たとえクソガキと罵られても

わこ

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27.うたた寝

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 暇なら明日出かけないか。そう誘われて晃と遊んでくることになった。
 俺はのんきに春休み中だが平日なので比内さんはお仕事。門限なんてものは特にないから常識的な範囲内で帰ってこい。朝から晩まで働く大人にはそうとだけ言われていた。

 夜になってマンションの前に到着したのは二十時少し過ぎ。高校生の帰宅時間としては完全に常識の範囲内だと思う。まあまあ良い子ぶって帰宅してみたが、ご飯はもう食べただろうか。適当に用意するから気にしなくていいとも言っていたが、一応そこのスーパーでは二人分の食材を買ってきた。
 長ネギがぶっ刺さったお買い物袋を引っ提げて帰ってくるようなマンションとは雰囲気もランクも違うのだろうけど比内さんは意外と庶民派だ。みそ汁の具で好きなのは長ネギ。その次に好きなのは絹ごし豆腐。一番好きなのはおそらく揚げナス。比内さんのご飯がまだなら、今夜は長ネギとナスを使ってごま油が香る味噌汁にする予定だ。

 などと思いつつリビングのドアを開けた。明かりはついているものの、しかしそこに人影はない。
 書斎かな。今日もまだ仕事か。安っぽい買い物袋を抱えながら中央に向けて足を進めた。ところが少々近づいたところで、横長のソファーの背もたれの向こうが見えてくる。
 一瞬止まりかけた足でさらにもう少々近づいて、物取りのようにコソコソしながら内側に回り込んだ。そこで見たものに思わず、ピタッと固まる。

「…………」

 寝てる。比内さんがソファーでくったり。横向きにひざを折ってソファーのスペースにすっぽり収まり、腕は途中で落っこちたのか、右側だけダランと床に。寝心地のよさそうな場所ではないが、目が開く気配はなさそうに見える。

「…………」

 びっくりするくらい隙がなくて、きちんとしすぎな程きちんとしているから、休日だろうといつだろうとゴロ寝なんて絶対にしそうにない。
 そう思っていた。しかしそんな人が今、ソファーで横になっている。

 そうか。この人も普通の人間だった。よかった。安心した。ちょっとホッとした。
 目の前に広がっているのは読書中に眠くなったのだろうと想像がつくような光景だ。本を読んでいた形跡がそこに。テーブルの上の文庫サイズの本にはしおりを挟んでいるのが見えた。そしてその本の表紙には、キリッとした書体ながらもこれは一体どういう意味なのか、『猫を愛する全人類へ』と。

「……ねこ」

 ほとんど声にならない音量で呟く。猫を愛する。全人類へ。

「…………」

 小説なのか教養本なのか実用書なのかもしくはエッセイか、内容は微妙に分からないけどとりあえず見なかった事にしよう。タイトルからしてほぼ間違いなく猫好きによる猫好きのためのなんらかの書物だろうが気づかなかったことにしておくべきだ。

 ひとまず食材をキッチンに置いて、荷物を自分の部屋に戻しがてら毛布を一枚持ってきた。それを比内さんの体にパサッと。起こさないように気を配りはしたものの本当に全く起きなかった。
 今日も比内さんはお疲れだ。いつだってそのはずだ。ただのガキである俺から見ても、この人は毎日頑張りすぎている。俺にできるのはご飯を作ることくらいで、時々は毛布を掛けることも。
 起こさないように静かに膝をつく。毛布が落っこちないように直し、顔に目がいき、そこで止まった。本当に美術品みたいな人だ。眉間の険しさは相変わらずだが。

 毛布から覗く左腕に、こそっと手を添え持ち上げようとした。長袖でもこのままだと肌寒いだろう。床にだらんと垂れていたその手を毛布に収めるつもりだったが、さすがに起こしてしまいそうだと思い直して毛布の方を引っ張った。右腕も覆うように被せ、掴んだその手を離す間際、触れている温かさにふと、気付く。
 少しだけ。ほんの少し。毛布をスッと片手で持ち上げ、隙間から見下ろしたその手。ひんやりしたイメージの手は、思ったよりもずいぶんと温かい。
 この人はこの手で俺を力強く引っ張り上げてくれた。物理的に触れることなんてないから、いま改めて気づかされた。あったかい。大きいだけじゃない。それはおそらくこの人の本質。

 どれだけ感謝してもし足りない人に触れたまましばらく見下ろしていたら、手のひらの下でぴくッと動いた。微かなそれにハッと止まった。思わず呼吸まで止めてしまったまま動けなくなりじっとしていると、比内さんの手がごくごくわずかに、探るような仕草で動いた。
 逃げそびれた俺の指先にふっと触れてくる。人差し指を比内さんの人差し指が、軽く握った。ほとんど力なんて感じないくらいに少しばかりの加減で、きゅっと。

「…………」

 言葉も出ない。そうだ、それ。言葉どころか声さえも出ない。
 さっきからちょいちょいこの状態になるがこれこそ本物の言葉も出ない。あまりにも驚きが過ぎると人間はこうなるようだ。
 長い足を窮屈に折って猫みたいに丸まりながら、うたた寝していた。それだけでも珍しいのに、捕まえられた。指先だけで。どこか頼りなく、何かにすがるかのように。

「…………」

 言葉も出ない。







***







 物音が立つのは防ぎようがないものの極力静かに作業を始めた。まな板と包丁を用意して、ナスを洗って、長ネギを洗って、そうこうしている間もこの視線はちらちらとリビングのソファーに向いた。
 だから比内さんが起きたことにも、キッチンに向かってきたのも気づいていた。カウンター越しに声をかけてきた比内さんの顔はまだまだ疲れている。

「悪い。帰ったの気づかなかった」
「いえいえ。いえ。全然」
「ずいぶん寝てたか」
「あぁ、どうでしょう……俺もちょっと前に帰ったとこなので」

 さっき、比内さんが眉間を寄せてンンっと身じろいだその瞬間に、サッと手を引っ込め腰を上げた。
 こんな動きができたのかと自分で思うほど素早く、音も立てず、キッチンに逃げ込み、少しして比内さんがのそっと起き上がった。それをソファーの背もたれ越しにチラ見していた。

 指先一本を弱い力で握られていたのはほんの数分。その数分は死にそうなくらい長かった。
 今もまだ秘かに動悸が収まらない。何もなかった風を装い、いや実際たいした事ではないけど、驚愕から覚めないのを隠して努めて冷静に問いかけた。

「比内さんご飯は……?」
「いや、まだ」
「じゃあすぐ作っちゃいますね。俺もまだなんです」
「食ってこなかったのか」
「はい。ここで一緒に……」

 食おうと思って。言いかけたそれは最後まで続かず、尻すぼみに引っ込めた。

「すぐできるので……もう少し待っててください」

 そしてそう言い換えた。

 ほんの少し前まではあれだけ怖い人だった。今ではもう一緒に食卓を囲うのが当たり前になっている。
 この人にとってどうだか知らないが俺にとっては完全にそう。晩ご飯は比内さんと一緒に。家族ではないけど、それが馴染んだ。
 友達と夜まで遊んでいたのに友達とは晩メシを食わずに家に戻って保護者代わりの大人と一緒に食うことを自然と選んだ。それが俺の当然だった。飯炊き係に任命されていようといまいと関係ないだろう。ただ自分が、そうしたかった。
 そうしたがっていた自分に気づいた。今日はどうにも、発見が多い。

「……味噌汁の具、ナスとネギでいいですか。安かったんで豆腐も」
「ああ。……ナスは揚げるのか」
「はい。ごま油で」
「そうか」

 好きなのは長ネギ。その次は豆腐。最も好きなのは揚げたナス。ナスを揚げるのに使う油は、ごま油にするのが比内さんの好み。
 一個ずつ知っていく。知れたことが増えればその分、この人の好きなものを作れる。
 猫の本を読みながら猫みたいにうたた寝してしまう大人と、一緒にごはんを食べたいと思った。
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