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30.事故かもしれない物件Ⅱ
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どうせ作り話だろう。無駄な演技力を持った下心満載のゲス野郎が俺を怖がらせて面白がっただけのこと。
ほんの一時はそう思えた。けれど瀬名さんが自宅に帰ったら室内がいつもより静かに感じた。一定の速度でカチカチ鳴り響く秒針の音だけが耳に入ってくる。
「…………」
耐え切れない。時計が怖い。一秒ごとの無機質なカチコチに追い立てられるような気分だった。
とうとうじっとしていられなくなって逃げ込んだのは狭い風呂場。せかせかと服を脱ぎ捨て熱めのシャワーを頭からかぶった。サッパリ洗い流してしまえばこの恐怖心も消えるかもしれない。
しかしシャンプーで頭をわしゃわしゃ泡立てていると今度は背後がなんとなくヒヤリと。浴室暖房なんてついていないから冬場はいつだって背中が寒いが今夜は異様に気になってくる。
それでも無理やり両目をつぶって頭を泡だらけにしていたものの、ふとした瞬間、脳裏によぎる。背後に立つ影の映像が。背筋にゾッと悪寒が走ってパチリと目を開け振り返った。
何もいない。そりゃそうだ。昨日まで普通に生活してたんだ。
しかしその後はほんの三秒も目をつぶっていられなくなった。泡が染みる事なんかよりも目の前が暗くなる方が怖い。血走った目の女に遭遇する代わりに俺の目が血走りそうだった。
慌ただしくシャワーを終えた後も恐怖はずっと付きまとう。髪を乾かしていてもスマホをいじり出しても何をやっていても落ち着かない。シンと静まり返ったこの部屋が心底不気味でならなかった。
テレビくらい買っておけばよかった。思ったところでそんなのは今さら。どちらにしても無駄な出費は増やせないのだからどうにもならない。
仕方がないから布団にもぐり込んだ。どう頑張っても落ち着かなかった。右を向けば左側が怖い。左を向けば右側が怖い。しかし仰向けになったらなったで天井が魔界の入り口に見えてくる。壁も天井も何もないただの空間でさえも、恐怖のキャンバスが至る所に。
ダメだ俺。もう意味わかんない。恐怖のキャンバスってなんだよ、どうした。
寝よう。寝ちまえばこっちのもんだ。仰向けのまま布団をかぶってぎゅっと無理やり視界を閉ざした。
目の前は完全な暗闇になる。案の定ホラー系の妄想劇場がまぶたの裏で始まった。終わることなく脳内で勝手に流され続ける恐怖映像。布団の上に覆いかぶさる、ボヤッとした黒い影。
パチッと目を開けた。バッと顔を出した。布団もバサッと引っぺがしたが上には何もいなかった。
大丈夫だ。これはただの妄想だ。お化けなんてそんな非科学的かつ非現実的な空想上のバカげたものが存在して堪るか。
なんて自分に言い聞かせたけど、枕横のぬいぐるみを二体とも引っ掴んでもふっと抱きかかえた。こいつらを道づれにしてもう一度布団にもぐりこむ。
モッフリとクッタリな癒しの手触りにほっとできたのは最初の一秒。クマとカワウソに抱きつきながら必死に目をつぶってみるも、タンッ、と音がして肩が揺れる。
安っぽい金属を弾いたような。その発信源は流し台だ。ちゃんと分かってる。いつもの事だ。蛇口の水滴だと頭ではきちんと理解しているはずなのに、一回気になりだしてしまうと普段の些細な物音ごときに全神経が持っていかれる。
「…………」
ムリ。もうヤダ。怖くて眠れない。このままじゃ朝には廃人になってる。
起き上がって電気を付けた。恥がどうとか言っていられる場合ではなかった。ベッドの上で正座になって頭からすっぽり布団をかぶりつつ壁の向こうの瀬名さんにライン。
起きてますか。それだけ一文。起きてなくっても今すぐ起きろ。
既読付け既読付け既読付け既読付け。頼むから返事くれ、なんでもいいから。
願いは通じた。のかどうかは知らないけれど視線の先ではパッと既読表示が。スマホにすがり付いて待機していたら返信ではなく電話で返ってきた。
出る。そりゃ出る。秒で出た。飛びついた。彼氏からの着信にここまで喜ぶのきっと俺くらい。
『どうした』
耳に当てたスマホの向こうから聞こえてきた第一声。
あったかい声に泣きそうになる。ホットココアよりホットレモネードより数百倍はじんわりきてる。左腕ではクマとカワウソをぎゅうぎゅうに抱き潰していた。
「……すみません。起こしましたか」
『いいや。どうかしたか』
「…………」
『遥希?』
帰らないでくださいと言えなかったばかりに俺は現在こうなっている訳で。この人に対するつまらない見栄とクソみてえにしょうもない意地は結構な強さで定着してしまっているのであって。
『どうした』
もう一回聞かれて顔がゆがんだ。もしも目の前に鏡があったら泣きそうな自分が写るはず。
「…………今日だけそっちで寝てもいいですか」
恥も外聞もへったくれもない。ほんとにそんなこと言ってる場合じゃない。
こんなに怖いことってあるか。今まで俺よくここで寝てたな。
瀬名さんの快諾を得るや否や逃げるように部屋から飛び出した。ちょうど隣でドアを開けてくれたこの人を見て駆け寄りたくなる。
「ちょっと待て。鍵は閉めろ」
でも瀬名さんは冷静だった。逃げ込む先が隣とは言え戸締りはちゃんとしなさいって意味だ。
仕方がないからもう一度部屋に入って豪速で鍵を掴み取ってきた。心臓をバクバク鳴らせながらガチャリと施錠し今度こそ避難。隣室の玄関に踏み込んだあとには安堵のため息を深々とついた。
「それでお前は何を持ってきた」
「え?」
入れてもらった部屋の中。瀬名さんの言葉とその視線によって自分の左腕を見下ろした。
ここに来てようやく気付く。抱えていたのはクマとカワウソ。ぎゅうぎゅうに抱き潰したままこいつらも一緒に連れてきてしまった。
「……護身用?」
「それはさすがに無理がある」
ですよね。俺もそう思うよ。
笑いを堪える瀬名さんの肩が小刻みに震えているのは気づかなかったことにした。
オマケの二体を部屋に戻してこいと命じられることは幸いにもなく、クマとカワウソもシングルベッドに俺とセットで入れてくれた。
ただでさえ男二人で寝るにはきついスペースだ。こいつらがいると余計に狭苦しい。そう感じるだけならばまだしも、実際にかなり窮屈だから限界まで端っこに寄った。
「クマ雄とウソ子に抱きついてねえで素直にこっち向いたらどうだ」
「俺のクマとカワウソに変な名前つけないでください」
俺の前にあるのは白い壁。瀬名さんには背を向けていた。
人のベッドの片半分を陣取っているのはこっちな訳だから、クマとカワウソを抱っこしながら壁に体をくっつける。壁と俺に挟まれた二体は苦しげに顔を潰されていた。ごめんな。
「本当はいつもそうやって寝てんだろ」
「寝てません」
「俺だと思って抱いて寝てんだよな」
「違います」
背後ではこの人がさっきからペラペラと。しまいには不名誉な疑惑まで断定するように言い放たれた。
クマもカワウソも普段なら抱っこしない。こいつらに抱きついてベッドに入るのは今夜が初めてで今後はもうない。
「こうなったのはあんたのせいですよ」
「匿ってもらっておいてその言い草か」
「急にあんな話するのが悪いんじゃないですか」
「今まで何もなかったんだろ」
今まで何もなかったところに不確実ながら不穏な話を持ち込んだのがこの男だ。諸悪の根源が偉そうに言うな。
お化けに呪い殺される前に俺がこの男を呪ってやろうか。藁人形の作り方でも検索しようと考えていたら、後ろからスッと腹の前に腕を回されて固まった。
「これで怖くない」
「…………」
「なあ?」
耳元でこの人の声が響く。お化けは一瞬で頭から飛んだ。
「お前の安全は俺が保証する」
「……除霊でもできるんですか」
「できねえが守る」
できねえくせに自信たっぷりだ。ぬいぐるみに抱きつくこの腕を宥めるように撫でられた。
背中にはピタリと瀬名さんがくっつく。あったかい。包まれるみたいな。後ろからやわらかく抱きしめられると少し前までの恐怖も忘れそう。
安全を保障してくれるそうだ。瀬名さんが守ってくれるらしい。俺は決して人から守ってもらうようなお姫様タイプではないけど。
「寝ちまえ。こうしててやる」
「……うん」
優しくされているのが伝わる。これ以上の安全圏はない。
この人の腕の中にいる時が、心地いいのはもう知っている。
***
薄ぼんやりした明るさを感じた。ふわふわした感覚だった。どことなくくすぐったくもあった。
ゆっくりと髪を梳かれる。甘やかすように撫でられていた。それに気づいたのはゆったり目を開け、瀬名さんの顔を間近に見たから。
「…………」
「おはよう」
「……おはようございます」
おだやかに、いくらか細められたその目。爽やかな朝の空気が似合う見事なまでの綺麗な微笑み。
不覚にも見惚れてボケッとしていると額にはキスが降ってきた。少女漫画のヒロインに惚れられる男性キャラクターを具現化したらきっと八割方は瀬名恭吾になる。
朝っぱらから恥ずかしい人だ。その顔を無言でじっと見上げた。するとこの男前は心得たように、口にも同じことをしてきた。
軽くついばみ、唇をこするようにして撫でながらそっと離れていく。それをもう一度時間をかけてしっとりと繰り返した。二度目はちゅっと音を立て、最後は頬に口づけてから、近い距離で俺を見下ろす。
「そろそろ起きた方がいい」
「……はい」
壁にかかった時計をチラ見。六時半を回った頃だ。大学に行くための起床時間としては遅くもなく、早くもなく。
瀬名さんがシーツから手を離すと沈んでいたマットレスがゆるやかに元に戻った。俺もその場で体を起こしたが首から上はジワジワと熱い。
「なんか……」
「ああ」
「朝メシとか、作ったら食いますか」
「いや、いい。すぐに出る」
人様のお宅で堂々と寝過ごした俺とは違って瀬名さんはすでにスーツ。身支度も何もかもきっちり済ませていた。ネクタイも締めているしジャケットも着ているし、よく見れば机の前の椅子には黒いコートもかけてある。出掛ける準備は万端だ。
「早いんですね……」
「つまらねえ会議だ」
会議。現実的な単語を聞いて、ぼやけた頭がようやく目覚める。
「……ごめんなさい」
そうだった。この人は働く大人だ。学生ごときが夜中に叩き起こしたうえにベッドを占領していい相手じゃない。最近は忙しいのもいくらか落ち着いてきたようだったからつい甘えきってしまった。
大事な睡眠の邪魔をした。寝床にはぬいぐるみまで連れ込んだ。挙げ句に俺はグースカ寝コケ、優しく起こされてやっとこ目覚めた。
ちゃんとしてない十八の男に瀬名さんは文句の一つも垂れない。再びその場で腰を屈め、またもやそっと口づけられた。
シーツの上で手が重なる。キスしながらやんわり握られ、手の中に何か、落とされた。
甘ったるく唇が離れ、最初に見たのは瀬名さんの顔。自然と視線は下に向く。自分の手のひら。銀色のそれ。一目で分かる。鍵だ。
「出掛ける時閉めてってくれるか」
「あ……はい。ポストにでも入れておけば……?」
「やるよ。これはお前のだ」
小さな金属を握らせて、俺の手ごと包み込んでくる。頬に小さくキスで触れてから、もう一度唇が重なった。
「いつでも好きな時に来い。ヤモリが怖けりゃここで寝ればいい」
キスの直後にそう言われたけど俺の反応速度は鈍い。掛けてあったコートを手に取った瀬名さんはすぐに出ていった。俺の元に残されたのは、唇の感触と手の中の銀色。
玄関ではドアの開閉音が。パタンと静かに外から閉まった。行っちゃった。行ってらっしゃいもまともに言ってない。寝室の向こうをぼんやり眺めつつ、指先でふにっと唇に触れた。
迂闊にも爆睡してしまったせいで弁当を作る時間もなかった。お化けを怖がって避難してきたガキを静かにゆっくり寝かせてくれた。窓の外でスズメがチュンチュン可愛く鳴くのを聞きながら、誘われるように視線は下がり、手の中にある鍵を見つめる。
合鍵か。そうか。うん、そうか。実感が湧きそうで全然湧かない。起き上がったばかりだけれどうつ伏せにぼふっと倒れ込んだ。
なんだあのイケメン無敵かよ。かっこよすぎるだろ朝からやめろよ。あれは本当に日本人なのか。あんな男がこんな国に生息していていいはずがない。
顔面を枕にうずめていると今度はふわっといい匂いがしてくる。瀬名さんはいい匂いがすると思っていたが枕までいい匂いってどういうことだ。三十過ぎのおっさんの枕がこんなにいい匂いなのはもはや事件だ。しかもあの人は喫煙者だ。
白い枕をたまらず抱きしめた。瀬名さんと夕べここで寝た。またここで寝ていいらしい。合鍵までもらった。そわそわする。
俺の物になった鍵を握りしめ、枕をぎゅうっと両腕に抱いた。
「そういうのは夕べ俺にやってほしかった」
「ッ……!」
ビクッとした勢いで跳ね起きた。振り返る。引き戸の影から覗くその顔。
いつの間に。どっから見てた。気配消しながら戻って来んなよ。この人の部屋だから文句も言えない。
気まずさ満点で枕を押しのけて悪足掻きしてみるもどうせ無駄。ベッドのそばまで来た瀬名さんは見るからに上機嫌だ。
「ひとつ言い忘れてた」
「……なんです」
「今日は晩飯頼んでもいいか」
身構えていた俺に瀬名さんが言ったのは予想から外れたお願いだった。キョトンとしながらその顔を見上げる。
「そんなに遅くはならないと思う」
「あ、はい」
「一応夕方ごろに連絡する」
「はい……」
平日の夜に瀬名さんとゆっくりメシを食えるのは久々だ。何を作ろう。考えようとしたら、その前にこの人が一言。
「チーズドリアがいい」
チーズドリアと瀬名さんの組み合わせはオムライスと同じくらい似合わない。
「……時々可愛い子ぶるのホントなんなんですか」
「可愛い子ぶってりゃクマ雄とウソ子のポジションを奪えるかもしれない」
クマとカワウソは行儀よく壁際に。夕べはずっと壁の方を向いてこいつらにしがみついていた。それが通常の状態だと勘違いされてしまうのは男の沽券というものに関わる。
「普段は抱いてませんってば」
「なら次は俺に抱きついて寝ろ」
そしてこの人は沽券を蹴り砕く。俺のプライドはもうボロボロだ。
迷走も多い年頃の男のプライドを粉砕した無情な大人は当然の顔をして俺にキスする。朝からこれで何度目だ。やわらかい触れ合いを受け入れれば、大きな手のひらが左の頬をやんわりと包み込んでくる。撫でられるから思わずスリッと、こすり付けるようにその手に懐いた。
もう少し早く起きればよかった。出勤前の社会人のキスは夕べよりもずっとシンプルだ。
指先で頬を撫でられる。そうしながらこの人の唇が離れた。間近から見るその顔も、悔しいくらいに男前だ。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい……」
今度こそちゃんと言えた。大きい背中を見送ってから少しして開閉音が聞こえた。さっきの失態が響いているからちょっと疑ってしばらく様子見。
どうやら今度こそ本当に行っちゃった。朝のキスはさっきので最後だった。
何度もしつこく合鍵を見下ろす。見ているうちに体が傾き、もう一回枕に倒れ込んだ。相変わらずのいい匂い。柔軟剤かな。シャンプーとかかも。ふわっと鼻腔をくすぐられながら、握りしめた手の中の鍵。
このままこうしていたら二度寝しそう。包まれるようなこの感覚にはヤバめの中毒性がある。
クセになったらどうしよう。あの人の匂いは、とても落ち着く。
ほんの一時はそう思えた。けれど瀬名さんが自宅に帰ったら室内がいつもより静かに感じた。一定の速度でカチカチ鳴り響く秒針の音だけが耳に入ってくる。
「…………」
耐え切れない。時計が怖い。一秒ごとの無機質なカチコチに追い立てられるような気分だった。
とうとうじっとしていられなくなって逃げ込んだのは狭い風呂場。せかせかと服を脱ぎ捨て熱めのシャワーを頭からかぶった。サッパリ洗い流してしまえばこの恐怖心も消えるかもしれない。
しかしシャンプーで頭をわしゃわしゃ泡立てていると今度は背後がなんとなくヒヤリと。浴室暖房なんてついていないから冬場はいつだって背中が寒いが今夜は異様に気になってくる。
それでも無理やり両目をつぶって頭を泡だらけにしていたものの、ふとした瞬間、脳裏によぎる。背後に立つ影の映像が。背筋にゾッと悪寒が走ってパチリと目を開け振り返った。
何もいない。そりゃそうだ。昨日まで普通に生活してたんだ。
しかしその後はほんの三秒も目をつぶっていられなくなった。泡が染みる事なんかよりも目の前が暗くなる方が怖い。血走った目の女に遭遇する代わりに俺の目が血走りそうだった。
慌ただしくシャワーを終えた後も恐怖はずっと付きまとう。髪を乾かしていてもスマホをいじり出しても何をやっていても落ち着かない。シンと静まり返ったこの部屋が心底不気味でならなかった。
テレビくらい買っておけばよかった。思ったところでそんなのは今さら。どちらにしても無駄な出費は増やせないのだからどうにもならない。
仕方がないから布団にもぐり込んだ。どう頑張っても落ち着かなかった。右を向けば左側が怖い。左を向けば右側が怖い。しかし仰向けになったらなったで天井が魔界の入り口に見えてくる。壁も天井も何もないただの空間でさえも、恐怖のキャンバスが至る所に。
ダメだ俺。もう意味わかんない。恐怖のキャンバスってなんだよ、どうした。
寝よう。寝ちまえばこっちのもんだ。仰向けのまま布団をかぶってぎゅっと無理やり視界を閉ざした。
目の前は完全な暗闇になる。案の定ホラー系の妄想劇場がまぶたの裏で始まった。終わることなく脳内で勝手に流され続ける恐怖映像。布団の上に覆いかぶさる、ボヤッとした黒い影。
パチッと目を開けた。バッと顔を出した。布団もバサッと引っぺがしたが上には何もいなかった。
大丈夫だ。これはただの妄想だ。お化けなんてそんな非科学的かつ非現実的な空想上のバカげたものが存在して堪るか。
なんて自分に言い聞かせたけど、枕横のぬいぐるみを二体とも引っ掴んでもふっと抱きかかえた。こいつらを道づれにしてもう一度布団にもぐりこむ。
モッフリとクッタリな癒しの手触りにほっとできたのは最初の一秒。クマとカワウソに抱きつきながら必死に目をつぶってみるも、タンッ、と音がして肩が揺れる。
安っぽい金属を弾いたような。その発信源は流し台だ。ちゃんと分かってる。いつもの事だ。蛇口の水滴だと頭ではきちんと理解しているはずなのに、一回気になりだしてしまうと普段の些細な物音ごときに全神経が持っていかれる。
「…………」
ムリ。もうヤダ。怖くて眠れない。このままじゃ朝には廃人になってる。
起き上がって電気を付けた。恥がどうとか言っていられる場合ではなかった。ベッドの上で正座になって頭からすっぽり布団をかぶりつつ壁の向こうの瀬名さんにライン。
起きてますか。それだけ一文。起きてなくっても今すぐ起きろ。
既読付け既読付け既読付け既読付け。頼むから返事くれ、なんでもいいから。
願いは通じた。のかどうかは知らないけれど視線の先ではパッと既読表示が。スマホにすがり付いて待機していたら返信ではなく電話で返ってきた。
出る。そりゃ出る。秒で出た。飛びついた。彼氏からの着信にここまで喜ぶのきっと俺くらい。
『どうした』
耳に当てたスマホの向こうから聞こえてきた第一声。
あったかい声に泣きそうになる。ホットココアよりホットレモネードより数百倍はじんわりきてる。左腕ではクマとカワウソをぎゅうぎゅうに抱き潰していた。
「……すみません。起こしましたか」
『いいや。どうかしたか』
「…………」
『遥希?』
帰らないでくださいと言えなかったばかりに俺は現在こうなっている訳で。この人に対するつまらない見栄とクソみてえにしょうもない意地は結構な強さで定着してしまっているのであって。
『どうした』
もう一回聞かれて顔がゆがんだ。もしも目の前に鏡があったら泣きそうな自分が写るはず。
「…………今日だけそっちで寝てもいいですか」
恥も外聞もへったくれもない。ほんとにそんなこと言ってる場合じゃない。
こんなに怖いことってあるか。今まで俺よくここで寝てたな。
瀬名さんの快諾を得るや否や逃げるように部屋から飛び出した。ちょうど隣でドアを開けてくれたこの人を見て駆け寄りたくなる。
「ちょっと待て。鍵は閉めろ」
でも瀬名さんは冷静だった。逃げ込む先が隣とは言え戸締りはちゃんとしなさいって意味だ。
仕方がないからもう一度部屋に入って豪速で鍵を掴み取ってきた。心臓をバクバク鳴らせながらガチャリと施錠し今度こそ避難。隣室の玄関に踏み込んだあとには安堵のため息を深々とついた。
「それでお前は何を持ってきた」
「え?」
入れてもらった部屋の中。瀬名さんの言葉とその視線によって自分の左腕を見下ろした。
ここに来てようやく気付く。抱えていたのはクマとカワウソ。ぎゅうぎゅうに抱き潰したままこいつらも一緒に連れてきてしまった。
「……護身用?」
「それはさすがに無理がある」
ですよね。俺もそう思うよ。
笑いを堪える瀬名さんの肩が小刻みに震えているのは気づかなかったことにした。
オマケの二体を部屋に戻してこいと命じられることは幸いにもなく、クマとカワウソもシングルベッドに俺とセットで入れてくれた。
ただでさえ男二人で寝るにはきついスペースだ。こいつらがいると余計に狭苦しい。そう感じるだけならばまだしも、実際にかなり窮屈だから限界まで端っこに寄った。
「クマ雄とウソ子に抱きついてねえで素直にこっち向いたらどうだ」
「俺のクマとカワウソに変な名前つけないでください」
俺の前にあるのは白い壁。瀬名さんには背を向けていた。
人のベッドの片半分を陣取っているのはこっちな訳だから、クマとカワウソを抱っこしながら壁に体をくっつける。壁と俺に挟まれた二体は苦しげに顔を潰されていた。ごめんな。
「本当はいつもそうやって寝てんだろ」
「寝てません」
「俺だと思って抱いて寝てんだよな」
「違います」
背後ではこの人がさっきからペラペラと。しまいには不名誉な疑惑まで断定するように言い放たれた。
クマもカワウソも普段なら抱っこしない。こいつらに抱きついてベッドに入るのは今夜が初めてで今後はもうない。
「こうなったのはあんたのせいですよ」
「匿ってもらっておいてその言い草か」
「急にあんな話するのが悪いんじゃないですか」
「今まで何もなかったんだろ」
今まで何もなかったところに不確実ながら不穏な話を持ち込んだのがこの男だ。諸悪の根源が偉そうに言うな。
お化けに呪い殺される前に俺がこの男を呪ってやろうか。藁人形の作り方でも検索しようと考えていたら、後ろからスッと腹の前に腕を回されて固まった。
「これで怖くない」
「…………」
「なあ?」
耳元でこの人の声が響く。お化けは一瞬で頭から飛んだ。
「お前の安全は俺が保証する」
「……除霊でもできるんですか」
「できねえが守る」
できねえくせに自信たっぷりだ。ぬいぐるみに抱きつくこの腕を宥めるように撫でられた。
背中にはピタリと瀬名さんがくっつく。あったかい。包まれるみたいな。後ろからやわらかく抱きしめられると少し前までの恐怖も忘れそう。
安全を保障してくれるそうだ。瀬名さんが守ってくれるらしい。俺は決して人から守ってもらうようなお姫様タイプではないけど。
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「……うん」
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ゆっくりと髪を梳かれる。甘やかすように撫でられていた。それに気づいたのはゆったり目を開け、瀬名さんの顔を間近に見たから。
「…………」
「おはよう」
「……おはようございます」
おだやかに、いくらか細められたその目。爽やかな朝の空気が似合う見事なまでの綺麗な微笑み。
不覚にも見惚れてボケッとしていると額にはキスが降ってきた。少女漫画のヒロインに惚れられる男性キャラクターを具現化したらきっと八割方は瀬名恭吾になる。
朝っぱらから恥ずかしい人だ。その顔を無言でじっと見上げた。するとこの男前は心得たように、口にも同じことをしてきた。
軽くついばみ、唇をこするようにして撫でながらそっと離れていく。それをもう一度時間をかけてしっとりと繰り返した。二度目はちゅっと音を立て、最後は頬に口づけてから、近い距離で俺を見下ろす。
「そろそろ起きた方がいい」
「……はい」
壁にかかった時計をチラ見。六時半を回った頃だ。大学に行くための起床時間としては遅くもなく、早くもなく。
瀬名さんがシーツから手を離すと沈んでいたマットレスがゆるやかに元に戻った。俺もその場で体を起こしたが首から上はジワジワと熱い。
「なんか……」
「ああ」
「朝メシとか、作ったら食いますか」
「いや、いい。すぐに出る」
人様のお宅で堂々と寝過ごした俺とは違って瀬名さんはすでにスーツ。身支度も何もかもきっちり済ませていた。ネクタイも締めているしジャケットも着ているし、よく見れば机の前の椅子には黒いコートもかけてある。出掛ける準備は万端だ。
「早いんですね……」
「つまらねえ会議だ」
会議。現実的な単語を聞いて、ぼやけた頭がようやく目覚める。
「……ごめんなさい」
そうだった。この人は働く大人だ。学生ごときが夜中に叩き起こしたうえにベッドを占領していい相手じゃない。最近は忙しいのもいくらか落ち着いてきたようだったからつい甘えきってしまった。
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ちゃんとしてない十八の男に瀬名さんは文句の一つも垂れない。再びその場で腰を屈め、またもやそっと口づけられた。
シーツの上で手が重なる。キスしながらやんわり握られ、手の中に何か、落とされた。
甘ったるく唇が離れ、最初に見たのは瀬名さんの顔。自然と視線は下に向く。自分の手のひら。銀色のそれ。一目で分かる。鍵だ。
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「あ……はい。ポストにでも入れておけば……?」
「やるよ。これはお前のだ」
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「いつでも好きな時に来い。ヤモリが怖けりゃここで寝ればいい」
キスの直後にそう言われたけど俺の反応速度は鈍い。掛けてあったコートを手に取った瀬名さんはすぐに出ていった。俺の元に残されたのは、唇の感触と手の中の銀色。
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合鍵か。そうか。うん、そうか。実感が湧きそうで全然湧かない。起き上がったばかりだけれどうつ伏せにぼふっと倒れ込んだ。
なんだあのイケメン無敵かよ。かっこよすぎるだろ朝からやめろよ。あれは本当に日本人なのか。あんな男がこんな国に生息していていいはずがない。
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白い枕をたまらず抱きしめた。瀬名さんと夕べここで寝た。またここで寝ていいらしい。合鍵までもらった。そわそわする。
俺の物になった鍵を握りしめ、枕をぎゅうっと両腕に抱いた。
「そういうのは夕べ俺にやってほしかった」
「ッ……!」
ビクッとした勢いで跳ね起きた。振り返る。引き戸の影から覗くその顔。
いつの間に。どっから見てた。気配消しながら戻って来んなよ。この人の部屋だから文句も言えない。
気まずさ満点で枕を押しのけて悪足掻きしてみるもどうせ無駄。ベッドのそばまで来た瀬名さんは見るからに上機嫌だ。
「ひとつ言い忘れてた」
「……なんです」
「今日は晩飯頼んでもいいか」
身構えていた俺に瀬名さんが言ったのは予想から外れたお願いだった。キョトンとしながらその顔を見上げる。
「そんなに遅くはならないと思う」
「あ、はい」
「一応夕方ごろに連絡する」
「はい……」
平日の夜に瀬名さんとゆっくりメシを食えるのは久々だ。何を作ろう。考えようとしたら、その前にこの人が一言。
「チーズドリアがいい」
チーズドリアと瀬名さんの組み合わせはオムライスと同じくらい似合わない。
「……時々可愛い子ぶるのホントなんなんですか」
「可愛い子ぶってりゃクマ雄とウソ子のポジションを奪えるかもしれない」
クマとカワウソは行儀よく壁際に。夕べはずっと壁の方を向いてこいつらにしがみついていた。それが通常の状態だと勘違いされてしまうのは男の沽券というものに関わる。
「普段は抱いてませんってば」
「なら次は俺に抱きついて寝ろ」
そしてこの人は沽券を蹴り砕く。俺のプライドはもうボロボロだ。
迷走も多い年頃の男のプライドを粉砕した無情な大人は当然の顔をして俺にキスする。朝からこれで何度目だ。やわらかい触れ合いを受け入れれば、大きな手のひらが左の頬をやんわりと包み込んでくる。撫でられるから思わずスリッと、こすり付けるようにその手に懐いた。
もう少し早く起きればよかった。出勤前の社会人のキスは夕べよりもずっとシンプルだ。
指先で頬を撫でられる。そうしながらこの人の唇が離れた。間近から見るその顔も、悔しいくらいに男前だ。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい……」
今度こそちゃんと言えた。大きい背中を見送ってから少しして開閉音が聞こえた。さっきの失態が響いているからちょっと疑ってしばらく様子見。
どうやら今度こそ本当に行っちゃった。朝のキスはさっきので最後だった。
何度もしつこく合鍵を見下ろす。見ているうちに体が傾き、もう一回枕に倒れ込んだ。相変わらずのいい匂い。柔軟剤かな。シャンプーとかかも。ふわっと鼻腔をくすぐられながら、握りしめた手の中の鍵。
このままこうしていたら二度寝しそう。包まれるようなこの感覚にはヤバめの中毒性がある。
クセになったらどうしよう。あの人の匂いは、とても落ち着く。
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犯人を探し始めた亮輔だが、周囲は頼りにならず——。
これは、少し性格に難ありな主人公が、不幸と告白に振り回される青春BL。
他のサイトにも掲載していますが、こちらは修正したものとなっています。
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
窓のない部屋の、陽だまりみたいな君
MisakiNonagase
BL
都心の高層ビル、その「内臓」とも言える地下一階のメール室。
そこで働く山﨑智之は、目立たず、期待されず、淡々と郵便物を捌く「透明人間」のような毎日を愛していた。自分は低スペックで、華やかな地上には居場所がない。そう、諦めていた。
そんな彼の静寂を破ったのは、二十二階の住人、若きエース・風巻隼人だった。
完璧なルックス、圧倒的な成果、羨望の眼差しを一身に浴びる彼が、なぜか地下のメール室に足繁く通い始める。
「五分だけ、ここにいさせてくれないか」
一通の郵便物から始まった、五分間だけの秘密の共有。
次第に剥き出しになっていく隼人の孤独と、それを無自覚に包み込んでしまう智之の温度。
住む世界が違う二人が、窓のない部屋で見つけたのは、名前のつかない「救済」だった。
お腹いっぱい、召し上がれ
砂ねずみ
BL
料理研究家でαの藤白蒼は幼なじみで10個下のΩ晃と番になった。そんな二人の間に産まれた照は元気いっぱいな男の子。泣いたり、笑ったり、家族の温かみを感じながら藤白家の日常が穏やかに進んでいく。
そんな愛する妻と愛する息子、大切な家族のお腹いっぱい喜ぶ顔が見たいから。蒼は今日も明日もその先も、キッチンに立って腕を振るう。
さあ、お腹いっぱい、召し上がれ。
逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。初夜で抱かれたら身代わりがばれてしまいます💦
雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
逃げた弟の身代わりとなり、
隣国の国王である溺愛アルファに嫁いだオメガ。
しかし実は、我儘で結婚から逃げ出した双子の弟の身代わりなのです…
オメガだからと王宮で冷遇されていたので、身代わり結婚にも拒否権が
なかたのでした。
本当の花嫁じゃない。
だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、
だんだん王様に惹かれてしまい、苦しくなる…という
お話です。よろしくお願いします<(_ _)>
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