×××の正しい使い方

わこ

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7.何も分かってなかった

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俺の得意料理は唯一、野菜炒め。飽きた味覚は調味料で誤魔化すという裏技は天下一品。
一方大抵の事はなんでもやりこなすユキは、料理だって同じようにやりこなす。一般家庭で出てくる程度の物なら、だいたいは人並みに作れる。
ユキが前に住んでた部屋に、しつこく押し掛けていたのは数か月前の話。その都度せがんで作ってもらった夕食には、あっさり胃袋を掴まれたもんだ。

「んー、うまいー幸せー。ユキちゃんの料理やっぱサイコー」
「……黙って食えよ」
「褒めてんのにー」

この時も、例外なく。



ユキをうちに連れて来たその日の晩。俺は家に帰って早々、渡された物にとにかく驚いた。
受け取らされたのは茶封筒。その内容物…

現金。

ビックリするから。何かと思うから。つっても数万程度だけど、身に覚えのないワイロに俺は固まった。
渇きそうになる口を開いて、なんのつもりかキョドりながら訊いたところ、返ってきたのはシレっとした答え。

部屋代だ。取っとけ。

文句なしの男らしさ。そんな調子でそんなこと言われた日には、目眩なんてものを生まれて初めて覚えた。
常識が有るんだか無いんだかさっぱり分からない。俺は少しでも負担を減らせるようにと思って、ユキをここに連れ込んだのに。居候初日でこいつがはじめに取った行動は、銀行に行って金を下ろしてくるという事。

アレだよね。本末転倒?って言うの?

なんでも平成の意地っ張りこと、ユキが言うにはだ。
俺なんかの部屋にタダ泊まりをしてみて、数年経って忘れた頃にセコイ見返りの一つでも求められたら堪らない。みたいな事らしい。

もうさー……なんだろうね。俺ってホントに信用ねえんだなー。
求めないし、見返りなんか。下心と戦ってはいるけど何も要求しないよ。

そういう事で、取り敢えず現金はすぐさま突き返した。けど、そのせいでユキとは小一時間ほどモメた。
受け取れ、嫌だ、受け取れ、嫌だを、軽く百往復くらい。そこまでくれば言い合うだけでも疲れるのは当然。

しばらくしてヘロヘロになりながら行き着いた先、その解決策はユキの手料理だった。
なんでだよ、って感じ。そりゃそうだ、イミわかんない。
でもユキは思っていた以上に強情だった。

俺が何を言ったって聞きやしないから、最終的にはこっちが折れる他なくなって。
金は一切受け取らない。その代わりにユキはここの料理番になる。そういうことで決着した。

普段はこっちから押してばかりで全っ然気づきもしなかった。だからこの時初めて、押し切られるってのはあんまりいい気分がしないものだと知った。
これぞ二十年の時を経た真実。ようやく学んだ。
 
ユキのこの体じゃ雇ってくれるトコは見つからないだろうから、今はまだ働くこともできない。根が真面目なだけに、肩身の狭い思いでいる事も理解はできる。
でもやっぱ、なんか違う気がする。本当ならもっと甘えてくれたっていいのに。

結局は飯を作るだけで気が休まることもない。足動かせねえのウソだろって思う程、ユキはテキパキと全ての家事をこなしていた。
そんな訳でユキが来てからというもの、帰宅後の俺は美味しいご飯に一直線だ。

良心が痛むとは言っても、感涙な光景を目の前に思うコト。もうこれは新婚って事でいいじゃん、に尽きる。
こんな浮わついた気持ちを持っている時点で、俺はユキにああだこうだと言う資格がない。心配するのか浮かれるのかどっちかにしたいけど、なかなか俺の心は正直だ。


「ユキちゃん、どう? もう俺んトコお嫁に来ちゃう? 幸せにするよー!」
「一時間でいいから黙ってろよ」

てな感じに。

だけど毎晩毎晩メシを食いながら、こんな事を言っていたのはずいぶん前の事だったりする。
ふざけたプロポーズはことごとく切り捨てられていたけど、ユキが俺の部屋を出て行ってから既にしばらく経ってしまった。

ほんっと。淡白だよ、あのコは。
完璧に家事をこなして、ユキ母が置いてった弁護士とも時々連絡を取って、なんだかんだでユキの生活は結構忙しかった。はず。
なのにウチに来て十日足らずで、ユキは早々に去って行った。新しい部屋を見つけるのも、契約を交わすのも、何から何までとにかく即決。

スーパー行って買い物してくるんじゃないんだからさ。もうちょっとじっくり考えとこうよ。そこまで急ぐ理由は何さ。
ところがそれよりなによりショックだったのは、同じ部屋に寝泊まりしてんのに俺は何も聞かされていなかった事。明日出てくなんて平然と言われたときには、そりゃあもう驚いた。

「あした……明日?! えっ、いつ部屋決めたのッ」
「この前」

こんなんですよ。この前って答えになってないから。

だけど俺が引き留めるのも変な話だし、ユキとはそこでサラッとお別れ。洗濯物を畳んでくれる人も、野菜炒め以外のまともな飯を作ってくれる人もいなくなってみると、男の一人暮らしがどれだけ惨めなものなのかを思い知ることになった。
ユキがいたのはたったの十日。それよりも前からずっと、俺はここに一人で住んでいたのに。

あいつが来る前は何も感じなかったはずが、出て行った後は妙な寂しさが残る。味気ない男の一人メシは、味気ない野菜炒めを目の前に、

「…………」

溜息。
センチってるー……。








***









「今どこ? 迎え行く? 荷物持ちするよ? ああ、でももう普通に歩いてるんだよね……あ、じゃあー……」
『うるせえよ。なんもしなくていいし来んな。つーか、もう着いた』
「それなら入り口まで……」
『来んな』


それから少し月を跨いで、ユキがやっとこリープに復帰。
現在の俺の居場所はスタジオ内。話の途中でユキから一方的にケータイを切られても全然平気。

新居に移ってからもユキの所には鬱陶しく顔を出していたけど、このスタジオにユキが入ってくると思うだけで俺は有頂天だから。
切られたケータイを仕舞うや否や、その場でガバっと立ち上がって叫んだ。

「ユキもう着いたってー!!」
「分かったよ、うるせえな」

隣で冷静なツッコミを入れてくるのは圭吾。他の連中も苦笑いだ。
皆して俺の事を見ながら、呆れ半分揶揄半分で言い合っている。

「電話の向こうでユキが迷惑してたの目に浮かぶよなー。なにコイツ、来てからずっと浮かれてて」
「ユキ大好きにも程があるし。そのくせ嫌われてるとか……!」
「そりゃあイヤだろー。コレに好かれるのは結構キツそう」

みんな酷くない?俺の扱いってそんなだったっけ?
これは早いとこユキに来てもらって泣きつかないと。補給しなきゃね。イロイロ。

絶対に嫌がるユキを思い浮かべて、うっかりニヤニヤしていると圭吾から変な目で見られた。おかげで泣きながら抱きつける口実が増えたと思ったけど、当ては外れてユキはなかなか入ってこない。

「なんか……遅いよな? さっきもう着いたって言ってたよ……?」
「心配しすぎ。事務室寄ってんじゃねえの? 修二さんとか、挨拶?」
「ああ……」

なるほど。圭吾の当たり前な答えで納得。
が、言わなくてもいい余計なひと言を付け足してくるコイツ。

「お前最近、前にも増してバカになったよなー」
 
反論はできないけどさ。

「……圭吾は厳しくなったよね」
「ユキじゃ甘いから。躾」

躾って……飼い主?もしくはお父さん?
飼い主だろうとお父さんだろうと圭吾じゃなあ。どうせ躾けられるんなら欲を出して、

「俺はユキに調教されたい」
「は?」

こっちだろ。どう考えても。

「うん」
「うん、じゃねえよ。何言ってんだお前」

なんだか本気で、圭吾がヒいてる。ちょっとしたジョークじゃん。

グダグダとそんな事をやっていること数分。少しして、ようやくユキがスタジオに入ってきた。
かなり久々にここを訪れたって言うのに、本人は欠片の感慨も見せずに普通の顔色で。

だけどそれを放っておかないのがここのメンバー。俺に向かって何だかんだ言っていても、ユキの事を待っていたのはみんな同じだ。
ユキの姿を見た途端、一斉にワーワー騒ぎながら駆け寄って行く。対する俺は迂闊なことに、入ってきたユキについつい見惚れて棒立ちになっていた。
ハッとした時すでに遅し。ユキは皆から囲まれていて、不覚にも出遅れた俺は慌てて入口に駆け寄ろうとした。

「ユキー!!」
「待てコラ」

足を一歩踏み出すのと同時に、ガシっと後ろから攫まれた首根っこ。両手だけはユキの方向に伸びているのに、体が付いて行っていないという滑稽な場面の出来上がり。
俺とユキの間を阻んでいるこの手は圭吾のものだ。

「なに!? はなしてよ、俺も交じってくる!!」
「お前はユキに近づくな。なんか危ねえ。ほれ、リクはおウチでお留守番」
「わん!」

違うからー!ここ、ノるとこじゃない!!
ジャマとでも言わんばかりに人のことを突き飛ばした圭吾は、一人で輪の中に入って行った。残された俺も負けじと後を追ったけど、周りの奴らが壁になって、ユキに抱きつくのは至難の業。
だから止む無く、皆の間に割って入った。

「ユキー! ユキちゃーん! 俺ここー! 構ってー!!」

猛アピール。

「……そこのウザい奴ハブってくんない?」
「そんなー!」

チラッとこっちを向いてくれたかと思ったら酷いコト言われた。
いきなりハブにされんの?ていうか、リープメンバーはなんでそこまで乗り気なんだ。

冷淡なユキの指令によって皆一気に盛り上がり、俺はドシドシと輪の中から追い出された。ユキに触るなとかあっち行けとか口々に言ってくるけど、こいつら俺をなんだと思ってるんだろう。
友達甲斐のない無慈悲集団せいで、復帰祝いを兼ねた抱擁どころの話じゃなくなった。

……この辺か?この辺だな。
俺の邪心は外部に漏出するのかもしれない。

人間的な本能に察知されちゃうくらいダダ漏れだ。内容知れたらアウトだろう。
だけどそれにしても、皆してユキに群らがってベタベタベタベタと。

「……なんて羨ましい」
「お前はなに一人で除け者にされてんだ?」

出してはいけない心の声がポロッと零れたちょうどその時、ここまで追いやられて来た俺の背後でドアが開いた。
声につられてふり向いてみれば、隣に立ったのは修二さんだ。

一人でいんのも寂しいし、もういっか。仕方ないから修二さんにでも懐いとけ。

「やー、もー、聞いてくださいよー」
「後でな。なあユキー、今日どうする?」
「…………」

通過?
自分から声掛けたくせに、泣きつこうとする俺を置き去り?

結局は修二さんにまでハブられた。輪に入ってくるのが修二さんなら、みんなも当然スペースを空ける。
それは勿論ユキだって、話しかけてくるのが修二さんなら素直に応じる。

すごくジェラシー。
俺の目線の先では、ユキと修二さんとの真面目トークが始まった。

「いきなりはさすがに無理だろ。結構間開いたし、とりあえず体慣らしてかないとだよな」
「ああ、はい、すいません。しばらくは軽めに」
「だな」

話の内容からして、口を出しに割って入る訳にはいかない。他の奴らも徐々に自分の練習に戻りはじめた頃、俺も二人の話に聞き耳を立てながら元いた場所へと歩いた。

「どうする? 一人のがいい? それとも誰か付けるか?」
「できれば……頼んでいいですか」
「ん。了解」

数か月のブランクは大きい。ギブスが取れてからも少しの間からは医者から止められていたせいもあって、ユキがここで体を動かすのは本当に久しぶり。
馴染んだ勘とか、染みついた感覚とか、積み上げてきたものはそう簡単には消えない。だけどすぐに体が付いて来てくれるかといえば話は別だ。

日常で動く分にはなんの問題もなくなっているけど、ユキのこの足が、実際どこまで回復したのかを俺は知らない。
聞いていない振りをしながら、ユキの声に全神経を傾けていた。いつもと変わらず落ち着いたそれ。無理をしている様子もないけど、聞いているとなんだか辛い。


「シケたツラ」
「え?」

スタジオの真ん中辺りに移動すると、ミラーの前で隣に並んだ圭吾が不意に言ってきた。顔を向けても目は合わず、圭吾は鏡越しに俺を見ている。

「心配しすぎだっつってんだろ。修二さんに任せときゃユキだって大丈夫だよ」
「……うん」

我ながら情けない。さっきまでいじめられていた奴に今度は慰められた。
空返事にイチャモンをつけるでもなく、圭吾は慣らしのストレッチ中。不気味なことに珍しく優しいから、俺もその隣で気を抜いていた。
でもどんな時だろうと、油断ってのはやっぱり大敵。

「つーかお前は自分の心配しろよ。最近全然ダメじゃん。この前のコンテストだって、肝心なトコでミスるしさあ。あれさえなければゼッテー優勝してた」
「え、今? このタイミングで蒸し返すの?」

こういう不意打ち食らうから。よい子は油断をしてはいけません。

「もうそろそろ許してよ。あれから大分経つんだし……」
「誰が許すかバカ野郎。今年は前回のリベンジだーとか喚いて、打倒チェストってヌかしてたの誰だよ?」
「…………」

俺だ。それ、俺。当日まで言いまくってた。
去年の大会で、首位争いの末に負けた相手。今年もそのチェストに、俺達は優勝を掻っ攫われた。
……俺の凡ミスで。

「センター張ってるお前がさあ。あんな思いっきりコケるとか何? 致命的だよな、コケるって。どうすりゃあそこまで気持ちよくコケられんの。人生コケてるくせにステージの上でもコケてどうすんだよ」
「そんなコケるコケると……」

連呼しなくても。

「すっっっげえカッコわりい」
「…………」
「コケ野郎」

コケ野郎?
何それ。新種?

ポンポン出てくる悪口に沈められて、立ち尽くしたまま口から魂が出て行きそうだ。コンテスト直後だって散々みんなから貶されたのに、ここに来て時間差で攻めてくるとはなんとも陰湿。
圭吾のせいで心は絶息しかけているから、せめて目だけは潤しておきたい。そんな縋るような気持ちにかこつけ、ここからは声の届かない距離で修二さんと話しているユキをチラ見。

うん。やっぱイイね。
癒されるよ、ユキちゃん。黙っててくれさえすれば、戦場の天使もビックリな清々しさだ。
と、そんな頭の悪いことを考えていると、足技の練習と見せかけた圭吾から地味に蹴られた。

「っだ!」
「ユキばっか見てんじゃねえよ。コケの大失態、バラすぞ」
「……それは勘弁」

無言のユキに冷やかに見つめられる光景が、想像するまでもなく目に浮かんだ。


ユキはそれから暫く、リハビリも兼ねた練習に励んだ。全く元通りと言う訳にはいかないけど、少し経った頃にはまた前みたいに俺達と一緒になって。
元々のスキルが高いし、性格的に努力は惜しまないタイプだし。体を取り戻すことに、ユキはそう長い時間はかけなかった。軽めの練習しかできていなくても、見ているこっちからすれば申し分ない。
だけどそれでもどこか、焦りは見える。数か月の間使えなかった足だから、そこに突然の負荷をかける訳にはいかない。もっとやれると思っても、無理をして痛めでもしたらそれこそ将来に関わる。
だからユキにとって辛いのは、きっと自分を抑制すること。こればっかりはどうしても、根気強く慣らしていくしかない。

今はまだ、以前のように足を踏み出すことはできない。でもこの調子でいけばすぐに、怪我をする前と同じユキを取り戻せるはずだ。
弱音を吐かないユキの隣で、俺はずっとそう思っていた。










「…………ユキ?」

ちょっと肌寒いかな、という気温のとある夜。練習が終わって帰り道を歩いていたはいいけど、なんとなく寒さを感じた所で思い出した。
体を動かした直後は、あったかくなっていたから必要のなかった上着。行く時に着こんで、スタジオに入ってから脱いだそれを、出てくる時には置き忘れてきたことに気づいた。

それで戻った。一人寂しくトボトボと。
前はよくユキと一緒に帰っていたけど、ここ最近はなぜか一人で帰れと突き放される。なんの用があるのかは、いくらしつこく迫って聞いても教えてくれない。
それはこの日も例外ではなかった。

リープから帰ったのは俺が最後の方だったから、多分もうメンバーは残っていないだろう。居るとすれば受付けのマキコさんとかイントラとかのスタッフ。
着いてみればその予想通り、受付けでマキコさんと言葉を交わした以外は誰とも会わなかった。ガランとした屋内を進んでさっきまで使っていたスタジオに向かい、小窓から明かりが漏れているドアの前に立った。
そのまま何も考えずにドアノブに手をかけようとして、だけど俺はそこで止まった。小窓から目に入った、一つの人影。

「…………」

ユキだった。

久々に見た。あんな風に踊っているトコ。
ここのところはずっと慣らし練習だったから、カウントに合わせたユキのダンスなんて長らく見ていなかった。
前と変わらない。いつもと同じように完璧。大振りだけど要所要所は繊細で、キレのある滑らかな線がひどく綺麗。

でも、どこか。そこまで完成された中に、前とはほんの僅かに異なる違和感があった。
分からない程度だし、そのせいで精巧さに欠けるなんてこともない。それなのに何かがおかしいと、そう感じたのは俺の目がおかしいんだと思いたかった。

だけどすぐ後に思い知った。ユキに焦りが出ていたのは、きっとこのことを知っていたから。
怪我をする前のユキなら、確実にキメてくるようなポイント。速いテンポで右足を軸にして、痛めたその場所にユキの体重が乗った。

瞬間、

「ッ……」

ガクンっ、と。一気に崩れた。体ごと、足から砕けるように。

息を呑んで、何も考えずに思わずドアノブを手にかけた。ユキは床にへたったまま動かずにいる。
ところがドアを開く直前に後ろから肩を掴まれ、ハッとして振り返り目にしたその人。

「修二さん……」

静かな表情に捉えられ、俺も緩く手を引いた。このスタジオを使うということは当然、修二さん達が知らないはずはない。
俺はもう一度前に向き直り、中にいるユキを眺めた。

「……あいつ」
「やらせてやれ。ユキが一番、自分でよく分かってる」
「…………」

そう言われて、何かがグッと圧し掛かってくる。こんな発想は一度だってしたことがないし、俺には信仰心なんて欠片もないけど。
もしも神様なんてものがいるんなら、この手で今すぐ殺してやりたいと思った。

だって、なんでユキが。あんなに一生懸命で、誰よりも頑張ってる奴が。ユキならどこまでだって、望む場所を目指して行けたのに。

俺の目の前で、ユキは再び立ち上がった。分かっていても諦めきれないみたいに、またもう一度最初から。
俺は小窓からその様子を正視しながら、どうする事も出来ずにただただ手を強く握りしめていた。
 
「リク」

修二さんから小さく呼ばれたけど、ユキからは目を離せない。必死になって何かにしがみ付く様な、歯を食いしばったその姿。
知っている。見るべきじゃない。でも俺はそうしてやれなかった。
右足が負荷に耐えきれていないユキを、逸らしそうになる目にじっと焼き付けた。

「……なんで……」
「…………」

誰に対してでも、何に対してでもなく、責める対象が分からずに呟いた言葉を修二さんが無言で受け止めた。
後ろから腕を攫まれ、もういいだろうとでも言うように引っ張られる。無気力感の中でその腕に従い、俺はとうとうユキから目を遠ざけて軽く俯いた。

「休憩所。行ってろ」
「え……?」
「コーヒーの一本でも奢ってやる」

いきなり何かと思った。子供みたいに腕を引かれながら言われた言葉。少し歩いた先で腕を放されて、俺は立ち止まったけど修二さんはそのまま歩いて行く。
年上だし、当然いろんな経験値のさもあるとは言え、この人の背中は時々妙に大きく見えることがある。


リープがいつまで開いているのかなんて知らないけど、ユキはまだまだ一人で練習を続ける気だろう。
絶望ってのとも違う。でも見せつけられた現実はショックが大きい。
なんで俺が、とも思うけど。一番辛いのはユキで、誰にも苦しいと言えずに一人で立っていて。
それを分かったような気になっている自分が、情けないというのか、この無神経な軽薄さにムカついた。


なんにもしてやれない。事故った時も、治療を受けていた時も、そして今も。
ユキが何を思って、どこにつまずいて、どれだけ苦しんでいるのか。何一つとして分かっていなかった。

修二さんに言われた通り、立ち寄った休憩スペース。自販機が二台あり、その前方にベンチが並べてある。
ドカッとベンチに腰を降ろし、前屈みのになって合わせた両手で額を押さえた。小さく出てくる溜息は、鬱陶しいものでしかない。
こんな事、考えるべきじゃない。ユキが復帰してからまだ一カ月と経っていないんだから、もう少しすればきっと前みたいに動けるようになる。
途方もなくそんな望みを抱いていると、聞こえてきた足音がこっちに近付いてきた。

「ほれ。これお前のだろ?」

隣に立つと同時に差し出された物。修二さんの手にあったのは、ここに置き忘れていった俺の上着だった。
ユキがあそこを使うから、部屋を出てくるときに一緒に持ってきてくれたんだろう。

力が入っているんだか分らない腕でそれを受け取ると、修二さんは自販機の前へ。次いで差し出された缶コーヒーを目の前に、俺はコクっと頭を下げた。

「……すいません」
「なんだよ、似合わねえの。ついでに泣いとく?」
「泣きませんよ」

泣いていいのは俺じゃない。
コーヒーを開けながら、修二さんは俺の隣に腰かけた。暇さえあれば口を開いている俺が何も言わないもんだから、その代わりと言わんばかりに世間話でもする勢いで話し始めた。

「足に違和感あるってのは、あいつも前から言ってた。今までの分取り戻したいから、少しの時間スタジオ貸してくんねえかって頼まれてさ。まだ無理はすんなつったんだけど聞かなくてな」

俺の内心を酌んで教えてくれる。ベンチの背もたれに寄りかかって、穏やかに流れてくる修二さんの声。
一緒に帰ろー、なんていつもの馬鹿げた調子で誘いをかけて。いつもだったらしぶしぶながらも応じてくれるユキが、ある日を境にスッパリ切り捨ててくるようになった。
それを今、思い出した。

「完全に元通りって訳にはいってねえけど、今だって状態はほとんど完璧に近い。あそこまで右足イジメ抜かなくたってやり用くらい他にもあんのに、負荷から庇ってやろうって気がないんだろ。妥協なんか何があってもしねえんだよな」
「……ユキはそいの……嫌いですし……」
「頑固っつーかなあ。ちょっとくらい逃げ道作っても、あいつならカバーできんだろうけど」

これでいいやって言うラインがない。自分が思う所に到達できなければ、欠落部分がカケラ程度だろうと全てがダメ。
それがユキのやり方だ。ユキが求めているのはただ一つ、百パーセントの完全体。それ以外はゼロと一緒。

極端なまでのポリシーは、これまでのユキを作り上げてきたベースだ。でも今はそのせいで苦しんでいる。
ずっと近くで見てきて、強い精神が綺麗だと思ったけど、それがユキを苦しめるなら弱くたっていい。ああやって自分を痛めつけるくらいなら、もうこれ以上はやめてほしい。

「ユキの足……」

俺には医療知識なんてない。ダンスのテクニックだって、どれだけイキがっていようが実際はまだまだヒヨっ子。
でもなんとなく。したくもない理解のために、こういう時に限って頭が働く。
途切れた俺の言葉をつなぐように、少し間を開けてから修二さんの声が響いた。

「……残ってる。多少なりともクセは。こればっかりはじっとしてて良くなるもんでもないし、慣らすために動かしゃいいってもんでもない」
「…………」

見てきた人だから言える真実。事故の前と全く同じ状態にする方法は、奇跡以外に無いっていう意味。
修二さんの目線は手に持った缶コーヒーに落ちて、俺も黙ったまま、目的もなく足元を眺めた。

「でもまあ、やれるとこまで戻すだろうよ。あいつも馬鹿じゃないしな。自分の限界くらい分かってるはずだし、足の治りまで悪くするような真似だけはしない。もうちょっとすれば、どこに出てったって恥ずかしくないステージも前みたいにできる」
「……それでも」
「ああ。認めねえだろうな、ユキが自分で。この先どうするかはあいつ次第だ」

それが、ユキだから。俺が綺麗だと思ったユキの強さだから。
修二さんの最後の一言には何も返しようがなかった。全てはユキが決めることで、俺が口を挟んでいい問題じゃない。

肩で溜息をついて身を起こし、俺もゆっくりと背もたれに寄りかかった。ぼうっとする頭で何を考えているのかは、この脳の主である自分自身にも分からない。
ただ、修二さんがベンチに缶を置いた音は、耳から入って脳まで伝達されてくる。修二さんは少しだけ俺の表情を窺った後に、前にある自販機に目を向けた。

「そういやなあ」
「……はい?」
「この前のコンテスト。あれ、ユキも見に来てたぞ」
「え」

突然の進路変更に、一瞬付いていけなくて顔を上げた。思わず修二さんに目線をやると、いささか意地の悪い笑みが見えてくる。

「お前がすっ転んだトコもしっかり見てた」
「…………」

この人にまで蒸し返された。ていうか、見てたのかよユキが。第一、来てたの?
コンテストがあったのは、ユキが退院して、俺の部屋に連れてきて、さらに引っ越し先に身を落ち着けてからしばらくした後だ。
その前後に顔を合わせることがあっても、見に行くとかそれらしいことは一言も言っていなかった。

「見てたん、すか……」

コケ野郎の瞬間を。

「おう。すっげえ冷やかな目になってたな。俺の隣にいたんだけど、何やってんだあいつって言いたいのがかなり伝わってきた」
「…………」

そうでしょうとも。あれだけ練習しろって言われてたんだ。
いや、ちゃんとしてたけど。それでも完璧主義なユキに言わせれば、あの失態は軽く死罪。

数カ月越しに知った真相で、俺は気分が悪くなった。なんか、吐きそう。

「怒ってました……?」
「いや、呆れてた」
「……ですよね」

すごく目立つトコで転んだもん。
さっきまでとは別の意味で落ち込みだすと、修二さんは笑い声を隠しもせずに俺の肩をポンポンと叩いた。
だけどすぐ後にかけられたのは、追いうちでも冷やかしでもない。

「見てたよ、ずっと。お前のこと。自分もあん中いるみたいに、楽しそうな顔して」

ふと告げられた、その時のユキの様子。俺とは違って無駄にヘラヘラすることなんてないけど、ダンスにかけてる瞬間のユキはいつだって活き活きしている。それが目に浮かんだ。

「張り合える相手がいるってのは、いくつになってもイイもんだよな」
「……張り合える?」
「お前とユキ。そうだろ?」

言われてみて、少し考えた。
どうなんだろう。張り合ってる……ていうのは、ちょっと自分では実感ないかもしれない。

俺の場合はユキを追いかけて、ここまでガムシャラにやってきた。ユキに振り向いてもらいたいっていう一心で。
でもユキは、そういうのはなさそう。あいつは他人のやることに対して興味がない、というか執着心がない。
周りに左右されることはなくて、自分で信じた道だけをひたすら突き進んでいく。

ユキにとって重要なのは勝つとか負けるとかの力比べよりも、自分がどうありたいかだ。そこに俺が入っていける隙は、とてもじゃないけど無いだろう。
思わぬことを言われてガラにもなく悩み始めた。俺がそうやって苦しんでいるってのに、何が楽しいんだか修二さんはくすくすと笑っている。

「お前ら見てると飽きねえよ」

どういう意味かは分かるようでいて分からない。
俺は首を傾げながら、奢ってもらった缶コーヒーのプルタブに爪を引っ掛けた。


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