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28.瀬名さんのダチⅢ
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むしゃくしゃした気分は晴れなかった。食器を洗ってもテーブルを拭いても気は紛れず考え込んでいる。ここから追い出した男のことを。
ベッドにドガッと倒れ込み、溜め息をつく前に目に入る。大きめのクマ。と、そのクマよりも小さなサイズの、くったりとした作りのカワウソ。
先日行った水族館から連れ帰ってきたぬいぐるみだ。散々いらないと拒否していたのに瀬名さんは結局こいつを買った。おかげさまで俺の部屋にはまたしても可愛いのが一匹増えたが、見れば見るほどいい迷惑。俺はメルヘンな女の子じゃない。
枕の隣で並んでいる二体をぼんやりしつつも鬱陶しく眺め、それでどの道、ため息が出る。インターフォンが鳴らされたのはちょうどそんな時だった。
「…………」
誰かは分かる。考えなくても一瞬で分かる。あのクソ野郎だ。他に誰がいる。
応じないという手もあるにはある。けれどもただのシカトで終えてはまるで逃げるようだから、弱腰な態度に出るのも癪だしベッドからすぐに起き上がった。
「なんの用ですか」
ガチャリとドアを開けた瞬間にこっちから言ってやる。睨みつける側は俺。対するこの人の表情は硬い。
「さっきは悪かった」
「その話はしたくないです。帰ってください」
さっきの今でよくもノコノコとやって来られる。そのうち来るだろうと思ってはいたけどまだ一時間と経っていない。どれだけ図太い神経してんだ。
「入っていいか」
「俺が言ったこと聞こえませんでしたか」
「今話したい」
「帰ってください」
「頼む」
「帰れよ」
「遥希……」
なんてしつこい男だろう。本当にイライラさせられる。この人は最初からそうだった。
「謝りたい」
「…………」
声の響くアパートの通路で夜も遅い時間でなければとっくに怒鳴りつけていた。声の響くアパートの通路でしかも夜更けと言うべき時間に、そんな真似はしたくない。
「……二条さんは」
「うちにいる」
「……すぐ帰ってくださいよ」
不可抗力というやつだ。
***
どうぞも何も言わずに真っすぐ室内へ足を向ければこの人も控えめについてきた。いい年した大人の男がこんなガキの顔色を窺って恥ずかしいとは思わないのか。
ベッドの前に俺がドガッと感じ悪く腰を下ろしてもこの人はそこで立ち尽くしている。
「突っ立ってられると落ち着かないんですけど」
「……すまん」
「座ればいいじゃないですか」
「……ああ」
そう呟いて、その場に正座。マジかよこの人。プライドねえのか。
普段はベタベタとくっついてくる男がいくらか間隔をあけた場所から、それも正座で、気まずそうにこっちを見てくる。
「勝手に話して悪かった」
神妙な面持ちをしたこの人の第一声はそれ。
「申し訳ない」
「…………」
二言目もほぼ変わらなかった。一切の言い訳もなく本当にただ謝ってくる。たとえ相手がガキだろうと頭を下げることも厭わない。
偉ぶらないし驕らないし自分の非も潔く認める。他人に対してそうであれと多くの人間が説く割には自分でできない事ベストスリーだ。
簡単にできそうに思えて簡単にはできない事をできてしまうのが瀬名さんで、そんな人がたった一つやらかしたのが暴露すること。俺たちの関係を人に話した。ごくごく親しい、友人に。
それだけの事だ。お互いの状況を良く知っている、遠慮も何もなく暴言も込みで言い合える相手に俺の事を話した。さっき瀬名さんが安心しろと平気な顔をして言ったのは、安心していい相手だったからだ。二条さんには偏見も、好奇の目も何もなかった。
「……中学からの友達だって聞きました。二条さんから」
他に言うことが思いつかないから聞かされた事をそのまま言った。ラグの上についていた右手の、指先に少しだけ力がこもる。
「ずいぶん長い付き合いなんですね」
「……ああ」
「なんでも話せる仲ってやつですか」
「俺達のことは話すべきじゃなかった」
「本当にそう思います?」
「…………」
気の置ける友人にプライベートな話をするのは何もおかしなことではないし、何が悪いと聞かれたらそれまで。
その程度の事にいちいち腹を立てる奴の方がよっぽどどうかしているのだろう。これが逆の立場だったら俺はたぶん逆ギレしている。この人が全然責めてこないから正当ぶっていられるだけだ。
「二条さん、あなたのこと庇ってましたよ。大目に見てやってくれって」
「……そうか」
成り行きで話したとこの人は言った。相手が二条さんでなかったら、成り行きで話す事もなかったかもしれない。
問題は誰に話したかじゃない。どうして話したか。そんな事でもない。
あの瞬間に感じたのはただのイラ立ちなんかじゃなかった。つらいのとは違う。悲しいのとも違う。あれは不安だ。怖かった。
この関係を誰かに知られてしまった時に、俺の中でせり上がってくる一番強い感情は恐怖だ。そうなることに今夜気づいた。気づかされてしまって、それで分かった。俺には全く覚悟がない。俺はこの人の恋人だって、胸を張って言うこともできない。
「周りの目とか、瀬名さんは気にしないのかもしれませんけど……俺は気になります」
たとえどんな些細なことでも、何がきっかけで物事が突然狂いだすかは分からない。誰かに知られて、後ろ指さされて、そういうつまらない何かのせいで俺達のこの関係までどうにかなってしまったとしたら。
「……あなたと……ダメになりたくないんです」
瀬名さんの顔は最後まで見ていられなかった。だからまた目を逸らした。
少数派に世間は厳しい。たかだが十八年生きただけでもそのくらいのことは知っている。田舎と言われるような地方の狭い環境で育ってきたから、偏見と固定観念を持った人たちがどれだけ多いかもこの目で見てきた。
こうあるべき。そうなるのが普通。世間の多数意見は常にそう。男同士でどうにかなるのも自然なことのうちの一つだと、そんなふうに思ってもらえる心の広い環境を、少なくとも俺は見たことがないしこの先もそれは変わらないだろう。
男が男と付き合うのはおかしい。年だってこんなに離れてる。人の多い日中の街中でもしも堂々と手を繋いだら、擦れ違う人達の視線をいちいち気にしながら歩くことになる。
そこまでは全部言えなかった。この人にそんな事を言えるはずがないから黙ったまま視線も落とした。ラグの上の指先には、もう少し頼りなく力がこもった。
「…………すまなかった」
沈黙を破ったのは瀬名さんだ。謝るのはこの人じゃない。この人は何も間違ってない。
反論の一つでもすればいいのに。些細な事でいちいちキレるなと責めてくれた方がよっぽどいい。だけど瀬名さんは言い訳もせずに、ただ俺のそばにいる。
「俺が悪かった」
「違いますよ……。分かってんでしょ」
開いていた距離は瀬名さんが埋めた。時にはプライドだって捨てられる男は俺の隣に座り直して、指先に力を込めていたこの手を上から控えめに握りしめた。毛足の短いチープなラグの上であたたかく重ねられている。
ひどい大人だ。なんでそうなんだ。あんたもたまには怒るとかしろよ。こういう事をされてしまうと、俺が余計にガキくさく見える。
「これは俺の問題なんです」
「…………」
「……ごめんなさい」
俺にできない事をこの人はやった。頭にきて当たり散らした。滑稽だし、恥ずかしいし。ガキくさいしめんどくさいし。
いつでも真っ直ぐな感情だけを向けてくれるこの人に、俺は何も返せない。付き合い始める前には想像もしていなかったような恐怖が今の俺の中にはある。
ラグをじっと見つめる事しかすでにできなくなっていた。上から重なっていたこの人の手には、ぎゅっと力がこもったのを感じた。
「これは俺達の問題だ」
俺の手を強く握りしめ、その一点だけは言い直される。上辺だけの分かったつもりなんかじゃない。この人はちゃんと聴いてくれる。理解しようとしてくれる。
「すまない。無神経だった」
瀬名さんはこういう人だ。自分が正しいと主張する事ならいくらでもできるだろうに、この人は俺を否定しない。だからこっちが困ることになる。
今までだって何度も思った。この人が心底嫌な野郎で最低最悪なクズだったなら、俺だってこんなバカみたいにいちいち悩まずに済んだのに。
瀬名さんの手が俺の肩に伸びてきても、そのままゆっくり抱き寄せられても、拒むほどの元気は残っていないし怒りもなんだか冷めてしまった。仕方がないからおとなしくしていた。瀬名さんも黙っていた。この人に抱きしめられる事にもずいぶん慣れてしまったと、場違いな実感をする羽目になってうっかりすると泣きそうだった。
しばらくはお互い無言のまま、しかし瀬名さんの腕は離れない。俺を抱きしめる力加減が徐々に強くなるのが分かって、俯かせていた顔を上げたが瀬名さんと目は合わなかった。その顔は俺の肩に埋まる。それでまたぎゅっと、強く抱かれた。
「許してほしい」
たぶん、胸の奥の方。うずくような、そんな感覚。
ここで何かを言えるほど、俺は気の利いた人間じゃない。もしも立場が逆だったとして、瀬名さんならば俺に言葉をかけてくれたかもしれない。だけどあいにく返事を求められているのは俺だから、イエスかノーで答える代わりにできたのは抱きしめ返すことだけ。
そっと背中に腕を回したらこの人もそこで頭を上げた。その時の顔を見せられて、余計に何も言い出せなくなる。
なんでこの人、こんなガキ相手に。ここまで必死な顔をするんだろう。
「遥希……」
喧嘩したかったわけではない。気まずくなりたいわけでもない。この大人にこんな顔をさせたかったわけじゃない。
俺の引っ込みがつかなくなる前にこの人は頭を下げに来た。そんな大人に体重を預けて自分から抱きつきにいく。いつもに比べればだいぶ控えめに、それでもこの人は俺を受け止めた。
「……ちょっとだけ、こうしててください。そしたら全部許します」
この人じゃなかったらこうはなってない。今さらもう後には引けない。
こういう関係になる前に、夜の街中で何度も手を繋がれた。あの時の俺はそれを弾かなかった。今の俺ならきっと弾く。水族館の水槽の前で手を繋いでいられたのは、暗い館内にいる人達の目は魚に向いていると知っていたから。
いつの間にかこんな事になっていた。気づいた時には遅かった。この人とダメになるのが怖くて、壊れるくらいなら隠しておきたい。隠れて、人目を遠ざけてでも、離れないようにしておかないと。
失うのが怖い。本気で思う。それくらいにもう、大切な人になっている。
***
こうしてて。そう言ったのは俺だった。だけど広くはない部屋の中でいつまでも抱き合っているのは変だ。徐々にしつこくなってくる瀬名さんを半ば無理やり引きはがし、込み上げてくる羞恥心から逃げるようにキッチンへ駆け込んだ。
ドリップバッグの上からちびちび熱湯を注ぎながら精神統一する羽目になるとは。無駄に丁寧にコーヒーをいれてきた。この人の目の前にマグカップを置いて、しかしそこでようやく気づく。おそらく空腹だろう人にブラックコーヒーはちょっと良くない。
「さっきは追い出しちゃったし、腹減ってます?」
「大丈夫だ」
「冷蔵庫に二条さんの南蛮づ…」
「いらない」
拒否が激しい。またしても最後まで言わせてもらえなかった。
「……同級生が相手だとあなたでもあんな感じになるんですね」
「あんな?」
「すげえ冷たかったので」
「……あの夫婦の喧嘩に巻き込まれるとロクなことにならないからな」
ミルクを持ってくる前に瀬名さんは黒い液体に口を付けていた。空腹時のカフェインだろうとこの人は全然気にしない。
「こういうこと前にも?」
「しょっちゅうだ。今年に入ってからはずっと平和だったが油断した途端にこうなる」
「二条さんの奥さんってどんな人なんです?」
飲食物に対しては取り立てて気を使わない男だが、俺が何気なく聞いたそれにはあからさまに表情を変えた。
なんと言うか、げっそりしている。一瞬で三歳ほど老けた気もする。何かまずいことでも聞いたか。
「あの……」
一気にやつれた瀬名さんに声をかけようとしたその時、ピンポンと鳴った高い音に俺達の注意は奪われた。発信源はウチじゃない。隣の部屋のインターフォンだ。
隣の部屋の住人である瀬名さんはあいにくここにいる。こんな遅くに宅急便が来ることはまずないだろうが、うちの玄関の方を見ている瀬名さんの顔面は死んでいる。外の様子が気になるようだ。緊張したように窺っているからつられて俺まで息をひそめた。
誰かが訪ねてきたらしき隣室はしばし無音。少し間を置いてもう一度ピンポン。同じことをさらにもう二回繰り返し、最終的にはガンガンバンバンと玄関をぶったたく騒音に変わった。
ビクッとする俺。今にも頭を抱えだしそうな瀬名さん。
出てこい、とかなんとか喚く、女の声が聞こえるような。
「……来やがった」
「え?」
「ちょっと行ってくる。お前はここにいろ」
それだけ言い残して瀬名さんは一人部屋を出ていった。が、気になる。数秒間だけ迷ったのちに、すぐさま好奇心に負けて俺もすくっと腰を上げた。
玄関のドアをそーっと開ける。廊下は何やら騒がしい。隣の三〇二号室の前は大人三人で混み合っていた。
「あはははは、陽子ちゃんいつもよく俺の居場所分かるよねぇー」
「あんたが来るとこなんかここしかないでしょ。いちいち手間かけさせんじゃないよ」
二条さんは瀬名さんちのドアからヘラヘラ笑って顔を出している。それを睨みつけているのは見知らぬ女性。そんな二人から一歩引いた壁際には、何やらチマッと小さくなりながら無言で立ち尽くす瀬名さんが。
インターフォンを鳴らしたのはどう考えてもあの女性だろう。陽子ちゃんと呼ばれていた。ならばおそらく奥さんだ。奥さんらしきその人物は二条さんの胸ぐらに両手を伸ばし、体格差をものともせずにガッと勢いよく掴みかかった。
「言っとくけど話はまだ済んでないからね。ここに逃げ込めば許されるとでも思ってんなら考え改めな。なんであんな買い物したのかきっちり説明してもらうから」
間違いなく奥さんだ。十五万円の鍋の件はまだ許されていないようだ。
玄関の内側という安全地帯から引きずり出された二条さんは、ヘラヘラしているように見えるがどことなく笑顔が引きつっている。
「ほら帰るよ。毎回毎回瀬名くんに迷惑かけるんじゃないの」
「いやそもそも俺をウチから蹴り出したの陽子ちゃ…」
「は?」
「すみません帰ります」
夫婦の力関係は一目瞭然。飼い犬の首輪でも引っ掴むように二条さんの襟元を捕らえつつ、その女性は小さくなっている瀬名さんに目を向けた。
「瀬名くんごめんね。いつもウチのが」
「いえ……どうも……。お元気そうで」
「うん、おかげさまで。ねえところでさ」
見上げているのは奥さんの方で見上げられているのが瀬名さんなのに、どうにも立場は真逆に見える。気まずそうにやや視線を逸らす大の男をガン見しながら、その人は淡々と言葉を発した。
「隆仁のことは匿わないでって前に言わなかったっけ?」
ピシッと空気が凍り付く。瀬名さんの表情が死滅した。今日にも世界が終わりそうな絶望顔になっている。
「……すみません。成り行きで」
「なに成り行きって」
「申し訳ない……」
なんだか聞いたことのあるやり取りだ。
「…………次からは即刻追い返します」
「そうして」
妙にかしこまっている瀬名さんはかなりのレアだし非常に見物だがからかえるような状況ではなさそう。何か弱みでも握られてんのか。
顔面蒼白の瀬名さんに見送られつつ、奥さんに捕まった二条さんは情けない状態になっていた。目が合うと半笑いでひらひらと手を振ってくる。そんな二条さんに睨みを利かせ、その人は俺にも声をかけた。
「お騒がせしてごめんなさいね」
「あ、いえ……」
軽く頭を下げられたので俺も一応ペコッとしておく。二人が廊下から姿を消すとすぐに静けさが戻って来た。
取り残された俺と瀬名さん。俺はまあまあ呆然としているが瀬名さんは更に深刻だ。気力も活力も丸ごと搾り取られた様子でとぼとぼと俺の方に歩いてくる。
「……大丈夫ですか?」
「そう見えるか」
見えません。
「今の人が二条さんの……」
「ああ」
「瀬名さんもお知り合いなんですよね……?」
瀬名さんのツラが本気でひどい。どんなに疲れて帰って来てもため息なんてつかない大人が深々と重く息を吐いた。
「……元上司だ」
「え?」
「新人時代の上司だった」
「あぁ……」
だからあんなに低姿勢だったのか。
二人で俺の部屋に戻っても瀬名さんは消沈したまま。普段の感じとは全然違う。怯えきって縮こまってしっぽを丸める子犬のよう。
「二条さんのこと追い出したがってた理由が分かりました」
「どうせとばっちりを食うのは俺だ」
急にジメッといじけだす。よっぽど怖いんだろうな、あの人が。新人時代の瀬名さんの身に何が起こったか知らないけれど。
「お前もあの夫婦には二度と関わるな。万が一またあいつが来たとしても次は部屋に入れなくていい」
「どうしよっかな」
「やめろ」
「二条さんのメシすげえ美味かったし」
「やめろ。頼むから。やめてくれ」
必死な様子が伝わってくる。瀬名さんの思わぬ弱点を知った。
ベッドにドガッと倒れ込み、溜め息をつく前に目に入る。大きめのクマ。と、そのクマよりも小さなサイズの、くったりとした作りのカワウソ。
先日行った水族館から連れ帰ってきたぬいぐるみだ。散々いらないと拒否していたのに瀬名さんは結局こいつを買った。おかげさまで俺の部屋にはまたしても可愛いのが一匹増えたが、見れば見るほどいい迷惑。俺はメルヘンな女の子じゃない。
枕の隣で並んでいる二体をぼんやりしつつも鬱陶しく眺め、それでどの道、ため息が出る。インターフォンが鳴らされたのはちょうどそんな時だった。
「…………」
誰かは分かる。考えなくても一瞬で分かる。あのクソ野郎だ。他に誰がいる。
応じないという手もあるにはある。けれどもただのシカトで終えてはまるで逃げるようだから、弱腰な態度に出るのも癪だしベッドからすぐに起き上がった。
「なんの用ですか」
ガチャリとドアを開けた瞬間にこっちから言ってやる。睨みつける側は俺。対するこの人の表情は硬い。
「さっきは悪かった」
「その話はしたくないです。帰ってください」
さっきの今でよくもノコノコとやって来られる。そのうち来るだろうと思ってはいたけどまだ一時間と経っていない。どれだけ図太い神経してんだ。
「入っていいか」
「俺が言ったこと聞こえませんでしたか」
「今話したい」
「帰ってください」
「頼む」
「帰れよ」
「遥希……」
なんてしつこい男だろう。本当にイライラさせられる。この人は最初からそうだった。
「謝りたい」
「…………」
声の響くアパートの通路で夜も遅い時間でなければとっくに怒鳴りつけていた。声の響くアパートの通路でしかも夜更けと言うべき時間に、そんな真似はしたくない。
「……二条さんは」
「うちにいる」
「……すぐ帰ってくださいよ」
不可抗力というやつだ。
***
どうぞも何も言わずに真っすぐ室内へ足を向ければこの人も控えめについてきた。いい年した大人の男がこんなガキの顔色を窺って恥ずかしいとは思わないのか。
ベッドの前に俺がドガッと感じ悪く腰を下ろしてもこの人はそこで立ち尽くしている。
「突っ立ってられると落ち着かないんですけど」
「……すまん」
「座ればいいじゃないですか」
「……ああ」
そう呟いて、その場に正座。マジかよこの人。プライドねえのか。
普段はベタベタとくっついてくる男がいくらか間隔をあけた場所から、それも正座で、気まずそうにこっちを見てくる。
「勝手に話して悪かった」
神妙な面持ちをしたこの人の第一声はそれ。
「申し訳ない」
「…………」
二言目もほぼ変わらなかった。一切の言い訳もなく本当にただ謝ってくる。たとえ相手がガキだろうと頭を下げることも厭わない。
偉ぶらないし驕らないし自分の非も潔く認める。他人に対してそうであれと多くの人間が説く割には自分でできない事ベストスリーだ。
簡単にできそうに思えて簡単にはできない事をできてしまうのが瀬名さんで、そんな人がたった一つやらかしたのが暴露すること。俺たちの関係を人に話した。ごくごく親しい、友人に。
それだけの事だ。お互いの状況を良く知っている、遠慮も何もなく暴言も込みで言い合える相手に俺の事を話した。さっき瀬名さんが安心しろと平気な顔をして言ったのは、安心していい相手だったからだ。二条さんには偏見も、好奇の目も何もなかった。
「……中学からの友達だって聞きました。二条さんから」
他に言うことが思いつかないから聞かされた事をそのまま言った。ラグの上についていた右手の、指先に少しだけ力がこもる。
「ずいぶん長い付き合いなんですね」
「……ああ」
「なんでも話せる仲ってやつですか」
「俺達のことは話すべきじゃなかった」
「本当にそう思います?」
「…………」
気の置ける友人にプライベートな話をするのは何もおかしなことではないし、何が悪いと聞かれたらそれまで。
その程度の事にいちいち腹を立てる奴の方がよっぽどどうかしているのだろう。これが逆の立場だったら俺はたぶん逆ギレしている。この人が全然責めてこないから正当ぶっていられるだけだ。
「二条さん、あなたのこと庇ってましたよ。大目に見てやってくれって」
「……そうか」
成り行きで話したとこの人は言った。相手が二条さんでなかったら、成り行きで話す事もなかったかもしれない。
問題は誰に話したかじゃない。どうして話したか。そんな事でもない。
あの瞬間に感じたのはただのイラ立ちなんかじゃなかった。つらいのとは違う。悲しいのとも違う。あれは不安だ。怖かった。
この関係を誰かに知られてしまった時に、俺の中でせり上がってくる一番強い感情は恐怖だ。そうなることに今夜気づいた。気づかされてしまって、それで分かった。俺には全く覚悟がない。俺はこの人の恋人だって、胸を張って言うこともできない。
「周りの目とか、瀬名さんは気にしないのかもしれませんけど……俺は気になります」
たとえどんな些細なことでも、何がきっかけで物事が突然狂いだすかは分からない。誰かに知られて、後ろ指さされて、そういうつまらない何かのせいで俺達のこの関係までどうにかなってしまったとしたら。
「……あなたと……ダメになりたくないんです」
瀬名さんの顔は最後まで見ていられなかった。だからまた目を逸らした。
少数派に世間は厳しい。たかだが十八年生きただけでもそのくらいのことは知っている。田舎と言われるような地方の狭い環境で育ってきたから、偏見と固定観念を持った人たちがどれだけ多いかもこの目で見てきた。
こうあるべき。そうなるのが普通。世間の多数意見は常にそう。男同士でどうにかなるのも自然なことのうちの一つだと、そんなふうに思ってもらえる心の広い環境を、少なくとも俺は見たことがないしこの先もそれは変わらないだろう。
男が男と付き合うのはおかしい。年だってこんなに離れてる。人の多い日中の街中でもしも堂々と手を繋いだら、擦れ違う人達の視線をいちいち気にしながら歩くことになる。
そこまでは全部言えなかった。この人にそんな事を言えるはずがないから黙ったまま視線も落とした。ラグの上の指先には、もう少し頼りなく力がこもった。
「…………すまなかった」
沈黙を破ったのは瀬名さんだ。謝るのはこの人じゃない。この人は何も間違ってない。
反論の一つでもすればいいのに。些細な事でいちいちキレるなと責めてくれた方がよっぽどいい。だけど瀬名さんは言い訳もせずに、ただ俺のそばにいる。
「俺が悪かった」
「違いますよ……。分かってんでしょ」
開いていた距離は瀬名さんが埋めた。時にはプライドだって捨てられる男は俺の隣に座り直して、指先に力を込めていたこの手を上から控えめに握りしめた。毛足の短いチープなラグの上であたたかく重ねられている。
ひどい大人だ。なんでそうなんだ。あんたもたまには怒るとかしろよ。こういう事をされてしまうと、俺が余計にガキくさく見える。
「これは俺の問題なんです」
「…………」
「……ごめんなさい」
俺にできない事をこの人はやった。頭にきて当たり散らした。滑稽だし、恥ずかしいし。ガキくさいしめんどくさいし。
いつでも真っ直ぐな感情だけを向けてくれるこの人に、俺は何も返せない。付き合い始める前には想像もしていなかったような恐怖が今の俺の中にはある。
ラグをじっと見つめる事しかすでにできなくなっていた。上から重なっていたこの人の手には、ぎゅっと力がこもったのを感じた。
「これは俺達の問題だ」
俺の手を強く握りしめ、その一点だけは言い直される。上辺だけの分かったつもりなんかじゃない。この人はちゃんと聴いてくれる。理解しようとしてくれる。
「すまない。無神経だった」
瀬名さんはこういう人だ。自分が正しいと主張する事ならいくらでもできるだろうに、この人は俺を否定しない。だからこっちが困ることになる。
今までだって何度も思った。この人が心底嫌な野郎で最低最悪なクズだったなら、俺だってこんなバカみたいにいちいち悩まずに済んだのに。
瀬名さんの手が俺の肩に伸びてきても、そのままゆっくり抱き寄せられても、拒むほどの元気は残っていないし怒りもなんだか冷めてしまった。仕方がないからおとなしくしていた。瀬名さんも黙っていた。この人に抱きしめられる事にもずいぶん慣れてしまったと、場違いな実感をする羽目になってうっかりすると泣きそうだった。
しばらくはお互い無言のまま、しかし瀬名さんの腕は離れない。俺を抱きしめる力加減が徐々に強くなるのが分かって、俯かせていた顔を上げたが瀬名さんと目は合わなかった。その顔は俺の肩に埋まる。それでまたぎゅっと、強く抱かれた。
「許してほしい」
たぶん、胸の奥の方。うずくような、そんな感覚。
ここで何かを言えるほど、俺は気の利いた人間じゃない。もしも立場が逆だったとして、瀬名さんならば俺に言葉をかけてくれたかもしれない。だけどあいにく返事を求められているのは俺だから、イエスかノーで答える代わりにできたのは抱きしめ返すことだけ。
そっと背中に腕を回したらこの人もそこで頭を上げた。その時の顔を見せられて、余計に何も言い出せなくなる。
なんでこの人、こんなガキ相手に。ここまで必死な顔をするんだろう。
「遥希……」
喧嘩したかったわけではない。気まずくなりたいわけでもない。この大人にこんな顔をさせたかったわけじゃない。
俺の引っ込みがつかなくなる前にこの人は頭を下げに来た。そんな大人に体重を預けて自分から抱きつきにいく。いつもに比べればだいぶ控えめに、それでもこの人は俺を受け止めた。
「……ちょっとだけ、こうしててください。そしたら全部許します」
この人じゃなかったらこうはなってない。今さらもう後には引けない。
こういう関係になる前に、夜の街中で何度も手を繋がれた。あの時の俺はそれを弾かなかった。今の俺ならきっと弾く。水族館の水槽の前で手を繋いでいられたのは、暗い館内にいる人達の目は魚に向いていると知っていたから。
いつの間にかこんな事になっていた。気づいた時には遅かった。この人とダメになるのが怖くて、壊れるくらいなら隠しておきたい。隠れて、人目を遠ざけてでも、離れないようにしておかないと。
失うのが怖い。本気で思う。それくらいにもう、大切な人になっている。
***
こうしてて。そう言ったのは俺だった。だけど広くはない部屋の中でいつまでも抱き合っているのは変だ。徐々にしつこくなってくる瀬名さんを半ば無理やり引きはがし、込み上げてくる羞恥心から逃げるようにキッチンへ駆け込んだ。
ドリップバッグの上からちびちび熱湯を注ぎながら精神統一する羽目になるとは。無駄に丁寧にコーヒーをいれてきた。この人の目の前にマグカップを置いて、しかしそこでようやく気づく。おそらく空腹だろう人にブラックコーヒーはちょっと良くない。
「さっきは追い出しちゃったし、腹減ってます?」
「大丈夫だ」
「冷蔵庫に二条さんの南蛮づ…」
「いらない」
拒否が激しい。またしても最後まで言わせてもらえなかった。
「……同級生が相手だとあなたでもあんな感じになるんですね」
「あんな?」
「すげえ冷たかったので」
「……あの夫婦の喧嘩に巻き込まれるとロクなことにならないからな」
ミルクを持ってくる前に瀬名さんは黒い液体に口を付けていた。空腹時のカフェインだろうとこの人は全然気にしない。
「こういうこと前にも?」
「しょっちゅうだ。今年に入ってからはずっと平和だったが油断した途端にこうなる」
「二条さんの奥さんってどんな人なんです?」
飲食物に対しては取り立てて気を使わない男だが、俺が何気なく聞いたそれにはあからさまに表情を変えた。
なんと言うか、げっそりしている。一瞬で三歳ほど老けた気もする。何かまずいことでも聞いたか。
「あの……」
一気にやつれた瀬名さんに声をかけようとしたその時、ピンポンと鳴った高い音に俺達の注意は奪われた。発信源はウチじゃない。隣の部屋のインターフォンだ。
隣の部屋の住人である瀬名さんはあいにくここにいる。こんな遅くに宅急便が来ることはまずないだろうが、うちの玄関の方を見ている瀬名さんの顔面は死んでいる。外の様子が気になるようだ。緊張したように窺っているからつられて俺まで息をひそめた。
誰かが訪ねてきたらしき隣室はしばし無音。少し間を置いてもう一度ピンポン。同じことをさらにもう二回繰り返し、最終的にはガンガンバンバンと玄関をぶったたく騒音に変わった。
ビクッとする俺。今にも頭を抱えだしそうな瀬名さん。
出てこい、とかなんとか喚く、女の声が聞こえるような。
「……来やがった」
「え?」
「ちょっと行ってくる。お前はここにいろ」
それだけ言い残して瀬名さんは一人部屋を出ていった。が、気になる。数秒間だけ迷ったのちに、すぐさま好奇心に負けて俺もすくっと腰を上げた。
玄関のドアをそーっと開ける。廊下は何やら騒がしい。隣の三〇二号室の前は大人三人で混み合っていた。
「あはははは、陽子ちゃんいつもよく俺の居場所分かるよねぇー」
「あんたが来るとこなんかここしかないでしょ。いちいち手間かけさせんじゃないよ」
二条さんは瀬名さんちのドアからヘラヘラ笑って顔を出している。それを睨みつけているのは見知らぬ女性。そんな二人から一歩引いた壁際には、何やらチマッと小さくなりながら無言で立ち尽くす瀬名さんが。
インターフォンを鳴らしたのはどう考えてもあの女性だろう。陽子ちゃんと呼ばれていた。ならばおそらく奥さんだ。奥さんらしきその人物は二条さんの胸ぐらに両手を伸ばし、体格差をものともせずにガッと勢いよく掴みかかった。
「言っとくけど話はまだ済んでないからね。ここに逃げ込めば許されるとでも思ってんなら考え改めな。なんであんな買い物したのかきっちり説明してもらうから」
間違いなく奥さんだ。十五万円の鍋の件はまだ許されていないようだ。
玄関の内側という安全地帯から引きずり出された二条さんは、ヘラヘラしているように見えるがどことなく笑顔が引きつっている。
「ほら帰るよ。毎回毎回瀬名くんに迷惑かけるんじゃないの」
「いやそもそも俺をウチから蹴り出したの陽子ちゃ…」
「は?」
「すみません帰ります」
夫婦の力関係は一目瞭然。飼い犬の首輪でも引っ掴むように二条さんの襟元を捕らえつつ、その女性は小さくなっている瀬名さんに目を向けた。
「瀬名くんごめんね。いつもウチのが」
「いえ……どうも……。お元気そうで」
「うん、おかげさまで。ねえところでさ」
見上げているのは奥さんの方で見上げられているのが瀬名さんなのに、どうにも立場は真逆に見える。気まずそうにやや視線を逸らす大の男をガン見しながら、その人は淡々と言葉を発した。
「隆仁のことは匿わないでって前に言わなかったっけ?」
ピシッと空気が凍り付く。瀬名さんの表情が死滅した。今日にも世界が終わりそうな絶望顔になっている。
「……すみません。成り行きで」
「なに成り行きって」
「申し訳ない……」
なんだか聞いたことのあるやり取りだ。
「…………次からは即刻追い返します」
「そうして」
妙にかしこまっている瀬名さんはかなりのレアだし非常に見物だがからかえるような状況ではなさそう。何か弱みでも握られてんのか。
顔面蒼白の瀬名さんに見送られつつ、奥さんに捕まった二条さんは情けない状態になっていた。目が合うと半笑いでひらひらと手を振ってくる。そんな二条さんに睨みを利かせ、その人は俺にも声をかけた。
「お騒がせしてごめんなさいね」
「あ、いえ……」
軽く頭を下げられたので俺も一応ペコッとしておく。二人が廊下から姿を消すとすぐに静けさが戻って来た。
取り残された俺と瀬名さん。俺はまあまあ呆然としているが瀬名さんは更に深刻だ。気力も活力も丸ごと搾り取られた様子でとぼとぼと俺の方に歩いてくる。
「……大丈夫ですか?」
「そう見えるか」
見えません。
「今の人が二条さんの……」
「ああ」
「瀬名さんもお知り合いなんですよね……?」
瀬名さんのツラが本気でひどい。どんなに疲れて帰って来てもため息なんてつかない大人が深々と重く息を吐いた。
「……元上司だ」
「え?」
「新人時代の上司だった」
「あぁ……」
だからあんなに低姿勢だったのか。
二人で俺の部屋に戻っても瀬名さんは消沈したまま。普段の感じとは全然違う。怯えきって縮こまってしっぽを丸める子犬のよう。
「二条さんのこと追い出したがってた理由が分かりました」
「どうせとばっちりを食うのは俺だ」
急にジメッといじけだす。よっぽど怖いんだろうな、あの人が。新人時代の瀬名さんの身に何が起こったか知らないけれど。
「お前もあの夫婦には二度と関わるな。万が一またあいつが来たとしても次は部屋に入れなくていい」
「どうしよっかな」
「やめろ」
「二条さんのメシすげえ美味かったし」
「やめろ。頼むから。やめてくれ」
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