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17. 好きな人Ⅱ
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「ねえハルくん、まだ怒ってる?」
「うるせえ。話しかけてくんな」
「そんなこと言うなよー。友達じゃん」
「人を平気で騙すような奴を俺は友達として認めない」
「だからごめんってばぁ」
週明け月曜。俺を女に売った浩太は朝からひたすらしつこかった。
夕べから立て続けに送りつけてきたライン全てにシカトを決め込んでいたせいだろう。今日になって大学で顔を合わせるや否や人のご機嫌伺いをしてきたこいつ。ごめんだとかもうしないだとか謙虚に謝ってはくるものの、昨日の気まずい十数分間は俺にとってまあまあトラウマになった。
昼の食堂はガヤガヤとうるさい。けれど今の俺にはコイツの言葉以上に耳障りなものなんてない。勝手に人の目の前で腰を下ろし、勝手に昼を一緒にとり始め、勝手に延々謝り通している。そしてその口振りは軽い。本気で悪いと思っている奴の態度には見えなかった。
「お前とはもう口も利きたくない」
「え、そこまで?」
「あの店には二度と行けねえよ」
「ハルくん元々カフェとかそんなに行かないでしょ」
「…………」
ギロッと睨みつけたらさすがの浩太も空気を読んだ。すぐさま愛想笑いでごまかして、ごめんごめんと気安く言った。
あのあと昨日の俺が取った行動は極めて簡潔。告白を断った。それだけだ。そしてその次にはどうなったか。
結果もごくごく単純なもので、俺の返答を受けたミキちゃんはその場でポロポロ泣き出した。広くはない店の中だ。周りの客、主に女性客からチクチクと浴びせられる視線はこの上なく身に堪えた。
手酷く振った自覚はある。女の子相手にもう少し優しくできないのかと言われれば確かにそう。けれどズルズルと曖昧な態度を取るのもかえって失礼だろう。俺の気持ちは最初から決まっていて、あの子には絶対に応えられない。
「なあハル……」
「うるせえ」
「頼むから機嫌直せって」
「黙れ」
「いっこだけ聞きたいんだけどさ」
「しつけえよ」
「好きな子いるってホント?」
そこで止まった。顔を上げると浩太と目が合う。興味津々にこっちを眺め、ズケズケと聞いてくる。
「水クセェじゃん」
「……うるさい」
あの子から聞いたのだろう。揃いも揃って人のことをペラペラと。
ミキちゃんはさすが浩太の友達と言うべきか、昨日のあのカフェで起きた出来事はこいつにも筒抜けになっているようだ。
「どんな子?」
「……別に」
「かわいい? ってか、ここの大学の子?」
「…………」
「そういう子がいるなら早く言えよ。そしたら俺だって無理やり会わせたりしなかった」
開き直った浩太はただただうるさい。名前はとか紹介しろとか、しつこく延々迫ってくる。
「あ、じゃあさ年は? 同期?」
「…………」
もう嫌だ。限界だ。
イラッとしたついでに一人立ち上がり、昼食のトレーも持ち上げた。
「お前に話す事なんて何もない」
「えっ、ちょ、ハル!」
「うるせえ」
一度浩太を睨み下げた。付いて来るなと釘をさす。俺を呼ぶ声は耳に入ったが、振り向かずにそのまま歩いた。
***
その日の晩のことだ。夕食の支度をしていたらインターフォンが鳴った。
玄関の覗き穴を確認する習慣がない事を悔やんでももう遅い。てっきり瀬名さんかと思ったが、そこにいたのはミキちゃんだった。
「浩太にここの住所、教えてもらって……」
「……そう」
あいつそろそろ思い知らせる。
少しいいかなと言われた。話がしたいと。本当はあんまりよくないのだけど無理だと言っても引き下がらないだろう。
とは言え一人暮らしの男の部屋だ。そんな場所に女の子を軽々しく招き入れるのもなんだし、ミキちゃんを部屋に入れる代わりに俺が玄関の外に出た。
まさかこうなるとは。昨日はあれだけ泣いていたのに。自分をフッた男の顔なんて普通なら見たくもないんじゃないのか。
この子は俺を責めに来たわけではなかった。昨日はごめんと言ってきた。そんな子を問答無用で追い返せるほど鬼じゃない。
俺の肩くらいまでしか頭の位置が届かないような女の子。その小さな顔を見下ろし、どうしたものかとまたもや困る。
もうすでに八時を少し過ぎている。瀬名さんがいつも帰ってくるのは今頃。だからもたもたしていたくない。
「しつこいって、自分でも分かってるんだけど……」
俺の焦りをよそにミキちゃんは自己主張でいっぱいだ。分かっていながらここへ来たのだからそれは言い訳にもなっていない。
溜め息を堪えただけでも俺は偉いと思う。ミキちゃんはやや潤んだ瞳で控えめに俺を見上げた。
「これだけ……最後に許してくれないかな。そしたらちゃんと諦めるから」
「え?」
可愛い声に可愛い顔に可愛らしい喋り方。次に感じたのは甘ったるい香り。体には軽い衝撃もあった。抱きつかれたと理解したのは、服の裾をきゅっと握り締められた時。
意味が分からない。棒立ちだ。どう対処すればいいか思いつかない。半ば思考が停止しそうななか行き場のなくなってしまったこの手は、体の両脇で固まらせておくくらいが限界だった。
頭の中は大混乱だ。なんで俺はこの子に抱きつかれているんだ。なんで俺はこんなにも、マヌケな状態に成り下がって立ち尽くしているのだろう。
小柄で柔らかい女の子がなぜか俺にくっついている。甘さの強いこの香りはいかにも女子が好きそうな匂いだ。それが自分の周りに漂っていた。この子が俺から離れなければ、香りからも逃れられない。
「ミキちゃん……」
「ごめんなさい」
この子の言うごめんなさいは毎回毎回だいぶ安い。ごめんと言うくらいなら行動も合わせろ。思っていても言えない俺からミキちゃんは離れようとしなかった。
どうしよう困った。こんな状況に慣れていない俺には切り抜け方も分からない。ただひたすら祈っていた。さっさと離れてくれますように。
だが神サマは俺をガン無視しやがった。良くない事は次々に重なる。間が悪くもそんな時、コツっと響く靴音を聞いた。
「ぁ……」
顔を上げ、階段のある方に自然と目が行く。そこで勝手に漏れ出ていた声。
俺の声はほとんど音になっていなかった。廊下のちょうど、階段を上りきった場所。パチリと視線が絡んだ相手は、仕事帰りの瀬名さんだった。
距離はあるけど視線は交わった。瀬名さんも足を止めかけたように思えた。だが結局は止まることなく、こっちに向かって歩いてくる。同時にフッと、目も逸らされた。
「…………」
ミキちゃんは人が来たってお構いなしだ。自信満々にこんな事をできる女は恋愛ドラマの主人公くらいだ。
瀬名さんはこっちを見ようともしない。反対に俺は瀬名さんの顔から一ミリも目が離せなかった。女の子に抱きつかれたまま瀬名さんがこっちに来るのを見ている。しかしこの人は顔色も変えず、自分の部屋へと入っていった。
パタンと閉められた玄関のドア。それからミキちゃんもようやく離れた。行き場がなかった俺の腕は、脱力したように体の両脇でだらんと無様に垂れている。
まだ動けなかった。原因はこの子じゃない。この子の行動なんてどうでもいい。
こんな現場を目にした瀬名さんが他人行儀に去っていった。目を逸らされた。なんの興味も無いような顔をして。静かに部屋へと入っていった。
「ごめんね」
「……うん」
相変わらず安っぽいごめんねだ。そんなものを聞かされても適当な返事しかできない。
頭にあるのは瀬名さんの顔。冷たいくらいに落ち着いた表情が、ずしりと俺の中に残された。
これで諦めると言っていた通り、ミキちゃんはすぐに帰って行った。何か言いたげな顔をしていたのには気づいていた。多少なりとも期待はされていただろう。
優しい言葉をほんの少々かけるくらい。慰めるための言動くらい、それくらいはしてやっても良かったのかもしれない。男として。
でも無理だ。そんな事に気を回してはいられなかった。あの子に構っていられるほどのゆとりが心の中のどこにもない。
部屋に入ってもなお頭の中を占めるのは瀬名さんのあの態度だけ。あんな状況を見ても表情を変えなかった。たった一言でさえ声をかけてくることもなかった。瀬名さんはあの瞬間に何を思って、俺から目を逸らしたのか。
部屋の中で立ち尽くし、ベッドの上にいるクマを眺めた。まん丸い目が見返してくる。それでようやく、重い足を動かした。
向かったのはお隣。瀬名さんの部屋だ。インターフォンを押してから待つと少ししてドアが開いた。
「どうも……」
「ああ」
内側から見下ろされる。気まずさに負けて今度は俺が目を逸らした。瀬名さんはいつもと変わらないけどそれでもさっきの今だから、緊張感で自分の手をぎゅっと握りしめている。
「いいのか。放っといて」
先に喋ったのは瀬名さん。聞かれてふっと顔を上げた。
「……え?」
「客。来てるんじゃねえのか」
「…………」
客だなんて。そんな。わざとらしい、言い方。
「……帰りました」
「そうか」
ちょっと待ってろと言い置いて、瀬名さんは一度部屋の中に入っていった。すぐに戻ってきたその手にはクリーム色の紙袋が。
贈答用の可愛くて綺麗な小さいそれを手渡され、いつものように受け取った。
「マカロン。久々に」
「……好きです」
なんでそう答えたのかは分からない。
「……ああ」
少し遅れて瀬名さんが頷いた。その表情はいつも通りでも、何を思って頷いたのか、それは俺には分からない。
沈黙は怖かった。だから慌てて言葉を探した。
「あの、いま夕食作ってる途中で……。もうちょっとで出来上がるので、良ければウチで待っててください」
夕食を作っている最中だったのは本当。もうちょっとで出来上がるのも本当。けれどその時ほんの少しだけ、瀬名さんの表情に変化があった。
分からないくらいの、戸惑ったような顔を。その表情を見た途端にぎくりと俺の中に焦りが生まれた。
「……今夜は」
「今日バイトなくてっ」
遮った。瀬名さんの言葉を、咄嗟に。察してしまったから。今夜は、と言ったあと、その先に待っているのは断るための言葉だろうと。
今夜は、夕食はいい。そう言って断られるのを阻止していた。昨日のミキちゃんが頭に浮かぶ。今の俺は昨日のあの子と全く同じ事をしている。
「時間あったから、だいぶ煮込んだんです。その……シチューを」
鍋の火は一旦止めてきた。あとは少し味を調えるだけ。そうすれば出来上がるから、この人を呼ぶ口実ができる。
「ウマく、できてると思います」
「…………」
「シチューとか……すげえ余るから、困るんですよ。一人だと」
下手くそな口実だけど、俺を否定しないのが瀬名さんだ。
「うるせえ。話しかけてくんな」
「そんなこと言うなよー。友達じゃん」
「人を平気で騙すような奴を俺は友達として認めない」
「だからごめんってばぁ」
週明け月曜。俺を女に売った浩太は朝からひたすらしつこかった。
夕べから立て続けに送りつけてきたライン全てにシカトを決め込んでいたせいだろう。今日になって大学で顔を合わせるや否や人のご機嫌伺いをしてきたこいつ。ごめんだとかもうしないだとか謙虚に謝ってはくるものの、昨日の気まずい十数分間は俺にとってまあまあトラウマになった。
昼の食堂はガヤガヤとうるさい。けれど今の俺にはコイツの言葉以上に耳障りなものなんてない。勝手に人の目の前で腰を下ろし、勝手に昼を一緒にとり始め、勝手に延々謝り通している。そしてその口振りは軽い。本気で悪いと思っている奴の態度には見えなかった。
「お前とはもう口も利きたくない」
「え、そこまで?」
「あの店には二度と行けねえよ」
「ハルくん元々カフェとかそんなに行かないでしょ」
「…………」
ギロッと睨みつけたらさすがの浩太も空気を読んだ。すぐさま愛想笑いでごまかして、ごめんごめんと気安く言った。
あのあと昨日の俺が取った行動は極めて簡潔。告白を断った。それだけだ。そしてその次にはどうなったか。
結果もごくごく単純なもので、俺の返答を受けたミキちゃんはその場でポロポロ泣き出した。広くはない店の中だ。周りの客、主に女性客からチクチクと浴びせられる視線はこの上なく身に堪えた。
手酷く振った自覚はある。女の子相手にもう少し優しくできないのかと言われれば確かにそう。けれどズルズルと曖昧な態度を取るのもかえって失礼だろう。俺の気持ちは最初から決まっていて、あの子には絶対に応えられない。
「なあハル……」
「うるせえ」
「頼むから機嫌直せって」
「黙れ」
「いっこだけ聞きたいんだけどさ」
「しつけえよ」
「好きな子いるってホント?」
そこで止まった。顔を上げると浩太と目が合う。興味津々にこっちを眺め、ズケズケと聞いてくる。
「水クセェじゃん」
「……うるさい」
あの子から聞いたのだろう。揃いも揃って人のことをペラペラと。
ミキちゃんはさすが浩太の友達と言うべきか、昨日のあのカフェで起きた出来事はこいつにも筒抜けになっているようだ。
「どんな子?」
「……別に」
「かわいい? ってか、ここの大学の子?」
「…………」
「そういう子がいるなら早く言えよ。そしたら俺だって無理やり会わせたりしなかった」
開き直った浩太はただただうるさい。名前はとか紹介しろとか、しつこく延々迫ってくる。
「あ、じゃあさ年は? 同期?」
「…………」
もう嫌だ。限界だ。
イラッとしたついでに一人立ち上がり、昼食のトレーも持ち上げた。
「お前に話す事なんて何もない」
「えっ、ちょ、ハル!」
「うるせえ」
一度浩太を睨み下げた。付いて来るなと釘をさす。俺を呼ぶ声は耳に入ったが、振り向かずにそのまま歩いた。
***
その日の晩のことだ。夕食の支度をしていたらインターフォンが鳴った。
玄関の覗き穴を確認する習慣がない事を悔やんでももう遅い。てっきり瀬名さんかと思ったが、そこにいたのはミキちゃんだった。
「浩太にここの住所、教えてもらって……」
「……そう」
あいつそろそろ思い知らせる。
少しいいかなと言われた。話がしたいと。本当はあんまりよくないのだけど無理だと言っても引き下がらないだろう。
とは言え一人暮らしの男の部屋だ。そんな場所に女の子を軽々しく招き入れるのもなんだし、ミキちゃんを部屋に入れる代わりに俺が玄関の外に出た。
まさかこうなるとは。昨日はあれだけ泣いていたのに。自分をフッた男の顔なんて普通なら見たくもないんじゃないのか。
この子は俺を責めに来たわけではなかった。昨日はごめんと言ってきた。そんな子を問答無用で追い返せるほど鬼じゃない。
俺の肩くらいまでしか頭の位置が届かないような女の子。その小さな顔を見下ろし、どうしたものかとまたもや困る。
もうすでに八時を少し過ぎている。瀬名さんがいつも帰ってくるのは今頃。だからもたもたしていたくない。
「しつこいって、自分でも分かってるんだけど……」
俺の焦りをよそにミキちゃんは自己主張でいっぱいだ。分かっていながらここへ来たのだからそれは言い訳にもなっていない。
溜め息を堪えただけでも俺は偉いと思う。ミキちゃんはやや潤んだ瞳で控えめに俺を見上げた。
「これだけ……最後に許してくれないかな。そしたらちゃんと諦めるから」
「え?」
可愛い声に可愛い顔に可愛らしい喋り方。次に感じたのは甘ったるい香り。体には軽い衝撃もあった。抱きつかれたと理解したのは、服の裾をきゅっと握り締められた時。
意味が分からない。棒立ちだ。どう対処すればいいか思いつかない。半ば思考が停止しそうななか行き場のなくなってしまったこの手は、体の両脇で固まらせておくくらいが限界だった。
頭の中は大混乱だ。なんで俺はこの子に抱きつかれているんだ。なんで俺はこんなにも、マヌケな状態に成り下がって立ち尽くしているのだろう。
小柄で柔らかい女の子がなぜか俺にくっついている。甘さの強いこの香りはいかにも女子が好きそうな匂いだ。それが自分の周りに漂っていた。この子が俺から離れなければ、香りからも逃れられない。
「ミキちゃん……」
「ごめんなさい」
この子の言うごめんなさいは毎回毎回だいぶ安い。ごめんと言うくらいなら行動も合わせろ。思っていても言えない俺からミキちゃんは離れようとしなかった。
どうしよう困った。こんな状況に慣れていない俺には切り抜け方も分からない。ただひたすら祈っていた。さっさと離れてくれますように。
だが神サマは俺をガン無視しやがった。良くない事は次々に重なる。間が悪くもそんな時、コツっと響く靴音を聞いた。
「ぁ……」
顔を上げ、階段のある方に自然と目が行く。そこで勝手に漏れ出ていた声。
俺の声はほとんど音になっていなかった。廊下のちょうど、階段を上りきった場所。パチリと視線が絡んだ相手は、仕事帰りの瀬名さんだった。
距離はあるけど視線は交わった。瀬名さんも足を止めかけたように思えた。だが結局は止まることなく、こっちに向かって歩いてくる。同時にフッと、目も逸らされた。
「…………」
ミキちゃんは人が来たってお構いなしだ。自信満々にこんな事をできる女は恋愛ドラマの主人公くらいだ。
瀬名さんはこっちを見ようともしない。反対に俺は瀬名さんの顔から一ミリも目が離せなかった。女の子に抱きつかれたまま瀬名さんがこっちに来るのを見ている。しかしこの人は顔色も変えず、自分の部屋へと入っていった。
パタンと閉められた玄関のドア。それからミキちゃんもようやく離れた。行き場がなかった俺の腕は、脱力したように体の両脇でだらんと無様に垂れている。
まだ動けなかった。原因はこの子じゃない。この子の行動なんてどうでもいい。
こんな現場を目にした瀬名さんが他人行儀に去っていった。目を逸らされた。なんの興味も無いような顔をして。静かに部屋へと入っていった。
「ごめんね」
「……うん」
相変わらず安っぽいごめんねだ。そんなものを聞かされても適当な返事しかできない。
頭にあるのは瀬名さんの顔。冷たいくらいに落ち着いた表情が、ずしりと俺の中に残された。
これで諦めると言っていた通り、ミキちゃんはすぐに帰って行った。何か言いたげな顔をしていたのには気づいていた。多少なりとも期待はされていただろう。
優しい言葉をほんの少々かけるくらい。慰めるための言動くらい、それくらいはしてやっても良かったのかもしれない。男として。
でも無理だ。そんな事に気を回してはいられなかった。あの子に構っていられるほどのゆとりが心の中のどこにもない。
部屋に入ってもなお頭の中を占めるのは瀬名さんのあの態度だけ。あんな状況を見ても表情を変えなかった。たった一言でさえ声をかけてくることもなかった。瀬名さんはあの瞬間に何を思って、俺から目を逸らしたのか。
部屋の中で立ち尽くし、ベッドの上にいるクマを眺めた。まん丸い目が見返してくる。それでようやく、重い足を動かした。
向かったのはお隣。瀬名さんの部屋だ。インターフォンを押してから待つと少ししてドアが開いた。
「どうも……」
「ああ」
内側から見下ろされる。気まずさに負けて今度は俺が目を逸らした。瀬名さんはいつもと変わらないけどそれでもさっきの今だから、緊張感で自分の手をぎゅっと握りしめている。
「いいのか。放っといて」
先に喋ったのは瀬名さん。聞かれてふっと顔を上げた。
「……え?」
「客。来てるんじゃねえのか」
「…………」
客だなんて。そんな。わざとらしい、言い方。
「……帰りました」
「そうか」
ちょっと待ってろと言い置いて、瀬名さんは一度部屋の中に入っていった。すぐに戻ってきたその手にはクリーム色の紙袋が。
贈答用の可愛くて綺麗な小さいそれを手渡され、いつものように受け取った。
「マカロン。久々に」
「……好きです」
なんでそう答えたのかは分からない。
「……ああ」
少し遅れて瀬名さんが頷いた。その表情はいつも通りでも、何を思って頷いたのか、それは俺には分からない。
沈黙は怖かった。だから慌てて言葉を探した。
「あの、いま夕食作ってる途中で……。もうちょっとで出来上がるので、良ければウチで待っててください」
夕食を作っている最中だったのは本当。もうちょっとで出来上がるのも本当。けれどその時ほんの少しだけ、瀬名さんの表情に変化があった。
分からないくらいの、戸惑ったような顔を。その表情を見た途端にぎくりと俺の中に焦りが生まれた。
「……今夜は」
「今日バイトなくてっ」
遮った。瀬名さんの言葉を、咄嗟に。察してしまったから。今夜は、と言ったあと、その先に待っているのは断るための言葉だろうと。
今夜は、夕食はいい。そう言って断られるのを阻止していた。昨日のミキちゃんが頭に浮かぶ。今の俺は昨日のあの子と全く同じ事をしている。
「時間あったから、だいぶ煮込んだんです。その……シチューを」
鍋の火は一旦止めてきた。あとは少し味を調えるだけ。そうすれば出来上がるから、この人を呼ぶ口実ができる。
「ウマく、できてると思います」
「…………」
「シチューとか……すげえ余るから、困るんですよ。一人だと」
下手くそな口実だけど、俺を否定しないのが瀬名さんだ。
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