たとえクソガキと罵られても

わこ

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2.拾われた犬

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「……ん……」

 頭がグラグラする。しっかり回らずぼんやりしていた。目を開けて最初に見たのは白くて少し高めの天井。仰向けのまま額に手を当て、それによって擦れた手のひらにピリッとした痛みを感じた。
 顔の前に右手をかざした。夕べここにかすり傷を作った。あいつらから逃げ出す直前、地面に張り倒された時だ。

 一つずつ思い出す。手のひら越しに上を見上げる。何度見上げても目に入るのは白くて高めの天井だ。室内は程よく暖かく、ドアの横の壁際にある重厚な焦げ茶の書棚には、分厚くて難しそうな本がずらりと列になって並んでいる。
 ここはどこだ。なぜ俺はここに。昨日はあいつらから逃げ切って、深夜の街角で腰を下ろして。それで、俺は。

「…………」

 どうしたか。

「っ……!」

 はっとしてガバッと身を起こした。その弾みで体の上に掛けてあった黒いコートが床の上にトサッと落ちた。
 見覚えのないシンプルな部屋。見覚えのないフカフカしたソファー。誰の物だか知りもしない、少なくとも俺のじゃないコート。
 自分の身に何が起きたか分からない。動転しながら前方をきょろきょろ見渡した。目に付くのはドア。逃げるか。どうする。しかし数秒も経たないうちに、後ろから投げつけられた声。

「おい」
「ッ……」

 ビクッと肩が跳ね上がる。反射で振り返り、今さら気付いた。部屋には男の人がいた。デスク越しにこっちを見ている。
 その人の、目鼻立ちに思わず息をのんでいる。異様なまでに整った顔。精巧な人形を思わせるような、それでいて威圧でもするみたいに、鋭く冷たいその目元。
 きつい視線はじっと俺に向いている。背筋が凍るような緊張感が内側から一気に込み上げてきた。

「ぁ……」
「コート拾え。汚れる」
「え……あ、はい。すみません……」

 この黒いコートはこの人の物なのだろう。それを慌てて拾い上げると続けて短く指示された。

「そこにかけておけ」
「……はい」

 視線で示されたコートハンガー。壁際にある木製のそれに手にしたコートを掛けにいき、振り返ってその人を窺う。そこでバチリと目が合った。

「突っ立ってねえでこっちに来い」

 命令しか飛んでこない。厳しい目つきに気後れしつつもデスクの前まで恐る恐る近付く。物理的な距離が縮まって余計に緊張感が増した。
 椅子に深く腰掛けたまま、品定めでもするかのように俺をじっと見上げてくる。耐えがたいこの威圧感。おずおずと顔を俯かせて不自然に目を逸らした。

「あの……」
「なぜあんな所にいた」

 小さな呼びかけは見事に無視され、前置きもなく投げられた問いかけ。

「……え?」
「今朝ここに来たらお前が入り口を塞いで寝てた。危うく通報するところだったぞ。退かそうとして触ったら冷たくなってたからな。死体かと思った」
「え、と……」

 静かなのに良く通る声は淡々と事実を述べた。それによってどうして自分がここにいたのか理解する。
 助けてくれたようだ。ならばまずはお礼を言わないと。そうは思うがこの人の視線にすっかり縮こまっている。

「おい」
「っはい……」

 大袈裟なまでにビクついて応えた。理屈ではなく怖かった。
 俺のこんな失礼な態度にこの人の眉間もきつく寄った。睨んでいるのかそうでないのか、厳しい目付きに晒される。

「お前はウチに用があってあそこにいたのか」
「え……?」
「……そうじゃねえなら帰れ。ガキがいると仕事の邪魔だ」
「あ、あの……」

 オロオロさせられるばかりでサッパリ意味が分からない。けれどもわざわざ見知らぬガキをここまで運び入れてくれた人だ。ご丁寧に自分のコートまで掛けて。
 逸らされることのない視線は厳しいうえにとても怖いが、いくらなんでも一言の礼もなしに立ち去るのは不躾と言うもの。

「あの……ご迷惑をお掛けしまして、すみません。ありがとうございました」
「…………」

 ぺこりと頭を下げた。この人からの返答はない。頭を上げるタイミングに戸惑いつつも、元の姿勢に戻してからもう一度だけ会釈する。極力目を合わせないようにしながらぎこちなく顔を上げた。

「それじゃあ、あの……俺はこれで……」

 目、と言うか。雰囲気が怖い。醸し出される空気感は全てを凍りつかせるようだ。
 踵を返したこの足は逃げる勢いで出口を目指した。そそくさとドアノブに手をかけて捻る。しかし扉を開ける寸前、ググッと外から押し開かれた。
 えっ、と思ったその瞬間にはバッと開け放たれている。向こうからひょっこり現れたのはまたもや知らない顔だった。

「そーやって比内はさあ、言い方がいちいちキツイんだよキミはー。可哀想にこんなに怯えちゃって。ねえ?」
「え……」

 入ってきたその男。言いながら俺の両肩をガシッと掴んだ。顔はとてもにこやかなのにその手つきには遠慮がない。
 はいはいそっち戻って戻って。呑気な口調で言われながらソファーに連れ戻されている。ほとんど無理やりに近い形でストンと着席させられた。ふかふかとした質感のシートに腰が沈み込んでいく。

「……あの」
「ごめんねー、このおっさんの目つきが悪すぎて怖がらせちゃったね。ほら比内、キミも謝りなよ」
「うるせえ黙れ」

 溜め息と共に聞こえてきたのはそんな一言。ソファーに座らされたまま横方向に顔を向けた。ヒナイ、と呼ばれたその人は、鬱陶しそうに頬杖を付いている。
 黙れと言われた当の本人は全然めげる様子もない。にこにこと俺の隣に座ってソファーの背凭れに寄りかかった。

「キミはねえ、そんなんだから方々に敵ばっかり作るんだよ。たまには愛想良くにっこり笑ってみたらどうだい。顔だけは完璧なのに表情作りが最悪なせいで台無しだ」
「うるせえっつってんだろクソが。無駄口叩いてねえで仕事しろ」
「あーあコレだよ。怖い怖い」
「あ?」

 イラッとした様子で低く呟く。その声を耳にして顔を青くさせたのは俺だった。隣のこの人はニコニコしたまま、まるで子供にするかのように俺の頭をよしよしと撫でた。
 状況についていけない。隣の男は意味不明だし、指先でイライラと机の表面を叩いているあの人は怖いし。
 デスクの向こうの存在は恐怖でしかないが頭を撫でられ続けるのも困る。徐々にこの身は縮こまっていった。どうしたものかと困惑していれば、その人が頬杖をついたまま不機嫌そうに口を開いた。

「……おい。やめてやれ」
「いやー、いいねなんか可愛い。干からびた心が癒される」
「やめろ」

 冷淡なその口調。鋭い目つきまでうっかり直視して今度こそ心臓が凍り付いた。

「あーほら。比内がまた怖い顔するからすっかり怯えちゃってるじゃん」
「え、いえ……」

 二人の視線に挟まれて居心地悪く俯いた。隣の男は面白そうに俺の肩に腕を回したが、それまで頬杖をついていたその人は不意にスクッと立ち上がった。怖々目を向ける俺の方にツカツカと歩いてくる。
 目の前まで来たその人を見上げる。ガシッと、頭を掴まれた。

「ッ……」

 なんで。どうして掴まれた。ほぼ鷲掴みと言っていい。俺の頭に手を置きながら強引に目を合わせてくる。

「おいガキ」
「はっ、い……」

 思わずどもる。そして隣からは場違いに呑気な声が。

「比内コワーい。どうすんのさこのコ、すっごい怖がってるよ」
「てめえは黙れ」
「ぎゃッ」

 蹴りつけられた隣の男。俺の肩に回っていた腕も勢いよく払い落とされた。それをやったこの人は、俺を真正面から見下ろしている。

「お前がいるせいでさっきから俺の仕事が中断してる。このクソバカ野郎は相手にしなくていいから早急に出て行け。ここはガキが遊びに来るような場所じゃねえんだよ」
「ちょっとヒナイー。有能なパートナーをクソバカ野郎呼ばわりはないんじゃないの。俺が普段どれだけキミのためにあくせく働いてると思ってんのさ」
「黙れと言ってる」

 低音がこっちにまで突き刺さる。声を落とされた先は俺の隣だったが視線は俺に向いたまま。睨み殺されそうなその鋭さに、ごくりと喉が鳴っていた。
 頭を鷲掴みにしてくるこの人の手は動きそうにない。逆らう意思のない事を示すように、控えめな態度で小さく答えた。

「……すみません……すぐに出て行きます。あの、ほんと……助けていただいてありがとうございました」

 もう一度礼を述べただけなのに冷たい眼差しと思い切りぶつかる。息をのみ、慌ててサッと外した視線。苛立った様子の舌打ちが耳に入って泣きそうになった。
 帰りたい。早く立ち去りたい。言われなくてもここから逃げたい。

「じゃあ、どうも……失礼します……」
「えー、もう行っちゃうの?」

 怖い視線と大きな手のひらから逃れるように立ち上がるも、隣の男が俺を見上げながら陽気な声で引き止めてきた。

「あ、そうだ。比内が怖いなら俺と隣でお話でもしない? ちゃんと体あったまるように紅茶でも淹れるよ。外で倒れてたんでしょ? うっかり凍え死ななくてよかったねえ」
「あ……はは……あのもうホント俺、帰るんで。お気持ちだけ……」
「うわ、お気持ちだけとか久々に聞いた。今時珍しいくらいのイイ子だな」

 引き攣った笑い声しか出てこない。目の前のこの人の機嫌も損ねたくない。頭頂部を鷲掴みにされるのもこれ以上はもうごめんだから、落ち着きなくこの場所から逃れてペコペコしながらドアまで逃げた。
 去り際に室内を振り返り、もう一度深々と頭を下げる。姿勢を戻してチラリとだけ二人の様子を窺った。ニコニコしている方の男とは全くもって対照的なその人。興味なさげにフンと鼻を鳴らし、すぐにデスクへと戻って行った。

「……ご迷惑をおかけしました」

 パタンと外から閉めたドア。見慣れない空間にキョロキョロ視線を巡らせる。

 整然とした通路。目の前にあるのはブラインドカーテンが上がっている部屋の窓。会議室、か何かだろうか。向かい合わせに配置された長机と、ホワイトボード。大きすぎないサイズの観葉植物も目に入る。
 知らないドアを開ける訳にもいかず、そこを横目に通り過ぎて角を曲がるとまた廊下。ドアを二つほど通過してさらにまた曲がると、その先にエントランスが見えた。

 出口から一歩進めばすぐさま外の空気に触れる。目の前に広がっているのは当然、見知らぬ土地の光景だった。せめて駅の方角くらいは聞いておけばよかったと悔やむ。
 とは言えこうしていつまでも立ち尽くしている訳にはいかない。ひとまずは道路を挟んだ向かい側の歩道に渡った。
 残念ながら見渡せる範囲に案内標識の類はない。右か左か、どちらに行こうかと足を留めて迷うこと数秒。明るい声が耳に入った。

「ねー! 待ってキミー!」

 元気よく叫ばれて振り返る。そこにはさっきの人がいた。愛想のいい方のにこやかな男が建物の入り口から顔を出している。人通りもなければ車の通りもない道を一直線に駆け渡ってきた。

「ごめんごめん引き止めちゃって。比内が行けって言うからさ」
「……え」

 なぜ。知らぬ間に何かやらかしていたか。

「口は悪いんだけどね、ああいう男なんだよアレは。自分で追い出したくせにキミがちゃんと帰れるか心配になったみたい」
「……そう、ですか……」

 身に覚えのない非礼に対する脅し文句ではなかったようだ。とりあえずは胸を撫で下ろし、あの冷たい目を思い出す。
 物凄く怖かったけど。悪い人ではないのかもしれない。

「帰り道分かる? っていうかココがどこかはちゃんと分かってるんだよね?」
「あ……いえ。実は全く……。走ってて気づいたらここにいたんで」
「走ってて……?」

 にこやかながらも困惑した様子でオウム返しにされた。当然だ。曖昧に頷いただけの俺に、この人は首を傾げて言葉を続けてくる。

「……あのね。法律事務所の前で倒れてる人間なんて酔っ払いか訳アリかのどっちかだろって、比内が眉間にシワ寄せながら言ってたんだけど……」
「法律……?」
「あ、うん。ウチそういう事務所。で、ホントに訳アリなら話くらい聞くよ?」

 道路を挟んだその建物をここから眺めた。よくよく見てみれば入り口には確かに『比内法律事務所』の看板が。
 弁護士なのか。あの人。

「比内はあんな極悪ヅラだし誤解受けやすいけどね。中身はちゃんとしたフッツーの真面目な弁護士だよ。見えないけど。もし何か困ってるなら力になれるかもしれない」
「いえ……大丈夫です、特に何も……。ああでも、ここがどこかだけ教えてもらえると助かります」

 言わない事に意味はない。頼らないのではなくて、頼れなかった。
 現状で困っているかいないかと聞かれれば非常に困っている。けれど俺には弁護士を雇えるだけの金なんて一円も残ってない。

「住所と方角教えてもらえれば……。あとは適当に歩いて帰れるんで」
「そう? もし良ければ車出すけど」
「いえっ、大丈夫です本当に。ありがとうございます」

 すかさず両手をかざして控えめに下がった。謙虚だねえと、何やら微笑ましく頭を撫でられて反応に困る。頭を撫でられても男子高校生は嬉しくならない。
 この付近は静かで落ち着いているが、大通りにはほとんどまっすぐ行くだけで辿りつきそうだ。大きい通りに出る道順を片手で示されて頷いた。
 さすがのあいつらもすでに諦めて撤収しているだろう。夕べのしつこさは今までとは違った。確実にただの脅しではなかった。捕まったら今度こそどうなるか、考えるだけでも怖かった。

「…………」
「どうかした?」
「いえ……」

 道路向かいの、その建物。比内法律事務所の文字を目に映し、それからもう一度頭を下げた。

「どうもありがとうございました。ヒナイさん、にも……よろしくお伝えください」
「うん、分かった。またいつでも遊びにおいで」

 もう二度と来ないと思う。バイバイと手を振られたからぎこちなく笑って返した。教えられた方角に体を向けて、溜め息を押し殺して歩きだす。
 一晩で高まりすぎた感覚がそうさせるのか、嫌な胸騒ぎがして仕方ない。帰ったらどうなるか。何も考えずに帰ってもいいのか。そこにもしもあいつらがいたら、俺はその時どうすれば。
 ハラハラとした感情を抱えたまま、そこでふと、顔を上げた。瞬間、止まる。ピタリと足が。手前の小道から出てきたのは二人組のスーツの男。そいつらの姿が目に入り、全身に緊張が走った。

「……ッ!」

 心臓が跳ねあがった。どうやら俺は相当ついてない。悲鳴にもならない、叫ぶ余裕もない、焦りと驚愕がない交ぜになった呼吸だけがひゅっと漏れていった。
 気付いたのは向こうも同じ。そいつらもハッと目を見張っていた。
 逃げるためだけに走り出す。行こうとしていた方向とは真逆に。道を教えてくれたその人のすぐ横を駆け抜けた。

「あっ、ちょっとキミ…」
「テメエこのガキッ!」

 驚いたようなその人の声に被せ、後ろから怒鳴り声が上がった。捕まったら終わりだ。もう次はない。無我夢中で足を動かした。
 早朝の似合わない男二人は夕べ俺を追い回していた奴らだ。偶然にもばったり再会するにしては都合の悪すぎる連中だった。
 もうこれ以上は脅しじゃ済まない。それをよく理解している。日に日に悪化していった恐怖感は現実に起きている事だ。後方から叫ぶ二人の声を耳にしながら必死で走った。

 平日の朝、この時間帯。閑静な道を走り抜けると今度は大きな通りに出た。通勤通学で行きかう人の数も一気に多くなってくる。
 助けてと、もしもここで叫んだとしたら、誰かが助けてくれるだろうか。振り返ってくれるだろうか。涙も出ないような必死な頭にはそんな考えがよぎったが、結局声を出すことはなくただただ逃げることを選んだ。

 いつだってそうだ。助けてくれる人は誰もいなかった。厄介者扱いはされたけど、救いを与えてくれる誰かはたったの一人も現れなかった。
 だから自分で逃げないと。運が悪かったんだと思って、今はひたすら逃げるしかない。何も持ってない、なんの力もない俺にはどうせ、それくらいの事しかできない。

「はッ……くっ……」

 苦しい。夕べのデジャヴ。いや、違うか。昨日だけじゃない。毎回毎回この繰り返しだ。
 俺は逃げて、あいつらは追いかけてきて。たまに掴まっては殴られるか、逃げ切って虚しく安堵するか。
 そしてどうにか今日もまた逃げ切った。気づけば再び人気のない場所へと身を隠している。肩を上下させながら、ふらふらと裏道へ逃げ込んだ。
 ビルとビルとに挟まれた、薄暗くて幅の広くない道。熱いのか寒いのかが良く分からない。さっきから頭はくらくらしている。ぼんやりとする視界を凝らして懸命に前を見た。朝の繁華街の裏道は薄ら寒く殺風景だ。店々の壁に沿って暗がりをひっそりと進んでいく。
 声を漏らさないように歩いた。その手が背後から、伸びてくるまで。

「いッ……」
「手間かけさせやがって」

 掴まれた首根っこ。目を見開いたが振り返る暇はない。強引に体を反転させられた。
 ガツッと勢いよく受けたのは鈍い衝撃だった。思い切り頬を殴られ、簡単に地面へと倒れ込む。

「っ……くッ」

 左頬がジンジンする。頭も割れそうなほどに痛い。無様に地面に両手を付いても自分で身を起こす事はできなかった。そいつに髪を引っ掴まれて、無理矢理顔を突き合わされている。

「放せ……ッ」
「そういう事はきっちり責任果たしてから言うんだな」

 皮肉に笑う目の前のそいつと、その後方で逃げ道を塞ぐ男。格好だけはスーツを纏ったこの二人。貸金債権を名目に掲げて俺を地獄へと追い立ててきた。
 こいつらの主張がおかしい事はガキの俺にも分かっている。だけどそれに対抗するだけの術も知識も俺にはない。精一杯の虚勢だけで、そいつの顔を睨み返すのがやっとだ。

「これ以上……払えるもんなんか何もねえよ。全部持ってったのはお前らだろ」

 あの日俺の手元に残ったのはいくらかの預金だけだった。それすらもこいつらにむしり取られた。なのに地獄は一向に尽きない。こいつらの脅しは日々悪化していくばかり。
 卑しく笑い飛ばされ唇を噛みしめた。髪から手が放れていくのと同時に躊躇いもなく蹴りが食い込む。みぞおちに膝が入った。

「ッぅ、ぐ……ゲホっ」
「相変わらず生意気なガキだな。払う金がなけりゃ稼がせてやるっつってんだろうが。テメエみてえなガキにも使い道くらいはあるんだからよ」

 強制的に息をせき止められ、ゲホゲホと苦しく咳込んだ。無理やり立たされ、胸ぐらを掴まれ、またもや左頬を殴られた。捕えられているせいで今度は倒れる事もできない。

「ッつ……」
「おい、あんま顔はやめとけ。店連れてくんだろ」

 もう一人の男がそう声をかけてきた。この手の脅しは今に始まった事ではなかった。それが現実に迫っている。俺にはもはや僅かな猶予も残されていない。
 逃げても逃げても追って来るなら、いっそのこと掴まって殴られた方が楽かもしれない。しかしそれでも、最後に残った意地がある。今もまた恨みを込めて男を睨みつけていた。見下されて鼻で笑われようとも、視線だけは外さない。

「クソ生意気なツラしてやがる。オラ来い。借りた金を金で返せねえってんならな、カラダ使って払うってコト教えてやるよ。あんな母親でも小綺麗な顔に産んでもらったことには感謝しな」

 ギリッと、奥歯を強く噛んだ。募るのは危機感よりも、嫌悪感の方が上だった。
 沸き上がる。暴れるなり噛みつくなりしてやりたいのに手も足も出ない。睨み返すだけで限界だ。抵抗できる程の余力が体にはもう残っていない。
 頭がガンガンと響いて痛い。全身が徐々に重くなっていく。引きずられるように歩かされ、逆らえないまま引っ張られていった。

 おとなしく引きずられるのはこいつらに屈したからじゃない。逃げられるものなら今すぐ逃げたい。でももうできない。思考が時折飛びそうになる。
 朦朧とした。くらくらしていた。だからこんなに寂れた道を通りすがる誰かがいたのも、俺を捕えている男の前にその人が立ちはだかったのも、全ては幻覚だろうと思った。
 だってその人は、やっぱり最初の印象のまま。冷たい眼光がとても鋭くて。

「…………え」

 パシッと、腕を取られていた。力強く引っ張られる感覚。
 違う。違った。幻覚じゃない。現実だった。その人はいた。つい先程まで俺を捕えていた男はなぜだか地面に倒れこんでいる。ドガンッと派手な音が立ち、すぐ横にいたもう一人の男も壁に打ち付けられている。

「な、ん……」
「邪魔だ。退いてろ」

 突き飛ばされるに近い動作で乱雑に腕を放された。後ろに追いやられながら目の前で起きている光景を見る。
 何が起きた。どういうことだ。どうしてこの人がここにいる。ヒナイさん。そう喉まで出かかった声は、目に入ってきた光景によって寸前で堰き止められた。

 怒声と共に殴りかかる二人。だがこの人は顔色を変えない。難なく一人を蹴り飛ばし、もう一人の胸ぐらを掴んで力任せに引き寄せた。強く蹴り上げられた膝は男の腹に食い込んでいる。重い音と苦しげな呻き声。間を置かずにそいつの服をグイッと雑に掴み上げ、容赦なく壁にブチ当てた。もう一発脇腹を蹴り飛ばしてから地面にドサッとゴミでも放るように投げ捨てるまでの一部始終。

 立ったままそいつを見下すその人の顔を、俺のこの位置から確認する事はできない。けれど目に浮かぶ。冷徹な眼差しが。地面に張り付く男の顔面を後ろの壁に向かって躊躇なく蹴り付けたくらいだから。

「ァガッ……」

 息を呑むとはこういう事だ。力なくその場に立ち竦む。俺の耳は聞いてはいけない音を拾ったような気がする。普通に生活していれば、頭からメキョッ、なんて不穏な音が出るはずはないし出ちゃいけない。
 悲惨な現場を呆然と目に映した。白目を剥いて意識を飛ばしている男の頭を、つまらなそうに靴の爪先で上向かせているこの人。

「ひ、ひないさん……それ以上は……」
「テメエは黙ってろ」
「…………」

 あからさまに殺気立った様子に全身がピシリと凍りついた。
 この人の視線はすぐにもう一人の男へと移っている。仲間の悲劇を目の当たりにしてすっかり青くなっていたそいつはギクリと一歩後ろに下がった。けれどこの人がそれを許す気はないようで。

「待てよ」
「ヒッ……」

 ガシッと肩口で服を引っ掴まれ、さっきまで俺を殴っていた時とは別人のように縮こまった男。顔面蒼白になりながら口元をピクピクと引きつらせていた。
 そんな男を冷徹に見下し、それはそれは低い声で問いただすのは無情なこの人。

「こんな青クセぇガキに何を教えるってんだ。ああ? 言ってみろ」

 言えないだろう。言えるはずがないだろう。むしろこの男に喋るだけの力は残っていないに違いない。余りに大きすぎる恐怖で。

「……胸クソわりぃ」

 第二の被害者が出たのはその直後だった。二人ともしばらくは意識が戻らないだろう。仮に警察がこの現場を目の当たりにしたとすれば、連行されるのはチンピラ二人組ではなくて確実にこっちの弁護士だ。
 二つになった人間の残骸。この人は汚物でも見るような目でそれを蔑み落としている。足でそいつらを隅の方に追いやってからようやく俺に振り返った。

「……このガキ」
「すみません……」

 怖い。すごく怖い。

「追われているなら追われていると初めからそう言えグズが。これだからガキは面倒で嫌なんだよ。お前のせいでまた余計な時間をくった。どうしてくれんだ、俺の仕事が今朝からずっと滞ってる」

 理不尽とはこのことか。反論する勇気なんて俺にはカケラ程度もないが。
 それに今は、割とそれどころではない。さっきからガンガンと響いている頭は意識を朦朧とさせてくる。二人組から解放されたという安堵感も相まって、俺の腰はへなへなとその場に情けなく崩れていった。
 不機嫌そうな目をしたまま、比内さんは俺の目の前まで歩み寄ってきた。上等そうなコートが地面に触れるのも構わずその場でしゃがみこむ。そうしてスッと腕を伸ばし、俺の肩をそっと支えた。

「おい、ガキ。どうした」
「……すみません」

 ああ、ダメだ。怒られる。この目でまた睨まれる。
 頭の片隅の理性的な部分はちゃんと起きろと訴えてくるが、その手に身を任せてしまうくらいには俺ももう限界だった。

「……お前、熱……」

 大きな手のひらが額に触れた。それを認識したのを最後に、意識は遠ざかっていった。呼吸が苦しい。体中が痛い。この人から声をかけられているのに返事をする事もできない。
 限界を超え、目を閉じた。この人の腕が俺を支える。遠くに聞こえる静かな声は、不思議と耳に心地よかった。

「……ああ、見つけた。車出せ。こいつ連れて帰る」

 抱きかかえられたような気がする。ポンと微かに、頭を撫でられたような気もする。
 それが夢なのか現実なのかは分からない。怖いはずのこの人に、なぜなのかホッとしている。
 鉛みたいに重い体を深く底へと沈めるように、俺の意識は暗いところにひっそりと落ちていった。
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