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196.引っ越します。Ⅱ
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「それでまだ言えてなくて……すみません」
「引っ越すまでもう少し時間はある。それよりも前に伝えられりゃいい」
返って来たのは大人染みた真面目な答え。しかし返事を寄越してきた大人は、さっきから俺の背後に引っついている。この腹の前に両腕を回し、その体重を遠慮なく預けてくる。重い。
洗って拭いた包丁をホルダーに戻したついでに、右肘をクイッと後ろに押し出してみる。なんの効果もなくぎゅうぅっとされただけだった。苦しい。
「……邪魔だなもう」
「仮にも恋人に向かってその言い草はどうかと思う」
「こっちは今メシ作ってんだからアンタに構ってる暇はない。瀬名さんはお暇なんでしょうからあっち行っててくださいよ」
「俺はいま遥希の緊急事態に備えて待機してる。重要な役割だ」
「そんな役割分担いらねえしそこにいられた方が緊急事態発生するリスク上がります。アンタのせいで俺の可動域が三十二パーセント減ってんだからな」
「トレーニングだとでも思えばいい。筋トレだ筋トレ」
「鬱陶しいなあ」
魚を蒸し焼きにしていた奥のフライパンの火を止めた。
押しのけるために軽く後ろを振り返り、しかし手をつく前に言われる。
「なんなら俺が話すか?」
「はい?」
「実家に」
「え……いえ、いいですよそんな……」
まさかそう来るとは思っていない。若干の動揺は隠しきれなかった。
それを振り切るように顔を前に戻し、すでにフライパンの火は消えているのにコンロのスイッチに触れてしまってからそうだ消したんだと思い出す。
「余計ややっこしくなるからやめて」
「ご子息と永遠を誓った者ですとは名乗らねえから安心しろ」
「当然だよ。つーか誓ってねえし」
「俺は誓った」
「記憶にありません」
「毎日誓ってる」
「誓ってない」
「お前は俺の誓いを受けてる」
「受けた覚えがないってば」
鍋にかけていた火もカチッと止めた。瞬間、くいっと、後方に引っ張られた左の二の腕。
振り向かされ、同時に手を取られていた。チュッと軽いキスが指先に落ちてくる。薬指の第二関節辺りまで薄い唇をそっとなぞらせ、その視線だけが向けられた。
ふっと、その目に捕まっている。
「…………」
「記憶は戻ったか王子様」
「……アタマ沸いてんですか姫」
さして力の込められていなかったその手をパッと振り払う。慌てて鍋に向き直り、必要もないのにかき混ぜた。
マイなんちゃら愛してるが落ち着いてきたと思ったらこれだ。今度は変化球で来やがった。負けてたまるかこの野郎。
「俺は誓いませんからね」
「どうだか」
「誓わねえもん。あなたが劣化したら即別れますから」
「さてはテメエ俺のカラダ目当てだな」
「そうですよ。ポヨったらすぐ捨てますよ」
「なら捨てられねえようにジムで頑張る」
「どうぞご勝手に。せいぜい素敵なボディ維持してください」
「分かった」
「ところでこれは一人言なんですけど、俺は特にあなたの腹筋が好きです」
「これは連絡事項だが、明日からはこれまでより帰るの十分ほど遅くなる」
「了解です」
明日からトレーニングメニューを一個かそこら増やすようだ。
今よりバキバキにしてどうするんだろう。これ以上イイカラダになった男に後ろから抱きつかれでもしたら冗談抜きで圧死するかもしれない。
「そこでそうやって遊んでんならせめて皿でも出してきて」
「そうやって俺を遠ざける気だろう」
「分かってんならやってください」
もう一回後ろから俺を潰す勢いでぎゅうぅぅぅっと抱きしめてから、頭沸いてるイケメンの姫は皿を用意し始めた。
素早く的確に音を立てずにテキパキと無駄なく希望に応える。何も言っていないのに俺がどの食器をどれだけ欲しているか完璧に把握していた。
ここまでくると本当に怖い。まともに料理は覚えないくせになんでそこはできるんだ。
「出した」
そして忠犬みたいに戻ってきた。またしても腹の前にはその両腕が。
背後は重しちょっと苦しいし。可動域は四十二パーセント減少している。
「いちいちくっついてこないでよ」
「嫌だ。そんな事よりがんばったね恭吾くんって言え」
「この程度のミッションなら五歳児でも遂行できます」
どれだけ雑に肘で追いやろうともめげる事なくくっついてくる。大型犬にワフワフ懐かれる気分は瀬名さんとこうなってから毎日のように味わっているが、今夜もまた愛情表現が重い。
ただでさえ背後に重量があるのに左肩には顔までうずめてきやがった。スリッと猫みたいに擦り付いてくる。
犬なんだか猫なんだかせめてどっちかにしてほしいと言いたいところではあるけど、首の横にはチュッとキスされたから結局のところ人間の男なのだろう。
「なあ」
「なんですか、放せ」
「こんなに楽しみな引っ越しは初めてだ」
背後へと地味に攻撃を繰り出していた右肘がピタリと動きを止めた。
過激な言語コミュニケーションの次は変化球で来たかと思いきや、今度はまさかのど真ん中ストレート。だが豪速ではない。かなり緩やかに。
人間の男であるこの人がその態度で来るときは、一番ズルい大人のときだ。
「……うん」
「うん?」
「…………」
皿を出した程度で褒められたがる男はいま俺に言語コミュニケーションを求めている。この人を喜ばせるための方法は、残念ながらよく知っている。
「……俺もです」
俺のために腹筋鍛え直すようだし、観念しよう。こうなったら負けを認める。
最初から勝っている男の手によってやんわりとまた振り向かされて、包み込むみたいに抱きしめられたから俺もおとなしく腕を伸ばした。
誓われてんだから仕方ない。誓いを受けちまったんだからやむを得ない。
晩飯はできたし皿も用意されている。米だって少し前に炊き上がってる。いま食うのが絶対にベストではあるが俺達がメシに有り付いたのは、ここから一時間とあともうちょっとくらい後になってからだった。
「引っ越すまでもう少し時間はある。それよりも前に伝えられりゃいい」
返って来たのは大人染みた真面目な答え。しかし返事を寄越してきた大人は、さっきから俺の背後に引っついている。この腹の前に両腕を回し、その体重を遠慮なく預けてくる。重い。
洗って拭いた包丁をホルダーに戻したついでに、右肘をクイッと後ろに押し出してみる。なんの効果もなくぎゅうぅっとされただけだった。苦しい。
「……邪魔だなもう」
「仮にも恋人に向かってその言い草はどうかと思う」
「こっちは今メシ作ってんだからアンタに構ってる暇はない。瀬名さんはお暇なんでしょうからあっち行っててくださいよ」
「俺はいま遥希の緊急事態に備えて待機してる。重要な役割だ」
「そんな役割分担いらねえしそこにいられた方が緊急事態発生するリスク上がります。アンタのせいで俺の可動域が三十二パーセント減ってんだからな」
「トレーニングだとでも思えばいい。筋トレだ筋トレ」
「鬱陶しいなあ」
魚を蒸し焼きにしていた奥のフライパンの火を止めた。
押しのけるために軽く後ろを振り返り、しかし手をつく前に言われる。
「なんなら俺が話すか?」
「はい?」
「実家に」
「え……いえ、いいですよそんな……」
まさかそう来るとは思っていない。若干の動揺は隠しきれなかった。
それを振り切るように顔を前に戻し、すでにフライパンの火は消えているのにコンロのスイッチに触れてしまってからそうだ消したんだと思い出す。
「余計ややっこしくなるからやめて」
「ご子息と永遠を誓った者ですとは名乗らねえから安心しろ」
「当然だよ。つーか誓ってねえし」
「俺は誓った」
「記憶にありません」
「毎日誓ってる」
「誓ってない」
「お前は俺の誓いを受けてる」
「受けた覚えがないってば」
鍋にかけていた火もカチッと止めた。瞬間、くいっと、後方に引っ張られた左の二の腕。
振り向かされ、同時に手を取られていた。チュッと軽いキスが指先に落ちてくる。薬指の第二関節辺りまで薄い唇をそっとなぞらせ、その視線だけが向けられた。
ふっと、その目に捕まっている。
「…………」
「記憶は戻ったか王子様」
「……アタマ沸いてんですか姫」
さして力の込められていなかったその手をパッと振り払う。慌てて鍋に向き直り、必要もないのにかき混ぜた。
マイなんちゃら愛してるが落ち着いてきたと思ったらこれだ。今度は変化球で来やがった。負けてたまるかこの野郎。
「俺は誓いませんからね」
「どうだか」
「誓わねえもん。あなたが劣化したら即別れますから」
「さてはテメエ俺のカラダ目当てだな」
「そうですよ。ポヨったらすぐ捨てますよ」
「なら捨てられねえようにジムで頑張る」
「どうぞご勝手に。せいぜい素敵なボディ維持してください」
「分かった」
「ところでこれは一人言なんですけど、俺は特にあなたの腹筋が好きです」
「これは連絡事項だが、明日からはこれまでより帰るの十分ほど遅くなる」
「了解です」
明日からトレーニングメニューを一個かそこら増やすようだ。
今よりバキバキにしてどうするんだろう。これ以上イイカラダになった男に後ろから抱きつかれでもしたら冗談抜きで圧死するかもしれない。
「そこでそうやって遊んでんならせめて皿でも出してきて」
「そうやって俺を遠ざける気だろう」
「分かってんならやってください」
もう一回後ろから俺を潰す勢いでぎゅうぅぅぅっと抱きしめてから、頭沸いてるイケメンの姫は皿を用意し始めた。
素早く的確に音を立てずにテキパキと無駄なく希望に応える。何も言っていないのに俺がどの食器をどれだけ欲しているか完璧に把握していた。
ここまでくると本当に怖い。まともに料理は覚えないくせになんでそこはできるんだ。
「出した」
そして忠犬みたいに戻ってきた。またしても腹の前にはその両腕が。
背後は重しちょっと苦しいし。可動域は四十二パーセント減少している。
「いちいちくっついてこないでよ」
「嫌だ。そんな事よりがんばったね恭吾くんって言え」
「この程度のミッションなら五歳児でも遂行できます」
どれだけ雑に肘で追いやろうともめげる事なくくっついてくる。大型犬にワフワフ懐かれる気分は瀬名さんとこうなってから毎日のように味わっているが、今夜もまた愛情表現が重い。
ただでさえ背後に重量があるのに左肩には顔までうずめてきやがった。スリッと猫みたいに擦り付いてくる。
犬なんだか猫なんだかせめてどっちかにしてほしいと言いたいところではあるけど、首の横にはチュッとキスされたから結局のところ人間の男なのだろう。
「なあ」
「なんですか、放せ」
「こんなに楽しみな引っ越しは初めてだ」
背後へと地味に攻撃を繰り出していた右肘がピタリと動きを止めた。
過激な言語コミュニケーションの次は変化球で来たかと思いきや、今度はまさかのど真ん中ストレート。だが豪速ではない。かなり緩やかに。
人間の男であるこの人がその態度で来るときは、一番ズルい大人のときだ。
「……うん」
「うん?」
「…………」
皿を出した程度で褒められたがる男はいま俺に言語コミュニケーションを求めている。この人を喜ばせるための方法は、残念ながらよく知っている。
「……俺もです」
俺のために腹筋鍛え直すようだし、観念しよう。こうなったら負けを認める。
最初から勝っている男の手によってやんわりとまた振り向かされて、包み込むみたいに抱きしめられたから俺もおとなしく腕を伸ばした。
誓われてんだから仕方ない。誓いを受けちまったんだからやむを得ない。
晩飯はできたし皿も用意されている。米だって少し前に炊き上がってる。いま食うのが絶対にベストではあるが俺達がメシに有り付いたのは、ここから一時間とあともうちょっとくらい後になってからだった。
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