夜中の2時ごろ

わこ

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6.金にならない話

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「ちょっ……待った、落ち着けって…!」
「前にも言ったよな俺は。ヤメルなんて言わせねえって」
「そんなの……ッ三上さん!」
「簡単に手放してもらえると思うな」






***






十分前。


「なーあのさあ。ちょっと話が……」

金色の硬貨。と言うと聞こえはいいけど、とどのつまりは百円玉。日本人にはお馴染みの小銭。
すっかり定着してしまった一晩の報酬は、ついさっき稼ぎ終えた。布団の中から顔だけを覗かせた俺が隣を見上げれば、壁に背を預けて煙草を咥えている三上もこっちを見下ろしてくる。

「却下。早く寝ろ」

よくもまあ、そうやって。

「……まだ何も言ってないじゃん」
「どうせ料金上げろって言うんだろ。好きなだけ酒飲ませてやってんのは誰だよ」

三上さんですね。分かっていますとも。
こいつから金をせびるのが不可能だと悟った俺は、お代はお酒で、みたいな妥協案へととっくの昔に転じていた。身売買の色が濃くてイヤ。でもいま俺が言いたいのはそんな事じゃなくて。

「料金にもそりゃ文句はあるけどさ。今は別の話」
「なんだよ」
「就職したんだ。俺」

わざわざ報告するような事でもないんだけど、本題に入るためにはここを通過しないといけない。だけど三上は就職という言葉に一瞬動きを止めて、灰皿に手を伸ばすと吸いかけの煙草を押し潰した。

「どこに? お前みたいなの雇ってくれるトコなんかよくあったな」

ひでえ。あんまりだろ。
とは思いつつ、それは確かに正論。俺みたいのが単品で頑張っても、詐欺まがいの話術でもなければ正規社員の道は無かった。助けてくれたのは、全部あの人。

「高校の時から世話になってるセンパイがいるんだけど、その人がいろいろ面倒見てくれたんだよ。仕事紹介してくれて、その後も口きいてくれてたみたいで……」

ほぼほぼ他力本願。俺は自分では何も頑張っていない。センパイには一生頭が上がらなくなったな。経緯を口に出しながらしみじみと感じた。
だけどその時ふと気になって、もう一度見上げた隣。今度は三上と目線が絡まない。何を考えているのか三上はじっとどこかを見ていて、表情のない横顔は何となく恐かった。
多少、尻込み。オズオズと窺う。

「それでなんだけど……」
「同じ会社なのか。そいつとは」
「え?」

言葉を遮られ、反対に問いかけられた。そんなことを訊いてどうするんだろう。興味を持つポイントが変。でも答えないと怒るからな、この男は。

「ああ……うん。同じっつーか、大元の会社が一緒。その人は整備士なんだけどね。そこの会社でスタンド経営してて、俺はそのスタッフ」

続けば年収は遙かに潤う。続けばっていうか、続けなきゃな。口添えしてくれたセンパイの顔を潰す訳にはいかない。
それでだ。俺が言いたかったのはここから。安定的に金が入ってくるという事は、こいつに酒を恵んでもらう必要はなくなる。シュミでもない男に抱かれて、心ない言葉の数々にイライラする必要もなくなる。第一そもそも論で開き直れば、いつまでもこんな奴に付き合っている必要自体なかったんだ。
金目当てで始めた事なのに金にならないし、単なるセフレを通り越していつの間にか家政婦みたいになっていたし。はき違えているのはどう考えても三上の方。だから言わないと。ここらできっちり、辞めてやると。

「で、さ……」
「駄目だ」
「だからまだ何も言って…」
「だめだ」

なんだこいつ、偉そうに。人の言葉を先読みしやがって。
きっちり言うどころか門前払い。三上は相変わらず俺とは目を合わせず、上体を起こしたまま再びベッドサイドに手を伸ばした。
即行でライターを向けたのはもちろん煙草。苛立っているのは火を見るよりも明らかだ。さっきの吸い方と今の吸い方とでは、仕草の表れ方がどことなく違う。分んないくらいに微妙な変化だけど、頻繁にここに来ては三上の言動を目にしていたから、感覚的に伝わってくる雰囲気に見落としはないはず。

こいつと一緒に数カ月に渡って夜を明かし、知ったことは幾つもあったけど。見た目の印象から一番離れているのは、三上はとんでもなく子供っぽい節があるという事。だから一度機嫌を損ねると大惨事だ。気に入らない事があると分かり易く苛立ちを見せる。
ガキなんだ要は。俺が人の事をとやかく言えたもんじゃないけど、こいつは我侭なクソガキ。だけど俺だっていつまでも、そんな奴に付き合ってなんかいられない。

「三上さんがダメっつったって今度こそ俺はやめるよ? ここに来たって稼げないんだし、ちゃんとした収入あれば酒くらいケチらなくても良くなるもん。つーか三上さんならヤリ友くらいいくらでも見つかんじゃん」

パチ屋のねえちゃんだろうが、飲み屋のねえちゃんだろうが、ナンパでも何でもすればいい。そこそこ軽い女だったら間違いなく付いていく。この顔に誘われれば、喜んでシッポ振って。
三上は前の女に飽きていたみたいだから、きっと俺はその間の繋ぎにすぎなかった。次の女を見つけてさえ来れば、俺が何を言わなくてもそこで終りにする気だったんだろう。
いい機会だ。終わりにしたいのは俺も同じだけど、一方的に捨てられた感じになっちゃうのはムカツク。だからどうせならこっちから突き放してやりたい。

「とにかくもうここには来ないから。俺もそろそろ真面目に生きるよ。あんただって男シュミな人じゃないんだろ? だったらやめとけって」
「…………」
「……聞いてる?」

めんどくせえ。こういう所もやっぱガキ。都合の悪い話になると急に黙り込む。
手にした煙草は味わう目的からはかけ離れている模様。淡々と、灰と煙に変えていくだけ。三上はずっと黙ったままで、キツめの横顔が俺の方に向けられることはなかった。
だけど返事が返ってこないとなると、俺も次の一手にどう出ていいのかが分からない。横たわったままずっと隣を見上げているというのも、地味に首にくるから続けられなくなる。
少しの間だけ三上の反応を待って、しかしそれでも何も言ってこない。ならもう後は俺の自由だ。無言は肯定と取ればいい。たぶん、良くないけど。

でもこういうのはやったモン勝ち。ベッドに横たえたダルイ体を起こして、布団の中から抜け出ようとシーツに手をついた。座ったまま、そそくさと三上に背を向ける。

「おい。どこ行くんだよ」

瞬間、後ろから声を投げつけられ、それと同時に腕を取られた。足は床につける前。体はまだ布団の中だから、引き戻されるのは糸も簡単。掴まれた腕を荒っぽく引っ張られた先、振り向けばようやく三上と目が合った。
静かに怒っている目つきが怖い。反対側の手で持っている煙草が気になる。

これはなんだか、今日こそあるかも。オレンジに燃えている葉っぱをジュッと。いやだー。古いよ痛いよ怖いよ。良い子は根性焼きなんかしないもん。
心は早くも号泣しているけど、幸いな事にそれは考えすぎだった。
俺と無言の睨めっこに勤しむのが馬鹿らしくなったようで、ニコリともせずに鼻で笑った三上。まだもう少し生きられそうな煙草は、灰皿の上で無情に命を絶たれた。
手は一向に放してもらえない。言葉なき圧力はビックリする程に強力。だけど押し切られないように、俺も口では頑張る。

「……帰る。もういいだろ、終わったんだから」

放せ。怖いから放せ。

「割に合わないことなんか誰もしたいと思わないじゃん普通。俺だってそうだよ。もう三上さんとは寝ないし、関係もない」
「…………」

言い切った。言い切ってやった。とうとう吐き出した。だけどすっごい後悔の嵐。
なぜなら、スッと。一気に空気が変わったのが分かったから。頑張ったのは失敗だったか。虚勢なんて張るべきじゃなかったかもしれない。三上の目が急激に冷たくなったのを見て、途端に怯えだす子羊。俺です。
掴まれた腕は少しだけ痛み出した。無意識なのか故意なのか、徐々に力が込められているのを感じる。

「……放せよ。痛い」
 
結構マジに痛い。

「三上さん」
「駄目だ」
「あんたがダメっつったって…」
「なんだよ。逃げられるとでも思ってんのか」

怖いことを言われ、そして戻る。冒頭に。

え、って思った。だけどその時には体がシーツに埋まっていた。寝心地のいい布団は程々に柔らかいはずなのに、背中にきた衝撃はなかなかのもの。ここで押し倒されるという事は、すなわち俺の死を意味する。
そんなの堪ったもんじゃないから、焦って叫んだ落ち着けコール。ところが威圧的な言葉が無残にそれを押し潰した。迫ってくる恐怖は並じゃなくて、手首に入る力がギリギリと痛む。

「関係ないってなんだよ。あ? カネカネ言いやがって終いには仕事できたからヤメルだ? ナメたこと抜かしてんじゃねえよ」

低く投げつけられる。こいつから綺麗な言葉が飛び出してきた試しもないけど、それにしたってガラが悪い。
上から見下ろしてくる三上の目は酷い冷たさだ。なのにこういうときに限って、沸々と湧き上がってくるのは悪感情。大人しくしていた方が身のためなのに、これまでの事とか今降りかかっている災難とか、三上に対する不満が一気に押し寄せてきた。

よりにもよって。絶対的に俺が不利なこの状況下で。

「なんで……あんたにそんなこと言われなきゃなんないんだよ。ナメてんのはそっちだろ。散々勝手なことばっか言って人の事コキ使って。何様だか知んねえけどいい加減ウゼえんだよ」
「……はっ?」
 
ピクッと、三上の頬が不機嫌に動いた。威圧的で厳しい目元には、今にも喰われそうな勢いだ。
マズイ。マズった。かなり怖い。やめておけと警鐘を鳴らしつつ、思わずしちゃった反論。だけどもう取り返しはつかない。一度踏み込んだが最後、決着がつくまでヤリ合う事になるのが、喧嘩の時でも当たり前の流れだ。

でも、ヤリ合うの?三上と?
待ってよ。勝てねえよ。
以前の逆カツアゲの記憶を辿れば、こいつは強いっていうより凶悪だった。一度オトした相手の胸倉を掴んでは、無理やり覚醒させて顔面を蹴りつけていた。泣きながら二度も意識をシャットすることになったあいつら。あれにはさすがに同情したな。三上は恐怖の度を超している。
だけどね。いま同情されるべきは俺。体の上には無慈悲の象徴みたいな男が覆い被さっている。

……なんていう最悪の事態だというのに。

「殴りたきゃ殴れば? それで気が済むんならやれよ。なんでもいいから三上さんとはもう終わりにしたい」

あーっ!
嘘だよ、殴んないでよ、何言ってんの俺のこの口は!?

喧嘩腰で始めちゃったやり取りのせいか、俺にもなんだか変なスイッチが入ってる。今日までは大人しくしてきたから三上は俺に手を上げた事なんて一度もなかったけど、険悪な流れになったらブチのめされない保証はない。
世の中に存在する、人を痛めつけるのが好きな変態。時には殴る蹴るの暴行の瞬間に爽快感その他を得る人種までいる。たぶん三上はそういうタイプだ。俺は今までたまたまされなかったっていうだけで、三上の本質は間違いなく鬼畜。

突き刺さってくる冷眼に息を呑みそうだった。どうにか寸前の所で堪えているのは、俺の中にあるなけなしのプライドがそうさせているだけ。三上とガッツリ目線を絡ませて、来られるもんなら来てみやがれ、と。本心では今にもチビリそうなのに。

「嫌いなんだよ、金にならない話って。あんたといると疲れるだけだ」
「…………」

俺………。終わった……。
もう終わった。確実に殺される。

高校で回避できたボロ雑巾化を、数年越しで体験することになるとは。だけど俺も最後の最後くらい、どっしり構えて華々しく散りたいし。覚悟を決めて、じっと三上を見上げた。すると目線の先でゆっくりと開いた、三上の口。

「……そうかよ」

三上が動き、俺の指先が恐怖感にピクリと揺れた。殴られる。そう思って無意識に眉間が寄ったものの、頬にも体のどこにも、与えられた衝撃は一切ない。
ギシッと鈍い音を立てて、三上はベッドに腕をつき身を起こした。そのまま俺の上から退くと、後は目が合うこともない。俺が起き上がってもそれは同じだった。背を向けて、床に散らばった服を手にして。一言も喋らず淡々と着込んでいく三上の後姿を、俺はここからただ茫然と見つめるだけ。

なに。何これ。殴るんじゃないの?俺は怯え損?
肩透かしでも食らったような行動に、安堵するよりも脱力感の方が強い。煙草だけを手にした三上は、呆けている俺の存在を無視してベッドを素通りした。

「え……三上さ……」
「俺が戻って来るまでに出てけ」
「……え?」
「終わりにしてやるよ」

そう言って、本当に出て行った。部屋のドアをパタンと閉めて、そのすぐ後に玄関が閉まる音も耳に入ってきた。

「…………は」

なんだそれ。

放り出される側になるのは腹が立つから、こっちからスッパリ切ってやろうとしていたら。俺は話を切り出しただけで、結局自分が捨てられたみたいな形で部屋に一人取り残された。
言っていた事が百八十度違う。簡単には手放さないって脅迫したのに、こうもあっさり切り捨てられた。

「…………」

ムカつく、んだけど。なんだろう。この虚しさ。








***








三上と一切の接触を絶ってから三週間。俺はメンタル、フィジカル、ともに絶好調。あの男さえいなければ、俺の生活は明るく晴れやかだ。
と、思いたい今日この頃。



「どうだ、仕事は。もう慣れたか?」
「そうですねー、それなりに。一カ月も経つんで。見た目よりは使えるって店長から言われます」
「お前は見た目かなりバカっぽい、っつーか軽そうだからな。人生も損してる」
「リアクション取りにくい言い方やめてください」

センパイの部屋で、リビングにはべって飲み交わしながらダラダラと。この人は明日も仕事だけど俺は一日休みだから、遠慮もへったくれもなくガンガン飲める。
俺のシフトに合わせて、こうして飲みに誘ってくれる事はしばしばある。二駅先の自宅に帰るよりも仕事場から近いこの部屋に帰る方が楽だから、好意に甘えて泊まることも何度か経験済みだ。
だけどセンパイからすると、どうにも俺には心配の種が多いらしい。大丈夫かとか、仕事どうだとか。一緒にいると人生相談のような空間になる。完全なるお子様扱い。仕方ないか。放っておいたら死んでいそうとまで思われてたんだもんな。

センパイと仕事で顔を合わせることは稀だ。整備工場とスタンドとの距離自体は近いけど、車検で入ってきた車を届ける用でもなければ会わない。
でもついこの間まではケータイだけのやり取りがほとんどだったから、こうして頻繁に会っていると昔みたいな親しさが戻ってくる。高校生の時のような。今でも十分ガキな俺が、さらに若かったあの頃。

「……センパイ、AVか何かない?」
「ッ…はぁっ?」

すげえ突然。ちょっと前まで真面目に近況報告をしていたのに、俺がいきなりそんな事を口走ったもんだからセンパイもびっくりだ。
ビールを仰いでいる丁度その時に言っちゃったせいで軽くムセ気味。缶をテーブルに置いて俺に送って来る目線は、どんなに都合良く見積もっても明らかにもうんざりしている。
 
「ねえよ、今は。なんなんだよ急に」

レンタル族か。基本、車にしか興味ないもんなこの人。

「やー、なんか最近溜まり気味? 部屋で一人ん時にやっても虚しいんで」
「知んねえし、意味分かんねえ。つーかここで抜く気かよ。溜めとくのは勝手だけど、どういう神経してんだお前は」
「うん。ちょっと図太くなったと思います」

あいつのせいで。そう思うと、余計に虚しい。

三上との関係を切ってスッキリサッパリする所か、付き纏ってくるのは居心地の悪いモヤモヤ感だけだった。認めたくないけど、こればっかりは仕方がない。部屋を訪ねてくる事もスマホに掛けてくる事もなくなった三上が、正直なところメチャメチャ気になる。
あいつを捨ててやるはずだった意気込みはどこへ行ったのやら。結果的に出て行けと言われたのは俺の方だから、フラれたみたいになったせいでいつまで経っても納得がいかない。
どうかしてる。女々しくグチャグチャ考えるような性分でもなかったんだけどな。

納得いかない。だから会いに行く。そして文句を言う。だけど文句なんか言ってどうなる。これ以上関わる必要もないのになんの意味がある。あれだけ切りたかった男に、ノコノコ自分から会いに行くのはおかしいだろう。
なのに、このシックリ来なさ加減は何。俺が三上に期待していることってホントはなんなの。

という内容で、あの日以来ずっと頭を巡らせている。グルグルぐちゃぐちゃと。行くあてもなく。ビールを手にしたままボケーっとし出した俺を、向かいに座るセンパイが覗き込んできた。

「どしたよ。そんな観たかったのか?」
「え? ああ、いえ、違いますよ。いくらなんでもここじゃやりませんって」
「んなコトされたら俺が困る」

頬杖ついて、疲れた様子のセンパイが一言。
ま、そりゃそうだ。自分のウチで後輩が一人エッチなんてやり始めたら、誰だってどうしていいのか分かんなくなる。
昔はヤンチャだったこの人も、実際の所は硬派な性質。ノリで混ざってくれる事はまずあり得ない。
でもなんかいいな。まともな返事が返ってくるのは。もしもこの状況で俺と話しているのが三上だったら、やりたきゃ勝手にやれと言われるのが目に見えている。

あんな人間味の無い男とは、やっぱり縁を切って正解だった。俺には俺の生活があって、まともな仕事にも馴染んできて、見返りもなく酒を飲ませてくれるセンパイだっている。
だいたいハナから無理だったんだ。あの俺様野郎と他人依存型上等な俺が、いつまでも同じ空間に二人でいること自体。自分にそうしっかりと言い聞かせ、俺はテーブルの上に散らばる空き缶をまた一本増やした。
これで何本目だろ。センパイはほとんど飲んでいないから、人のウチの冷蔵庫を俺が寂しくさせている。
だけど。反省するのは明日でも遅くない。

「センパイ」
「…………」

目で訴える。じっと見つめて懇願する。もうないんすよ。テーブルの上に酒の入った缶が。手っ取り早く言えば、もっと持ってきて。
聞かなくても分かる俺の頼みに、センパイは肩を落としながら立ち上がった。テーブルに手をついて、よっこいせと。
声に出したよ、この人。

「待って、よっこいせはダメ。まだ早い。そんなこと言ってると一気に老けますよ」
「お前といるだけで三つくらいは年取った気になるよ」

お。なんか言われた。
当然だろうね。駄目な後輩にパシられれば嫌気の一つや二つくらい差す。
けど口ではそんな事を言いながら、俺のリクエストには抜かりなく応えてくれるのがセンパイ。戻ってきたその手には、酒の他にも追加のつまみが。

「なんですかソレ。塩辛?」

瓶詰めの何か。正体不明だけど旨そう。
テーブルの上に置かれたそれをまじまじと観察してみる。ラベルがないから名前は分らないけど、この色はなんだか……。

「そう、塩辛。ウニの」
「ウニ!?」

貧乏人の特性。ウニと聞いて声を張り上げる。塩辛ってイカだけだと思ってた。

「食いかけだけどいる?」
「いるー!」
「元気だな……」
「だって自分じゃ絶対買わないし。食っていいんすか? 酔った勢いでビン空けちゃっていい?」

俺は図太い。センパイは失笑。

「食え。好きなだけ。味濃いからきっと途中で挫ける」
「ついでに白いご飯とか……」
「……余った分の冷凍しかないぞ」

出してくれるんだ。すげえな、なんでも言うこと聞いてくれる。センパイが変な女に引っ掛かって破産するまで貢ぐことがありませんように。
とは言え今のところ、タカっているのはタチの悪い男である俺。男ってところが余計にムカつくと思う。それでもあからさまな文句は言わず、尽くしてくれるこの人はどこまで人間ができているんだろう。

「センパイってさー」
「あーっ?」

白いご飯がやってくるまで塩ウニに耐えながら、再びキッチンに立ったセンパイに呼びかけた。
シンプルで、センパイっぽいこの部屋。ここまでよく出来た男だというのに、生活の中には女っ気が見当たらない。

「なんで彼女いないんですか?」
「……どうしていないの前提なんだよ」

あれ。てことはいるのか。

「いねえけど」

なんだ、やっぱいないんじゃん。そう思った直後に電子レンジの高い音が鳴った。

解凍された元冷凍ご飯を茶碗に盛って、ピーチクパーチク親鳥を待っているヒナのもとにセンパイが戻ってきた。終始座っていただけの俺は、ここでも手を伸ばしてそれを受取る動作のみ。態度のデカイ後輩がいたもんだ。
ニコニコと全開でご機嫌な俺は、さっそくウニとご対面。ご飯の上に乗っけて、米と一緒に食うと見せかけてまずはウニ単品で。

「……んっ、まー。何コレ超うまい」
「ああ、そう。もっと早く出せばよかったな」

幸せ。腰を下ろしたセンパイに見守られつつ、白飯効果も相まってパクパクと食が進む。
ウニうまい。回る寿司の上に乗っているヤツより旨い。ついでに酒も進む。

「あ、センパイは? 食わないんですか?」

俺を眺めているだけで、センパイはとうとう酒の手も止まった。気兼ねの意味とは遠く、単に気になって顔を向けると小さく笑われる。
すでに笑い方からして善人なんですけど。高校で荒れていたなんてとても思えない。

「いいよ俺は。好きなだけ食いな」

言う事まで善良の極み。

「俺センパイのこと時々お母さんって呼びたくなります」
「……嬉しくねえよ」
「んーじゃあ、ママ?」
「ヤメロ。怖い」

俺も怖い。
こんなバカ息子がいると母親は大変だ。実家にいる時に、よくお袋から言われた言葉。腹を痛めて俺を産んだ実の親が言うんだから、センパイが喜んでくれるはずがないよな。
ご飯の上にこんもりとウニを投入していると、見た目の悪さにちょっとヒイてるセンパイに気づいた。チマチマ食うべきウニにがっつりと豪快に食いつく俺は、不意打ち気味に話を戻す。

「で。さっきの続き。なんで女いないんですか?」

質問は唐突に。あんまり自分の事を話す人じゃないから、たまにはこういう話も聞きたい。

「戻んのかよ。何に興味持ってんだお前」
「センパイの行く末」
「スズには心配されたくねえな」

そう言って喉の奥で笑ったセンパイ。自分で新しい一本を開けるのは量が多いのか、半分くらいに減った俺のビールを手に取り口に運んだ。
無粋な俺の無粋な質問。センパイは俺から目線を遠ざけた。

「いらねえよ。女なんかめんどくせえ」

カコン、とテーブルに缶を置いて、素っ気なく静かに答えたセンパイの声が響く。ちょっと意外。そういう風に思ってたんだ。車なら口煩く騒がないしね。
ああでも、メンドーだと言うのなら。

「自分で言うのもなんですけど、俺って女よりメンドーじゃありません?」
「分かっててやってんのか」
「世話かけすぎですよねー?」
「他人事みたいに言ってんな」

怒られた。半分笑いながら。胡坐をかいたまま片足だけを立てて、口の割にはリラックスしているように見える。立てた膝に腕を乗せたセンパイに、俺のビールは本格的に盗られたようだ。
つーか元々、これはセンパイの所有物。分かっているけど、この手が勝手に新しい缶へと伸びるんだからしょうがない。
俺はどうすりゃいいのかな。三上には自分の体で酒の分を返していたけど、センパイには何を返せばいいんだろう。この人の性格を考えれば、俺に見返りを求めてくる事はないから迷う。
けどなんだかんだ言ってても、やっぱり俺にとっては目上。貰ってばっかりじゃ気が引けるというのも本心だ。小指の爪の先くらいの割合でそう思ってる。

考えること三十秒。ゆっくりと液体を喉に流し込むセンパイを見て、その時咄嗟に思いついた恩返し。俺の辞書に熟慮という文字はないから、思い立ったら即実行だ。冗談交じりに提案してみる。

「フリーならセンパイ好みの可愛いコでもナンパしてきます? 俺の唯一の特技知ってますよね? なんでかナンパにだけは運があるんですよー、いまだに」

恩返し。彼女のいないセンパイのために、メンドーじゃなさそうな女の子のナンパ。
高校時代はセンパイに止められながら良くやったもんだ。駅前とか街中とかで遊び半分で声を掛けて、その隣にいたセンパイは、俺を置き去りにすることもできないらしくてずっと呆れ返っていた。
あの頃の腕はまだ鈍っていない。軽い女よりも成功率は下がるけど、清楚で大人しい感じのコも稀に引っ掛かることがある。根っからの車愛好家は女よりも仕事だから、ここは俺が一肌脱ぐしかないだろう。なんて思ったんだけど。センパイは予想外にシラけてる。

「……やめとけ。お前はそういう労力、他に回せよ」

喜んでくれるかと思ったのに嗜められた。すごく尤もなコト言われた。そこまで女がメンドーなのか?

「ちょっとはノッて下さいよ。信じて、俺の声掛け術。車に埋もれてんのもいいですけどたまには女の子と遊ばなきゃ」
「いいっての。お前ももうやめろよ、ナンパとかそういうの。そろそろ落ち着け」
「あ、最近はやってない。でも大丈夫。誰か一人くらいは捕まりますから」
「……そりゃ捕まるだろうよお前なら」

ゆっくり飲んでいたはずのセンパイが、こんな言い合いをきっかけにスピードアップ。ガッとビール缶を仰いで、半分しか残っていなかった中身を空にした。
あんまり触れられたくない部分のようだ。でもごめん、センパイ。恩返しとかはもうどうでもいいや。
隠されるとなんだか気になる。別に隠している訳じゃないんだろうけど、話したがらない話は全て吐き出させたい。いくつになっても俺の好奇心は旺盛だ。

あの頃からずっと謎だった、センパイの女関係。女に全く興味がないって事はないはずだから、俺が知らないだけで絶対に武勇伝くらい持っている。じゃなきゃここまで落ち着いていらんないよ、普通の男は。
空き缶をセンパイが床に手放した所で、俺の迷惑な質問行為はますますエスカレートした。

「もう結構な付き合いなんだし、そろそろ教えてくれてもよくないですか? センパイの好みとか全然知んないもん。とりあえず、フリーになってどれくらい?」
「酔ってんな、お前。なんだよとりあえずって」
「打ち解けた会話の第一歩」
「……酔ってんだな」

酔ってないよ。必要じゃん、ざっくばらんな話には心と心の通い合いが。
強情なこの人の口を何としても割らせてやりたくて、ビールとウニを手放した俺はセンパイの顔をガン見。

「じゃあ仕方ないっすねー。もうちょい答えやすいとこから。最後にエッチしたのいつ?」
「…………」

やべえな、楽しくなってきた。対するセンパイは思いっきり顔を顰めている。

「余計答えにくいだろ。スズお前、もう寝とけ。これ以上喋らせとくといいことない」
「えー、ヤダ。聞きたい」
「駄々っ子か」
「そういうプレイ好きだったりする?」
「イミ分かんねえよ」

げっそりしてる。面白い。男の話に上がる内容なんてまあまあ下品なもんだ。でも昔からセンパイはこの手の話題に淡白だったな。
俺より一個上の先輩達、っつーかセンパイにとっては同級生の男とならば、さすがにそうでもなかったみたいだけど。

あれ……。なんで。年中無休の無礼講にも程があったか。俺って話しづらいのかな。もしかして下品すぎるのか。
いや、そんな事ねえよなあ?どっちかって言うとソフトな部類だ。ちょっとショックを受け気味だから一応確認。

「センパイ、俺のこと嫌い?」

あら。なんか言い方がおかしかったかも。

「……さっきからなんなんだよ、めんどくせえよマジで」

うんざりした様子で天井を仰ぎ、それからチラッと俺に目を向けた。つまんないからションボリ加減で見返していると、センパイは小さく溜息。スッと腕を伸ばしてきたかと思えば、頭をポンポンと軽く叩かれる。

「捨て犬みてえなカオしやがって」
「え、どんな?」

捨て犬?
センパイまで、いきなり変なコト言い出してるよ。

「捨て犬は初めて言われました」
「餌くれたら誰にでも付いてくだろ。そういう感じ」
「ああ、なるほど」
「納得すんのか」

俺の頭に手を乗せながら苦笑。センパイの気苦労がまた一つ増えた。捨て犬からセンパイの手によって拾われ犬になった俺は、復活するのにも時間はかからない。

「それで、センパイ。最後の女は?」

最初に戻る。

「しつけえ……。もういいだろ、そんなのどうだって」
「よくない気になる。あんまり隠すとセンパイはゲイなんだって勝手に思いますよ?」
「いい加減ぶん殴るぞ」

あ、怒った。当然。
だけどセンパイがあれ以来俺に暴力を振るった事なんてないから、何と言われようが余裕。年甲斐もなく男らしくもなくキャイキャイはしゃいだ。
浮かれた心地でいると思いつくのもロクな事ではなくて、暇つぶしがてらにセンパイの手を取った。及んでみるのはちょっとしたイタズラ。どんな顔をするかが見物だ。

「殴られんのは嫌だけど、抱かれるくらいならいいですよ?」

なんて言ってみる。センパイの目は点。

「…………は?」
「俺、センパイとならヤレる。女メンドーなら俺でも抱いてみたらどうです?」

世話になってる礼だとでも思って。突拍子もない誘いかけの言葉にそう付け足した。
恐ろしく気味の悪いドッキリだ。男の後輩からお礼に体を差し出されたって、怖いだけで嬉しくもなんともない。
どんな反応してくるかなーと、わくわくしながらセンパイの口が開くのを待った。だけど一向にセンパイが言葉を発する雰囲気はやって来ない。

黙ったまま、俺の手を振り払おうともせず。目を逸らすどころか直視されて、むしろこっちが気まずくなった。
ささやかな悪ふざけのつもりだったのにな。ちょっとイタズラの度が過ぎたかもしれない。本気で怒ってたらどうしよう。ないと思うけど、この人とまた殴り合いをするなんてご免だ。

「……センパイ?」

軽くビビってる。撒いた種が実は人食い花の種で、水をやった瞬間に育って食い尽くされた心地だ。うん。言わなきゃ良かったよ。
素直に後悔した所で、もう片方のセンパイの手が俺の肩を掴んだ。そのままグイっと、無理に引き寄せられる。

「そうする」
「へ?」

短い言葉はすぐに途切れた。理解する間もなく直後に唇で感じたのは、馴染んだあの感覚。

「ッ……!」

うっそ……。

キス。なんでキス。俺の言った事は冗談だよ。センパイだって分かんだろ、あの流れで。しかも結構、ガッツリくる。

「……ンっ」

ガッツリ来てる!!


硬直。俺の肩を掴んだままセンパイが離れていっても、呆然とした内心は拭えない。一瞬だったけど感触がやけにリアル。なんですか、悪戯への制裁ですか。制裁にしたってやりすぎだ。
なんとも言えないこの内心。奪われた感じが半端ない。そんな中、パチッと強めの瞬きをしてセンパイを見上げた。

「あの……」
「なんてな」
「……はい?」
「冗談だ」
「…………」

だろうね。だと思ったよ。自業自得だって言いたいんだろうよ。でもこれはいくらなんでも……。

「……冗談で舌入れないでくださいよ」

普通に吸われたし。ちょいゲッソリな俺とは反対に、冷静なセンパイはこんな事をやらかしてもやっぱり冷静でいる。

「これくらいやんないとお前は黙んねえだろ。しつこく聞くのが悪い」

あーはいはい、すいませんね。なんか悔しいな。このままってのも。
転んでもただでは起きたくないっていう心情が、男という哀れな生き物にとっての生命活力源。生きていくのに反撃は必須だ。打撃を食らったらやり返さないと。

「俺にはなんでもかんでも隠すじゃないすか。ちゃんと教えてくれればしつこくしませんよ。彼女いないってのもやっぱ嘘でしょ。ブランクある感じがしない」
「……他に言うことねえのか」

俺が繰り出す反撃なんて所詮はこんなもんです。
どうだろ。今ので勝てただろうか。俺ルールでは最後にガックリきた方の負けなんだけど。どうせならコテンパに負かしたい。
掴まれていた肩からセンパイの手が退いたその時、離れて行く前に俺が引きとめた。それ以上は引き寄せず、ただ留めるだけにして、怪訝な表情を覗き込む。
これならダメージもデカイんじゃないかな。いくらセンパイでも絶対にヒク。そう思って、最悪的に頭の悪いイタズラを仕掛けてみる。

「折角ですし、ついでにセックスしときます?」
「……懲りろよ」

圧勝した。


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