夜中の2時ごろ

わこ

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9.やってはいけないこと

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どこで道を踏み誤ったのかと考えたところで、辿り着く答えはいつも同じだ。どうしてこの道が目の前に開けてしまったのかと思い返してみても、ツイていない偶然が重なっただけとしか言い様がないだろう。
事の発端は全てあの夜。カツアゲ被害にさえ遭わなければ。喧嘩に持ち込む事さえなければ。あの場所に煙草の自販機なんて置いてさえいなければ。
俺は三上と出会わずに済んだ。

怖いもの見たさ。今の心境はきっとそれに近い。招かれてもいないのに、人の家の玄関を開けるのは破滅行為になるらしい。その先で待っているのは、幸せとは真逆の残酷な何か。見なければ良かったという後悔しか残らない。

センパイの部屋でベッドの上にいた丁度その時に、三上からの着信を受けたのがなんだかんだで大分前。もうかれこれ二か月近くは経った。あれからスマホは結局鳴らなかった。うんともすんとも、ピクリともしない。
本当なら願ってもない事のはず。でも現状は俺に安寧を許さなかった。すっごく有り得ないくらい、ホントにもうムカつく限りなんだけど。
気になって仕方がない。三上から今にも連絡が入るんじゃないかと、一日中スマホを手放せない日が続くことになった。

恐怖心からくる行動。ではなくて。どちらかと言うと、待っていたのかもしれない。三上がまたもう一度、俺を傲慢に呼びつけてくるコトを。
一種の中毒症状を起こしているようだ。厄介な男の存在は、無かったら無かったで落ち着かなくなる潜伏型ウイルス。
ほっときゃいいのに。あんな奴、二度と顔を合わせない方が身のためなのに。ここまで分かっていながら、俺はノコノコとやって来た。
三上の部屋に。頭がイカレているとは自分でも思う。

でも部屋の前まで来ちゃったんだから、ここで帰ったら何しに来たんだよって話になる。後ろめたさ満点のあまり、やっぱ呼び鈴鳴らせなくてユーターンってな事をしていたら余計に頭の悪さが際立つ。
これ以上一人でバカを楽しむのも嫌だし、ここは一発、度胸試しだとでも考えて発想の転換を図ってみよう。それで思い切ってドアベルを押してから…十数秒が経過。待てど暮らせど一向に出て来やしねえ。
こっちは変な汗をかきそうな心境だというのに、留守でしたパターンは脱力感も半端ない。もう少し様子をうかがって、それでも三上が出てくる気配はなくて、再びベルを鳴らしてみたけどドアが開くことはやはりなかった。

石コロ蹴って、何だよ…、とか呟きたい。本気でそんな気持ち。
イジケついでに、何とはなしにドアノブを握りしめた。ガチャガチャ回して足で蹴りつけ、昔ながらの借金取りゴッコをしながら地味に当たり散らしてやろうと思って。
が、そんな事をする前に、わずか一回ドアノブを回しただけで俺の動きは封じられた。

「…………」

ビックリするから。無用心にも程があるだろ。カギが閉まっているとばかり思っていたら、勢いをつけ気味にノブを回した瞬間ドアが開いた。ガチャリと。
さてね。どうするよ。

「…………みか、み……さん……?」

こうした。
死にかけてんのか俺は。何このスゲエ途切れてる呼びかけは。

恐る恐る顔だけを覗き入れ、玄関から見える部屋の中を窺った。夜も更けた時間帯とあって、電気の点いていない部屋をしっかり確認することはできない。
けど、電気が点いていないという事はやっぱり留守なのか。煙草か、それともハンペンか、何をしにどこへ行ったか知らないけど鍵くらい閉めて行け。
とは言え目的の対象がいないなら俺は帰るしかない。勝手に入って居座って待っていたら不審者だ。サツ嫌いの男にサツを呼ばれるのも恥だし、ここは潔く回れ右を選択するのがきっと正しい。

そうやって頭は最善の道を示しているものの、どうしたんだかこの体がとことんフザけていた。
ふと、目線を足元に落としてしまったのが元凶だろう。これさえ見なければ次の行動は起こらなかった。回れ右をするどころか、俺の足はまさかの直進。やめとけやめとけと頭の中で連呼しているにも拘らず、慣れた動作で人の家に不法侵入を果たした。

リビングにも、台所にも人の影はない。だけど中に入る直前、留守ではないと確信もしていた。
玄関にあったのは見覚えのある男物の靴。そしてその隣にはいかにも派手な女が好みそうな、この家では見たことのない靴がひと組。そんな物を目の前に突き出されれば、導き出せる答えは自ずと限られてくる。

三上は今この部屋にいて、おそらく一緒に女もいて、リビングが空っぽという事は寝室にいるのだろうとも予測ができた。
連れ込んでんのか。女を。そしてあんなに無愛想な男が、ベッドルームで女とする事なんて一つだ。
それしかない。誰にでも分かる。

口から飛び出してくるんじゃないかって言うくらいに心臓が煩く鳴っていて、音をたてないようにゆっくりと寝室へと近づいて行って。
静かな部屋の中だ。聞き耳を立てながらドアの前に立てば、女の嬌声がわずかに届いてくる。確実となった中の状況を知りつつも、ドアノブにかけた手を離す事はできなかった。

ゆっくり、バレないようにドアを開け、その先にあったのは薄暗いオレンジ色の部屋。僅かに開いたドアの隙間から、必死で踏み止まろうとする意思に反して覗き行為に及ぶ。小さなライトに照らされるそれらの影は、肉眼でははっきりとは見えない。
それでも状況は把握できる。ベッドの上で男と女が体を重ねていて、こうも分かりやすい声が響いてくるんだ。何が起こっているかはわざわざ目で確認するまでもなかった。

「…………」

息を呑む以前の問題。呆けるあまり、まともに物を考えることすら難しい。ていうか正直、あんまり考えたくない。
目線の先で女を犯しているのは紛れもなく三上だ。たとえ薄明かりだろうと暗色に目も慣れてきて、あの腕に抱かれてきた俺が見間違えることはない。
ベッドの軋む音。肌と肌が擦れる音。演技だろうと言ってやりたくなるような、甘ったるい女の喘ぎ声。それらに交じって時折耳に入ってくるのは、張り詰めた感じに色気づいた男の息遣いだった。

「………っ」

ああ、って思った。あいつはああやって女を抱くんだ。聞きたくないし、見たくもない。今すぐこの場を立ち去らないと本気で頭がおかしくなる。
だけど駄目だった。体は思うように動いてくれない。心臓がフル稼働している割には、足まで血液が届いていないんじゃないかという疑いまで生じてきた。視力検査で常にA判定だったこの目は、もつれ合う二人をガン見。

生AVだとでも思えば今の俺は幸運に違いない。遠目にも分かるいい女だ。
でも不可解なことに、見入っているのは下で喘いでいる女なんかじゃないと気付いた。敢えて不幸な道を選ぶような人間に、俺はいつの間に成り下がったんだか。

この目が捉えているのは三上。女の艶っぽい声で、アサキと呼ばれているあの男。
思った通りだ。次の女を見つけるのも、あの手の男前には余裕でできる。野郎をハシタ金で縛りつける必要なんて初めからなかった。
それを他人の濡れ場で改めて思い知らされるとは。相当バカげているけど、俺らしいっちゃ俺らしいかな。なんかもう、とうとう覗きとかしちゃってるし。俺もなかなかシュミが悪い。

少し前まで、あの腕が抱いていたのは俺だったのに。あいつの下で、あいつの跡を残されていたのは俺だ。
恥ずかし気もなく手をつないで指を絡めて、何度も無意味に唇を重ねて、普段とは別人のような甘ったるさで俺を犯す。それが俺の知っている三上だった。
いま女に腰を打ちつけている男はどうなんだろう。その表情は分からないけど、柔らかい女の体に満足しない男はいない。
全部理解していたことだ。最初から間違っていた。俺があいつの下にいるなんて、どう考えてもおかしな事態。

ちゃんと分かってんのに。なんか、ムカつく。
だって、俺がここに来ていたときは戸締りもきっちりしていたクセして、今日に限って鍵閉め忘れるってどういう事だよ。バカじゃねえのか三上。鍵かける余裕もなくすくらい溜めてんじゃねえよ。
変質者が入ってきていたら一発で食い物にされる所だ。微妙な心地で唇を噛みしめながら、物音を立てずに立ち去ってくれる奴ばかりじゃねえんだぞ。

「ぁあっ、あん……アサキっ」

鬱々と思っている間にも、二人の行為は続く。ポルノ動画並みの女の声がやたらと鬱陶しい。そんな女を抱いている三上には、理不尽極まりないけど最高に腹が立った。
勝手にやってろって感じ。知らねえよお前なんか。電話を気にしてここまで来ちゃった俺がバカだったよ。
お子様三上を知っているだけに、もしかして落ち込んでたりして、なんて考えが一瞬でも頭をよぎった俺がどうかしていた。

「…………」

ひどく惨めな気分に陥った頃にはドアを閉めていた。玄関まで来て、盛り上がっているあいつらに気づかれる事はないと知りつつ、そっと部屋を後にする。
シラけている自分の心境には失笑。暗がりの上に遠目だったとは言え、女の裸なんて久々に生で見られたのに。お得感を感じるどころか、妙にイライラするのもおかしな話だ。
なんだかな。行かなきゃ良かった。

「……アサキ」

歩いている最中、無意識にポツリと声が出た。
アサキ。今更ながらに気付いたけど、そういやあいつ、麻貴って名前だったな。ロクに名前も認識していないような相手と、俺は毎週体を重ねていたワケか。
俺が女だったら親は泣いている。いや、これはさすがに男でも泣かれるかも。兄貴が知ったらとりあえずは卒倒だろうな。俺とは違って頭カタイから。

延々頭を巡らせるのは下らない内容ばかりだ。そんな折にふと気がつくと、俺はうっかり通って来ていたらしい。あの因縁の裏道を。
三上が使うなと言うから、ここを歩く事はあれ以来なかった。カツアゲされそうになった末に逆カツアゲを決行し、三上と出会うきっかけとなったこの道。

ホント、どうして会っちゃったんだろう。なんで関係を持っちゃったんだろう。三上が女とヤッてたってだけで、こうも虚しくなっている俺はもう終わっている。
普通の男はAV鑑賞中に男の立場で女を見ているものだけど、少なくともさっきの俺は、女の側から三上の表情を想像していた。俺を抱いていた時と同じカオで、その女のことも抱いているのかなって。

男の俺に触っていた時以上に、ヤワな女の体はもっと優しく扱うのかなって。やっぱ俺なんかよりも、実際は女の方がイイんだろうなって。
どうすっかな、気味が悪い。怖いよ。誰だこれ。これ俺か?

グチャグチャしすぎて軽くパニック。ただでさえ頭は悪いのに、この三十分で知能指数がチンパンジー以下にまで下がった気がする。このまま脳味噌が溶けて思考力ゼロになったら、海に帰ってヒトデとかクラゲとかと仲良くしよう。
とかなんとか真剣に考えるくらい、ショックを通り越しておかしくなりそうだ。







***







「なんか……スイマセン」
「あ? 何が?」
「……いや」

バカな上に最低だよ俺は。三上と女の生本番を目撃してきたその足で、訪れたのはセンパイの部屋だった。
一回くらい地獄に堕ちてみた方がいいかもしれない。アポなし訪問だろうが快く迎え入れてくれたセンパイを目の前に、膝を抱えて縮こまる俺の良心がチクチクと痛んでいる。
見知ったリビング。ローテーブルの前。何も言わなくたって、いつの間にか缶ビールが置かれている辺りが余計にツライ。すでに飲んじゃっているから、どの口でモノ言ってんだって感じだけど。

「なに辛気臭いカオしてんだよ。お前さっきからヘン」
「……スイマセン」
「別に謝る事ねえけどさ」

テンション超低い。
不思議そうに眉を顰め、俺の斜め向かいにセンパイは腰を下ろした。テーブルの上にはセンパイの愛読書である外車の雑誌が開いたままになっていて、この人がついさっきまで何をしていたかが一目で分かる。
折角の憩のひと時を、シケたツラした後輩がブチ壊しに来たというのに。不満の一つだろうと漏らさないセンパイの手によって閉じられた雑誌は、早々に床の上へと退散させられた。
こんな俺の存在でも、辛うじて雑誌には勝てるらしい。

「……とうとう雑誌と張り合い出したか」
「は?」
「イエ……」

ヤバい。ちょっとノイローゼっぽい。気味の悪い独り言に、センパイの不審顔は色濃くなっていく。

「メシは。済ませてねえんならなんか持ってくるぞ」
「あ、いいです。あんま腹減ってないんで」
「……なあ、お前どうした。熱でもあんのか?」
「え……」

ピトっとセンパイの掌が俺の額を覆った。良く食う子がたまにこんなコトを言っちゃうとビックリされるらしい。冗談抜きで心配されている。

「……ねえか」
「ないっすよ」

カホゴー。

「それならいいけど。酒は? 足りなそうなら買ってくる」

やめてよもう。この優しさに当てられて今にも泣きそう。次から次へと、親切心の叩き売りだ。
立場的にはこの人の方が目上なんだから、パシられる側は本当だったら俺。だけど今まで、センパイから酒買ってこいなんて言われた記憶は一切ない。いつでもどんな時でも、昔からなんだかんだで甘やかしてくれていた。

そんな人だ。そんな人を、三上絡みで頼るべきじゃない。それなのにあのまま自分の部屋に戻って孤独に一晩を過ごすのが嫌で、最後に来るのはここしかなかった。
どうにも人肌が恋しくて。センパイなら、何も言わずに甘やかしてくれると知っているから。
良心が痛むのも当然。これでもし痛んでなかったらマジ死ねって感じ。

「……スズ?」

親切心で酒を買ってくると言ったセンパイに答えることもなく、俺は黙ったまま床に手をついた。身を乗り出し片腕を伸ばした先は、斜め向かいに座るセンパイ。目は合わせずに弱く服を掴んだ。

「どうした?」
「……別に」

別にってコトはねえだろ。こんな意味不明な行動に出といて。
自分でそう思うし、きっとセンパイも思っている。でも何があったとかその辺の質問は投げられない。視線を外す俺をセンパイは静かに見ていて、拒否する訳でもなくその場にいてくれた。

「飯も酒もいいです」

いつもの事だろうけどヒクかな。こんなコト言ったら。

「抱かれに来たので」
「…………」

引いたな。真顔で言ったのは失敗だった。

最初から俺の目的はこっち。一発ヤッて嫌なことなんか忘れちまえという、最低かつ単純な魂胆だ。
スッキリできればそれでいい。そして最も面倒のない相手は、センパイを置いて他にいない。この人は俺が求めれば大概の事は応えてくれるけど、俺に対して何かを求めてくる事なんてない。
これ以上、俺にとって居心地のいい場所を探すのはおそらく不可能だろう。

「センパイ……」

気色悪い俺の発言のせいで言葉も出ないセンパイを見上げると、静かな目と視線が絡まった。でもその顔を見て思い知る。どうやら引いていた訳じゃなかったらしい。両手の指では数えきれない程度に、俺を抱いてきたのはダテじゃないようだ。

センパイの服を掴んでいた手は、そのままセンパイによって引き寄せられた。腕の中に収まるや否や、すかさず口を塞がれる。強引なのか優しいのか良く分からない曖昧な地点で、重なった唇を急かすようにして撫でてくる。
そこには違和感なんてなくて、あるのはただただ気持ちイイっていう生理的な感想と、それとは全く裏腹の自嘲気味な後悔。
それでもやっぱりヤメル事はできそうもない。抱き締められながらその腕に縋る俺は、余計な考えを振り払ってセンパイの唇に貪りついた。

ここを訪れた時から俺は明らかに不審だっただろうけど、敢えて何も聞こうとしないのはセンパイの精一杯の優しさだ。
何かがあって、その何かを聞いてほしければ、俺は勝手に話し出す。それをセンパイは良く知っている。
昔から変わらないこの人に連れられて、すぐ後には隣の寝室に入っていた。縺れ合いながらベッドに倒れ込むと、俺はセンパイを強く抱きしめ、センパイは俺と唇を重ねてくる。
流れとか、相手が取る動作のパターンとか。ここまでくればお互いすでに分かり切っていて、何も考えずに触れ合えばそれだけで事は進んだ。








「ぁ……ん、あ……」

男に平気で貫かれる俺は、恩人でもあるセンパイに変な道を歩ませている。縋れば縋るだけ、求めれば求めるだけ、センパイは俺をガンガンと突き上げた。
ところがそんな中にあっても、やっぱり優しさだけは消されないまま。俺の体に触れるセンパイの指先も、熱のある唇も、いきり立ったオスとは裏腹にとにかく丁寧だ。
遠慮はないけど、心地的に柔らかい。激しく組み伏せられているはずなのに、野放しに甘やかされている気さえする。

「ン……はぁ……ぁ」
「スズ……っ」

男の声で呼ばれた直後、首筋にセンパイの唇が寄せられた。甘ったるく食いつかれる、たったそれだけの感覚が妙に気持ちいい。思わず抱きしめる腕に力が入ると、中にいるセンパイの熱が増した気がした。

「ぁあッ、あ……っ」

奥のその部分に欲望を突き立てられれば、恥ずかしげもなく喘ぎだす。苦痛なんて味わいようがなくて、求めるまでもなく快感を与えられる。激しくも丁寧に、そうやって優しくされることがひどく嬉しかった。

「んんっ…ぁ、あッ……」
「っ……」

直に、センパイの体温を感じる。クラクラしそうな快感の中で、何度もセンパイを呼ぼうとした。
だけどその度に邪魔が入る。この人を感じれば感じる程、いらない奴の顔が頭を過ぎる。あの男も、こういう時だけは優しかったから。
センパイと同じくらいの甘さを持って、俺の体に触っていたアイツ。今もまだ女が隣にいるのだろう三上の顔が、さっきからどう頑張っても頭の中から取り払えない。

どうかしている。三上を忘れたい一心で、センパイを頼ってこの部屋を訪れたのに。センパイに抱かれることで、俺はまたもや三上の体温を思い出していた。
悪いのは全部あいつだ。セックスの時だけ優しくなるなんて、最低男の骨頂みたいな習性を持っていた三上が悪い。
あんな奴、そこら辺の軽い女と仲良くやっていればいいんだ。もう俺にはなんの関係もない。三上なんか今まで切ってきた女に逆恨みされて、腹でも刺されて死ねばいい。俺は二度と、あの男に体を明け渡す必要がないんだ。あの腕に、抱きしめられる事もなくなったんだ。

俺が自分で、そうなることを望んだ。

「ッぁあ……はぁ、ぁ……三上さ……っ」

嬌声とともに口走って、そしてハッとした。
その瞬間、ピタリと動きを止めたセンパイ。目を見開く俺はと言えば、荒い呼吸の中で思考が停止状態に陥っている。

「……ぁ」

いま俺、なんつった。

「…………」
「…………」

ウソだろ、やべえ。ヤバいよ。どうしよう。

上からジッと見下ろしてくる目から、逃れたいのに逃れられない。繋がった体は熱いままだけど、それとは対照的に心臓はどんどん冷えていく。
自分で自分の言った事に付いて行けなくて、息を呑んでセンパイを見上げた。

ていうか。言ったよな。付いて行けないとか言い訳している場合じゃなくて、間違いなく言ったよな。三上さんって。

有り得ない。真っ最中に全く別の人間を呼ぶって何。ただでさえこんなコトに付き合わせてんのに、裏切り行為も甚だしい。ちょっとこれは一発くらい殴られるかも。
どうしてその場にいない時まで被害を与えてくるんだ三上。なんでお前の名前なんか呼ばなきゃなんないんだよ。
忘れたいだけだった。ちょっと前に見たことも聞いたことも、全部なかったことにしたいだけだった。思う存分センパイに甘やかされて、記憶を遠ざければきっとスッキリする。
はずだったってのに、なに俺はフザけたことやらかしてんだ。あんな男に未練タラタラとか笑えねえよ。

「…………」

つーかその前にこの状況をどうしよう。センパイの表情からは何を読み取ればいいのか分からない。
じっと静かに見下ろされて、俺は黙っていることしかできず。怒った顔つきには見えないけど、いくらなんでも気分を害さないなんて事はないだろう。例えどんなに善人だろうと、俺がした仕打ちは悪質すぎる。


「……それでいい」

ほら。超怒ってんじゃん。それでいいって。
……それでいい?

「え……?」
「いいよ。それで」

俺の頭では理解が難しい。
だって、この人は何か。ホンキで仏の境地にまで登り詰めたのか。そうじゃなかったら俺の言語理解力に著しい欠点でもあるのか。
静かな目と、穏やかな声。センパイの顔を瞬きも忘れて見上げたまま、やっぱり俺は黙っていることしかできなかった。

「……それでもいい」
「…………」
「スズ……」

怒られることも、殴られることもなく、唯一されたのはなぜかキス。さっきまでと何ら変わることのない柔らかいそれによって、センパイの言葉の意味は俺の理解している通りで正しいのだと瞬時に悟った。

「……ん」

何してんだろう。俺は今まで、この人に何をしてきた。今頃になって、こんなトコロまで来て。とんでもない事をやらかしていたんだと、この時になってようやく気付かされた。俺の頭の中にいるのが自分でない奴だろうと、この人は全て分かったうえで許してくれていた。
触れる唇は変わらず優しい。だけどスズと呼ばれたその瞬間、センパイの表情が少しだけ歪んだように見えたのはきっと気のせいじゃない。この人でも、泣きそうな顔をするんだ。
見せないようにしてきたのか、俺が見なかっただけなのか。どっちが本当なのかは知りようもないけど、どちらにせよ、俺はセンパイに甘えすぎていた。

「ん、ぅ……」

深くなるキスで、またもや考えることを放棄したくなる。だけど本当だったら、俺は今すぐにでもセンパイから腕を離さないといけない。俺にはこの人に触る資格なんてなかった。
あまりにも居心地のいいセンパイの近くを、自分から立ち去ることなんてできなくて。ズルズルとこの関係を続けてきたけど、これは決して相互利益なんかじゃない。
だって。

「スズ……」

自惚れかもしれない。自惚れで終わればそれが一番いい。
でもきっとこれはきっと自惚れなんかじゃない。それで多分、この人はその先の言葉を何があっても言わないんだろう。

ただの後輩にどうしてここまで良くしてくれるのか。なんで尽くしてくれるのか。面倒を見てくれて、バカをやっても怒られないで、なんでもかんでも受け入れてくれて。
その理由をいま知った。全部ここで理解した。でもセンパイはそれ以上を言わない。口には出さない。そういう人だ。センパイは、そういう人だ。
抱きしめてくれるその腕は温かい。そうやって甘やかされる俺は呆れるくらいに勝手だけど、とにかくもう、泣くのを堪えるだけで限界だった。

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