち倒れられてたら迷惑だ」
「……すみません」
謝る以外の言葉も見つからない。比内さんは結局すぐに出ていった。
「…………」
ガキは面倒で嫌だと言っていた。面倒な子供代表みたいな俺が近くをうろちょろしていれば、あの人の機嫌が悪くなるのも当然のことだろう。
残った大人二人はお互いに顔を見合わせて呆れたように肩を竦めていた。やれやれと、困ったように笑っている。
「どうにかなんないんですかねえ、あの男の無愛想は」
「無理だろう。冬弥のあれは気質だ」
慣れたように答えた朝比奈先生は点滴が終わる頃にまた来ると言い置き、柔らかい笑みを落としてから隣の部屋へと入っていった。
最後に残ったのはこの人。俺の首の下辺りまで白い布団を引っ張り上げた。
「気にする事ないよ。比内は怒ってた訳じゃないから。まったく素直じゃないよね。一番キミのこと心配してたのあいつなのに」
そんなまさか。
「さっきの比内の事務所あるだろう? こことはご近所さんなんだよ。キミはとにかく今日はゆっくり休んで。明日になったら迎えに来るから」
「……え?」
「俺達もね、一応こういう職業だからさ。さっきの状況を見なかった事にはさすがにできないかな。比内だってこのままキミを帰す気はないよ」
ぎくりと顔が強張った。俺の表情がおかしかったのか、この人はクスクスと笑っている。
「そんなに怖い?」
「いえ、あの……なんと言うか……」
「まあスーツ着てても余計にソッチの人に見えるだけだもんねえ、あの極道顔」
「…………」
怖いけど、とても綺麗な顔をした人だ。だから余計に鋭い目つきが際立っている。
「弁護士さん……なんですよね……」
「うん。そうは見えなくてもバッジ持ってるし弁護士会にもちゃんと入ってる。比内なら必ずキミの助けになってくれるよ。あ、ちなみに俺はあの事務所で比内に毎日コキ使われてる健気な弁護士の中川です。あいつが嫌がりそうで面白いから洋介くんって呼んでね」
中川さんって呼ぼう。
「じゃ、あんまりゆっくりしてると雇い主が煩いから俺も戻るね。なんかあったら朝比奈先生に言って。あ、そうだ何か欲しいとか物あるかな。言ってくれれば届けるよ」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
これ以上何かしてもらうのも気が引けるし、実際特に欲しい物は何もなかったからそう答えた。しかし俺の言動はいちいちこの人を喜ばせるようだ。ニコニコと腕を伸ばしてきたかと思えばまたもや頭を撫でられている。
「……あの」
「うん。やっぱいい。可愛い」
「…………」
どうしようこの人。
***
辺りはシンとしている。とても静かだ。今は何時だろうか。
ヒタッと額に触れる手は優しかった。いささか低めの体温が気持ち良くて、頬に伝い下りてきた指先に誘われて思わず擦り寄っていく。
「…………」
そこにいる誰かが、息を詰めたように感じた。ピクリと揺れる、その指先。それでも手は添えたままでいてくれる。
解熱剤のおかげで少し楽にはなったものの、やはり体はまだ重い。勝手に閉じようとするまぶたを押し上げるのは億劫だけど、そんな事よりもこの手の主が誰なのかが気になった。
夢現でどこかぼんやりとしている。まぶたを上げようと思っても、鉛でも乗っかっているかのようにずっしりと重くて上手く開けない。
頭に浮かんだこの手の持ち主は、どういう訳か、思い出すべきではない人の顔だった。
母さん。たった一人の家族。思い出したところできっともう会う事はない。それでも確かにあの手はいつでも、こんな風にやさしかった。
虚しいだけなのにずっと憶えている。母親の手を。優しかったあの手を。
だから目を開けようとした。目を開けてそこにいるとちゃんと自分で確かめたかった。それでも体は言う事を聞かない。
「……かあ、さ……」
「…………」
ゆっくりと、撫でるような動作をしてから離れていったその手。
そうか。そうか、また。俺は置いて行かれるのか。
理解して、体からは力が抜けた。引き止める事は許されない。それくらい知っているから、ただベッドに沈み込んだまま訪れる孤独感に耐えた。
俺は多分、凄く疲れている。だからそのせいだ。誰もいなくなったけど、それでもなんとか一人でここまでやって来たのに。
今はまだ大人ではない。泣き喚いていれば無条件で許されるほどの子供でもない。誰にも助けを求められないなら、生きていくために必要のない泣き方なんて忘れてしまおうと、そう思ってやってきた。
「…………」
今度こそ間違いなく、人が息をのむ気配をこの肌が感じた。その人はまだそこにいた。今度は置いていかれなかった。
目尻からツツっと落ちた雫。生温かいそれが頬を伝った。
拭う気力はどこにもなくて、腕を動かすことはできない。本当に自分が泣いているのか、それすらもよく分からない。これはただの夢かもしれない。深くに沈み込んだまま、目尻から零れたそのひとしずくを現実としては捉えられなかった。
これは夢だ。どんな出来事も許容の範囲内にある。行ってしまったと思ったその影がまだ近くに留まってくれていたことも、目尻を拭うその指先がさっき以上に優しい事も。
驚く事のない、なんでも起こりうる世界の中で、俺はその手に慰められた。
まだ一緒にいてくれる。その人はしばらく、静かに俺の傍にいた。
室内は暖かかった。独特の空気感はあるけれど。内側から感じる寒気は悲しい事に健在のようだ。
「しかしなあ、お前みたいな怖い顔をした男に出て行けなんて言われて居座れる子供はなかなかいないと思うぞ。心配するくらいなら初めから無下に扱わなければいいだろう」
「ですよねー。俺もそう言ったんですよ。まあ比内が素直になったらそれはそれで怖いですけど」
「ああ確かに。同感だ。それは大層気味が悪い」
「てめえらまとめて蹴り倒すぞ」
声が聞こえた。多分あの人もいる。あの人。比内さん。
重いまぶたをゆっくり押し上げた。頭をのろまに動かすと、清潔な白い天井と同じく白っぽいカーテンが目に入る。
「ぅ……ッ」
痛い。起き上ろうとした瞬間、腹に痛みが走って挫けた。
小さく呻き、右腕に繋がったチューブにも気づく。その先を目で追うと吊るされた点滴に行き着いた。ここから少し離れた位置で、寄り固まって話し込んでいるのは三人の大人の男。
「あ、起きた? どーお、具合」
「大丈夫かい。ああ、いいよ起きなくて。点滴ももうすぐ終わるからまだ寝ていなさい」
目覚めた俺に気づいて近付いてきたのは、さっきの事務所で比内さんと一緒にいた明るい人だ。それからもう一人。白衣を着た人も。背の高いその男性は初めて見る顔だった。温和そうな雰囲気を優しげな目元が思わせる。
白衣の人の物腰は柔らかく、歳は四十代くらいだろうか。ベッドのすぐそばまで来ると俺の腕を取って確認しだした。点滴の落ち具合を見てから、そっと額に手を乗せられる。
「解熱剤は打ったが効くまでには時間がかかるからね。体も相当つらかっただろう。今はゆっくり休むといいよ」
「はい……あの……」
ここには俺に危害を加えるものが何もない。その事だけは理解できた。
見慣れない場所に寝ていて、知らない人間も増えていて、色々と飲み込めないまま辺りをぐるりと一周見回す。どう考えても病室だ。ぼんやりしながら横を見上げると陽気なその人に笑いかけられた。
「安心していいよ。もう大丈夫だから」
白衣の人のすぐ真横に立ち、頭をポンポンと撫でてくる。
「……ここは」
「先生の診療所だよ。朝比奈内科の院長さん。怪我の手当ても朝比奈先生がしてくれたんだ」
視線で隣を示しながら教えられた。横たわった姿勢のまま、その先生にぎこちなく頭を下げた。
先生は柔らかく微笑み、ポンポンと子供を褒めるような手つきで俺の頭を撫でてくる。この人もか。
「……おい。そいつ起きたなら俺は事務所戻るぞ。いつまでもヤブ医者のネグラに居座っていられる程こっちは暇じゃねえからな」
「お前もそろそろ俺に対する敬意と言うものを持ったらどうだ」
「そんなもん持ってて何になる」
俺達からやや離れた位置。不機嫌そうに吐き捨てた比内さんはドアの方へと歩いていく。咄嗟に上体を起こしかけたが、ズキリと腹部に痛みが走って顔をしかめただけだった。
「あの、比内さん……ありがとうございました。また助けてもらって」
助け方は死ぬほど怖かったけど。比内さんの背に向けて声を張った。
開けたドアを手で押さえながら比内さんは俺を振り返った。冷静な目に見据えられる。
「さっさと治せ。いちいち倒れられてたら迷惑だ」
「……すみません」
謝る以外の言葉も見つからない。比内さんは結局すぐに出ていった。
「…………」
ガキは面倒で嫌だと言っていた。面倒な子供代表みたいな俺が近くをうろちょろしていれば、あの人の機嫌が悪くなるのも当然のことだろう。
残った大人二人はお互いに顔を見合わせて呆れたように肩を竦めていた。やれやれと、困ったように笑っている。
「どうにかなんないんですかねえ、あの男の無愛想は」
「無理だろう。冬弥のあれは気質だ」
慣れたように答えた朝比奈先生は点滴が終わる頃にまた来ると言い置き、柔らかい笑みを落としてから隣の部屋へと入っていった。
最後に残ったのはこの人。俺の首の下辺りまで白い布団を引っ張り上げた。
「気にする事ないよ。比内は怒ってた訳じゃないから。まったく素直じゃないよね。一番キミのこと心配してたのあいつなのに」
そんなまさか。
「さっきの比内の事務所あるだろう? こことはご近所さんなんだよ。キミはとにかく今日はゆっくり休んで。明日になったら迎えに来るから」
「……え?」
「俺達もね、一応こういう職業だからさ。さっきの状況を見なかった事にはさすがにできないかな。比内だってこのままキミを帰す気はないよ」
ぎくりと顔が強張った。俺の表情がおかしかったのか、この人はクスクスと笑っている。
「そんなに怖い?」
「いえ、あの……なんと言うか……」
「まあスーツ着てても余計にソッチの人に見えるだけだもんねえ、あの極道顔」
「…………」
怖いけど、とても綺麗な顔をした人だ。だから余計に鋭い目つきが際立っている。
「弁護士さん……なんですよね……」
「うん。そうは見えなくてもバッジ持ってるし弁護士会にもちゃんと入ってる。比内なら必ずキミの助けになってくれるよ。あ、ちなみに俺はあの事務所で比内に毎日コキ使われてる健気な弁護士の中川です。あいつが嫌がりそうで面白いから洋介くんって呼んでね」
中川さんって呼ぼう。
「じゃ、あんまりゆっくりしてると雇い主が煩いから俺も戻るね。なんかあったら朝比奈先生に言って。あ、そうだ何か欲しいとか物あるかな。言ってくれれば届けるよ」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
これ以上何かしてもらうのも気が引けるし、実際特に欲しい物は何もなかったからそう答えた。しかし俺の言動はいちいちこの人を喜ばせるようだ。ニコニコと腕を伸ばしてきたかと思えばまたもや頭を撫でられている。
「……あの」
「うん。やっぱいい。可愛い」
「…………」
どうしようこの人。
***
辺りはシンとしている。とても静かだ。今は何時だろうか。
ヒタッと額に触れる手は優しかった。いささか低めの体温が気持ち良くて、頬に伝い下りてきた指先に誘われて思わず擦り寄っていく。
「…………」
そこにいる誰かが、息を詰めたように感じた。ピクリと揺れる、その指先。それでも手は添えたままでいてくれる。
解熱剤のおかげで少し楽にはなったものの、やはり体はまだ重い。勝手に閉じようとするまぶたを押し上げるのは億劫だけど、そんな事よりもこの手の主が誰なのかが気になった。
夢現でどこかぼんやりとしている。まぶたを上げようと思っても、鉛でも乗っかっているかのようにずっしりと重くて上手く開けない。
頭に浮かんだこの手の持ち主は、どういう訳か、思い出すべきではない人の顔だった。
母さん。たった一人の家族。思い出したところできっともう会う事はない。それでも確かにあの手はいつでも、こんな風にやさしかった。
虚しいだけなのにずっと憶えている。母親の手を。優しかったあの手を。
だから目を開けようとした。目を開けてそこにいるとちゃんと自分で確かめたかった。それでも体は言う事を聞かない。
「……かあ、さ……」
「…………」
ゆっくりと、撫でるような動作をしてから離れていったその手。
そうか。そうか、また。俺は置いて行かれるのか。
理解して、体からは力が抜けた。引き止める事は許されない。それくらい知っているから、ただベッドに沈み込んだまま訪れる孤独感に耐えた。
俺は多分、凄く疲れている。だからそのせいだ。誰もいなくなったけど、それでもなんとか一人でここまでやって来たのに。
今はまだ大人ではない。泣き喚いていれば無条件で許されるほどの子供でもない。誰にも助けを求められないなら、生きていくために必要のない泣き方なんて忘れてしまおうと、そう思ってやってきた。
「…………」
今度こそ間違いなく、人が息をのむ気配をこの肌が感じた。その人はまだそこにいた。今度は置いていかれなかった。
目尻からツツっと落ちた雫。生温かいそれが頬を伝った。
拭う気力はどこにもなくて、腕を動かすことはできない。本当に自分が泣いているのか、それすらもよく分からない。これはただの夢かもしれない。深くに沈み込んだまま、目尻から零れたそのひとしずくを現実としては捉えられなかった。
これは夢だ。どんな出来事も許容の範囲内にある。行ってしまったと思ったその影がまだ近くに留まってくれていたことも、目尻を拭うその指先がさっき以上に優しい事も。
驚く事のない、なんでも起こりうる世界の中で、俺はその手に慰められた。
まだ一緒にいてくれる。その人はしばらく、静かに俺の傍にいた。
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