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ただの女子高生が異世界に行ったら魔物に喰われたんだけど!?
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「どこここ?」
彼女、中山瑠美の視界に入ったのは地面。クリアな視界は1mにも届かないが、既にそれは見たことのない地面になっていた。アスファルトではなく学校の砂利でもない。まるで枯れ果てた荒野のようなそれだった。
次に見えてきたのは周囲の光景。建物なんて存在せず、植物も生えていない。土、岩、岩山、砂漠や荒野と呼ぶべき場所だった。
何故こんなところにいるのかと考えるも頭痛が激しく、思い出すことも難しい。
友達と四人で学校から帰ってたのは覚えているが、何があったのかあんまり思い出せない。こんなところであたし一人なんて……。……一人?
「圭介?」
ふと隣にいたはずの幼馴染の名を呼ぶ。だが周りを見渡しても誰もいない。あたしだけだ。
「圭介!!優香!!晴斗!!」
大声で友達たちの名前を叫ぶ。返事は帰ってこない。聞こえるのは風と風に舞う砂の音だけ。
「ホントにあたし一人……!?」
理解したくない現実に身体の力は抜け、悲痛に叫び俯き、両手で顔をふさぎ込んでしまう。
ここは非現実の世界なんだって現実逃避したい。でも肌に触れる風の感覚が現実なのだと暗に示してくる。それ以外にも突き刺すような太陽のひか……?
「太陽が二つ?。え?、どういうこと?」
見上げるとそこに見えたのは二つの太陽だった。
おかしい。
あたしの知ってる太陽は一つしかないはずだ。まるで夫婦のごとく寄り添ってる太陽が二つあるなんて見たことも聞いたこともない。
あまりにも非現実的な現実。それは太陽だけに留まらなかった。
「どういうこと!?」
見上げる瞳に映ったのは民間の飛行機よりも遥かに大きい数多くの岩。そしてそれらが連なって蛇のようにうねりながら空を飛ぶ、としか言えないような光景。そのあまりにも非現実な光景に、瑠美は頬をつねってしまう。
「痛い……。現実?。これが?」
よくよく空を見上げてみると明らかに鳥などではない物体が飛んでいる。トカゲのようなものや、明らかにサイズが大きすぎる蝉がいた。
これが現実なのだというなら、この世界はいわゆるファンタジーの世界、というやつだろう。
だとしてもなぜそんな世界にあたしがいるのか。こんな、魔法でも使えそうな世界にいた覚えはない。
「帰れない……のかな?」
余りにも非現実過ぎること、それは帰ることは不可能だと悟らせるには十分だった。
何の所縁もない土地へ飛ばされたこと、一人孤独であることが瑠美のメンタルをひどく弱らせる。泣いてしまうのも無理はなかった。
「帰りたい……ひぐっ……帰りたいよぉ」
そうして10分ほど泣いていただろうか。ここで泣いても誰も助けにきてはくれないし、何よりここでは食べ物も飲み物も存在しないことに瑠美は気づいた。
「もし砂漠だっていうなら夜は寒いはず。制服なんかじゃ耐えられないよね…。…!?」
周囲を見渡し、向かう方向に目途を付ける。かなり遠いけれど荒野ではない色の風景が見えた。
あたしの今からの目的は食べ物とか飲み物があること、そしてこの荒野みたいなところからの脱出だ。
「あっちの……緑がかってる方へ行ってみよ。もし森なら小川とかあるかもだし、果物とかあればお腹はマシになるかも」
緑の風景がある地平線の方へと歩き出す。幸いにも地面は砂ではなく、土のようだった。砂だったら足をとられる心配があったが、それがなくなっただけでも助かる。
「確か地平線って……5kmだっけ?。もしかするとここが地球じゃない可能性だってあるのかな。じゃあ5kmって決め付けるのもよくないかぁ」
どれくらい歩けばいいのかだいたい予想してみる。とりあえず5kmって出したけど、5km歩くのは面倒と言えば面倒。
「他の方法……。いや、そもそも方法全部挙げた方が分かりやすい?」
自分の中の目的とそのための手段の整理もしたい。ならいっそ全部挙げた方が早い。
「まず目的は食べ物と飲み物、それに寝るとこ。理想を言うなら毎日食べれて安心に過ごせるところ」
空にあんなのがいるような世界なら安心に過ごせる場所なんてないかもしれない。だからこれはあくまで理想。
「次にそのための手段、と言っても全然分かんないなー…。方法なんてなりふり構わず生きるためにできることをやるくらいしかもう残ってないし」
こんなサバイバルに何も知らされずにいきなり飛ばされるなんて想像だにしてなかったからどうしようもない。今も飲み物も食べ物もないところにいたら餓死するしか未来がないから移動しているってだけで、その先なんて考えすらしていない。
「不幸中の幸いは空に見えるような化け物が周りに見当たらないことかな。あんなのがもしあたしを食べにきたら一口でパクっといっちゃう」
これだけはホントに助かっている。空であんな化け物がいるなら地上なんてそれこそ弱肉強食待ったなしでしょ。
「身の安全の確保……無理ね。空にいる化け物が襲ってくる保証もない。となると逆に逃げることを前提にするのが妥当ね。いっそ気にしない方がマシ―!?」
荒野のど真ん中を歩いていた瑠美は足を止め、しゃがんでうつ伏せになった。視界に入ったそれが彼女の知る動物に該当するものだったからだ。
視界に何か動いた物が入った。しかも四本足っぽかったような形だった。
「……」
息を殺し、すぐ近くにあった岩場まで這って行く。荒野にはいないのかもという希望は幻だった。もともとあってなかったようなものだけど、さっき倒れてた場所ではラッキーだっただけだったんだ。
地面が土のせいで足音が聞こえない。距離がかなりあることもある。岩場から視認できるのはいいが、あの位置に居られると困る。
ようやく緑の何かが森だと分かった程度には近づけたのだ。居座られている場所は通るのが最短であり、迂回するには体力的にかなりきついだろう。
「……!」
推定動物が少しずつ瑠美のいる岩場へ近づいてくる。瑠美の瞳に映ったそれは狼……のように見える何かだった。狼と呼ぶにはそれはあまりにも残虐極まりない外見だった。
四本足ではなく六本足。牙から血がボタボタと流れ、毛皮は鈍色で刃のように反り立っている。さらに尻尾に至っては3本生えている。
そして何よりもその大きさ。2m以上は確実にある大きさは人を食い殺すなど容易なことだと本能的に分からさせてくる。
「……っ!」
一瞬だけ噛み千切られたあたしの姿が脳裏に浮かぶ。怖い、恐ろしい。そんな言葉でしか言い表すことのできない感情が押し寄せてくる。
漏れ出かかった悲鳴を口に両手を当てて無理やり押し込める。恐怖で涙が流れ出るも、しゃがんでスカートにこすりつける。
できることはここに留まって息を殺すことだけ。
動いているものを見つけたら追いかけてくるのは間違いないだろう。そうなったら待っているのは確実な死だ。それなら留まって見つからないことに賭ける。
「……」
死にたくない、息を殺して両手を合わせてそう祈る。こんなところに神様がいるはずもないけど、何かに縋りたかった。
そして幸いにも祈りは通じたようだった。
狼らしきものは自らの周囲を嗅ぎまわり、その後グルグルと尻尾を追いかけるように回っていた。が、何かを思い出したかのように明後日の方向に走っていった。
「……助かったぁ」
気が抜けてその場に膝から崩れ落ちる。こんなにも死にたくないと願ったのは人生でも初めてだ。が、これからのことを考えると涙が溢れてくる。
「もぅ……あんなの……グスッ」
こんな何もなさそうな荒野でさえあんなのがいるってことは、この世界にはあんなのがそこら中にいるってことだ。言い換えるとこれからこんな風に祈ることなんて日常茶飯事になる。
「無理……」
弱音が自然と出てくる。こんなのないって叫びたい。帰らせてって吼えたい。お母さんに会いたい。一人はやだって何かにぶつけたい。
…圭介たちに会いたい。
「……圭介、優香、晴斗。会いたいよぉ」
止まりかけた涙がまた溢れてくる。こんな風に弱音を吐いたってどうしようもならないことなんて頭では分かってる。でもそうしないと生きることすらやってられない気持ちになる。
だが瑠美はそこであることに気づき、涙が止まった。
「圭介たち……も、いる?。この世界に?」
瑠美が倒れていた場所は荒野のど真ん中だ。そこには瑠美以外誰もいなかった。だから気づきもしなかった。一緒にいた人全員が、別のところにランダムに飛ばされた可能性に。
その可能性は十分あり得る。だってあたしの覚えている地球での最後の光景は、すぐ横に圭介がいたんだから。
「だったら泣いてなんかいられないね」
さっきまでの恐怖で震えていた足に力を込めて立ち上がる。ここで立ち止まって野垂れ死にするわけにはいかない。圭介たちがいるかもしれない。その可能性のために、まずはあの森まで歩いていく。
森の外形が見えてきた。もっともそれがあたしの知っている森と同じものなのかは別の話だ。
まずサイズが大きい。小さくても神社で大切に扱われてる木くらいはありそうだ。
そして何よりおかしいのは色。葉っぱの色は深緑色だと思って来たし、木々の色も茶色と間違いではなかった。が、それは遠くから森を見たらの話だ。木々の隙間の色が水色に見えたり紫に見えたりと、なんだかカラフルに見える。
「大丈夫なのかな……?」
これを地球基準で考えるなら、色が派手なものほど毒を持っている可能性が高いことから、有毒ばかりという判断を下せる。だがここは間違いなく別の星か世界、地球基準にするのも間違いではある。
「森に入るにしてもあともう少しだし、そこまでは歩く―!?」
数歩森に近づいたときそれに気づき、とっさに後ずさる。見たことのないそれを見たことが信じられなかった。
瑠美の視界に入ったのは倒れている人。それも死体だった。
「ひっ」
恐怖にドクンと身体が脈打つ。死体、それも両腕が欠損しており血が流れ出ており、ついさっきまで生きていたことが分かってしまう。
人が生きていて、殺された。信じたくなかった事実を目の前にし、目をとられ、少しずつ正気でいられなくなっていく。
「はっ、はっ!、はっ!!」
呼吸が荒い。過呼吸だと頭で分かっていても身体が息を吸えと求めてしまう。
ダメだ。息を吸いたいけど吸いたくない。だけどこのまま過呼吸になったらさっきの狼が来る。
「~~!!!」
瑠美は自分の右腕に無理やり噛みついた。そして左手は鼻をつまみ、息を吸えなくしていく。息を吸えなくすればいい、瑠美の判断は間違いではなかったが予想を反したものもあった。
「いひゃ!!!」
パニック状態に陥った人の力は通常よりはるかに強くなる。それは瑠美の顎の力に明確に表れていた。
思いっきり噛みついたが故に離れない。その力は噛み千切らんばかりに強くなっていく。
「~~!!。…………ぁ」
だが幸いにも瑠美の噛みつく力はどれだけパニックに陥っても肉を引きちぎる程強くはならなかった。そして不幸中の幸いはもう一つあった。
「はぁー。ふぅー」
あまりに噛みつきが痛かったためか、そちらに意識が向けられ過呼吸だった呼吸が正常に戻りつつあった。
危なかった。こんなところで過呼吸で倒れてたらさっきの狼みたいなのが気づいてあたしは喰われていただろう。噛み傷で血が出ていたとしたらそれも危なかった。噛みついて血が流れてれば匂いできづかれる。
「ふぅー……。よし、治った」
過呼吸は治った。噛みついた跡は残っているけどそれは問題ない。あとは……さっきの死体、あれだ。
「やっぱり死体……だよね」
過呼吸で背けていた目を死体の方に合わせる。さっきは信じられなくて背けてしまったが、もしかしなくても数分後のあたしがこうなってるかもしれないんだ。ある意味この世界の恐ろしさを教えてくれたのだから感謝するべきなのだろう。
「……あ」
瑠美はある事実に気づいてしまった。あの死体は、森の方から出てきたように倒れている。森が危険なのか、あの狼に喰われたのかは分からないが、身体が痩せ細っているわけではない。
即ち、死体が水や食料を持っている可能性があるという事実である。
「食料持ってるかも……しれない」
瑠美は一歩、二歩と少しずつ死体の方へと近づいていく。ハイエナのようなことをしている自覚はある。非人道的なことだということも。
だが空腹もかなりのレベルに達している今、何よりも生きるために瑠美は死体へ近づいていく。
近づくと視界内の何かが動いた気がした。
「ひっ!?」
死体に近づいた瑠美はとっさに後ずさる。
もしかしたら動いたのはこの死体かもしれない。それが怖かった。
「死んで……る、よね。気のせい?」
周囲を見渡しても変わった様子はない。この死体もこの場所からずっと動いてない。
何も起きてない?。そんな感じは……いや、感覚は何か起きたと警鐘を鳴らしてた。後ずさったのもきっとそれのせいだ。
何かが起きてる。それとも何かが起きようとしている?。そんな確信が胸の中を走り抜ける。
スッと死体を調べてすぐに速く森へ入るしかない。そうしないと何かヤバい気がする。
胸の中の確信と共に一歩死体へと近づいた。
その時だった。
「……え?」
まるで空の上から落ちているような、途轍もない浮遊感に襲われる。
足がガクッとしてふらつき、すぐにドサッと横向きに倒れる。だが倒れたら1秒も立たずに浮遊感は消えた。
空の上に飛ばされたわけじゃない。身体の感覚が弄られた?。だとしたら一体誰が……まさか。
「この死た」
瑠美の言葉はその先に行くことはなかった。
瞬きすら間に合わないほどの一瞬、たったそれだけで瑠美は口を動かすことでさえも意識しなければ満足にできなくなっていた。なぜならば彼女の頭の中は全て痛みというシグナルで全て埋め尽くされていたからだ。
「……ぁっ!?」
唐突過ぎる痛みと衝撃。そのあまりにも信じられない光景に、瑠美の口から言葉が出ることはなかった。
その目の向かう先―瑠美の左腕が、肩から先が無くなっていた。
「あ゛あ゛あ゛ああぁぁぁ!!!!!」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!。
肩口から血が溢れ出ていく。その勢いは数分後には失血死を確約できるほどであった。だが痛みでショック死してもおかしくない状況であるにもかかわらず、瑠美の意識はまだはっきりとしていた。
もっとも、意識がなかった方が幸せだったと言えるだろう。
左腕を注視する瑠美の瞳にはもう一つ、見えてはいけないものが映っていた。
「gruuuu……」
瑠美の顔がグチャグチャと音を立てているほうへ向けられる。そこに現れていたのは―
「gaaaa」
「ru……」
「ha-ha-」
―グチャグチャと私の左腕を食べている狼らしきものの群れだった。
「あ……ぁ……」
徐々に瑠美の声は小さくなっていく。それは本能的に生きることを投げ出すには十分すぎる光景だった。
だがそれでも瑠美の意識ははっきりとしていた。痛みは変わらず、目の前に死そのものが迫っている。そんな状況でも意識は失っていなかった。
そしてなけなしの理性で気づく。おかしい、なぜあたしは死んでいないのだ、と。右腕が食い千切られるほどの衝撃と失血ならばショック死する方がまだ可能性としては高いだろう。
「がっ!?」
再び身体に衝撃が走る。それはさっきの食い千切られた時とは違い、大きな何かが身体の中心にぶつかるような衝撃だった。
荒野の方へと数m吹き飛ばされる瑠美。吹き飛ばされたその先には、覚えのある悪臭がしていた。
それが悪臭だけではないことは地面に触れている右手が証明していた。
「っ!?」
ジュワっという音と共に溶けていく右手の手の平。爛れ、筋肉すら溶け、骨まで見えるように溶けていく。
離れようとどうにかして動こうとするも、瑠美の身体は動かなった――否、動けなかった。
「guru」
3mを超える狼が如き動物が、足一本で瑠美を身体の上から押さえつけていた。
身体の中心線をとらえ、3mを超える狼がその大きさを、質量をただ押し付ける。それだけで50kg程度の瑠美は動けなくなっていた。
「ぁぁぁぁぁぁ……」
押さえつける力は徐々に強くなっていき肺から空気が漏れていく。吹き飛ばされた衝撃で痛み、声など出ないはずの声帯が悲鳴をあげる。
狼の足は徐々に体重のかけ方を強める。それが何を意味するのか、瑠美は理解できていたが最早身体が言うことを聞くことはなかった。
(こいつら……あたしをいたぶってる)
その数秒後、瑠美は身体の中心を踏み砕かれ絶命した。
あたしの視界には目の前に死体が転がっていた。あたしの知ってる死体だ。
「……え?」
周囲を見渡す。そこはカラフルな森の手前までもうすぐという場所。荒野のど真ん中ではない。
「夢?」
あり得ない。痛覚や嗅覚を誤認するような夢などあたしの知ってる限り存在しないはずだ。
仮にそんな夢や幻があったとしたら、それは現実と果たしてどう違うのかあたしには分からない。
それにあれほど恐ろしい存在が目の前にいた事実。信じたくないのは当たり前だった。
「だけど何でまたこんなところに?」
まるでさっきの出来事が起きる前のタイミングだ。もしこのまま目の前の死体に近づけば同じことが起きるのかもしれない。
絶対に嫌。さっきの出来事をもう一度なんて誰が好き好んで体験するものですか!。
「じゃあこの死体は放っておいて森……。……え?」
森の方へ身体を向けた瞬間、あり得てはいけない事実に気づいてしまう。なぜ気づかないのか理解を拒む事実だ。
左腕が、肩口から無くなっていた。さっきの夢とは違い傷ついた様子もなく、まるで生まれた時から隻腕でいたかのようなそれだった。
そしてその傷が何を意味しているのか、瑠美には分かってしまった。それは余りにも生々しい体験が今しがただったから、本能的に理解させられたから。
「さっき死んだときの最初のやつ……!」
右の手の平を無くなった左腕の肩口に触れる。痛みはなく、まるで削り取られたかのような断面が言葉に出したことを証明していた。
これが夢でないとしたら、現実だというのなら、さっきのことは起きたこと?。それとも起き得ること?。またここにいたら同じことが起きる?
また同じような目に合う?。嫌だ、嫌だ、あんなの目にまた合うくらいなら今すぐに死にたい。ちがう、死にたくない。怖い。今すぐに逃げ出さないと。
逃げようと走り出そうとして気づく。ここが何処なのか、ということに。
「どこに……逃げる?」
絶望的な事実に瑠美は気づいてしまう。
さっきの夢が現実なら、荒野は狼たちのテリトリー。ここから数歩でも踏み出せば襲われる。だとしたら……逃げ場所などありはしない。
周りを見渡しても狼がいる様子はない。だけど多分どこかにいるか、とんでもない速さで走れるんだろう。左腕が喰い千切られた時、あたしは千切られたことが分からなかった。まるで千切られた瞬間の痛みもなかった。だからあたしが痛いって感じる前に食い千切れるほどの速さを持ってるのは間違いない。
けどそれが分かったからって……どうする?。せいぜいできるのは逃げる方向を考えることくらいだ。
逃げようとして喰われることが分かっているとしても、だ。
「森の方へ……ダッシュで走る。しかない、かな」
がくがくと震える足を右手でひっぱたく。震えはマシになったけど、全力でダッシュするのは難しい。ここまで歩いてきている疲労も残っていることもある。だけどそれどころじゃない。
瑠美は持てる全力で森の方へと走った。息は恐怖で震え、足は踏ん張りがきかない。だがそれでも死にたくないという意志が勝ったのか、コケることはなく、荒野から森の入口まで走り抜けることに成功した。
「はぁ……はぁ……」
近くにあった木によりかかり座り込む。
息切れがひどい。いや、息切れだけじゃない。頭痛もするし、今にも吐き出しそうなほどに吐き気がひどい。疲労がたまっている上にとんでもない恐怖が襲ってた。それでも全力で走ったからだろう。
だけどそのおかげで森までこれた。あの狼たちが荒野で動いてるなら襲われる危険はなくなるはずだ。
「息切れとかぁっ……治まったらっ……進まないと」
深呼吸を何度か繰り返し、少しずつ息を整えていく。危険が減ったという事実が少しだけ精神的に余裕を持たせていた。
あと少しだけ。あと少しだけあれば動けるようになる。そうすれば逃げ―
「gruuu」
「嘘……。冗談でしょ……!?」
―ることは不可能なのだと唸り声が聞こえた。その声は真正面から……いいや、目の前から聞こえていた。
「にげ」
「gau」
瑠美が立ち上がるよりも速く、狼が瑠美へと口へ噛みついた。口どころか顎まで噛みつき、一瞬で喰らい千切った。
瑠美にとって幸いなのは狼の動作は知覚できるような速度ではなかったことだろう。仮に知覚することができ、痛覚が正しく発生していたらは間違いなくショック死していたことは確実だった。
喰い千切られた箇所から大量の血が噴き出す。数秒もせずに失血死することが約束されるほどの量だ。
瑠美は白目を剥き倒れ込む。意識はほとんどなかったが、何をされたのか理解することを半分だけできてしまっていた。
即ち、口と唇を奪われたということである。そのショックは余りにも大きく、精神を停止させるには十分だった。
倒れ込んだ瑠美に、いつの間にか現れていた数頭の狼が襲い掛かる。グチャグチャという音と共に瑠美は身体は食い漁られ、瑠美は命を落とした。
目を開く。ただそれだけの行為だというのに、何故か恐ろしく感じた。
(ここ……嘘……でしょ……?)
目の前の光景、それは目の前に死体がある荒野だった。瑠美は余りにも信じられず、嘘なんだと声に出していたはずだった。だが声は出ておらず、頭の中に声はエコーするだけだった。
(声が!?。何で!?)
声が出ない。だがそれは声帯が動いてないわけではなく、ただ口そのものがなかったためだった。
恐る恐る右手を口に触れる。痛みは……ないとは言わないけど、完治した傷口を上からつつくようなものだった。
だが口がないことよりもはるかに瑠美が怯える理由がそこにはあった。
(傷跡がまるで牙で噛みつかれたような……!?)
口があったところに触れて、気づいてしまった。その傷跡の形状から何が原因でこうなったのか。そしてこんな傷を受ければ、普通なら死ぬようなことになっているはずということも。
(ま、さか)
左腕の感覚が存在していない。右手で触れようとしても左腕はなく、左肩に傷跡が残っているだけ。その傷をなぞるように右手で触れる。
そして瑠美は、その傷跡がほとんど同じものだったという事実を知ってしまった。
(あ、あ、あ……)
これは夢じゃない。夢ならあんな激痛や恐怖を味わうはずもない。
(い、や)
夢ではないのに死んだことが二度もある。死んだのに夢ではないというなら、それは夢ではない何かであってそこでは死んだことが認識できてしまうことだろう。
(いや!いやぁぁ!!!!)
だが欠損している左腕と口や顎。そしてこの傷跡は喰われたところ。これが意味することはつまり―
(誰か……助けて)
―喰われたところをそのままに、それ以外を元の生きている状態にすることで死んだことをなくしてる。
余りにも恐ろしい事実を前に瑠美はへたりと座り込む。そこが狼のテリトリーで、逃げられないことは知っている。だが死んだところで再び喰われる事実、瑠美は抵抗する気力すら湧かなくなってきていた。
(助けて……誰か……)
涙が溢れ、誰かに助けを求め続ける。それが叶わない願いだとしても、今この時を変えられる何かに縋るしかなかった。
誰でもいい。あたしだけじゃどうしようもできない。圭介、優香、晴斗……誰でもいいから助けてよぉ。
瑠美は泣き崩れ、涙を溢し続ける。だがそれすら許さないと言わんばかりに目の前に恐怖が現れる。
(え?)
顔を上げた瞬間、牙から流れ出る血のような液体が……あたしの顔に降りかかる。
ジュワッという音と共に顔が溶けていく。
痛覚はまだ残ってるし、思いっきり痛いって叫びたい。けれど口は喰われて声は出せない上、身体が途轍もなく重くて動かすこともできない。
仰向けになり顔を動かすこともできない瑠美は気づけなかったが、瑠美の周りに狼は3頭どころではなく、数十頭はいた。そして彼らは食い千切った右足を貪るか、瑠美の身体を押さえつけていた。
瑠美の顔は徐々に溶けていき、少しずつ身体の反射的反応も遅くなっていく。瑠美の意識は既に消え、身体だけが勝手に反応していた。
そして瑠美の身体の反応がなくなった。それとほぼ同時に、瑠美の頭は噛み砕かれた。
それからは目を覚ましては狼に喰われ、命を落としては目を覚ます。
それをは何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……繰り返された。
そして瑠美の最後の欠片は狼ではなく死体に喰われ、瑠美と呼ばれた存在は世界から消失した。
こうしてこの世界から瑠美という存在が消失した。だが瑠美がかつてこの世界に存在していて、消失したということを知る者は、この世界に一人だけいた。
それは最も強い繋がりを持つものだったから。失った時に誰よりも瑠美を想っていたから。そして―彼は繋がりを紡げるものだから。
「る……み……」
彼―瑠美の幼馴染である圭介が目を覚ますのは、全てが終わった後のことだった。
彼女、中山瑠美の視界に入ったのは地面。クリアな視界は1mにも届かないが、既にそれは見たことのない地面になっていた。アスファルトではなく学校の砂利でもない。まるで枯れ果てた荒野のようなそれだった。
次に見えてきたのは周囲の光景。建物なんて存在せず、植物も生えていない。土、岩、岩山、砂漠や荒野と呼ぶべき場所だった。
何故こんなところにいるのかと考えるも頭痛が激しく、思い出すことも難しい。
友達と四人で学校から帰ってたのは覚えているが、何があったのかあんまり思い出せない。こんなところであたし一人なんて……。……一人?
「圭介?」
ふと隣にいたはずの幼馴染の名を呼ぶ。だが周りを見渡しても誰もいない。あたしだけだ。
「圭介!!優香!!晴斗!!」
大声で友達たちの名前を叫ぶ。返事は帰ってこない。聞こえるのは風と風に舞う砂の音だけ。
「ホントにあたし一人……!?」
理解したくない現実に身体の力は抜け、悲痛に叫び俯き、両手で顔をふさぎ込んでしまう。
ここは非現実の世界なんだって現実逃避したい。でも肌に触れる風の感覚が現実なのだと暗に示してくる。それ以外にも突き刺すような太陽のひか……?
「太陽が二つ?。え?、どういうこと?」
見上げるとそこに見えたのは二つの太陽だった。
おかしい。
あたしの知ってる太陽は一つしかないはずだ。まるで夫婦のごとく寄り添ってる太陽が二つあるなんて見たことも聞いたこともない。
あまりにも非現実的な現実。それは太陽だけに留まらなかった。
「どういうこと!?」
見上げる瞳に映ったのは民間の飛行機よりも遥かに大きい数多くの岩。そしてそれらが連なって蛇のようにうねりながら空を飛ぶ、としか言えないような光景。そのあまりにも非現実な光景に、瑠美は頬をつねってしまう。
「痛い……。現実?。これが?」
よくよく空を見上げてみると明らかに鳥などではない物体が飛んでいる。トカゲのようなものや、明らかにサイズが大きすぎる蝉がいた。
これが現実なのだというなら、この世界はいわゆるファンタジーの世界、というやつだろう。
だとしてもなぜそんな世界にあたしがいるのか。こんな、魔法でも使えそうな世界にいた覚えはない。
「帰れない……のかな?」
余りにも非現実過ぎること、それは帰ることは不可能だと悟らせるには十分だった。
何の所縁もない土地へ飛ばされたこと、一人孤独であることが瑠美のメンタルをひどく弱らせる。泣いてしまうのも無理はなかった。
「帰りたい……ひぐっ……帰りたいよぉ」
そうして10分ほど泣いていただろうか。ここで泣いても誰も助けにきてはくれないし、何よりここでは食べ物も飲み物も存在しないことに瑠美は気づいた。
「もし砂漠だっていうなら夜は寒いはず。制服なんかじゃ耐えられないよね…。…!?」
周囲を見渡し、向かう方向に目途を付ける。かなり遠いけれど荒野ではない色の風景が見えた。
あたしの今からの目的は食べ物とか飲み物があること、そしてこの荒野みたいなところからの脱出だ。
「あっちの……緑がかってる方へ行ってみよ。もし森なら小川とかあるかもだし、果物とかあればお腹はマシになるかも」
緑の風景がある地平線の方へと歩き出す。幸いにも地面は砂ではなく、土のようだった。砂だったら足をとられる心配があったが、それがなくなっただけでも助かる。
「確か地平線って……5kmだっけ?。もしかするとここが地球じゃない可能性だってあるのかな。じゃあ5kmって決め付けるのもよくないかぁ」
どれくらい歩けばいいのかだいたい予想してみる。とりあえず5kmって出したけど、5km歩くのは面倒と言えば面倒。
「他の方法……。いや、そもそも方法全部挙げた方が分かりやすい?」
自分の中の目的とそのための手段の整理もしたい。ならいっそ全部挙げた方が早い。
「まず目的は食べ物と飲み物、それに寝るとこ。理想を言うなら毎日食べれて安心に過ごせるところ」
空にあんなのがいるような世界なら安心に過ごせる場所なんてないかもしれない。だからこれはあくまで理想。
「次にそのための手段、と言っても全然分かんないなー…。方法なんてなりふり構わず生きるためにできることをやるくらいしかもう残ってないし」
こんなサバイバルに何も知らされずにいきなり飛ばされるなんて想像だにしてなかったからどうしようもない。今も飲み物も食べ物もないところにいたら餓死するしか未来がないから移動しているってだけで、その先なんて考えすらしていない。
「不幸中の幸いは空に見えるような化け物が周りに見当たらないことかな。あんなのがもしあたしを食べにきたら一口でパクっといっちゃう」
これだけはホントに助かっている。空であんな化け物がいるなら地上なんてそれこそ弱肉強食待ったなしでしょ。
「身の安全の確保……無理ね。空にいる化け物が襲ってくる保証もない。となると逆に逃げることを前提にするのが妥当ね。いっそ気にしない方がマシ―!?」
荒野のど真ん中を歩いていた瑠美は足を止め、しゃがんでうつ伏せになった。視界に入ったそれが彼女の知る動物に該当するものだったからだ。
視界に何か動いた物が入った。しかも四本足っぽかったような形だった。
「……」
息を殺し、すぐ近くにあった岩場まで這って行く。荒野にはいないのかもという希望は幻だった。もともとあってなかったようなものだけど、さっき倒れてた場所ではラッキーだっただけだったんだ。
地面が土のせいで足音が聞こえない。距離がかなりあることもある。岩場から視認できるのはいいが、あの位置に居られると困る。
ようやく緑の何かが森だと分かった程度には近づけたのだ。居座られている場所は通るのが最短であり、迂回するには体力的にかなりきついだろう。
「……!」
推定動物が少しずつ瑠美のいる岩場へ近づいてくる。瑠美の瞳に映ったそれは狼……のように見える何かだった。狼と呼ぶにはそれはあまりにも残虐極まりない外見だった。
四本足ではなく六本足。牙から血がボタボタと流れ、毛皮は鈍色で刃のように反り立っている。さらに尻尾に至っては3本生えている。
そして何よりもその大きさ。2m以上は確実にある大きさは人を食い殺すなど容易なことだと本能的に分からさせてくる。
「……っ!」
一瞬だけ噛み千切られたあたしの姿が脳裏に浮かぶ。怖い、恐ろしい。そんな言葉でしか言い表すことのできない感情が押し寄せてくる。
漏れ出かかった悲鳴を口に両手を当てて無理やり押し込める。恐怖で涙が流れ出るも、しゃがんでスカートにこすりつける。
できることはここに留まって息を殺すことだけ。
動いているものを見つけたら追いかけてくるのは間違いないだろう。そうなったら待っているのは確実な死だ。それなら留まって見つからないことに賭ける。
「……」
死にたくない、息を殺して両手を合わせてそう祈る。こんなところに神様がいるはずもないけど、何かに縋りたかった。
そして幸いにも祈りは通じたようだった。
狼らしきものは自らの周囲を嗅ぎまわり、その後グルグルと尻尾を追いかけるように回っていた。が、何かを思い出したかのように明後日の方向に走っていった。
「……助かったぁ」
気が抜けてその場に膝から崩れ落ちる。こんなにも死にたくないと願ったのは人生でも初めてだ。が、これからのことを考えると涙が溢れてくる。
「もぅ……あんなの……グスッ」
こんな何もなさそうな荒野でさえあんなのがいるってことは、この世界にはあんなのがそこら中にいるってことだ。言い換えるとこれからこんな風に祈ることなんて日常茶飯事になる。
「無理……」
弱音が自然と出てくる。こんなのないって叫びたい。帰らせてって吼えたい。お母さんに会いたい。一人はやだって何かにぶつけたい。
…圭介たちに会いたい。
「……圭介、優香、晴斗。会いたいよぉ」
止まりかけた涙がまた溢れてくる。こんな風に弱音を吐いたってどうしようもならないことなんて頭では分かってる。でもそうしないと生きることすらやってられない気持ちになる。
だが瑠美はそこであることに気づき、涙が止まった。
「圭介たち……も、いる?。この世界に?」
瑠美が倒れていた場所は荒野のど真ん中だ。そこには瑠美以外誰もいなかった。だから気づきもしなかった。一緒にいた人全員が、別のところにランダムに飛ばされた可能性に。
その可能性は十分あり得る。だってあたしの覚えている地球での最後の光景は、すぐ横に圭介がいたんだから。
「だったら泣いてなんかいられないね」
さっきまでの恐怖で震えていた足に力を込めて立ち上がる。ここで立ち止まって野垂れ死にするわけにはいかない。圭介たちがいるかもしれない。その可能性のために、まずはあの森まで歩いていく。
森の外形が見えてきた。もっともそれがあたしの知っている森と同じものなのかは別の話だ。
まずサイズが大きい。小さくても神社で大切に扱われてる木くらいはありそうだ。
そして何よりおかしいのは色。葉っぱの色は深緑色だと思って来たし、木々の色も茶色と間違いではなかった。が、それは遠くから森を見たらの話だ。木々の隙間の色が水色に見えたり紫に見えたりと、なんだかカラフルに見える。
「大丈夫なのかな……?」
これを地球基準で考えるなら、色が派手なものほど毒を持っている可能性が高いことから、有毒ばかりという判断を下せる。だがここは間違いなく別の星か世界、地球基準にするのも間違いではある。
「森に入るにしてもあともう少しだし、そこまでは歩く―!?」
数歩森に近づいたときそれに気づき、とっさに後ずさる。見たことのないそれを見たことが信じられなかった。
瑠美の視界に入ったのは倒れている人。それも死体だった。
「ひっ」
恐怖にドクンと身体が脈打つ。死体、それも両腕が欠損しており血が流れ出ており、ついさっきまで生きていたことが分かってしまう。
人が生きていて、殺された。信じたくなかった事実を目の前にし、目をとられ、少しずつ正気でいられなくなっていく。
「はっ、はっ!、はっ!!」
呼吸が荒い。過呼吸だと頭で分かっていても身体が息を吸えと求めてしまう。
ダメだ。息を吸いたいけど吸いたくない。だけどこのまま過呼吸になったらさっきの狼が来る。
「~~!!!」
瑠美は自分の右腕に無理やり噛みついた。そして左手は鼻をつまみ、息を吸えなくしていく。息を吸えなくすればいい、瑠美の判断は間違いではなかったが予想を反したものもあった。
「いひゃ!!!」
パニック状態に陥った人の力は通常よりはるかに強くなる。それは瑠美の顎の力に明確に表れていた。
思いっきり噛みついたが故に離れない。その力は噛み千切らんばかりに強くなっていく。
「~~!!。…………ぁ」
だが幸いにも瑠美の噛みつく力はどれだけパニックに陥っても肉を引きちぎる程強くはならなかった。そして不幸中の幸いはもう一つあった。
「はぁー。ふぅー」
あまりに噛みつきが痛かったためか、そちらに意識が向けられ過呼吸だった呼吸が正常に戻りつつあった。
危なかった。こんなところで過呼吸で倒れてたらさっきの狼みたいなのが気づいてあたしは喰われていただろう。噛み傷で血が出ていたとしたらそれも危なかった。噛みついて血が流れてれば匂いできづかれる。
「ふぅー……。よし、治った」
過呼吸は治った。噛みついた跡は残っているけどそれは問題ない。あとは……さっきの死体、あれだ。
「やっぱり死体……だよね」
過呼吸で背けていた目を死体の方に合わせる。さっきは信じられなくて背けてしまったが、もしかしなくても数分後のあたしがこうなってるかもしれないんだ。ある意味この世界の恐ろしさを教えてくれたのだから感謝するべきなのだろう。
「……あ」
瑠美はある事実に気づいてしまった。あの死体は、森の方から出てきたように倒れている。森が危険なのか、あの狼に喰われたのかは分からないが、身体が痩せ細っているわけではない。
即ち、死体が水や食料を持っている可能性があるという事実である。
「食料持ってるかも……しれない」
瑠美は一歩、二歩と少しずつ死体の方へと近づいていく。ハイエナのようなことをしている自覚はある。非人道的なことだということも。
だが空腹もかなりのレベルに達している今、何よりも生きるために瑠美は死体へ近づいていく。
近づくと視界内の何かが動いた気がした。
「ひっ!?」
死体に近づいた瑠美はとっさに後ずさる。
もしかしたら動いたのはこの死体かもしれない。それが怖かった。
「死んで……る、よね。気のせい?」
周囲を見渡しても変わった様子はない。この死体もこの場所からずっと動いてない。
何も起きてない?。そんな感じは……いや、感覚は何か起きたと警鐘を鳴らしてた。後ずさったのもきっとそれのせいだ。
何かが起きてる。それとも何かが起きようとしている?。そんな確信が胸の中を走り抜ける。
スッと死体を調べてすぐに速く森へ入るしかない。そうしないと何かヤバい気がする。
胸の中の確信と共に一歩死体へと近づいた。
その時だった。
「……え?」
まるで空の上から落ちているような、途轍もない浮遊感に襲われる。
足がガクッとしてふらつき、すぐにドサッと横向きに倒れる。だが倒れたら1秒も立たずに浮遊感は消えた。
空の上に飛ばされたわけじゃない。身体の感覚が弄られた?。だとしたら一体誰が……まさか。
「この死た」
瑠美の言葉はその先に行くことはなかった。
瞬きすら間に合わないほどの一瞬、たったそれだけで瑠美は口を動かすことでさえも意識しなければ満足にできなくなっていた。なぜならば彼女の頭の中は全て痛みというシグナルで全て埋め尽くされていたからだ。
「……ぁっ!?」
唐突過ぎる痛みと衝撃。そのあまりにも信じられない光景に、瑠美の口から言葉が出ることはなかった。
その目の向かう先―瑠美の左腕が、肩から先が無くなっていた。
「あ゛あ゛あ゛ああぁぁぁ!!!!!」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!。
肩口から血が溢れ出ていく。その勢いは数分後には失血死を確約できるほどであった。だが痛みでショック死してもおかしくない状況であるにもかかわらず、瑠美の意識はまだはっきりとしていた。
もっとも、意識がなかった方が幸せだったと言えるだろう。
左腕を注視する瑠美の瞳にはもう一つ、見えてはいけないものが映っていた。
「gruuuu……」
瑠美の顔がグチャグチャと音を立てているほうへ向けられる。そこに現れていたのは―
「gaaaa」
「ru……」
「ha-ha-」
―グチャグチャと私の左腕を食べている狼らしきものの群れだった。
「あ……ぁ……」
徐々に瑠美の声は小さくなっていく。それは本能的に生きることを投げ出すには十分すぎる光景だった。
だがそれでも瑠美の意識ははっきりとしていた。痛みは変わらず、目の前に死そのものが迫っている。そんな状況でも意識は失っていなかった。
そしてなけなしの理性で気づく。おかしい、なぜあたしは死んでいないのだ、と。右腕が食い千切られるほどの衝撃と失血ならばショック死する方がまだ可能性としては高いだろう。
「がっ!?」
再び身体に衝撃が走る。それはさっきの食い千切られた時とは違い、大きな何かが身体の中心にぶつかるような衝撃だった。
荒野の方へと数m吹き飛ばされる瑠美。吹き飛ばされたその先には、覚えのある悪臭がしていた。
それが悪臭だけではないことは地面に触れている右手が証明していた。
「っ!?」
ジュワっという音と共に溶けていく右手の手の平。爛れ、筋肉すら溶け、骨まで見えるように溶けていく。
離れようとどうにかして動こうとするも、瑠美の身体は動かなった――否、動けなかった。
「guru」
3mを超える狼が如き動物が、足一本で瑠美を身体の上から押さえつけていた。
身体の中心線をとらえ、3mを超える狼がその大きさを、質量をただ押し付ける。それだけで50kg程度の瑠美は動けなくなっていた。
「ぁぁぁぁぁぁ……」
押さえつける力は徐々に強くなっていき肺から空気が漏れていく。吹き飛ばされた衝撃で痛み、声など出ないはずの声帯が悲鳴をあげる。
狼の足は徐々に体重のかけ方を強める。それが何を意味するのか、瑠美は理解できていたが最早身体が言うことを聞くことはなかった。
(こいつら……あたしをいたぶってる)
その数秒後、瑠美は身体の中心を踏み砕かれ絶命した。
あたしの視界には目の前に死体が転がっていた。あたしの知ってる死体だ。
「……え?」
周囲を見渡す。そこはカラフルな森の手前までもうすぐという場所。荒野のど真ん中ではない。
「夢?」
あり得ない。痛覚や嗅覚を誤認するような夢などあたしの知ってる限り存在しないはずだ。
仮にそんな夢や幻があったとしたら、それは現実と果たしてどう違うのかあたしには分からない。
それにあれほど恐ろしい存在が目の前にいた事実。信じたくないのは当たり前だった。
「だけど何でまたこんなところに?」
まるでさっきの出来事が起きる前のタイミングだ。もしこのまま目の前の死体に近づけば同じことが起きるのかもしれない。
絶対に嫌。さっきの出来事をもう一度なんて誰が好き好んで体験するものですか!。
「じゃあこの死体は放っておいて森……。……え?」
森の方へ身体を向けた瞬間、あり得てはいけない事実に気づいてしまう。なぜ気づかないのか理解を拒む事実だ。
左腕が、肩口から無くなっていた。さっきの夢とは違い傷ついた様子もなく、まるで生まれた時から隻腕でいたかのようなそれだった。
そしてその傷が何を意味しているのか、瑠美には分かってしまった。それは余りにも生々しい体験が今しがただったから、本能的に理解させられたから。
「さっき死んだときの最初のやつ……!」
右の手の平を無くなった左腕の肩口に触れる。痛みはなく、まるで削り取られたかのような断面が言葉に出したことを証明していた。
これが夢でないとしたら、現実だというのなら、さっきのことは起きたこと?。それとも起き得ること?。またここにいたら同じことが起きる?
また同じような目に合う?。嫌だ、嫌だ、あんなの目にまた合うくらいなら今すぐに死にたい。ちがう、死にたくない。怖い。今すぐに逃げ出さないと。
逃げようと走り出そうとして気づく。ここが何処なのか、ということに。
「どこに……逃げる?」
絶望的な事実に瑠美は気づいてしまう。
さっきの夢が現実なら、荒野は狼たちのテリトリー。ここから数歩でも踏み出せば襲われる。だとしたら……逃げ場所などありはしない。
周りを見渡しても狼がいる様子はない。だけど多分どこかにいるか、とんでもない速さで走れるんだろう。左腕が喰い千切られた時、あたしは千切られたことが分からなかった。まるで千切られた瞬間の痛みもなかった。だからあたしが痛いって感じる前に食い千切れるほどの速さを持ってるのは間違いない。
けどそれが分かったからって……どうする?。せいぜいできるのは逃げる方向を考えることくらいだ。
逃げようとして喰われることが分かっているとしても、だ。
「森の方へ……ダッシュで走る。しかない、かな」
がくがくと震える足を右手でひっぱたく。震えはマシになったけど、全力でダッシュするのは難しい。ここまで歩いてきている疲労も残っていることもある。だけどそれどころじゃない。
瑠美は持てる全力で森の方へと走った。息は恐怖で震え、足は踏ん張りがきかない。だがそれでも死にたくないという意志が勝ったのか、コケることはなく、荒野から森の入口まで走り抜けることに成功した。
「はぁ……はぁ……」
近くにあった木によりかかり座り込む。
息切れがひどい。いや、息切れだけじゃない。頭痛もするし、今にも吐き出しそうなほどに吐き気がひどい。疲労がたまっている上にとんでもない恐怖が襲ってた。それでも全力で走ったからだろう。
だけどそのおかげで森までこれた。あの狼たちが荒野で動いてるなら襲われる危険はなくなるはずだ。
「息切れとかぁっ……治まったらっ……進まないと」
深呼吸を何度か繰り返し、少しずつ息を整えていく。危険が減ったという事実が少しだけ精神的に余裕を持たせていた。
あと少しだけ。あと少しだけあれば動けるようになる。そうすれば逃げ―
「gruuu」
「嘘……。冗談でしょ……!?」
―ることは不可能なのだと唸り声が聞こえた。その声は真正面から……いいや、目の前から聞こえていた。
「にげ」
「gau」
瑠美が立ち上がるよりも速く、狼が瑠美へと口へ噛みついた。口どころか顎まで噛みつき、一瞬で喰らい千切った。
瑠美にとって幸いなのは狼の動作は知覚できるような速度ではなかったことだろう。仮に知覚することができ、痛覚が正しく発生していたらは間違いなくショック死していたことは確実だった。
喰い千切られた箇所から大量の血が噴き出す。数秒もせずに失血死することが約束されるほどの量だ。
瑠美は白目を剥き倒れ込む。意識はほとんどなかったが、何をされたのか理解することを半分だけできてしまっていた。
即ち、口と唇を奪われたということである。そのショックは余りにも大きく、精神を停止させるには十分だった。
倒れ込んだ瑠美に、いつの間にか現れていた数頭の狼が襲い掛かる。グチャグチャという音と共に瑠美は身体は食い漁られ、瑠美は命を落とした。
目を開く。ただそれだけの行為だというのに、何故か恐ろしく感じた。
(ここ……嘘……でしょ……?)
目の前の光景、それは目の前に死体がある荒野だった。瑠美は余りにも信じられず、嘘なんだと声に出していたはずだった。だが声は出ておらず、頭の中に声はエコーするだけだった。
(声が!?。何で!?)
声が出ない。だがそれは声帯が動いてないわけではなく、ただ口そのものがなかったためだった。
恐る恐る右手を口に触れる。痛みは……ないとは言わないけど、完治した傷口を上からつつくようなものだった。
だが口がないことよりもはるかに瑠美が怯える理由がそこにはあった。
(傷跡がまるで牙で噛みつかれたような……!?)
口があったところに触れて、気づいてしまった。その傷跡の形状から何が原因でこうなったのか。そしてこんな傷を受ければ、普通なら死ぬようなことになっているはずということも。
(ま、さか)
左腕の感覚が存在していない。右手で触れようとしても左腕はなく、左肩に傷跡が残っているだけ。その傷をなぞるように右手で触れる。
そして瑠美は、その傷跡がほとんど同じものだったという事実を知ってしまった。
(あ、あ、あ……)
これは夢じゃない。夢ならあんな激痛や恐怖を味わうはずもない。
(い、や)
夢ではないのに死んだことが二度もある。死んだのに夢ではないというなら、それは夢ではない何かであってそこでは死んだことが認識できてしまうことだろう。
(いや!いやぁぁ!!!!)
だが欠損している左腕と口や顎。そしてこの傷跡は喰われたところ。これが意味することはつまり―
(誰か……助けて)
―喰われたところをそのままに、それ以外を元の生きている状態にすることで死んだことをなくしてる。
余りにも恐ろしい事実を前に瑠美はへたりと座り込む。そこが狼のテリトリーで、逃げられないことは知っている。だが死んだところで再び喰われる事実、瑠美は抵抗する気力すら湧かなくなってきていた。
(助けて……誰か……)
涙が溢れ、誰かに助けを求め続ける。それが叶わない願いだとしても、今この時を変えられる何かに縋るしかなかった。
誰でもいい。あたしだけじゃどうしようもできない。圭介、優香、晴斗……誰でもいいから助けてよぉ。
瑠美は泣き崩れ、涙を溢し続ける。だがそれすら許さないと言わんばかりに目の前に恐怖が現れる。
(え?)
顔を上げた瞬間、牙から流れ出る血のような液体が……あたしの顔に降りかかる。
ジュワッという音と共に顔が溶けていく。
痛覚はまだ残ってるし、思いっきり痛いって叫びたい。けれど口は喰われて声は出せない上、身体が途轍もなく重くて動かすこともできない。
仰向けになり顔を動かすこともできない瑠美は気づけなかったが、瑠美の周りに狼は3頭どころではなく、数十頭はいた。そして彼らは食い千切った右足を貪るか、瑠美の身体を押さえつけていた。
瑠美の顔は徐々に溶けていき、少しずつ身体の反射的反応も遅くなっていく。瑠美の意識は既に消え、身体だけが勝手に反応していた。
そして瑠美の身体の反応がなくなった。それとほぼ同時に、瑠美の頭は噛み砕かれた。
それからは目を覚ましては狼に喰われ、命を落としては目を覚ます。
それをは何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……繰り返された。
そして瑠美の最後の欠片は狼ではなく死体に喰われ、瑠美と呼ばれた存在は世界から消失した。
こうしてこの世界から瑠美という存在が消失した。だが瑠美がかつてこの世界に存在していて、消失したということを知る者は、この世界に一人だけいた。
それは最も強い繋がりを持つものだったから。失った時に誰よりも瑠美を想っていたから。そして―彼は繋がりを紡げるものだから。
「る……み……」
彼―瑠美の幼馴染である圭介が目を覚ますのは、全てが終わった後のことだった。
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