たとえクソガキと罵られても

わこ

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18.守護者Ⅰ

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 借金取りに追われている身で贅沢なんてできるはずがない。その日の生活にも困るくらいだったから、スマホみたいに金がかかる物は何一つとして持っていなかった。
 それを今は持っている。持っておけと言った比内さんがわざわざ買って俺に持たされた。

 比内さんたちが高校まで迎えに来てくれると連絡が入る。呼ばれるまでは何があっても絶対に出て来るなと言われている。いつもならばとっくに連絡が入っていてもおかしくない頃だ。ところが今日はいつまで待ってもポケットの中のスマホが鳴らない。
 もしかしたらもう来ているのかも。図書館で時間を潰しながら時計を見上げてふと思う。
 一応確認だけしてこよう。もしも待たせていたら悪いし。教室から持ってきていた荷物をごそっと手に取り腰を上げた。

 生徒のほとんどは学校の正門か、あるいは駐輪場に近い西門を使う。けれどこの学校にはもう一箇所、裏手の道路に面した門もある。
 裏門を使う人間は生徒にも教師にもあまりいない。人通りも車の通りも元々ほとんどない場所だ。だからその裏門から見て道路を挟んだ向かい側路肩に車はいつも停められている。

 門まで行けば車があるかないかは一目で分かる。石造りの古びた門から少しだけ顔を覗かせた。
 ところがそこで、目に入る。車じゃない。何もない寂れた道路でもない。スーツを着た男と目が合い、瞬間にはっと息をのんだ。

「よう」
「…………」

 そいつはニヤッと口角を吊り上げた。一歩分ジリッと後ろに下がる。けれども逃げだすその前に、右腕を強く掴まれた。
 直後、引っ張り出されている。敷地の外。門を背にして。目の前にはこいつで背後には壁がありギリギリと腕は掴まれたまま。故意に握力を強めながら顔を近づけて見下げてくる。逃げ場を失った状況の中、条件反射で睨み返した。見せつけられるのはこいつの嘲笑。

「相っ変わらず生意気なガキだな」

 人が少ないからこの門を使った。人がいない事が仇にもなった。こいつは声を潜めもせずに、ニヤけた顔を急に引っ込めて凄むように俺を睨んだ。
 この男を良く知っている。何度も何度も追い回された。俺を殴った男の一人でもある。こいつらの顔だけは忘れない。

「弁護士なんか付けやがってクソが」

 ドンッと壁に押しつけられた。完全に逃げ場はなくなった。
 油断していた。終わったと思った。だけど比内さんの言った通りになった。あれほど一人でうろちょろするなと。呼ぶまで待ってろと、言われていたのに。
 悔やんだところでもう遅い。この男は俺を睨みつけたまま、苦々しく吐き捨てた。

「ウチから盗んでった金返してもらおうか」
「あれは……あんたらが…」

 ガッと胸ぐらを掴まれて途切れる。言いがかりに反論もできない。いつだって思い知らされてきた。無力で惨めな気分を思い出す。
 今ここに比内さんはいない。俺はこいつらの脅威になれない。こいつらがあの金を差し出したのは、相手が比内さんだったから。

「貸した金も返って来ねえってのに盗みまでされちゃあな。こっちも黙ってらんねえんだよ」
「…………」

 正論が通じる相手でない事も嫌と言うほど身に染みている。人一人を死へと追い込むことさえ悪いとも思わないような奴らだ。俺を睨みつけるその顔には、再び卑劣な笑みが浮かんだ。

「いいのか。次はお前の母親の番だぞ」

 ただ、目を見開いた。男の笑い方が大きく映る。
 こいつらの目的はいつでも金だ。どんな手段だろうと金になる人間がそこにいるならターゲットにして逃がさない。
 だから俺はしつこく付け狙われた。その俺に味方が付いた。俺で金を作れなくなるなら、標的を変えても不思議ではない。次の標的は、母さんだ。

「……っやめろ」

 押し殺したような声になっていた。つい、勝手に、口が開いた。こいつらが母さんの居所を知っているかどうかも分からないのに。はったりだと頭では理解していても、あの小さなアパートの中で壊れていった母さんが浮かんだ。
 人の弱みはこいつらの強みだ。叫んだ俺を見てこの男は、いやらしく笑みを深めた。

「大事な家族だもんなあ?」
「…………」
「俺達だってお前のお袋さんを桧山のような目には遭わせたくねえよ」

 ひゅっと、息を吸い込んだ。吐き出し方は分からない。
 借金を作った張本人だ。桧山というその男は、この世にはもういない人だ。

「桧山のことは俺達も残念だった。お前も本当にお袋さんがいなくなっちまったら悲しいだろ」
「やめろ……」
「大丈夫だ、助けてやるよ。お前がちゃんと義務を果たせばお袋さんもきっと喜ぶ」
「…………」

 頭の中に浮かんでくるのは同じような光景ばかり。狭くてじめじめした部屋の中で、泣いて謝る母さんの姿。
 男の顔を見続ける事はできなかった。こんなのはただの脅しだ。それくらい分かってる。なのに徐々に視線は下を向く。それに追い打ちをかけるようにこいつは俺に繰り返し聞かせた。
 金を返せ。それで済む。そうすれば母親に手出しはしない。母親を大切に思っているならあの弁護士とは手を切れと。

 一度金を渡したら最後、こいつらはどこまでも追ってくる。だけど俺がここで逃げたら、本当に何かされるかもしれない。母さんが今どこにいるのか、こいつらは知っているのかもしれない。
 せっかく逃げられたのに。こいつらがまた目の前に現われたら母さんは今度こそどうなる。俺の前で毎日泣いて、毎日疲れてぼろぼろで、あれだけ散々苦しんだのに。俺が逃げたら、また、母さんは。

「…………」

 見下ろすのは自分の足元。こいつらが見ているのも同じものだ。金を返すと言ったらそこで、狙いは俺一人に絞られる。
 返します。一言でいい。その一言さえ口に出せば、俺でも母さんのことだけは守れる。
 俺が頷けば目の前にいる男は底意地悪く笑うのだろう。そうなる事を分かっていながら、悔しさで震えそうな口を自分の意思で開こうとした。

「俺の依頼人になんの用だ」

 しかしそれは、ピタリと止まった。俺が言う前に声が響いた。負けを認める惨めな一言を俺はまだこぼしていない。
 顔を上げた。その姿を見る。俺を拘束していた男もはっと後ろを振り返っていた。近づいてくるその人を、ここからはっきりと目に映す。

 比内さん。
 口は微かに動いたと思うがほとんど声にはなっていない。腕を引っ張られ、その次には庇うように背後へと追いやられている。
 俺の前に立った比内さんにこの男も顔色を変えた。そんな相手に比内さんは容赦なく向かい合っている。

「話があるなら俺が聞く」

 微かに足を引いた男に、比内さんが一歩詰め寄った。

「こいつには一切関わるなと言ったはずだ。誓約を反故にする気ならこちらも相応の手段に出るが」

 ここから見えるのは比内さんの後ろ姿と、分の悪い顔をする男。穏便に話をまとめてきた。比内さんは俺にそう説明した。しかし男の様子を見れば、なんらかの圧力をかけたのは明らか。
 比内さんがこの場から動く気配は全くなかった。退く必要がなかったのだろう。すぐに折れたのは相手の方。敵意がない事を示すかのようにわざとらしく笑って両手を上げた。

「やだな先生……誤解ですよ。たまたまそこの彼を見かけたんでね。挨拶でもしようかと思って」

 ふざけた口振りで男は言うが比内さんは無言のまま。口では強気に見せている男も体はいくらか引き気味だった。
 もう用は済みましたんで。比内さんにそれだけ言うと男はそこで背を向けた。こっちを振り返る事もせずに道の角を曲がっていった。
 比内さんはそれでもしばらく男が消えた方を黙って見ていた。後ろの俺を振り返ったのは、ようやく足を一歩踏み出した時。

「来い。帰るぞ」
「……はい」

 いつもなら道の向かい側にある見慣れた黒のセダンがない。朝来た時には通れた道路が工事で通行止めになっていたそうだ。渋滞している道を迂回するより歩いた方が早いと考え近くのパーキングに停めてきたらしい。比内さんの後についてそこまで歩いていく途中、看板と工事中の様子が進行方向に見えてきた。

 助かったけれど、気は休まらない。さすがのあいつらも学校にまで押しかけてくるような事はなかった。嫌がらせの電話ならば、支払いを渋った時に一度されたが。怒鳴るように俺の名前を出し、両親の誹謗中傷をして、根も葉もないような不快な話を電話に出た教員にまくし立てたらしい。
 それを担任から聞かされてはぐらかしたあの時は、まだ母さんが一緒にいた。母さんにその事は言えなかった。日に日に弱っていく母さんに、余計な心配はさせたくなかった。

「早く乗れ」

 パーキングに来ると比内さんの車があった。急かされてドアに手をかける。
 学校まで巻き込まれたのは幸いにもその一度きりだった。ここに来たことは今までなかったからこれからもそうだろうと思っていた。第一すべては終わったのだと、安心していたらあいつがやって来た。俺が駄目なら次は母さん。あの男の脅しが耳に残っている。

「比内さん……」

 また言いなりになるところだった。脅しに屈するのは簡単だった。
 車のドアを内側から閉め、エンジン音を耳で聞きながら弱音が口をつきそうになる。

「あいつら……」
「シケたツラはやめろ。何度も言わせるな」
「でも……母さんが……」

 その目が静かに向けられた。何を材料に俺が脅されていたか、比内さんはその一言で気づいたのだろう。

「こんな時に他人の心配か」
「他人って……」
「お前を捨てた女だろ」

 冷たいだけのその言い方。違うと、食ってかかる事もできない。
 その通りだ。俺を捨てた人だ。俺を置いて逃げた人。全部分かっているけれど、たった一人の家族だった。
 あれがただの脅しだったのか、そうじゃないのかは定かでない。脅しじゃなくて、本当だったら。もしも母さんに何かされたら。

 両手の拳を握りしめたまま、車が走り出しても俺は黙っていた。どれだけ気まずい雰囲気になろうとも車は一定のスピードで進む。裏道から大通りに抜けるまでそう距離はない。車列に合せて進むのを眺め、溜め息が出そうになったのはどうにか寸前のところで堪えた。
 漂う沈黙は重苦しい。それを作り出しているのは俺だ。シケた空気を壊そうとしたのは、俺ではなくて比内さん。

「クソみてえな世の中だ」
「……え?」
「いつだって割を食うのはお前みたいな人間なんだよ」

 目の前の信号の色が変わった。黄色に切り替わったところで徐々にスピードが下げられていく。白線よりも少し手前で緩やかに停車した。
 比内さんの手はこっちに伸びてくる。ぽすっと、頭に乗っかった。視線が交わる、この人の目は、相変わらず綺麗な色だ。

「お前の事は俺が最後まで面倒を見る。不幸なガキと自ら関わったからにはな」
「……比内さん」
「何もさせねえよ。安心しろ」

 それは、母さんのことも含めて。そう受け取ってもいいのだろうか。
 わしゃわしゃと髪をかき乱されて、わっと間抜けに声を上げた。

「それよりもお前、人の言いつけには例外なく大人しく従え。出てくんじゃねえと俺が言ったからには呼び出すまでは中にいろ」

 手をハンドルに戻しながらそんな指摘が飛んでくる。すみませんと小声で返した。クソガキと言われるのを待っていたけど、お馴染みの暴言は投げつけられない。

「……俺も遅くなるときには連絡する」

 暴言じゃなくてそんな事を言われた。ばつが悪そうな言い方だったが表情もどことなく決まり悪そう。
 普段からコミュニケーションの取りにくい大人が珍しい顔をしている。整ったその横顔を無言でじっと見ていたら、居心地悪そうに眉間を寄せた比内さんの目がこっちをチラッと。

「……なんだ」
「いえ。すみません……」

 信号が青になると比内さんも前を向いた。走り出した車の中でフロントガラスの向こうを眺める。
 もしも今ここに中川さんがいたら、比内さんを見て笑いながら素直じゃないなと言うのだろう。
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