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122.見慣れた風景Ⅴ
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親父が帰ってくる時間に合わせて夕食の支度をはじめた。今度は四人で食卓を囲う。茶の間にあるのは広くて低いテーブルで、親父が腰を下ろすのは上座じゃない。じいちゃんがいた頃と同じ位置だ。
朝は俺が着く前に学校に行っていたから久々に家族が顔をそろえる。仏壇にももちろんじいちゃんのために、晩飯をお供えしに行った。
「遥希」
水とご飯を新しいのに替えながら、後ろから呼ばれて振り返る。
「大学はどうだ」
「うん。まあまあ順調」
「そうか」
「うん」
「…………」
「…………」
終了。駄目だ。昔からこうだ。俺は親父と会話が続かない。
親父の向かいにじっと座っておとなしくしていろと言われたとすれば、それは完全に俺にとって過酷な修行になってしまう。だから仏壇のじいちゃんにお供えを終えると、母さんとばあちゃんのいる台所にそそくさと逃げるように戻った。
じいちゃんがいた頃はまだよかった。じいちゃんはいつも親父と喋りたがったから。
現在食卓で会話のために口を開くのは母さんかばあちゃんか俺の三人。話を振られたり意見を求められたりすれば親父も返すなり頷くなりするがそれ以外は基本的に無言。今日の仕事はこんなだったよとお知らせしてくることはあり得ない。
不愛想なようにも見えるが、人付き合いを避けているのとも違う。自治会で男手が必要になればよほど手の離せない仕事でもない限り律儀にも必ず出ていくし、ご近所と言いつつまあまあ遠いご近所さんが困っているらしいと聞きつければ自ら手を貸しに行くし。
おかげで周囲からの評判はいい。俺だって別に嫌いじゃないが、自分の父親なのに人物像がこれでもかというほど見えてこない。
かつて小学校の父兄参観に合わせて私のお父さんについてというテーマの作文を書かされた日には、知恵熱が出そうなくらい頭をひねって消耗した。真面目という言葉以外には何もサッパリ思いつかない。親父が参観に来るなんてことはあり得ない職業なのを、あの時ほど感謝したことはなかった。
「ちょっとソース濃かった?」
「いいや。美味いよ」
特製ソースがかかった揚げ物に手を付けた親父に母さんが聞いた。母さんに聞かれて親父も静かに答えた。
周囲から高評価を得ている現役教師は自分の妻にもちゃんと優しい。ガキの頃の記憶をたどっても、母さんの料理に親父がケチをつけたことなど一度もない。
「そっちのは遥希が煮付けたの」
「そうか。美味いな」
俺もまあケチなんてつけられたことはないんだけど。
母さんもわざわざ言わなくていいよ、リアクションに困るから。
***
都会生まれ都会育ちの人たちがどうかは知らないが、田舎生まれ田舎育ちの俺にとって生活スペースのメインとなる場は自分の部屋よりも茶の間だった。
広い居間の中央にある座卓ではじいちゃんが晩酌しているイメージが強い。その斜め前の位置には親父がいて、時々じいちゃんに酌をしながら二人で静かに喋っていた。
「なあ孝志、そろそろ書斎でもつくったらどうだ。毎日毎日仕事ばっかじゃ肩凝ってかなわねえだろ。たまには楽しんだってバチは当たらねえよ」
婿大好きなじいちゃんがお猪口片手にそう言うと、酒は飲めないから煎茶で付き合う父さんが落ち着いた声と顔で返した。
「今のままで俺は十分です。美咲も気にするでしょうから」
美咲というのは母さんのことだ。父さんが趣味部屋を作ることは母さんの気になるところらしい。
晩飯後に部屋から持ってきた漫画を茶の間で読むのはその頃のマイブームだった。茶の間の隅っこに座布団を積み上げ、グラグラ不安定ながらも椅子みたいにして座るのがなぜなのか好きだった。
当時の俺は八歳かそこら。大人の話に興味を持っちゃうお年頃だ。父さんのあの言い方からするともしや母さんの方が強いのだろうか。ガキながらになんとなく思った。
翌日になってもささやかに気になっていたからこっそり聞いてみることにした。
尋ねた相手はもちろんじいちゃん。その頃覚えたてだった言葉を使った。
「あのさあ、じんちゃん。うちってカカア天下なの?」
新聞をパサッと一枚めくったじいちゃんに、おやつのイモ餅をかじりながら得意なつもりになって尋ねた。最初の二秒はポカンとされた。三秒目には新聞をテーブルに置いて、楽しそうに大笑いされた。
どこで覚えてきやがったボウズ。へへッと笑いながらからかわれたついでにグシャグシャと頭を撫でられて、俺がキャッキャとはしゃぎだしたものだからなんとなくそのまま有耶無耶になった。そのせいでちゃんとした答えももらえずじまいだ。
うちがカカア天下っぽくないのもテイシュカンパクとかいうやつじゃないのもバカなガキだってちゃんと理解していた。
じいちゃんとばあちゃんがそうだったように親父と母さんもまあまあ歳の差婚で、けれども二人の間に上下関係みたいなものはない。母さんは昔から俺に対して父親を敬うよう言い聞かせてきた。だからといって家長がどうとか男が偉いとかそういう前時代的な思考もなく。
親父は気難しそうに見えるが無口なだけで性格は穏やか。二人が喧嘩しているところも一度だって見たことがない。
母さんは親父のために毎日美味いメシを作り、親父は母さんのメシをいつも美味いと言って褒める。自分の親をこう表現するのも心の底から気色悪いけど、理想的な夫婦というやつだ。
「遥希。お父さんにお茶持ってって」
「んー」
食事を終えると親父は早々に腰を上げて仕事部屋に行った。
こちらとしても二人きりにさえさせられなければ自分の実家なので気兼ねのない場所だ。晩飯もまた母さんとばあちゃんにあれこれ食え食えとやたら言われて、勧められるままに食ってしまうから本日二度目の腹十二分目。
この家の人間は残さずにご飯を食うが親父も必ず残さず食い切る。そして食後の一服は特にしない。
そもそも非喫煙者であるため食ったらさっさと仕事再開だ。じいちゃんはもうここにいないから、親父が酌をする相手もいない。
仕事ばかり。かつてじいちゃんはそう言って、この家の婿を気遣った。親父はそれを丁重に断っていたが、本当にいつも仕事ばかりだ。
高校の数学教師である親父は趣味もまた数学なのだとか。俺にはサッパリ意味が分からない。数学が趣味とははてさてなんぞや。フェルマーの最終定理みたいなクソ長い論文にワクワクするような人種であるということだろうか。数学への苦手意識が払拭されずにいるマコトくんならピシリと硬直するに違いない。
母さんもばあちゃんも俺と同じくそんな趣味は理解できないから親父は昔から自分の話をほとんどしようとしなかった。そんな親父に唯一頑張って理解を示そうとしていたのがじいちゃん。しかし義父と婿という関係の二人の性格は見事に正反対だ。
親父は無口で無表情。じいちゃんは快活でいつも楽しそう。
それもあってか自他共に認めるじいちゃんっ子だった俺は、余計に親父との距離が開いた。
古っぽい調理台の下から見慣れたヤカンを手に取った。ウチもそろそろIHキッチンにリフォームするとかしないとかなんとか母さんが前々から話しているのだがいつになったらやるのだろう。お母さんの要望に応えて風呂場のリフォームを手配できちゃう瀬名さんみたいなカッコイイ長男に俺もいつかはなれるだろうか。
十年後くらい。もうちょい。十五年くらい。いや、待った。二十年。
どうしよう。いくら必死に想像してもああなれそうな気がしない。あの男はその場にいなくても人の自信とかプライドとかその他を木っ端みじんにしてきやがるチクショウ。
「はるきーっ。上の棚の方のお茶っ葉使ってねー」
「あー」
茶の間から適当に叫ばれたので俺も適当に大声を返した。家の中の戸という戸のほとんどを開け放って生活しているから田舎者の立ち居振る舞いはこうなるんだと俺は思ってる。
俺と母さんとばあちゃんと、じいちゃんも生前そうだった。みんなしとやかという形容動詞からは最もかけ離れているタイプだ。よそ行きの顔を作る事はできても家の中じゃどうせこんなもん。家族の中で一番上品なのは今も昔も親父だろう。
うちの家系では珍しく知識層。親父が好きなのはいわゆる大学数学らしい。母さんが昔そう言っていた。
趣味が仕事なんて楽しそうでいいよな。かつて一度だけそんなふうに、憎たらしく吐き捨ててしまった事がある。
学校の実力テストで総合九位を獲得してきた日の夜だ。高校も上位を狙えるのでは。夕食時の家族が皆して無駄に盛り上がっている最中、親父だけは静かだった。進路はお前の好きにしなさいと、そうやって極めて冷静に言い置いくと、それ以外のささやかな一言すらなくそれだけでさっさと仕事部屋に行ってしまった。
それがなんだか、なんともいえない気分で。なんともいえずムッとした。
もっと他に言うことあるんじゃねえのか。九位ごときとでも思ってんのか。浮かれるなって、そう言いたいのか。
そういう反発じみた内心を嫌味にかえて、口から零した。趣味が仕事なんて楽しそうでいいよな。
我ながらなんとも可愛くない。たしか中学二年生だったと思う。やや反抗期気味でもあり人生で一番スレていた頃の俺が偉そうに言ってのけた時、少しだけ気まずそうな顔をして窘めてきたのは母さんだ。
そんなふうに言うもんじゃない。家族のために働いているのに。そう言った母さんの顔は俺を叱っているというよりも、何かに対してどことなく、申し訳なさそうな様子に見えた。
親父の仕事部屋は本当に仕事のためだけの部屋だ。置いてあるのは学校用の参考にするような書籍ばかり。
俺も高校三年の時には書棚に置いてある赤本をよく借りた。その上段に並んでいるのは数学の本ではなくて、教育だとか指導がどうのとか心理学とか認知科学とか、その手のタイトルが一通り全部。仕事ばかり。本当にその通りだ。
瀬名さんのお父さんは息子が実家を出たあと自分の書斎を作れそうな望みをキキとココに取られたが、うちの親父も俺の部屋を新しい書斎にはさせてもらえない。いいや、違う。本当は俺も知っている。その言い方は正解じゃない。
なぜなら俺の部屋ではなくとも、ろくに使っていない部屋ならば他にもたくさん空いている。教育者としての仕事からは離れた、趣味用の本を買いそろえて楽しむスペースくらいは作れるはずだ。ガロア理論とか、フーリエ解析とか、リー群論とか、おそらくはそういうの。
でも親父はそうしない。どうしてなのかは分からない。元々は東京の大学で助教授をしていたらしいから本当は研究がしたかったのかもしれないけれど、今ではここでこうしている。
なんで大学を辞めたんだろう。なぜこんな田舎の高校で教職なんかに。あの日大笑いしていたじいちゃんにその続きを聞いていたとしたら、なんと答えてくれただろう。
母さんが十代で俺を身ごもったことと、そのことは何か、関係があるのか。
「…………」
ヤカンは蓋がカタカタ言い始めていた。一向にIHキッチンへと転身を遂げないウチにある調理器具たちは、二条さんが陽子さんに怒られるような高級鍋の足元にも及ばない。
昔ながらの金物屋さんに置いてあるような古っぽいのが多い。今火にかけているこのヤカンは辛うじてステンレスだが、それでもまあまあ年季が入っている。
トポトポと急須にお湯を注ぎ、親父が使っているカップも温めた。これもだいぶ古っぽい。親父は婿という立場を抜きにしても欲求がない。主張をしない。あれがしたいとかこれがしたいとか、何が欲しいとかも驚くほどに言わない。
修行僧かと言いたくなるほど昔から無欲な大人だから、趣味用の書斎だって一向に作らないのかもしれない。一人息子に親としてのちょっとした要求さえ出してこない。好きにしなさい。そうとしか言わない。何を考えているのか全く分からない。常に平静で、顔にも出ない。
過度に厳しくされたこともないし過剰に怒られたこともない。なんでも自由にさせてくれるし必要な物は全て与えられてきた。
けれど好かれていると思ったことだけは、たったの一度だってない。
「父さん。お茶入ったけど」
「ああ。悪いな」
扉の向こうの返事を聞いてドアノブを回した。部屋に足を踏み入れて目に触れるのは、椅子に腰かける父親の後姿だ。子供の頃からこの光景を見ていた。昔は今よりさらに、近寄りがたかった。
さっさと置いてさっさと引っ込むのは昔のまま何も変わらず、それ以上は特に声をかけずに仕事部屋を出ていく。つもりだった。
「……遥希」
けれど呼ばれた。シカトする必要もない。さすがにハタチ手前にもなれば、ちょっとスレてみたいお年頃はとっくの昔に過ぎ去っている。
素直に足を止め振り返った。親父は向こうを向いたまま。
「大丈夫か」
母さんにも昼間釘を刺されたばかりだから、いくら親父とコミュニケーションが取れない男に育った俺でも、それが何を意味しているかは分かる。
「……うん。大丈夫。……ごめん」
何を考えているのか一切掴めない。怒っているのか嘆いているのか。
情けないと、思っただろうか。俺を恥ずかしいと思っているかもしれない。
大学まで行かせてやった息子が東京で妙なことに巻き込まれている。しばらく帰らずにいたにもかかわらず自分で対処しきれなくなると今度は逃げ戻ってきた。
父親としてこの状況は、どういうふうに見えるだろう。
朝は俺が着く前に学校に行っていたから久々に家族が顔をそろえる。仏壇にももちろんじいちゃんのために、晩飯をお供えしに行った。
「遥希」
水とご飯を新しいのに替えながら、後ろから呼ばれて振り返る。
「大学はどうだ」
「うん。まあまあ順調」
「そうか」
「うん」
「…………」
「…………」
終了。駄目だ。昔からこうだ。俺は親父と会話が続かない。
親父の向かいにじっと座っておとなしくしていろと言われたとすれば、それは完全に俺にとって過酷な修行になってしまう。だから仏壇のじいちゃんにお供えを終えると、母さんとばあちゃんのいる台所にそそくさと逃げるように戻った。
じいちゃんがいた頃はまだよかった。じいちゃんはいつも親父と喋りたがったから。
現在食卓で会話のために口を開くのは母さんかばあちゃんか俺の三人。話を振られたり意見を求められたりすれば親父も返すなり頷くなりするがそれ以外は基本的に無言。今日の仕事はこんなだったよとお知らせしてくることはあり得ない。
不愛想なようにも見えるが、人付き合いを避けているのとも違う。自治会で男手が必要になればよほど手の離せない仕事でもない限り律儀にも必ず出ていくし、ご近所と言いつつまあまあ遠いご近所さんが困っているらしいと聞きつければ自ら手を貸しに行くし。
おかげで周囲からの評判はいい。俺だって別に嫌いじゃないが、自分の父親なのに人物像がこれでもかというほど見えてこない。
かつて小学校の父兄参観に合わせて私のお父さんについてというテーマの作文を書かされた日には、知恵熱が出そうなくらい頭をひねって消耗した。真面目という言葉以外には何もサッパリ思いつかない。親父が参観に来るなんてことはあり得ない職業なのを、あの時ほど感謝したことはなかった。
「ちょっとソース濃かった?」
「いいや。美味いよ」
特製ソースがかかった揚げ物に手を付けた親父に母さんが聞いた。母さんに聞かれて親父も静かに答えた。
周囲から高評価を得ている現役教師は自分の妻にもちゃんと優しい。ガキの頃の記憶をたどっても、母さんの料理に親父がケチをつけたことなど一度もない。
「そっちのは遥希が煮付けたの」
「そうか。美味いな」
俺もまあケチなんてつけられたことはないんだけど。
母さんもわざわざ言わなくていいよ、リアクションに困るから。
***
都会生まれ都会育ちの人たちがどうかは知らないが、田舎生まれ田舎育ちの俺にとって生活スペースのメインとなる場は自分の部屋よりも茶の間だった。
広い居間の中央にある座卓ではじいちゃんが晩酌しているイメージが強い。その斜め前の位置には親父がいて、時々じいちゃんに酌をしながら二人で静かに喋っていた。
「なあ孝志、そろそろ書斎でもつくったらどうだ。毎日毎日仕事ばっかじゃ肩凝ってかなわねえだろ。たまには楽しんだってバチは当たらねえよ」
婿大好きなじいちゃんがお猪口片手にそう言うと、酒は飲めないから煎茶で付き合う父さんが落ち着いた声と顔で返した。
「今のままで俺は十分です。美咲も気にするでしょうから」
美咲というのは母さんのことだ。父さんが趣味部屋を作ることは母さんの気になるところらしい。
晩飯後に部屋から持ってきた漫画を茶の間で読むのはその頃のマイブームだった。茶の間の隅っこに座布団を積み上げ、グラグラ不安定ながらも椅子みたいにして座るのがなぜなのか好きだった。
当時の俺は八歳かそこら。大人の話に興味を持っちゃうお年頃だ。父さんのあの言い方からするともしや母さんの方が強いのだろうか。ガキながらになんとなく思った。
翌日になってもささやかに気になっていたからこっそり聞いてみることにした。
尋ねた相手はもちろんじいちゃん。その頃覚えたてだった言葉を使った。
「あのさあ、じんちゃん。うちってカカア天下なの?」
新聞をパサッと一枚めくったじいちゃんに、おやつのイモ餅をかじりながら得意なつもりになって尋ねた。最初の二秒はポカンとされた。三秒目には新聞をテーブルに置いて、楽しそうに大笑いされた。
どこで覚えてきやがったボウズ。へへッと笑いながらからかわれたついでにグシャグシャと頭を撫でられて、俺がキャッキャとはしゃぎだしたものだからなんとなくそのまま有耶無耶になった。そのせいでちゃんとした答えももらえずじまいだ。
うちがカカア天下っぽくないのもテイシュカンパクとかいうやつじゃないのもバカなガキだってちゃんと理解していた。
じいちゃんとばあちゃんがそうだったように親父と母さんもまあまあ歳の差婚で、けれども二人の間に上下関係みたいなものはない。母さんは昔から俺に対して父親を敬うよう言い聞かせてきた。だからといって家長がどうとか男が偉いとかそういう前時代的な思考もなく。
親父は気難しそうに見えるが無口なだけで性格は穏やか。二人が喧嘩しているところも一度だって見たことがない。
母さんは親父のために毎日美味いメシを作り、親父は母さんのメシをいつも美味いと言って褒める。自分の親をこう表現するのも心の底から気色悪いけど、理想的な夫婦というやつだ。
「遥希。お父さんにお茶持ってって」
「んー」
食事を終えると親父は早々に腰を上げて仕事部屋に行った。
こちらとしても二人きりにさえさせられなければ自分の実家なので気兼ねのない場所だ。晩飯もまた母さんとばあちゃんにあれこれ食え食えとやたら言われて、勧められるままに食ってしまうから本日二度目の腹十二分目。
この家の人間は残さずにご飯を食うが親父も必ず残さず食い切る。そして食後の一服は特にしない。
そもそも非喫煙者であるため食ったらさっさと仕事再開だ。じいちゃんはもうここにいないから、親父が酌をする相手もいない。
仕事ばかり。かつてじいちゃんはそう言って、この家の婿を気遣った。親父はそれを丁重に断っていたが、本当にいつも仕事ばかりだ。
高校の数学教師である親父は趣味もまた数学なのだとか。俺にはサッパリ意味が分からない。数学が趣味とははてさてなんぞや。フェルマーの最終定理みたいなクソ長い論文にワクワクするような人種であるということだろうか。数学への苦手意識が払拭されずにいるマコトくんならピシリと硬直するに違いない。
母さんもばあちゃんも俺と同じくそんな趣味は理解できないから親父は昔から自分の話をほとんどしようとしなかった。そんな親父に唯一頑張って理解を示そうとしていたのがじいちゃん。しかし義父と婿という関係の二人の性格は見事に正反対だ。
親父は無口で無表情。じいちゃんは快活でいつも楽しそう。
それもあってか自他共に認めるじいちゃんっ子だった俺は、余計に親父との距離が開いた。
古っぽい調理台の下から見慣れたヤカンを手に取った。ウチもそろそろIHキッチンにリフォームするとかしないとかなんとか母さんが前々から話しているのだがいつになったらやるのだろう。お母さんの要望に応えて風呂場のリフォームを手配できちゃう瀬名さんみたいなカッコイイ長男に俺もいつかはなれるだろうか。
十年後くらい。もうちょい。十五年くらい。いや、待った。二十年。
どうしよう。いくら必死に想像してもああなれそうな気がしない。あの男はその場にいなくても人の自信とかプライドとかその他を木っ端みじんにしてきやがるチクショウ。
「はるきーっ。上の棚の方のお茶っ葉使ってねー」
「あー」
茶の間から適当に叫ばれたので俺も適当に大声を返した。家の中の戸という戸のほとんどを開け放って生活しているから田舎者の立ち居振る舞いはこうなるんだと俺は思ってる。
俺と母さんとばあちゃんと、じいちゃんも生前そうだった。みんなしとやかという形容動詞からは最もかけ離れているタイプだ。よそ行きの顔を作る事はできても家の中じゃどうせこんなもん。家族の中で一番上品なのは今も昔も親父だろう。
うちの家系では珍しく知識層。親父が好きなのはいわゆる大学数学らしい。母さんが昔そう言っていた。
趣味が仕事なんて楽しそうでいいよな。かつて一度だけそんなふうに、憎たらしく吐き捨ててしまった事がある。
学校の実力テストで総合九位を獲得してきた日の夜だ。高校も上位を狙えるのでは。夕食時の家族が皆して無駄に盛り上がっている最中、親父だけは静かだった。進路はお前の好きにしなさいと、そうやって極めて冷静に言い置いくと、それ以外のささやかな一言すらなくそれだけでさっさと仕事部屋に行ってしまった。
それがなんだか、なんともいえない気分で。なんともいえずムッとした。
もっと他に言うことあるんじゃねえのか。九位ごときとでも思ってんのか。浮かれるなって、そう言いたいのか。
そういう反発じみた内心を嫌味にかえて、口から零した。趣味が仕事なんて楽しそうでいいよな。
我ながらなんとも可愛くない。たしか中学二年生だったと思う。やや反抗期気味でもあり人生で一番スレていた頃の俺が偉そうに言ってのけた時、少しだけ気まずそうな顔をして窘めてきたのは母さんだ。
そんなふうに言うもんじゃない。家族のために働いているのに。そう言った母さんの顔は俺を叱っているというよりも、何かに対してどことなく、申し訳なさそうな様子に見えた。
親父の仕事部屋は本当に仕事のためだけの部屋だ。置いてあるのは学校用の参考にするような書籍ばかり。
俺も高校三年の時には書棚に置いてある赤本をよく借りた。その上段に並んでいるのは数学の本ではなくて、教育だとか指導がどうのとか心理学とか認知科学とか、その手のタイトルが一通り全部。仕事ばかり。本当にその通りだ。
瀬名さんのお父さんは息子が実家を出たあと自分の書斎を作れそうな望みをキキとココに取られたが、うちの親父も俺の部屋を新しい書斎にはさせてもらえない。いいや、違う。本当は俺も知っている。その言い方は正解じゃない。
なぜなら俺の部屋ではなくとも、ろくに使っていない部屋ならば他にもたくさん空いている。教育者としての仕事からは離れた、趣味用の本を買いそろえて楽しむスペースくらいは作れるはずだ。ガロア理論とか、フーリエ解析とか、リー群論とか、おそらくはそういうの。
でも親父はそうしない。どうしてなのかは分からない。元々は東京の大学で助教授をしていたらしいから本当は研究がしたかったのかもしれないけれど、今ではここでこうしている。
なんで大学を辞めたんだろう。なぜこんな田舎の高校で教職なんかに。あの日大笑いしていたじいちゃんにその続きを聞いていたとしたら、なんと答えてくれただろう。
母さんが十代で俺を身ごもったことと、そのことは何か、関係があるのか。
「…………」
ヤカンは蓋がカタカタ言い始めていた。一向にIHキッチンへと転身を遂げないウチにある調理器具たちは、二条さんが陽子さんに怒られるような高級鍋の足元にも及ばない。
昔ながらの金物屋さんに置いてあるような古っぽいのが多い。今火にかけているこのヤカンは辛うじてステンレスだが、それでもまあまあ年季が入っている。
トポトポと急須にお湯を注ぎ、親父が使っているカップも温めた。これもだいぶ古っぽい。親父は婿という立場を抜きにしても欲求がない。主張をしない。あれがしたいとかこれがしたいとか、何が欲しいとかも驚くほどに言わない。
修行僧かと言いたくなるほど昔から無欲な大人だから、趣味用の書斎だって一向に作らないのかもしれない。一人息子に親としてのちょっとした要求さえ出してこない。好きにしなさい。そうとしか言わない。何を考えているのか全く分からない。常に平静で、顔にも出ない。
過度に厳しくされたこともないし過剰に怒られたこともない。なんでも自由にさせてくれるし必要な物は全て与えられてきた。
けれど好かれていると思ったことだけは、たったの一度だってない。
「父さん。お茶入ったけど」
「ああ。悪いな」
扉の向こうの返事を聞いてドアノブを回した。部屋に足を踏み入れて目に触れるのは、椅子に腰かける父親の後姿だ。子供の頃からこの光景を見ていた。昔は今よりさらに、近寄りがたかった。
さっさと置いてさっさと引っ込むのは昔のまま何も変わらず、それ以上は特に声をかけずに仕事部屋を出ていく。つもりだった。
「……遥希」
けれど呼ばれた。シカトする必要もない。さすがにハタチ手前にもなれば、ちょっとスレてみたいお年頃はとっくの昔に過ぎ去っている。
素直に足を止め振り返った。親父は向こうを向いたまま。
「大丈夫か」
母さんにも昼間釘を刺されたばかりだから、いくら親父とコミュニケーションが取れない男に育った俺でも、それが何を意味しているかは分かる。
「……うん。大丈夫。……ごめん」
何を考えているのか一切掴めない。怒っているのか嘆いているのか。
情けないと、思っただろうか。俺を恥ずかしいと思っているかもしれない。
大学まで行かせてやった息子が東京で妙なことに巻き込まれている。しばらく帰らずにいたにもかかわらず自分で対処しきれなくなると今度は逃げ戻ってきた。
父親としてこの状況は、どういうふうに見えるだろう。
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