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47.まことの恋をする者は、
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目にしたのは一枚の写真。中央には優雅にお座りをする、灰色の毛並みの美しい猫。
「かっ……わいいい」
瀬名さんの実家にいた初代猫。その子の写真を見せてもらったら思わず感嘆の声が漏れていた。
なめらかでツヤツヤな灰色の毛並みは見るからに触り心地が良さそう。猫らしくシュッとした体形からは俊敏そうなイメージも湧いた。イエロー系の形のいい猫目は、涼やかではあるが愛嬌もある。
「ロシアンブルーですか?」
「に見えるよな。けど違う。グレーの雑種だ。この写真だとあんま分かんねえがシッポには薄ら縞模様が入ってた」
「へえ……すっげえ綺麗な猫」
「だろ」
誇らしげに瀬名さんはうなずいた。それだけ可愛がっていたのだろう。この写真を見ればこの猫がとても大事にされていた事が分かる。
灰色のこの子が瀬名家にやって来たのは瀬名さんが園児時代のことだったと言う。元は捨て猫。あろう事かダンボール箱に一枚の食パンと共に入れて空き地の隅に置き去りにされていたそう。
ミャアミャアか弱い声を響かせるダンボールを発見したのは瀬名さんで、最初は三匹いたらしい。他二匹よりも明らかに弱っていて体も小さかったのがこの猫だ。
幸いにも元気だった二匹はその後里親にもらわれていったが、いつ力尽きてもおかしくなかった灰色の弱々しい子猫だけは、瀬名さんの家で迷わず引き取ってできる限りの世話をした。
するとその灰色猫はみるみる元気になっていった。獣医さんからも覚悟が必要と言われていたのが嘘のように。
のびのびと自由に育てられた猫はそれから最後まで元気に生きた。十九年以上の健やかな生涯を静かな様子で終える時には、社会人になった瀬名さんが帰省してくる日を待つようにして、家族全員に見守られながら眠るみたいに息を引き取ったそうだ。
愛されている飼い猫は顔つきに出る。現在瀬名さんの実家にいる子は二代目の古参猫と三代目の新参猫。その二匹の写真もついさっき瀬名さんのスマホで見せてもらったが、愛嬌たっぷりな女の子達の元気な様子がうかがえた。二代目はくつした模様が可愛い黒白のハチワレ。三代目は甘えん坊そうな茶トラ。名前はそれぞれキキとココだ。
瀬名さんの実家では代々、先輩の猫が新入りの猫の教育係になるらしい。初代に教育された二代目と、その二代目の教育を受けている真っ最中の若い三代目。瀬名さんのスマホにぎっしり残っている画像や動画を見る限り、黒白のキキと茶トラのココも素敵な猫に育っているのだろう。
手にしたアルバムをめくりながら、初代猫の子猫時代から大人になる過程を写真で見ていく。実家に帰れば分厚い猫アルバムが何冊も保存してあるらしいが、瀬名さんが出してくれたこのアルバムは数ページの薄いタイプ。
最後の方のページには若い頃の二代目がいる。あとはほとんどが初代の美猫。
ご飯をムシャムシャしているところや、遊んでいるところや、寝ているところとか。トイレの最中の写真まで。いくら可愛いからと言ってもそれはプライバシーの侵害だ。
「この子の名前は?」
「ルル」
「女の子?」
「ああ」
ここら辺でも野生のにゃんこを時々見かける。保護活動に熱心な地域なのか耳カット済みのさくら猫も多い。
自由にトコトコ散歩している猫のカラーは様々で、黒もいるし白もいるしブチもいるしトラもいるし。でもグレーの雑種はあまり見かけない。俺も実際に見たことがあるのは記憶を辿っても一匹だけだ。
実家の周辺をうろついていた野良猫の中に、体全体がグレーの奴が交ざっていたのを覚えている。野性的なそいつの毛並みはかなりボフボフだったけど、もしも瀬名さんのご実家のようなお宅でのびのびすくすく暮らせていたなら美猫になっていたかもしれない。
瀬名さんのルルは見れば見るほど本当に可愛い。こんな子が自分の家にいてくれたら毎日すっ飛んで帰るだろう。
「俺もルルに会いたかったな」
「素っ気なさそうに見せかけて一度懐いた相手にはベタ甘になる奴だった。おやつが欲しい時はスリスリしてくる」
「あぁ、それ可愛い。想像しただけで可愛い」
「ルルの気を引くためだけにバイトに明け暮れておやつもオモチャも散々貢いだのはいい思い出だ」
「貢ぎグセはこの頃からですか」
こんなに可愛い飼い猫ならば分からないでもないけれど。キキとココにも実家へ帰る度にこれでもかってほど貢いでるんだろうな。
今はもういないルルを見つめる瀬名さんの横顔は懐かしそう。ちょこんと可愛く小首をかしげる灰色猫が写ったそれを、アルバムの薄いフィルムの上から指先でそっと撫でていた。
「遥希と初めて会った時にな、真っ先にこいつの顔が浮かんだ」
視線は猫の写真に向けたまま、優しげな顔をして言ったこの人。
「…………ん?」
「似てる」
「……誰と誰が?」
「遥希とルルが」
「…………」
俺もアルバムに再度視線を落とす。ちょうどカメラ目線で写ったお座り猫と目が合った。
「もしかして……あの時俺をメシに誘ったのは俺が飼い猫に似てたからですか?」
「それもあったのかもしれない。一目見た瞬間に愛着がわいた」
マジかよ。いや別に構わないんだけど。何をどう見れば似ていると思えるのか俺にはさっぱり分からないが。
「……この猫がいなかったら俺はあなたにケーキとかもらってなかったかもしれないんですね」
「どっちにしろその顔は好みど真ん中だけどな」
「顔だったんだ」
「手土産片手にわざわざ引っ越しの挨拶に来たのもビビった。若いのに今時珍しいと」
「いや、俺も迷ったんですよ。どうすっかなって」
「来てくれてよかった」
全ての出来事には理由があって結果は必然だと言う人もいるが、多くの物事は運と偶然がいくつも積み重なって起こるのだろう。瀬名さんがルルと出会っていなくて、コーヒーセットを持った俺が引越しの挨拶に行かなかったら、俺達は今でも隣同士に住んでいるだけの他人だったかも。
都会のカッコイイお兄さん。第一印象はそうだった。田舎から出てきたばかりの学生でしかない俺にとっては、縁などできるはずのない相手。
それがちょっとだけ喋ってみれば急にご飯に誘われて、変な人だし諦めも悪いしヘタするとストーカー一歩手前だし、けれどもきっとそういう人ではないという確信も不思議とあった。
もしも本当に嫌だったなら、この人からの最初の贈り物を受け取らず突っぱねる事だってできた。セールスや勧誘なら秒で追い払える。元々押しには強い方だ。
最初から、そのあともズルズル、何度も繰り返し押し負けてきたのは、相手がこの人だったから。初見での会話は衝撃的だったがより忘れがたい人にはなった。しょっぱなから気になっちゃったのなら、あとはもうどうしようもない。
「俺はもう猫とアヒルには一生頭が上がらなくなった」
「アヒルも?」
「ガーくんの写真見てなかったらお前に盗撮されてた事実には永遠に気づけなかっただろうからな」
「見なかった事にするって言ってたの完全になかった事になってますよね」
「なんのことだか」
こんな大っぴらにヤな大人なのに俺はどうして惚れちゃったのか。これだけは一生解明できない。
猫のアルバムを大事そうに引き出しに戻してきた瀬名さんは、立ったついでに空になった二つのカップを持ち上げた。
「同じのでいいか」
「あ、はーい。どうも」
さりげなくお茶まで淹れなおしてくれる。
そうか、だからか。仕方ねえや。一生の謎が今解けてしまった。こんなのが目の前にいて惚れない方がどうかしている。
くそイケメンなズルい大人が隣のキッチンでお湯を沸かしている間、俺はのんびりおやつタイム。ローテーブルの上の皿に手を伸ばしてバタークッキーを一枚掴んだ。
ホワイトエンジェルを売っている店で瀬名さんと一緒に買ってきたクッキーだ。可愛い袋に包んであったこれの商品名は、天使の贈り物。こっぱずかしい。
幸いにもレジに持っていけばピッてしてもらえるタイプのやつだったため名前のコールはしなくて済んだ。あの店に一人で入ってホワイトエンジェルと言い放った瀬名さんはどう考えても頭が狂ってる。
商品名はとても恥ずかしいけどアクセントの塩がちょうどいいクッキーをモグモグしながらティッシュを一枚。ホロッとしたクッキーだから気を付けて食わないとテーブルとカーペットが汚れる。用済みになって丸めたティッシュはゴミ箱に向かってぶん投げた。が、外した。クソ。
自分ちだったら放置するけど瀬名さんの部屋だからイイ子ぶって片付けに行く。拾い上げて中に投げ入れ、何気なく見下ろしたその中身。
煙草の箱がそこにはあった。二箱だ。どちらとも空箱ではない。
ひとつは半分ほど減っているので吸いかけの煙草だったと分かる。もう一つの方は外装の薄いフィルムの封さえ切られていない。つまりこっちは、未開封。
「…………」
元々俺の前で吸わない人だから今まで全く気付かなかったが、確かにここのところ吸っていそうな雰囲気はなかったような。よくよく思い返してみれば、ゴミに交じって吸い殻の痕跡を見ることもしばらくなかった気がする。
ゴミ箱を見下ろしていると瀬名さんが戻って来た。テーブルの上にコトッと置かれたカップ二つ。腰を下ろした瀬名さんの隣に、俺も戻って座り直した。
「……煙草やめたんですか?」
カップ片手にこっちをチラリと。俺がゴミ箱の方を見たからその視線で察したようだ。
「ああ。もう俺には必要ない」
「ふーん……健康配慮?」
「いいや。恋人効果」
首を傾げる、その前に。やわらかい感触が唇に当たる。
唐突なキスにきょとんとなって瀬名さんの顔を見返した。
「口寂しくなくなった」
「…………」
まばたきくらいしか俺にはできない。
「……恥ずかしいんですよ、あんたはいちいち」
「恥ずかしくても受け止めろ。お前に捨てられたらその後の俺は確実に肺ガンで死ぬ」
「重いし」
「重くても受け止めろ」
これをいつも受け止めていたら俺が潰される羽目になるけど俺がちゃんと受け止めてやらないと瀬名さんは肺ガンで死んじゃうかもしれない。
淹れたてのお茶に手を伸ばした。まだ熱いそれをズズッと啜る。
「……受け止めてあげますよ。仕方ないから」
恥ずかしくて重くて潰されそうでもこんなのに惚れた俺が悪い。麻薬並みの作用を持っている依存性の高い男だ。だったらやっぱり仕方がない。
隣で笑った瀬名さんの顔は、ちょっとしばらく見られなかった。
「かっ……わいいい」
瀬名さんの実家にいた初代猫。その子の写真を見せてもらったら思わず感嘆の声が漏れていた。
なめらかでツヤツヤな灰色の毛並みは見るからに触り心地が良さそう。猫らしくシュッとした体形からは俊敏そうなイメージも湧いた。イエロー系の形のいい猫目は、涼やかではあるが愛嬌もある。
「ロシアンブルーですか?」
「に見えるよな。けど違う。グレーの雑種だ。この写真だとあんま分かんねえがシッポには薄ら縞模様が入ってた」
「へえ……すっげえ綺麗な猫」
「だろ」
誇らしげに瀬名さんはうなずいた。それだけ可愛がっていたのだろう。この写真を見ればこの猫がとても大事にされていた事が分かる。
灰色のこの子が瀬名家にやって来たのは瀬名さんが園児時代のことだったと言う。元は捨て猫。あろう事かダンボール箱に一枚の食パンと共に入れて空き地の隅に置き去りにされていたそう。
ミャアミャアか弱い声を響かせるダンボールを発見したのは瀬名さんで、最初は三匹いたらしい。他二匹よりも明らかに弱っていて体も小さかったのがこの猫だ。
幸いにも元気だった二匹はその後里親にもらわれていったが、いつ力尽きてもおかしくなかった灰色の弱々しい子猫だけは、瀬名さんの家で迷わず引き取ってできる限りの世話をした。
するとその灰色猫はみるみる元気になっていった。獣医さんからも覚悟が必要と言われていたのが嘘のように。
のびのびと自由に育てられた猫はそれから最後まで元気に生きた。十九年以上の健やかな生涯を静かな様子で終える時には、社会人になった瀬名さんが帰省してくる日を待つようにして、家族全員に見守られながら眠るみたいに息を引き取ったそうだ。
愛されている飼い猫は顔つきに出る。現在瀬名さんの実家にいる子は二代目の古参猫と三代目の新参猫。その二匹の写真もついさっき瀬名さんのスマホで見せてもらったが、愛嬌たっぷりな女の子達の元気な様子がうかがえた。二代目はくつした模様が可愛い黒白のハチワレ。三代目は甘えん坊そうな茶トラ。名前はそれぞれキキとココだ。
瀬名さんの実家では代々、先輩の猫が新入りの猫の教育係になるらしい。初代に教育された二代目と、その二代目の教育を受けている真っ最中の若い三代目。瀬名さんのスマホにぎっしり残っている画像や動画を見る限り、黒白のキキと茶トラのココも素敵な猫に育っているのだろう。
手にしたアルバムをめくりながら、初代猫の子猫時代から大人になる過程を写真で見ていく。実家に帰れば分厚い猫アルバムが何冊も保存してあるらしいが、瀬名さんが出してくれたこのアルバムは数ページの薄いタイプ。
最後の方のページには若い頃の二代目がいる。あとはほとんどが初代の美猫。
ご飯をムシャムシャしているところや、遊んでいるところや、寝ているところとか。トイレの最中の写真まで。いくら可愛いからと言ってもそれはプライバシーの侵害だ。
「この子の名前は?」
「ルル」
「女の子?」
「ああ」
ここら辺でも野生のにゃんこを時々見かける。保護活動に熱心な地域なのか耳カット済みのさくら猫も多い。
自由にトコトコ散歩している猫のカラーは様々で、黒もいるし白もいるしブチもいるしトラもいるし。でもグレーの雑種はあまり見かけない。俺も実際に見たことがあるのは記憶を辿っても一匹だけだ。
実家の周辺をうろついていた野良猫の中に、体全体がグレーの奴が交ざっていたのを覚えている。野性的なそいつの毛並みはかなりボフボフだったけど、もしも瀬名さんのご実家のようなお宅でのびのびすくすく暮らせていたなら美猫になっていたかもしれない。
瀬名さんのルルは見れば見るほど本当に可愛い。こんな子が自分の家にいてくれたら毎日すっ飛んで帰るだろう。
「俺もルルに会いたかったな」
「素っ気なさそうに見せかけて一度懐いた相手にはベタ甘になる奴だった。おやつが欲しい時はスリスリしてくる」
「あぁ、それ可愛い。想像しただけで可愛い」
「ルルの気を引くためだけにバイトに明け暮れておやつもオモチャも散々貢いだのはいい思い出だ」
「貢ぎグセはこの頃からですか」
こんなに可愛い飼い猫ならば分からないでもないけれど。キキとココにも実家へ帰る度にこれでもかってほど貢いでるんだろうな。
今はもういないルルを見つめる瀬名さんの横顔は懐かしそう。ちょこんと可愛く小首をかしげる灰色猫が写ったそれを、アルバムの薄いフィルムの上から指先でそっと撫でていた。
「遥希と初めて会った時にな、真っ先にこいつの顔が浮かんだ」
視線は猫の写真に向けたまま、優しげな顔をして言ったこの人。
「…………ん?」
「似てる」
「……誰と誰が?」
「遥希とルルが」
「…………」
俺もアルバムに再度視線を落とす。ちょうどカメラ目線で写ったお座り猫と目が合った。
「もしかして……あの時俺をメシに誘ったのは俺が飼い猫に似てたからですか?」
「それもあったのかもしれない。一目見た瞬間に愛着がわいた」
マジかよ。いや別に構わないんだけど。何をどう見れば似ていると思えるのか俺にはさっぱり分からないが。
「……この猫がいなかったら俺はあなたにケーキとかもらってなかったかもしれないんですね」
「どっちにしろその顔は好みど真ん中だけどな」
「顔だったんだ」
「手土産片手にわざわざ引っ越しの挨拶に来たのもビビった。若いのに今時珍しいと」
「いや、俺も迷ったんですよ。どうすっかなって」
「来てくれてよかった」
全ての出来事には理由があって結果は必然だと言う人もいるが、多くの物事は運と偶然がいくつも積み重なって起こるのだろう。瀬名さんがルルと出会っていなくて、コーヒーセットを持った俺が引越しの挨拶に行かなかったら、俺達は今でも隣同士に住んでいるだけの他人だったかも。
都会のカッコイイお兄さん。第一印象はそうだった。田舎から出てきたばかりの学生でしかない俺にとっては、縁などできるはずのない相手。
それがちょっとだけ喋ってみれば急にご飯に誘われて、変な人だし諦めも悪いしヘタするとストーカー一歩手前だし、けれどもきっとそういう人ではないという確信も不思議とあった。
もしも本当に嫌だったなら、この人からの最初の贈り物を受け取らず突っぱねる事だってできた。セールスや勧誘なら秒で追い払える。元々押しには強い方だ。
最初から、そのあともズルズル、何度も繰り返し押し負けてきたのは、相手がこの人だったから。初見での会話は衝撃的だったがより忘れがたい人にはなった。しょっぱなから気になっちゃったのなら、あとはもうどうしようもない。
「俺はもう猫とアヒルには一生頭が上がらなくなった」
「アヒルも?」
「ガーくんの写真見てなかったらお前に盗撮されてた事実には永遠に気づけなかっただろうからな」
「見なかった事にするって言ってたの完全になかった事になってますよね」
「なんのことだか」
こんな大っぴらにヤな大人なのに俺はどうして惚れちゃったのか。これだけは一生解明できない。
猫のアルバムを大事そうに引き出しに戻してきた瀬名さんは、立ったついでに空になった二つのカップを持ち上げた。
「同じのでいいか」
「あ、はーい。どうも」
さりげなくお茶まで淹れなおしてくれる。
そうか、だからか。仕方ねえや。一生の謎が今解けてしまった。こんなのが目の前にいて惚れない方がどうかしている。
くそイケメンなズルい大人が隣のキッチンでお湯を沸かしている間、俺はのんびりおやつタイム。ローテーブルの上の皿に手を伸ばしてバタークッキーを一枚掴んだ。
ホワイトエンジェルを売っている店で瀬名さんと一緒に買ってきたクッキーだ。可愛い袋に包んであったこれの商品名は、天使の贈り物。こっぱずかしい。
幸いにもレジに持っていけばピッてしてもらえるタイプのやつだったため名前のコールはしなくて済んだ。あの店に一人で入ってホワイトエンジェルと言い放った瀬名さんはどう考えても頭が狂ってる。
商品名はとても恥ずかしいけどアクセントの塩がちょうどいいクッキーをモグモグしながらティッシュを一枚。ホロッとしたクッキーだから気を付けて食わないとテーブルとカーペットが汚れる。用済みになって丸めたティッシュはゴミ箱に向かってぶん投げた。が、外した。クソ。
自分ちだったら放置するけど瀬名さんの部屋だからイイ子ぶって片付けに行く。拾い上げて中に投げ入れ、何気なく見下ろしたその中身。
煙草の箱がそこにはあった。二箱だ。どちらとも空箱ではない。
ひとつは半分ほど減っているので吸いかけの煙草だったと分かる。もう一つの方は外装の薄いフィルムの封さえ切られていない。つまりこっちは、未開封。
「…………」
元々俺の前で吸わない人だから今まで全く気付かなかったが、確かにここのところ吸っていそうな雰囲気はなかったような。よくよく思い返してみれば、ゴミに交じって吸い殻の痕跡を見ることもしばらくなかった気がする。
ゴミ箱を見下ろしていると瀬名さんが戻って来た。テーブルの上にコトッと置かれたカップ二つ。腰を下ろした瀬名さんの隣に、俺も戻って座り直した。
「……煙草やめたんですか?」
カップ片手にこっちをチラリと。俺がゴミ箱の方を見たからその視線で察したようだ。
「ああ。もう俺には必要ない」
「ふーん……健康配慮?」
「いいや。恋人効果」
首を傾げる、その前に。やわらかい感触が唇に当たる。
唐突なキスにきょとんとなって瀬名さんの顔を見返した。
「口寂しくなくなった」
「…………」
まばたきくらいしか俺にはできない。
「……恥ずかしいんですよ、あんたはいちいち」
「恥ずかしくても受け止めろ。お前に捨てられたらその後の俺は確実に肺ガンで死ぬ」
「重いし」
「重くても受け止めろ」
これをいつも受け止めていたら俺が潰される羽目になるけど俺がちゃんと受け止めてやらないと瀬名さんは肺ガンで死んじゃうかもしれない。
淹れたてのお茶に手を伸ばした。まだ熱いそれをズズッと啜る。
「……受け止めてあげますよ。仕方ないから」
恥ずかしくて重くて潰されそうでもこんなのに惚れた俺が悪い。麻薬並みの作用を持っている依存性の高い男だ。だったらやっぱり仕方がない。
隣で笑った瀬名さんの顔は、ちょっとしばらく見られなかった。
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