たとえクソガキと罵られても

わこ

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17.ノラ猫

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「ねこ?」
「そうなんだよ、ねこ」

 車の運転席には長谷川さんが。マンションまでの帰宅途中、話しの流れで聞く事となったのは誰もが知っている一般名詞。もふっとした生き物の姿を頭の中にぽやんと浮かべた。

「意外?」
「……意外です」
「だよなあ?」

 猫がいたそうだ。事務所の前に。それを長谷川さんが見つけたらしい。日の当たる入り口の前でゴロゴロと寝そべっていて、背中が痒かったのだかなんなのか、体を地面に擦りつけていたのだとか。

 茶トラ白の可愛い猫に首輪はナシ。窓から見えたその姿に気付いたのは長谷川さんだった。クネクネ動いているその猫を構おうとして外に行けたのは、比内さんがその時ちょうど裁判所へと出向いていて事務所を不在にしていたためだ。
 推定ノラのそいつは人間に慣れていたようだ。近づいて撫でても逃げる気配はなく、午後のうららかな陽気の中でしばらく猫と遊んでいたらしい。

 ところがその時タイミング悪くやって来たのが比内さん。あの事務所の駐車場は入り口とは反対側にある。そして駐車場から裁判所までは裏通りで繋がっている。雇い主が帰ってきたとは気付かず、猫をじゃらして遊んでいる姿を見事ばっちり目撃された。そう語って長谷川さんは苦笑。

「比内先生に見られた瞬間は間違いなく詰んだと思った」

 仕事をサボって猫と遊んでいれば比内さんの反応も想像がつく。当事者たる長谷川さんもそう思って覚悟したそうだ。しかしその時の比内さんは意外な行動を取ったと言う。
 猫を見下ろし、腰を屈め、丸い頭をモフッとひと撫で。比内さんが長谷川さんにようやく顔を向けたのは、猫をもう一度モフモフしてから事務所のドアを開けた時。遊んでねえで仕事に戻れ。特別怒られるような事もなく冷静に言われたと。

「普段なら机の上がちょっと散らかってるだけで睨まれんのに」
「はは……」

 長谷川さんのデスクは俺から見てもごちゃごちゃしている。デスクの有り様に眉をひそめる比内さんの姿も何度か目にした。
 細かい事が気になるのが比内さんだ。しかしその時は長谷川さんを叱責することもなくスルー。

「……比内さんは猫が好きなんですか?」
「猫がっていうか、小さくてモフい生き物が好きなんだって。中川先生が言ってた」
「モフい……」

 比内さんにはまるで似合わない形容詞だ。

「比内先生の自宅って実は結構可愛い感じだったりする?」
「え、いえ、まさか。全然」
「さすがにそれはねえか」

 比内さんの家はシンプルすぎるくらいシンプルだ。無駄な物も無駄な色もない。そんな人がモフモフを好んでいる。言葉が出ない。

「……その猫って事務所に良く来るんですか?」
「いや。俺はその時初めて見たけど」
「もう来ないかな……」

 猫を撫でる比内さん。猫をモフッてる比内さん。サボり中の長谷川さんに仕事へ戻れと声をかける前に猫の頭をモフモフすることを優先させる比内さん。
 すっごい貴重映像だ。

「比内先生が猫構ってるトコ見たい?」
「…………かなり見たいです」

 溜めて答えたら笑われた。その猫にはぜひまた来てほしい。




***




「比内のモフモフ好きは筋金入りだよ。般若みたいな顔した男が犬猫には弱いなんて笑ってくださいって言ってるようなもんじゃん。でもあいつの前で笑い飛ばすと容赦なく蹴られるからね。やんなっちゃうよあの男は」

 運転している中川さんに肯定もできないからハハッと零す。愛想笑いまでぎこちない。
 今日は中川さんが迎えに来てくれた。それでつい、長谷川さんから昨日聞いた猫の話をしてしまった。軽はずみに話題に乗せたことを今になって後悔している。

「小さい生き物に向けられるだけの優しさがあるなら俺のことももう少しくらい労われっての。そう思わない?」
「あぁ……ははは……」

 比内さんから一番優しくされていないのは間違いなくこの人だ。普段ならまっすぐ行くはずの道を中川さんは右へと曲がった。

「……どこへ?」
「ムシャクシャしてきたからちょっと寄り道してこ。ゲーセン付き合って」
「いや、でも……また怒られるのでは……」
「大丈夫大丈夫。あいつ午後から事務所出てて夜まで戻ってこないから。鬼の居ぬ間にってやつ」
「…………」

 だから蹴られるんだと思う。



 そうして結局は二時間ほど遊びほうけた。マンションに到着したのはすっかり暗くなった頃。
 洗濯物を取り込んだりなんだりしていればすぐに時間は過ぎていく。食事を作っている最中に比内さんも帰ってきた。

「おかえりなさい」
「ただいま。中川の野郎になんもされなかったか」
「……特に」

 迎えに来てくれるのが中川さんだった日には必ずこの質問をされる。

「夕食、もうすぐできます……」
「ああ」

 そう言って服を着替えに比内さんは寝室へ。行くはずだった。いつもだったら必ずそうする。けれど今夜はその場で足を止め、リビングの大きなソファーを睨むように眺めていた。
 そこには黒い物体が寝そべっている。横長のソファーを見下ろした比内さんは眉をひそめてそれに近付いた。

「……なんだこれは」

 そしてこうなる。

「すみません……」
「謝れとは言ってない。これが何かと聞いてる」
「……抱き枕です。一応」
「…………」

 黒猫の。結構デカい抱き枕。そいつが呑気な顔をしながらソファーの上を陣取っている。
 もしかしなくてもゲーセンの景品だ。平たくてクタッとしたタイプだ。一回二百円のクレーンゲームでは絶対に取れないだろうと思っていたが、中川さんは奇跡を起こした。比内さんにささやかな嫌がらせをしたい執念が目に見えた瞬間だった。

「すみません、その……ゲーセンに……」
「お前はまたあのバカに連れ回されたのか」
「いえ……あの……」

 やっぱりこんな所に置くんじゃなかった。ソファーにこの猫を置いたのは俺じゃなくて中川さんだ。リビングに入ればすぐ目につくようにして置いていった。動かさないでねと念押しされたから撤去するにできなかった。
 結果そのままの状態で比内さんの帰りを待ったわけだが、おかげさまで俺がこんな目に。モフモフ好きとの証言を疑いたくなってくるほど不機嫌そうに苛立った顔が俺の目には映っている。

 嫌っそうだ。ユルい表情とユルい体をした黒猫はどう考えてもこの部屋にそぐわない。比内さんはその猫から目を離さずに睨み下ろしていた。

「お前が取ったのか」
「……えっと……」
「この部屋に置くのは構わねえが邪魔にならねえとこにしろ」
「え……」

 叱りつけられるのを覚悟したのになぜか全然叱られなかった。

「……いいんですか?」
「俺もさすがに捨てろとまでは言わねえよ」

 言わないんだ。言われると思った。というかもっと怒られると思った。黒猫を見る目は怪訝そうだが。

「お前はこういうのが好きなのか」
「あぁ……いや……どうでしょう。それ中川さんが取ってくれたんです」
「……じゃあ捨てろ」
「え」

 さっきと言ってる事が変わった。
 ソファーの前から離れた比内さんは寝室に向かって歩いていく。

「あの……」
「ゴミに出しておけ」
「せっかく取ってもらったので……」
「元々欲しかった訳じゃねえんだろ」
「いえ、でも……」

 確かに押し付けられたようなもんだが。

「可愛いとは思います」
「…………」

 キッチンカウンターのすぐそばで足を止めたこの人。俺をちらっと振り返り、そして再び前を向いた。

「勝手にしろ」

 それは捨てなくていいってことかな。その他には何も言わずに今度こそリビングから出て行った。
 比内さんは難しい。当該黒猫の身柄はと言えば、俺に宛がわれている部屋の中へとその後すぐに引っ込めた。
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