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22.繁忙期の恋人
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付き合い始めて少し経つと瀬名さんの仕事が忙しくなってきた。毎年この時期にはこうなるらしい。繁忙期に突入した瀬名さんとは一緒に晩メシも食ってない。
だから代わりに昼飯用の弁当を渡す。これがほぼ毎朝の恒例になった。忙しいならわざわざ洗わなくていいと言っているのに、翌朝に返してもらう弁当箱はいつも必ず綺麗になっている。
美味かった。ありがとう。これも絶対に忘れず言われる。その言葉と交換するように、俺はその日の弁当を渡した。
夜の十一時過ぎのこと。風呂から上がって濡れた髪をタオルでワシャワシャしていたその時、こんな夜更けにもかかわらずインターフォンが鳴らされた。
玄関に足を向けて扉をガチャリと開けてみれば、やはりと言うべきかそこにいたのはスーツ姿の瀬名さんだ。
「ただいまハニー」
「とうとう挨拶まで図々しくなりましたね」
非常識な時間帯に堂々とウチを訪ねてくるのはこの男しかいないだろう。ドアを押さえながら中に招き入れた。
「夕飯は?」
「適当に済ませた」
「あなたの適当は適当が過ぎるんですよ。なんか軽いもん作ります?」
「いや。いい」
ここ数日に比べればいくらか早いご帰宅だ。コートと鞄は自宅に置いて、空っぽになった弁当箱を片手に持ってやって来た。
疲れていると言わない瀬名さんは疲労がその顔に浮き出ている。無理して俺に構っていないでさっさと自分ちで寝ればいいのに。
首にタオルを引っ掛けたまま、キッチンでお湯を沸かしてインスタントコーヒーとミルクを用意した。が、やめた。思いっきりカフェインだし。
代わりに出してきたのはバイト先の子にもらったカモミールのティーバッグだ。良かったら、なんて言われたためありがたくもらい受けたが、その箱を棚に置いたまますっかり忘れて放置していた。
ちょうどいいからそれを開けた。外装のフィルムをペリペリ剥がす。背後からは俺の手元を瀬名さんが覗きこんできた。
「女子みてえなもん飲むんだなお前」
「もらったんですよ、女子に」
ハーブティーを自分で買う男はそんなにいないだろう。少なくとも俺の周りにはいない。うちの中にある女子っぽいものは瀬名さんがくれたクマだけだ。
この人の両腕がスルッと腹の前に回された。常に保たれていた一定の距離は付き合い始めてから見事に消滅。今ではこうやって抱きしめられる事もしょっちゅうだ。
こんな迷惑な時間帯に図々しい客が来やがったせいで髪はまともに乾かせていない。湿り気が移るのも構わず後ろからぎゅっとくっついてくる。
「濡れますよ」
「ん」
軽く頷いただけで瀬名さんは離れない。体重をかけるようにして抱きつかれた。
「どうしました?」
「若い恋人が女子にいちいちクソモテるせいで俺の心配は日々絶えない」
「ハーブティーもらっただけですってば。ただのバイト仲間ですよ」
「ただのバイト仲間にそんな物を寄越すと思うか」
寄越すんじゃねえのかな、現にこうしてくれたんだから。コンロの火を強くしながら首を傾げたら溜め息をつかれた。
「鈍いのも大概にしろ」
「なにが」
「こっちは気が気じゃねえ」
「だから何が」
マグカップにティーバッグを一つずつ落としてお湯が沸くのを待った。その間も瀬名さんは俺を放さない。
ぎゅうっとくっついてくるからちょっとだけ鬱陶しい。ついでとでも言わんばかりにうなじにキスされてぞわぞわした。
「身動き取りづらいんですけど」
「よそに振りまく愛嬌はあって恋人の俺にはその態度か」
「誰にもそんなもん振りまきません」
肘で押しやったら腹の前から腕が離れていく。ところが今度は首にかけたタオルを取られ、後ろから髪をワシャワシャと。
「……なんなんですか」
「構いたい」
「構わなくていいからもう、邪魔」
「邪魔とはなんだ」
勝手に人の髪を乾かす瀬名さんには無視を決め込む。お湯が沸騰してきたところで火を止めたものの、頭を揺らされているとやりづらい。
「ほら、危ないですって」
「乾かさねえと風邪ひくだろ」
「あんたが変な時間に来なければとっくに自分で乾かしてます」
タオルはぐいっと奪い返した。カップに湯を注ぐとハーブの匂いが湯気と共にほんのり漂ってくる。
嗅いだことのない匂いだった。カップを二つ持ってベッドの前に移動する間も瀬名さんはずっとまとわり付いてくる。飼い主の足元でわふわふモコモコ動き回るトイプーみたいだ。この人の場合は小型じゃないから鬱陶しいなんてもんじゃない。
「さっさと飲んで。飲んだら帰って」
「そりゃいくらなんでも冷たすぎねえか」
「あなたはこんな所にいないでさっさと家帰って寝ないとダメ。自覚あるか分かりませんけど結構酷い顔してますよ」
「愛を感じた」
「うるっせえなもう」
ラグの上に腰を下ろすとようやく瀬名さんの無駄口も遠のく。カモミールはまあまあお気に召したのだろう。不味くはねえなとひねくれた感想を漏らしていた。そんなにその女子が気に食わないのか。
俺もカモミールティーなんて初めて飲むけど確かに不味くはない。ただしその匂いと味はやや独特で好き嫌いは分かれそうだ。緑茶とも紅茶とも違うそれを飲みつつ、テーブルの上に投げ出していたスマホをなんとなく手に取った。
興味本位で検索してみたカモミール。検索結果により表示された白い花の画像が最初に目につく。画面を下にスクロールさせて辿り着いたその効能は、隣で同じ物を飲んでいる疲れた社会人にピッタリだ。
「カモミールティーって安眠作用があるみたいですね」
「ならこれを渡してきた女はお前の寝込みを襲う気だったに違いねえ」
ネットで手軽に仕入れた情報をそっくりそのまま隣に流したら邪推になって返ってきた。白い目とはこういうものだという見本のように俺の両目はなっているはず。
「……そんなしょうもないこと考えるのは全国探してもあなたくらいです」
「いいや、お前は完全に狙われてる」
「どうしたらそう思えるんですか。あの子ウチの住所知らねえし」
「同じバイト先だったら個人情報手に入れるくらい軽いもんだろ」
「普通の子はそういう犯罪に手を染めません」
考える事が全部しょうもない。見ず知らずの女の子を自分のよこしまな妄想に巻き込むな。何より俺が女子に負けると思われている事がムカつく。
金曜の夜に押しかけて来たかと思えばこれだ。働きすぎて頭のイカレ具合が悪化したのかもしれない。
「家に帰って鍵を閉めたらチェーンをかけるのも忘れるな」
まだ言うか。
「そのネタもういいです」
「ネタじゃねえ。本気で言ってる」
「……きっと疲れてるんですよ」
「憐れんだ目で俺を見るのはやめろ」
鼻で笑ったら微妙な顔をされた。瀬名さんの腕は当たり前のように俺の腰に回される。
「恋人の心配して何が悪い」
引き寄せられるのに合わせて俺も手放したマグカップ。ここ最近はおはようとかおやすみとか、その程度の挨拶を言い合うだけの事が多かった。だからこの人とこうやってくっついたのも久々。
抱きしめられるの、何日ぶりだろう。まだ慣れない。だって相手は瀬名さんだ。
俺の心臓の平和が終わる。俺が大人しくなってしまえばすかさず好き勝手し始めるのが瀬名さん。頬を撫でられ、額にキスされ、恥ずかしくなって視線を下げた。
親指の腹で唇をそっと撫でられたのはそのあとで、なぞった箇所を確かめるように重ねるだけのキスをされた。
「お前にこうしていいのは俺だけだ。そうだろ?」
「…………」
何食って育てばこんなキザ野郎になれるのだろう。この人ほんとに日本人か。
ちょっと前までこういう事は言われなかった。独占欲。それを思わせる物言いに、行動に。その気持ちを暇さえあればストレートに向けてくるから、むず痒いけど嬉しくない事もない俺が出来上がる。
「……俺はなんて答えればいいんですか」
「あなただけですダーリンとでも言ったらどうだ」
「死んでも言わない」
自分で作ったムードを自分でブチ壊して何が楽しい。
着痩せするが実は厚い胸板をグイッと押しやった。まだ半分も減っていないカモミールティーに手を伸ばす。
「……明日は休みですか?」
明日は土曜だ。先週の瀬名さんは土曜の朝から会社に行った。それは今週も同様のようで。
「仕事」
「なんか冗談抜きで土曜も日曜もないですよね」
「寂しいか」
「全然」
ここの所はマグカップ一杯のお茶を二人で飲んで過ごす暇さえなかった。朝から晩まで働く大人が心配じゃないと言えば嘘になる。
だからせめて栄養失調が原因でぶっ倒れないように渡すのが昼飯用の弁当。それだけはきちんと食っているようだ。
腰には再び手を回される。こめかみの辺りに口づけてきた。湿り気の残った髪の上からそっと触れて、そのまま喋る。
「明後日は休めると思う」
「……そっか」
「という訳だから明日の夜は大量にカモミール摂取しとけ」
「お断りします」
人を安眠させてどうするつもりだ。
だから代わりに昼飯用の弁当を渡す。これがほぼ毎朝の恒例になった。忙しいならわざわざ洗わなくていいと言っているのに、翌朝に返してもらう弁当箱はいつも必ず綺麗になっている。
美味かった。ありがとう。これも絶対に忘れず言われる。その言葉と交換するように、俺はその日の弁当を渡した。
夜の十一時過ぎのこと。風呂から上がって濡れた髪をタオルでワシャワシャしていたその時、こんな夜更けにもかかわらずインターフォンが鳴らされた。
玄関に足を向けて扉をガチャリと開けてみれば、やはりと言うべきかそこにいたのはスーツ姿の瀬名さんだ。
「ただいまハニー」
「とうとう挨拶まで図々しくなりましたね」
非常識な時間帯に堂々とウチを訪ねてくるのはこの男しかいないだろう。ドアを押さえながら中に招き入れた。
「夕飯は?」
「適当に済ませた」
「あなたの適当は適当が過ぎるんですよ。なんか軽いもん作ります?」
「いや。いい」
ここ数日に比べればいくらか早いご帰宅だ。コートと鞄は自宅に置いて、空っぽになった弁当箱を片手に持ってやって来た。
疲れていると言わない瀬名さんは疲労がその顔に浮き出ている。無理して俺に構っていないでさっさと自分ちで寝ればいいのに。
首にタオルを引っ掛けたまま、キッチンでお湯を沸かしてインスタントコーヒーとミルクを用意した。が、やめた。思いっきりカフェインだし。
代わりに出してきたのはバイト先の子にもらったカモミールのティーバッグだ。良かったら、なんて言われたためありがたくもらい受けたが、その箱を棚に置いたまますっかり忘れて放置していた。
ちょうどいいからそれを開けた。外装のフィルムをペリペリ剥がす。背後からは俺の手元を瀬名さんが覗きこんできた。
「女子みてえなもん飲むんだなお前」
「もらったんですよ、女子に」
ハーブティーを自分で買う男はそんなにいないだろう。少なくとも俺の周りにはいない。うちの中にある女子っぽいものは瀬名さんがくれたクマだけだ。
この人の両腕がスルッと腹の前に回された。常に保たれていた一定の距離は付き合い始めてから見事に消滅。今ではこうやって抱きしめられる事もしょっちゅうだ。
こんな迷惑な時間帯に図々しい客が来やがったせいで髪はまともに乾かせていない。湿り気が移るのも構わず後ろからぎゅっとくっついてくる。
「濡れますよ」
「ん」
軽く頷いただけで瀬名さんは離れない。体重をかけるようにして抱きつかれた。
「どうしました?」
「若い恋人が女子にいちいちクソモテるせいで俺の心配は日々絶えない」
「ハーブティーもらっただけですってば。ただのバイト仲間ですよ」
「ただのバイト仲間にそんな物を寄越すと思うか」
寄越すんじゃねえのかな、現にこうしてくれたんだから。コンロの火を強くしながら首を傾げたら溜め息をつかれた。
「鈍いのも大概にしろ」
「なにが」
「こっちは気が気じゃねえ」
「だから何が」
マグカップにティーバッグを一つずつ落としてお湯が沸くのを待った。その間も瀬名さんは俺を放さない。
ぎゅうっとくっついてくるからちょっとだけ鬱陶しい。ついでとでも言わんばかりにうなじにキスされてぞわぞわした。
「身動き取りづらいんですけど」
「よそに振りまく愛嬌はあって恋人の俺にはその態度か」
「誰にもそんなもん振りまきません」
肘で押しやったら腹の前から腕が離れていく。ところが今度は首にかけたタオルを取られ、後ろから髪をワシャワシャと。
「……なんなんですか」
「構いたい」
「構わなくていいからもう、邪魔」
「邪魔とはなんだ」
勝手に人の髪を乾かす瀬名さんには無視を決め込む。お湯が沸騰してきたところで火を止めたものの、頭を揺らされているとやりづらい。
「ほら、危ないですって」
「乾かさねえと風邪ひくだろ」
「あんたが変な時間に来なければとっくに自分で乾かしてます」
タオルはぐいっと奪い返した。カップに湯を注ぐとハーブの匂いが湯気と共にほんのり漂ってくる。
嗅いだことのない匂いだった。カップを二つ持ってベッドの前に移動する間も瀬名さんはずっとまとわり付いてくる。飼い主の足元でわふわふモコモコ動き回るトイプーみたいだ。この人の場合は小型じゃないから鬱陶しいなんてもんじゃない。
「さっさと飲んで。飲んだら帰って」
「そりゃいくらなんでも冷たすぎねえか」
「あなたはこんな所にいないでさっさと家帰って寝ないとダメ。自覚あるか分かりませんけど結構酷い顔してますよ」
「愛を感じた」
「うるっせえなもう」
ラグの上に腰を下ろすとようやく瀬名さんの無駄口も遠のく。カモミールはまあまあお気に召したのだろう。不味くはねえなとひねくれた感想を漏らしていた。そんなにその女子が気に食わないのか。
俺もカモミールティーなんて初めて飲むけど確かに不味くはない。ただしその匂いと味はやや独特で好き嫌いは分かれそうだ。緑茶とも紅茶とも違うそれを飲みつつ、テーブルの上に投げ出していたスマホをなんとなく手に取った。
興味本位で検索してみたカモミール。検索結果により表示された白い花の画像が最初に目につく。画面を下にスクロールさせて辿り着いたその効能は、隣で同じ物を飲んでいる疲れた社会人にピッタリだ。
「カモミールティーって安眠作用があるみたいですね」
「ならこれを渡してきた女はお前の寝込みを襲う気だったに違いねえ」
ネットで手軽に仕入れた情報をそっくりそのまま隣に流したら邪推になって返ってきた。白い目とはこういうものだという見本のように俺の両目はなっているはず。
「……そんなしょうもないこと考えるのは全国探してもあなたくらいです」
「いいや、お前は完全に狙われてる」
「どうしたらそう思えるんですか。あの子ウチの住所知らねえし」
「同じバイト先だったら個人情報手に入れるくらい軽いもんだろ」
「普通の子はそういう犯罪に手を染めません」
考える事が全部しょうもない。見ず知らずの女の子を自分のよこしまな妄想に巻き込むな。何より俺が女子に負けると思われている事がムカつく。
金曜の夜に押しかけて来たかと思えばこれだ。働きすぎて頭のイカレ具合が悪化したのかもしれない。
「家に帰って鍵を閉めたらチェーンをかけるのも忘れるな」
まだ言うか。
「そのネタもういいです」
「ネタじゃねえ。本気で言ってる」
「……きっと疲れてるんですよ」
「憐れんだ目で俺を見るのはやめろ」
鼻で笑ったら微妙な顔をされた。瀬名さんの腕は当たり前のように俺の腰に回される。
「恋人の心配して何が悪い」
引き寄せられるのに合わせて俺も手放したマグカップ。ここ最近はおはようとかおやすみとか、その程度の挨拶を言い合うだけの事が多かった。だからこの人とこうやってくっついたのも久々。
抱きしめられるの、何日ぶりだろう。まだ慣れない。だって相手は瀬名さんだ。
俺の心臓の平和が終わる。俺が大人しくなってしまえばすかさず好き勝手し始めるのが瀬名さん。頬を撫でられ、額にキスされ、恥ずかしくなって視線を下げた。
親指の腹で唇をそっと撫でられたのはそのあとで、なぞった箇所を確かめるように重ねるだけのキスをされた。
「お前にこうしていいのは俺だけだ。そうだろ?」
「…………」
何食って育てばこんなキザ野郎になれるのだろう。この人ほんとに日本人か。
ちょっと前までこういう事は言われなかった。独占欲。それを思わせる物言いに、行動に。その気持ちを暇さえあればストレートに向けてくるから、むず痒いけど嬉しくない事もない俺が出来上がる。
「……俺はなんて答えればいいんですか」
「あなただけですダーリンとでも言ったらどうだ」
「死んでも言わない」
自分で作ったムードを自分でブチ壊して何が楽しい。
着痩せするが実は厚い胸板をグイッと押しやった。まだ半分も減っていないカモミールティーに手を伸ばす。
「……明日は休みですか?」
明日は土曜だ。先週の瀬名さんは土曜の朝から会社に行った。それは今週も同様のようで。
「仕事」
「なんか冗談抜きで土曜も日曜もないですよね」
「寂しいか」
「全然」
ここの所はマグカップ一杯のお茶を二人で飲んで過ごす暇さえなかった。朝から晩まで働く大人が心配じゃないと言えば嘘になる。
だからせめて栄養失調が原因でぶっ倒れないように渡すのが昼飯用の弁当。それだけはきちんと食っているようだ。
腰には再び手を回される。こめかみの辺りに口づけてきた。湿り気の残った髪の上からそっと触れて、そのまま喋る。
「明後日は休めると思う」
「……そっか」
「という訳だから明日の夜は大量にカモミール摂取しとけ」
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人を安眠させてどうするつもりだ。
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