お前のものになりたいから

りふる

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16.階段-2

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 どうやら幾らかは寝たらしい。それがリッキーに背信行為をしたように思えてすごく後ろめたい。きっとお前は眠れなかっただろうに。

 シャワーは心地よかったし、用意された着替えは昨日脱いだ着古したジーンズじゃなくてスッキリしたクリーム色のスーツだった。鏡の前に立ってみる。悪くない。結婚式で僕がスーツなんて、せいぜいホテルマンくらいにしか見えないだろうと思ってたけどこれも有りだな。

「気に入ってくれたようだね」
振り向くとドアの外に男が立っていた。
「君は見栄えがいい。メイドが言うには、『美しい人』だそうだよ。これから先もそういう姿でリカルド様とどこかのホテルでワインでも飲んだらどうだね?」
「ありがとう。でも彼は僕の外っ側に惚れたんじゃないと思うんですけどね」

 リッキー、ごめんな、僕だけ寝ちゃって。でも、お蔭で快調に飛ばせそうだよ。

「では、始めましょうか」

僕は笑うことさえ出来た。


「君の意志はどうやら昨日と変わっていないようだが」
「ええ、あなたと同じように」
「君の言った『愛』というものについて考えてみたよ。立場も考え方も違ってはいるが、心からあの方を大事に思っていることでは私と違わないようだ。表現はずいぶん荒っぽかったが」
「へえ! 驚いちゃいましたよ、そんな風に思ってくれるなんて」

本当に驚きだ! あの会話を反芻したってことだけでビックリだ。

 目の前に並べられてる朝食はなかなかたいしたもんだ。足りないのはリッキーだけ。この話の後、どんな扱いを受けるか分からない。生きてここを出られなかったりして? そう思うから、片っ端から食べた。そうだ、どうせなら夕べ寝る前にストレッチでもしとくんだった。暴れるくらい出来たかもしれないのに。

「呆れるね、どうなるか分からないのによく食べるもんだ」
「おいひいでふからね」

怪訝な顔をしてるから、飲み込んでからもう一度言った。

「美味しいですからね。貧乏人としちゃ、みっともなくったって食える時に食っとかなくちゃ」
「その貧乏暮らしを続けたいのかね?」
「貧乏には貧乏の良さがあります」
「どんな良さだ。あの方は暮らしに不自由したことは無い。皿洗いやウェイターみたいな、人に頭を下げる仕事をさせるつもりか?」
「それって、愛のスパイスみたいなもんですよ。ブランケットが1枚しか無けりゃ、別々のベッドに寝ない立派な言い訳になるし」

 今日は昨日と違ってやたらハイテンションで喋ってるから、目の前の男は少々呆気に取られている。

「あ、僕のテンションについちゃ気にしないでください。今日の準備運動してるだけなんで」
やべぇ……すっかりハイの方の地が出始めてる……。封じてたからリッキーにさえ見せてなかったのに。

​『話は食後の方がいい』そう言われて僕は食べる方に専念した。多分、あれ以上口いっぱいに頬張った男と会話したくなかったんだろう。


「いいかね、話を……」
「すみません、食べたら出す、これ、自然の摂理ですよね。悪いけど出すもん出してからってことで」
すっかり黙ってしまったから、にこっと笑ってトイレに向かった。

 これもそうだ。入れる内に洒落たトイレに入っておきたい。もうまともなトイレに入れないかも。たっぷり時間をかけてトイレから出た。無理したくないし。僕には僕の事情がある。男を尻目に、鏡の前に立って入念に前も後ろもチェック。死に装束になるかもしれない。

 そう思って、さっきから死ぬことばっかり考えてる自分がおかしくなった。だって、それにしちゃ悲壮感が無さすぎる!

「君は変わった男だね」
「そうですか?」

やっとソファに収まった僕に安心したらしい。

「普通はどうなるかと心配するだろう? 少なくともあんな風に食事を取ることは出来ないはずだ」
「多分、あなたの思ってる通りですよ。ネジが1本足りないんだ」
「命知らずというか……そんなことが通用すると思うのは若さからくる向こう見ずというしか無い。真面目に昨日の話を考えてないのか?」
「考えましたよ、居心地のいい棺桶に入っとけって話でしょ?」
「私は……」
「確かに魅力的ですよね、そういう暮らしって。自分で稼いだ金でそうなれたらもっといい。働いたこと、ありますか? 僕の言う『働く』ってのは、汗水垂らしてってことだけど。そうやって踏ん反り返ってるんじゃなくって」
「君には分からん! たくさんの責任を負って、人の命さえ私の肩にかかっているんだ、何が分かると言うんだ、お前程度の若僧に!!」

 ちょっと笑える。こいつ、すっかり取り乱してる。だんだん大きくなる僕の笑い声が聞こえて、途中で言葉が止まった。

「何が……何が可笑しいんだ!」
「いや、すみません、『人の命が肩にかかって』 ……いや、あんたってまるで神さまみたいだ」

その後が続かなかった、おっかしくって。

「ああ、ホントすみません。疲れませんか? そんな風に生きるのって。僕らに何の不自由も無い生活を提供するあなたがそんなに苦痛に満ちた生活を送るなんて、痛々しくて見てられませんよ。本当、気の毒です」
「私は真面目に話しているんだ!」
「僕も真面目ですよ、あなたにどう見えようが。金貰って静かに隠居生活するってのと、金蹴って命消えるかもしれないこの瞬間と。ね? こんな天秤に乗っかってるんだから真面目になるに決まってるでしょ?」

 僕にはリッキーの命がかかっている。僕が死ねばお前も死ぬ。

 どこかでこの階段に出会ってたんだ。出来れば結婚する前に現れて欲しいと思っていた。大丈夫、想定内のはずだろ? 分かっていたことだ。そうだろ? 僕は自分に言い聞かす。
 これは僕の責任だ、リッキーのために果たすと誓っていた。だから僕は登るよ、このバカでかい階段を。

「失礼しました。きちんと話しましょう」
「君は……よく分からん男だな」
「世間知らずのただの甘ちゃんの若僧ですよ。兄からよくそう言われてきました。多分それは正しいんでしょう」

男は居住まいをただして、話に入った。

「昨日の会話を思い出して、君がいくつか誤解していると感じたよ。昨日はいい加減な返事をしてしまったからその誤解を解いておきたい。私はなるべくリカルド様の生活に介入しないようにしてきた。あの方の周りで次々と人が消えれば、疑われるのはあの方だ。だからそんなことはしていない。ただ、ほんの幾つかの件では少し手を加えた。ほんの少しだ。それ以上は手を出していない」
「僕の受けた行為に絡んではいないんですか?」

 自分でしておいてキツイ質問だと思う。知って苦しむのは自分なのに。殺しまわってる訳じゃないなら、残念ながらセバスチャンは生きてるってことだ。

「あの件は……心から気の毒だったと思っている、本当に。私は昨日話したあの旅行の一件以来、リカルド様の身辺には注意を払っていた。君は知らないだろうが、あの後リカルド様は偶然病院内で見つけたあの男を殺すところだった。すんでのところで私の部下がそばを通りかかった振りをして止めたんだよ。その後、彼に関してはこちらで少し関与させてもらった。放っておいたらリカルド様が何をなさるか分からんからな」

それは知らなかった……。

「他の件は知らない。それははっきりさせておく。何かあるとしたらそれは偶然だ。国を出る前に父上がリカルド様に釘を刺された。何かあれば近しいものに災難が降りかかるだろう と。多分その言葉がリカルド様の中に強く残っているのだろう。大きなトラブルにしか手を出さないようにしてきたつもりだ」
「彼がどれほど傷ついたか分かりますか? 常に見張られていると思い込んだ毎日がどんなに苦しいか」
「しかし、何かあるよりは……」
「リッキーは人間なんだ、1人の。なんで誰も彼もそんなことを考えてやらないんだ…… あなたも彼をセックスの対象にした連中も襲ったやつも、中身は変わらない。リッキーの人権を剥ぎ取って思い通りにすることしか考えてない」
「お気の毒な身の上だと思っている……だからこそ国を出ていただくことにしたんだ、あれ以上いたら……」
「でもこれじゃその国にいるのと変わらないじゃないですか。盗聴されるは、行先を制限されるは、挙句の果てに自分のせいで人が死んでいると思わされて」
「盗聴……まだそう思ってらっしゃるのだね」
「現に昨日もあの部屋と回線が繋がってたじゃないですか!」
「信じなくてもいい。あれを作動させたのは半年ぶりだ。その時もほとんど聞いてはいない。ただ取り付けをしただけだ」
「ずいぶん手の込んだ悪戯ですね。悪趣味だ、盗み聞きしていると思わせて。僕たちの動向だってずっと追ってるんでしょう?」
「年中探ってる訳じゃない、だからそんなに神経質にならなくていい。リカルド様の旅行の件も偶然分知ったんだ、盗聴して知った訳じゃない。あれを取り付けたことにしても万一の場合のことを考えて……」

面倒になってきた。男は言い訳を垂れ流しているだけだ。

「いい加減リッキーから離れちゃどうです?   昨日から聞いてるとあなたが個人的にリッキーを見張ってるように聞こえる。だいたい一つの国が追放した人間にそこまで手間、かけるんですか? しかも死んだことになってるんでしょう? 何を怖がってるんですか? 一国を揺るがすような秘密を彼が握ってるんですか?」
一気にまくし立てた。思い浮かぶ言葉を息つく暇も無く全部ぶつけた。
「あの方は……死んだことになっている……」
「知ってますよ、自動車事故で死んだことになっていると……」
「違う! 私が殺したんだ!」

 言って、思わず自分の失態に気づいたようで……?

「どういう意味ですか? 殺したって?」
「今日はここまでに……午後は用がある。ここには誰も近づかない。必要があればあのブザーで。済まない、今日もここに滞在してくれ」
「またここに泊まれと?」
「君は承諾していない、私の提案に」
「じゃ、一生ここにいなくちゃなりませんね」
「そんなに難しいことか? 生活に困らずに生きていくことは」
「それはもはや生活じゃないでしょう? そんなのリッキーも僕も望んじゃいない。僕らが大成して有名になることを心配してるなら、ずいぶん信頼してもらってるんだなって思いますよ」

男は疲れた顔をしていた。実際の年よりも老けて見えるような気がする。

「……もう一日やろう。じっくり考えてみてくれ、その結論によって出る影響も」



 あれ以上、なんの秘密があるんだろう。今日思いつくまま喋っていて自分の頭の中が整理できた。そうだ、おかしいんだ、いつまでリッキーの生活を監視下に置くつもりなんだ? そんなこと、本当に必要なんだろうか。リッキーにいったい何が出来るって言うんだ?

 どうしてもそれを突き止めたい。そうじゃなきゃこの膠着状態は永遠に続いてしまう。


 ふっと部屋の片隅、書棚に目が行った。
『誰もこの部屋に近づかない』
 思いだしたのは、あの一方通行じゃない盗聴器。いや、でもまさか使えないだろう、幾らなんでも。……ダメ元。失うものなんか今の僕には無いんだから。いや、命があるかな? ならお前の声が聞きたい。

 パチン

 音が静かな部屋の中に響く。
「リッキー? 僕の声が聞こえるか?」
間がある。そうだよな、使えるわけが無い。そこまでボンクラじゃ……

『フェル! フェルか!? これで喋るってことはまだそこにいるんだな!?』

耳を澄ましてるのが分かる。

『……何、笑ってんだよ! こっちは心配してるってのに!』
「ごめん、違うんだ、ボンクラって本当にいるんだなって……」
『何の話だよ!』
『フェル!? あんたね! こっちは死ぬ思いしてんのよ!』
泡を喰った!
「シェ、シェリー? なんで?」
『俺……シェリーを騙しそこなった……』
『バッカじゃないの? 一人で家に戻ったって? 言う相手を間違えてんじゃないの?』

僕は自分の顔を手で覆った。リッキー……お前、バカだなぁ……

「悪い、どれくらい話せるか分からないんだ。今隙を見て喋ってるから、いきなり切れても心配するなよ」
『分かったわ』
「これ、伝えとく。リッキー、お前盗聴されてなかった。これあるけど使われちゃいなかったんだ、僕の家に行くまで」
『え?』
「それからお前の周りで消えた連中、あれはお前のせいじゃない。確かめたから疑うな。いいな?」
『他には? あるなら早く言って』

 シェリーがいてくれて良かったかもしれない。きっとリッキーは話に追いついてない。

「まだ時間かかると思う。ここがどこか全く分からない。多分逃げ出すのも無理だ。そこまで甘くないよ、きっと。頑張って帰るから。だから待っててくれ」
『そうね。あんたはたいした "弟"  みたいだし。知ってたなら言いなさいよね。バカみたいじゃない、私だけ』
「リッキー、お前……」

おい…それもばらしたのか……

『彼のせいじゃないわ、私に隠しておけると思ったあんたがマヌケなの。リッキーのことは任せて。あんたは頑張んなさい。そして帰っておいで。私にまだポトフの容器返してないこと忘れないで」

 思わず吹き出しそうだ。サンキュー、シェリー。体が解れたような気までする。

「シェリーが姉貴で良かった。もう話せないかもしれない。愛してる、リッキー。シェリー、彼を頼む。リッキー、食えよ」
『フェル……待ってる、待ってるからな!』
「ああ、泣かずに待ってろ。じゃ切るぞ」


 喋れる限りのことを喋った。さあ、いつドアが開くんだろう。本当にボンクラだとは思えない。


 僕は覚悟してソファに座っていた。誰も現れない。どういうことなんだろう。リッキーは独裁国家だと言っていた。つまり、軍事政権ってことだろう? 僕が知ってる軍事政権ってのはこんな甘ったるいもんじゃない。リッキーがどう騒ごうがいつ僕が事故死したっておかしくないんだ、こんな面倒なことしなくったって。

​ 誰も来ないならそれはそれなりに退屈だ。書棚に目をやる。もうアレを使う気はない。シェリーが絡むならもう危険は侵したくない。
 リッキー、シェリーにそんな嘘つくなんて。お前置いて家に帰るなんてあり得ないって勘ぐるのは当たり前だ。それに様子がおかしいのにも気づいただろうな。シェリーの集中砲火に屈したお前が見えるようだよ……

​ 考えながら本を無作為に手に取っていた。固い本ばっかり。海洋学の本でも置いときゃいいのに。おまけにほとんどがスペイン語。これはもうどうにもならない。端から順に開けていった、どれもこれも。

 それは、一番下の一番左。窓側にあった。映画なんかでよくあるお定まりのパターン。ひっそりとした革張りの本。

 開くとそこには十数枚の写真が入っていた。思わず見入る。
「これ、リッキーのお母さん?」
 ふっくらとした笑顔の眩しい人。父親がどんな顔をしてるか知らないけど、間違いなくリッキーは母親似だ。その手に抱いているのは、可愛い手を伸ばしている小さなリッキー。多分カメラマンに手を伸ばしてるんだ。

 溢れる笑顔がそこにある。幼いリッキー。頬が丸い。4、5歳なんだろうか……なんだか……涙が落ちる……こんな時期もあったんだ、明日や明後日のことを考えたくないんじゃなくて、考えずにすんだ頃が。

 声が漏れていたのに気づかなかった。声を出して泣いたことなんて僕は覚えてない。泣くほどの余裕なんか無かった、あの街では。隙を見せちゃならなかったから。家の中でも。

「君は……」

 ドアが開いたのにさえ気づかなかった。写真を握った手が震えていた。頬が濡れてぼたぼた涙が落ちていた。喉が詰まるほどに痛かった。声を抑えられない………
「君はそんなに……」
 立つのに手を貸してくれた。

 僕はこの写真をリッキーに渡したいと思った。
『隠してた母さんの写真も取り上げられた』
笑って言ってたよな。お前、笑って……… 崩れるようにまた座り込んだ。立つことなんて出来やしない……
 泣く事さえ忘れたリッキー。身投げした母さんを追い求めて僕の胸で眠ったリッキー…… あの温度が手の中に今、確かにある。

​ 温かいコーヒーを渡された。やっと落ち着いて座った僕に、彼はひどく優しかった。握って離さない写真を目にして、返せとは言わなかった。
 お互いにただコーヒーを飲んだ。時計の音がする。遠くで鳥が鳴いている。

「君は私が思っていたような人間ではない。それが分かったよ。申し訳無かった、最初から金など見せるべきではなかった」
「僕も今の言葉を聞いて、あなたを誤解していたかもしれないと思い始めてます」

もう一度写真を見た。あどけない笑顔。辛い、この顔が辛くて……。

「この写真、もらっちゃいけないですか? これ、リッキーのお母さんでしょう?」
「いや、私の娘だ。乳母だったと言っただろう?」


 いきなりパズルが嵌った。寸分たがわぬピースが今手に入った。
 リッキー……僕はお前にどう伝えればいいんだ?
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