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犬を拾った男
しおりを挟む無様にもがいてまで生きる程、この世界に価値なんてものはない。富める者は肥え、貧しき者は明日に死を見る。それが今のこの世の中だ。
何があっても生き延びたいと、心から願う訳でもないのに。それでも業の限りを尽くす生き物は今日も生きるための行動を取る。スリであれ、詐欺であれ、何であれ。殺しだってそう。それは生きるための行いの内の一つだ。
俺はただ自分のために、生きたくもない世界を必死になって生きようともがいている。明日などないのに、いっそ醜いまでに。
「頼むっ……頼む……! 助けてくれなんでもするからッ!」
「……」
薄暗い部屋の中は血の臭いで溢れていた。少し前まではこいつと同じように動いていた、今は邪魔なゴミにしか過ぎない三つの死体が放つそれ。
嗅ぎ慣れた臭いであっても気分のいいものではない。早々に仕事を片付けてこの部屋から立ち去りたいと、俺の足元で泣きながら喚き散らす男を蹴り付けた。
「ァガっ……」
向ける銃口は脳天に定める。これから床に撒き散らす事になる頭の中身の処理で、明日には刑事の皮を被った薄汚い犬どもが盛大に顔を顰めている事だろう。
笑える話だ。胸糞悪いくらいに面白い。だが表情に満足のいく笑みを形作る事はできず、辛うじて鼻で笑って泣き叫ぶ男を見下ろした。
「ッ……」
一瞬で済む。これは作業だ。
醜い顔つきで生を終えた、男だった物。動く事のなくなった器をそのまま床に放置し、服に飛び散った他人の血液に舌打ちして踵を返した。
だがその時、ガタンと微かに響いた物音。
「っ……」
「…………」
息をのんだその影。身に付いてしまった反射的行動によって、すでに俺の手は物置きの片隅へとこの銃を向けている。
依頼された殺しは四体。まだ弾なら残っている。緊張感に震えるその影に、自分は動かず一言放った。
「出てこい」
ビクリと。目では暗くて確認できずとも空気で分かる。物陰に潜むそいつはひどく怯えていた。
誰だろうと構うものか。仕事の邪魔になるなら消せばいいだけの話。言葉に従えば逃がしてもらえるとでも思ったのか、ゆっくり姿を現すそいつに向けて照準を合わせた。
「…………」
「っぁ……」
俺の視線を受けて小さく声を漏らしたそいつ。目線の位置は大分低い。死体を避けて一歩一歩近づいてくると、大きな目で俺を見上げた。
どうしてこんな所に子供が。些かの困惑と共にゆっくり腕を下ろしたが、汚れるのも構わずに俺のコートを握りしめてきたそいつには眉間を寄せた。
「触るな」
「あなたは誰ですか」
「……誰だっていい」
「俺の事も殺しますか」
心許ない顔をして、それでも俺を見上げてこの子供はしっかりと声を刻んだ。小刻みに現れる震えによって掴まれた服の端が僅かに揺れ、子供の恐怖心が伝わってくる。余計に眉間は厳しくなり、面倒になって手にした銃はさっさとコートの内側に潜めた。
「ガキを殺るシュミはねえ。放せ」
「俺も連れてってください」
「は……?」
ギリッと握りしめられたコート。蹴散らす事は簡単だが、俺から目線を外して足元に転がる死体を見るこいつの顔つきに躊躇いが出た。
子供らしくない子供。可愛げも何もないが、この無法地帯に身を置いていればこうなってしまうガキも少なくはない。憎悪の表情と共に男達の無残な最後を見下げ、この子供は薄らと口の端を吊り上げた。
「…………」
悪寒に似た何かが背筋に走ったのを無感情に察知する。怖い、訳ではないだろう。まさかこんな小さな存在に対して。
ただこの子供は存外、何も分からない無知なガキではないらしい。
「こいつらを殺してくれた。だからあなたはいい人だ。ここから俺を連れ出してください」
「……朝になればサツが来る。保護なりなんなりしてくれるだろうよ。それが嫌ならあとは俺の知った事か。一人で勝手にどこへでも行け」
「俺はあなたと一緒に行きたい」
言葉は続けず、眼で制した。殺しを請け負う事で日々の生活を養う男に、この子供は無防備に顔を晒す。それがどれだけ危険な事か、どんな事情かは知りもしないがこんな穴倉にいるくらいなら理解はしているだろう。
ところがこの子供はそれを言う。震える指先は隠さず、しかし俺から目を離す事もなく。ズルリとどこか、街角に立つ女が男の懐に入り込むような顔をして。
「連れて行ってください。ここから出してくれるならなんでも言う通りにします」
「俺がいなくても出て行くくらいできるだろう」
「なら言葉を変えます。俺を買ってください」
眉を顰めた。そうなるのも致し方ない。この子供は一体何を言う。
「あなたに買われたい。俺をあなたのものにして下さい」
「…………」
真っ直ぐ見上げてくる。それは確かに子供の眼だったが、しかしそれだけでは決してなかった。
男を誑かす妖艶なオンナであり、あるいは人を喰らう獰猛なケダモノであり。この子供が内に潜める姿形は一癖も二癖もある。
それは子供自身が故意によって成しているものなのか、果たしてそうではないのか。俺の知るところではないがどちらにしてもタチが悪い。
腐った権力者やいつ死んでもおかしくはない害虫どもばかりを相手にしてきた。そいつらの目はどれも酷く濁っていて見られたものではない。この子供だってこんな所にいれば汚れたものを映してきたはずなのに、それでも尚どこか透き通って見えるこの眼はある意味で毒だった。
純粋に。その言葉がおそらくいちばん近い。わざとだろうと無自覚だろうと良くないモノを身の内に隠しながら、けれどやはりこれ以上ない程の純粋な眼差しでこの子供は俺を見上げる。
「俺を買ってください」
ゆっくり誘い込むような仕草で手に触れてきたかと思えば、遠慮がちに緩く握られる。革の手袋越しに伝わる子供の体温はあたたかい。久しく感じなかったように思う人の肌だ。
布越しに触れるそれを握り返す事も払い落とす事もせずにいると、子供は体ごと俺の傍にまた一歩歩み寄った。
その眼が。やはり毒だ。静寂を装いながらじわじわと浸食でもされるかのような錯覚に陥る。
おもしろい。ゾクゾクと、体の奥深くを抉られるそれは快感に近いかもしれない。子供を見下ろし、無意識の内に目を細めて見定めていた。
「……来い。いいと言うまで喋るな」
子供の手を引いたのはその直後。こんな薄汚い場でああだこうだと思いを馳せている暇などない。
使えるようなら使ってやろう。要らなければ捨てればいい。
暗闇の中に子供と共に紛れ、しっかりと掴んだ幼い手は拒むことを知らずにむしろより強く握り返してくる。
僅かであろうと危険性を含める物件を抱え込むのは何よりも命取りだ。この子供は正にそう。
素性も分からず、子供と言えども腹の内は読めない。どう考えても俺が取るべき行動としては最も遠く、常であれば決して足を突っ込む事のない類の事態。
しかしこうして縋りついてくるこの手を、何故だか尽き放そうと言う気にだけはならなかった。
義理も人情もないこの腐敗した街で。俺は一匹のノラ犬を拾った。
***
「マスター。起きてくださーい。仕事の時間ですよー」
「…………」
「マースーターあー」
「…………うるせえ」
「やっと起きた」
にっこりと、上から人の顔を覗きこんでくるこのバカ犬。頭突きでもしてやろうかと思ったが寝起き一番に無駄な腹筋を使うのも億劫だ。気怠く伸ばした腕でこいつの肩を押しやった。
「早くしないと目標逃げちゃいますよ。ほら、急いで。早く起きて」
「うるせえぞバカ犬。キャンキャン喚いてねえでてめえはとっとと寝ろ」
「マスターが寝過ごしたら大変だから起きてたのに」
「寝過ごす訳ねえだろ」
寝過ごしてターゲットを撃ち損ねるアホな殺し屋が何処にいる。
ノロノロとソファーから起き上り、上掛けにしていた毛布をこの子供に押し付けた。ついでに形のいい頭の上にポンっと手を乗せわしゃわしゃと撫で繰り回せば、こいつは途端に満面の笑みを浮かべる。
一体これの何が嬉しいのだか。満足そうな顔をしながら俺を見上げてくる眼は、三年前に出会った頃と変わらず真っ直ぐだ。
その中に物言いたげな眼差しを捉え、喚かれる前にとさっと身を翻した。しかしこのガキは俺の後ろを無邪気にぴょこぴょこ付いて来る。
「ねえマスター。今日こそ俺も一緒に…」
「駄目だ」
言わせる前にシャットアウト。すると今度はガシッと後ろから腰に腕が回ってきた。
「いいじゃないですか邪魔はしませんよ!」
「駄目だっつってんだろ聞き分けろ」
「行きたい! 連れてってくださいッ」
「うるせえ黙らすぞ。放せバカ犬が」
腰に回る腕をバッと引っぺがし、むくれる子供を振り返ってペチンと額を引っぱたいた。
「いってぇえ!!」
「うるせえ」
「マスターのばか! ケチ! 殺し屋!!」
「最後のは合ってる」
「人でなしー!!」
ああ、うるせえ。本当にうるせえ。拾った当初はもう少し落ち着きがあったはずだが、日が経つにつれてこの子供は我儘を発揮するようになった。
ただしいつでも我を貫き通したがる訳ではない。普段はそこそこ従順であるし、生意気は言うが俺に刃向う事もない。
こいつがただ一つ我儘を言うのは、こうして俺が仕事へと赴く時。毎回毎回繰り返す押し問答は、訳の分からないこの子供が俺の仕事に付いて行きたいと言い出したことから始まった。
人が人を殺す瞬間を見て何が楽しいのか。その心境を理解できそうにはないが、前に一度だけこいつが呟いた言葉がある。
どうして仕事に付いてきたがるのかと、さして興味もないながら気まぐれに聞いてみた時のことだ。
『銃を放つ時のあなたはとても綺麗だった。残酷で、人を人とも思わない死神みたいで。物陰からあなたを見ていて凄く怖かったけど、きっとあなたのような人の事を美しいって言うんでしょうね』
うっとりと、どこか酔狂な顔をして。子供が浮かべるには相応しくない表情に、出会った時の快感が蘇ってくるような気がした。
美しい、と。俺には一切当て嵌めようのない言葉。それをこの子供は口にして、にっこりと俺に向けて微笑んだ。
不思議と言うより奇妙だ。この子供は余りにも純粋で余りにも心内が読めない。
今もこうしてコートの袖に腕を通す俺の周りをチョロチョロしながらも、さりげなく黒い手袋を手渡してくるこいつの目的はさっぱり分からない。
「……マスターって綺麗な手してますよね」
「男がそんな事言われて嬉しいと思うか」
「だってホントの事ですもん。手だけじゃない。あなたは全部が綺麗だ」
「…………」
子供から度々口説かれる、いい年をした男の心境。非常に複雑なものだ。
スッと手を取られ、布越しに皮膚を撫でられる。毎度の事であるからいい加減振り払うのも面倒だ。好きにさせているとこの子供は途端に目の色をガラリと変え、男が女にするような仕草でチュッと俺の手の甲に唇を落とした。
こいつ曰く、おまじないらしい。心境はやはりこの上なく複雑だ。
「……こんなまじないなんぞなくても俺はヤリ損ねねえ」
「知ってますよ。でも結構キライじゃないでしょ?」
「言ってろ」
照れないで下さいよ。そう言われて頭を小突いた。
「痛い。ひどい。」
「早く寝ろバカ犬。戸締りちゃんとしろよ」
「分かってますー」
うぜえ。そう思いつつも子供の頭をぐしゃぐしゃと撫で、部屋のドアへと単身歩いた。が、引き連れてきた覚えのない子供は、俺がドアノブに手を掛けた瞬間ガバッと後ろから抱きついてくる。
「…………いってらっしゃい」
「……ああ」
叱りつけるでもなく、ただ一言応えて子供の腕から離れた。いつもこうだ。こいつは無自覚でやっているのなら本当にタチが悪い。
仕事に出る間際、丁度このタイミング。一緒に付いて行きたいとまで言ってのけるこの子供は、いつも俺を引き止めるかのように腕を回してくる。
言葉は送り出すそれ。しかし滲み出ている感情は全くの正反対。時折子供らしくない顔を見せる子供が、本来の子供の姿に戻る数少ないの瞬間のうちの一つだ。
「…………」
あいつを連れて来てから三年が経った。正直後悔しかしていない。邪魔なら切り捨てて放り出せばいいと思っていたその存在が、たった三年でこうも俺の傍らにいる事に馴染んだ。
おそらく既に、自らあの子供を手放す事はできなくなっているだろう。あいつの方が俺から逃げたいと望んだとしても、もしかすると逃がしてやる事さえできないかもしれない。
執着。それだけだ。こんな仕事をしている以上、身一つで生きて行ける事が最も望ましいのに。
失いたくないと思う。あれは俺が守るべきものだ。一番欲しくなかったものを俺は手に入れてしまった。
「…………」
綺麗、か。この俺が。あいつは頭がどうかしている。
口付けを受けた右手の甲をかざし、同じ箇所に唇を寄せた。これは俺がするまじないだ。あの子供が目を覚ました時、その傍らから手を伸ばして頭を撫でてやれるように。
腐敗した街。裏路地へと打ち入り、音を立てずに足を進める。
見せたくはない。あの子供には、これ以上。あいつは俺を綺麗だと言うが、この仕事は何よりも一番汚らわしく愚かしいものだ。
目撃者は忍ばせた銃ただ一つでいい。長年連れ添った物言わぬこの相棒以外に、人として生きる価値のない俺の行為を見届けるものはいない。
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