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176.裏切りⅡ
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これ以上惨めになるのはごめんだ。作った料理は初めからなかった事にした。記憶にある限り生まれて初めて、食べ物を食いもせずに捨てた。
明日がゴミの日だったのは幸いだろう。前の夜からゴミを捨てられるマンションに住んでいて良かった。朝になって収集車が来れば、惨めな俺も消えてなくなる。
ガシャンと重く音を立て、頑丈な鉄の扉を閉めた。暗い中で埋もれたゴミ袋は見えない。見えなくて正解だ。見たくもない。
これでいい。これが正しい。なかった事にしてしまおう。浮かれた俺なんて存在していなかった。ゴミ袋に隠滅した証拠には、いくら瀬名さんでも気づけない。
日付を超えずに帰ってきたことを幸運だと思うべきだろうか。分からない。だって、何も言ってくれない。いい訳の一つさえしてくれない。
二十三時を過ぎた頃。この部屋にようやく戻ってきた。電話を切ってからの三時間、一昨日見たあのマンションが何度も頭に浮かび上がった。
「本当にすまなかった」
「いえ。大丈夫ですよ。俺も少し遅くなっちゃってゴハン用意する前だったんで」
「……ごめんな」
笑って返した。つもりだったが、上手くできていたかは分からない。
ここ数日のこの人は謝ってばかり。すまないと言う。ごめんと言う。そのごめんは、どういう意味のごめんだ。
今までどこにいた。何をしていた。なんで何も言わない。会社にいたならそう言えばいいのに。言わないならこっちから聞いてやれば納得のいく結果が手に入るのか。
最近また忙しいんですか。さっきも仕事だったんですか。電話をかけてきた時、誰かといましたか。それは会社の人ですか。
ここで俺がもしそれを聞けたら、仕事だったと言ってくれるだろうか。間違っても後ろめたい顔なんか、しないでいてくれるだろうか。
「これも詫びにもならねえんだが……」
腹の内でグルグルさせているうちに差し出されたそれ。小さな紙袋。一昨日のとは違う店のようだが、同じように持ち手のついた、白いコート紙の入れ物だ。
繁忙期ではない時期だとしても、瀬名さんの帰りが少し遅くなる事はある。その見込みを想定した時点で普段であれば連絡をくれる。
それが今夜はなかった。夕食の用意を終えた後になって電話してきた。いつもの瀬名さんならばそんなのはあり得ない。
ぎこちなく。申し訳なさそうに。慌てたようなあの様子。よほど緊急の仕事か、不測の事態か、トラブルか。誰かから急に、誘いを受けたか。
バカな妄想を振り払い、今夜はその場で箱を手前に取り出した。リボンがかかっている四角い箱を開けば、綺麗なケーキとプリンが可愛らしく並んでいる。
「どうも……」
「……晩飯は? ちゃんと食ったか?」
「ええ。電話もらったとき外にいたので。近くで適当に」
「……そうか」
「これはデザートにしますね」
今度こそはっきりと口角を上げた。自分でも嫌気がさすほど嘘くさい笑顔なんかを浮かべて、もう一度テーブルを見下ろす。可愛いケーキを。その奥の白い紙袋に、目が行ったのは意図したものではなかった。
シンプルなロゴが入っていた。正面の、左下の方。ひけらかす事のない、上品なその位置。
ローマ字に適した欧文フォントで美しくかたどられている。その文字が示しているのが、名前だと分かる。
分かって、はっと、視線が止まった。刻まれていた。その名称が。俺でも名前だけは聞いたことがあった。
余程特別な事でもなければ大抵の人は使わない。日常で訪れる事などまずない。俺みたいなのには、縁があるはずもない。
格式の高い、名のあるそこは。ホテルだ。
「…………」
息を吸い込んだまま吐き出せない。呼吸の仕方が分からない。震えそうなのはなんとか堪ても、指先は急激に冷えていく。
意味が分からない。なんで。こんな。こんな物をどうして、俺に寄越してきたんだ。
目の前にあるそれに手を伸ばした。そっと、紙袋だけ持ち上げた。何度見ても印字は変わらなくて、こればかりは見間違いでもない。
ホテルの名前だった。ホテルの、紙袋だ。
「…………どこに……」
「うん?」
「…………」
今までどこに、誰といましたか。
「…………いえ」
この人は謝ってばかりで何も言わない。俺はこの人に、何も聞けない。視線は逸らすまでもなく、すでにもう十分下がっている。
色んな物をもらってきた。手渡され、受け取ってきた。食べ物の日もあれば食べ物ではない日もあった。毎日毎日飽きもしないで、何かを選んで持ってきた。
最初は驚いて、突き返そうとして、幾度となく困惑もしたけど、もらって嬉しくない物はその中に一個もなかった。
この人が俺にくれた物を、本気で投げ返したくなったのはきっとこれが初めてだ。
明日がゴミの日だったのは幸いだろう。前の夜からゴミを捨てられるマンションに住んでいて良かった。朝になって収集車が来れば、惨めな俺も消えてなくなる。
ガシャンと重く音を立て、頑丈な鉄の扉を閉めた。暗い中で埋もれたゴミ袋は見えない。見えなくて正解だ。見たくもない。
これでいい。これが正しい。なかった事にしてしまおう。浮かれた俺なんて存在していなかった。ゴミ袋に隠滅した証拠には、いくら瀬名さんでも気づけない。
日付を超えずに帰ってきたことを幸運だと思うべきだろうか。分からない。だって、何も言ってくれない。いい訳の一つさえしてくれない。
二十三時を過ぎた頃。この部屋にようやく戻ってきた。電話を切ってからの三時間、一昨日見たあのマンションが何度も頭に浮かび上がった。
「本当にすまなかった」
「いえ。大丈夫ですよ。俺も少し遅くなっちゃってゴハン用意する前だったんで」
「……ごめんな」
笑って返した。つもりだったが、上手くできていたかは分からない。
ここ数日のこの人は謝ってばかり。すまないと言う。ごめんと言う。そのごめんは、どういう意味のごめんだ。
今までどこにいた。何をしていた。なんで何も言わない。会社にいたならそう言えばいいのに。言わないならこっちから聞いてやれば納得のいく結果が手に入るのか。
最近また忙しいんですか。さっきも仕事だったんですか。電話をかけてきた時、誰かといましたか。それは会社の人ですか。
ここで俺がもしそれを聞けたら、仕事だったと言ってくれるだろうか。間違っても後ろめたい顔なんか、しないでいてくれるだろうか。
「これも詫びにもならねえんだが……」
腹の内でグルグルさせているうちに差し出されたそれ。小さな紙袋。一昨日のとは違う店のようだが、同じように持ち手のついた、白いコート紙の入れ物だ。
繁忙期ではない時期だとしても、瀬名さんの帰りが少し遅くなる事はある。その見込みを想定した時点で普段であれば連絡をくれる。
それが今夜はなかった。夕食の用意を終えた後になって電話してきた。いつもの瀬名さんならばそんなのはあり得ない。
ぎこちなく。申し訳なさそうに。慌てたようなあの様子。よほど緊急の仕事か、不測の事態か、トラブルか。誰かから急に、誘いを受けたか。
バカな妄想を振り払い、今夜はその場で箱を手前に取り出した。リボンがかかっている四角い箱を開けば、綺麗なケーキとプリンが可愛らしく並んでいる。
「どうも……」
「……晩飯は? ちゃんと食ったか?」
「ええ。電話もらったとき外にいたので。近くで適当に」
「……そうか」
「これはデザートにしますね」
今度こそはっきりと口角を上げた。自分でも嫌気がさすほど嘘くさい笑顔なんかを浮かべて、もう一度テーブルを見下ろす。可愛いケーキを。その奥の白い紙袋に、目が行ったのは意図したものではなかった。
シンプルなロゴが入っていた。正面の、左下の方。ひけらかす事のない、上品なその位置。
ローマ字に適した欧文フォントで美しくかたどられている。その文字が示しているのが、名前だと分かる。
分かって、はっと、視線が止まった。刻まれていた。その名称が。俺でも名前だけは聞いたことがあった。
余程特別な事でもなければ大抵の人は使わない。日常で訪れる事などまずない。俺みたいなのには、縁があるはずもない。
格式の高い、名のあるそこは。ホテルだ。
「…………」
息を吸い込んだまま吐き出せない。呼吸の仕方が分からない。震えそうなのはなんとか堪ても、指先は急激に冷えていく。
意味が分からない。なんで。こんな。こんな物をどうして、俺に寄越してきたんだ。
目の前にあるそれに手を伸ばした。そっと、紙袋だけ持ち上げた。何度見ても印字は変わらなくて、こればかりは見間違いでもない。
ホテルの名前だった。ホテルの、紙袋だ。
「…………どこに……」
「うん?」
「…………」
今までどこに、誰といましたか。
「…………いえ」
この人は謝ってばかりで何も言わない。俺はこの人に、何も聞けない。視線は逸らすまでもなく、すでにもう十分下がっている。
色んな物をもらってきた。手渡され、受け取ってきた。食べ物の日もあれば食べ物ではない日もあった。毎日毎日飽きもしないで、何かを選んで持ってきた。
最初は驚いて、突き返そうとして、幾度となく困惑もしたけど、もらって嬉しくない物はその中に一個もなかった。
この人が俺にくれた物を、本気で投げ返したくなったのはきっとこれが初めてだ。
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