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2.新しい日々

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「おれ、離れた方が……」
「こら、そんなこと言ってんじゃないわよ。あんたのそういう天然なとこが課長はいいんだろうけど、そのままじゃ通用しないから強くなんなさいって言ってるの」
「三途川さん、変ですよ、どうして? 俺とれ……課長のこと止めないんですか?」
「なんで? これも私だから分かることかもしれないけど、課長幸せそうだわ。あんたほど目立たないけど目が優しくなった。前は時々子どもっぽくって、ま、そこが好きだったりしたんだけど今じゃすっかり大人の人だわ。それ、あんたのせいでしょ? ならいいんじゃない?」

自分の存在が蓮にプラスになってる? 三途川のような人が初めてで、そのことにも戸惑いを覚える。

「私、課長とのやり取りが好きなんだと思うの。そういう意味じゃこれからも変わんないと思うのよ。つまり本物の恋とかとちょっと違ったってところかな」
「俺、これから先どうしてったら……」
「まず自分に自信持ちなさい。あんた、仕事は大丈夫。立派にやってると思う。これまでの新人に比べたらとんでもなく仕事出来てる。課長は2年も誰かとつき合わなかったのよ。それがあんたを選んだ。だからそれも自信持つの。そしたら自然と変わっていけるわよ」
漠然とし過ぎていてよく分からない。
「例えばね、課長に片思いしてる子って結構いるの。あのフロアだけじゃなくてね。あのフロアじゃ私だけだからそれはもう安心ね。だからそういう子が廊下なんかでアタックしてるのを見かけても顔色一つ変えずにその横を通り過ぎる。それくらいのこと、出来なくっちゃだめ」
「そんなこと……」
「難しい? これから暑くなってくるわ。みんな肌を露出してくる。毎年のことだから私は知ってるけど、みんなそうやって課長のそばをただうろうろし始めるのよ。バカみたいだけどね。そんなの見て、いちいちうろたえてちゃダメってこと」

 思ったより状況は厳しい。耐えられるんだろうか、そんなこと。蓮の言っていた言葉を思い出す。

――人前では他人でいなくちゃならない――辛いぞ、これから

「おれ……分からない、頑張れるかなんて分からない……」
「ばかねぇ」
三途川の声が優しくなった。
「そうね、これだからあんたのこと、放っておけないんだわ。私だって余計なことしちゃって。私、あんたが可愛いわ。昔弟がいたのよ、あんたみたいな天然の。天然過ぎて東南アジアに行っちゃってね、それっきり。だからあんた見てると弟みたい。とにかく強くなんなさい。それから私が知ってるってこと、課長に言っちゃだめよ。いい? 絶対にダメだからね」
「三途川さん、どうして俺とれ……課長のこと認めてくれるの?」
「んんー、結構多いしね、私の周り。あんまりそういうの気になんないわ。でもそれは私くらいだと思っときなさいね。普通は受け入れないわよ、そんなの」

 思ったより道が厳しいのだと分からされた。ただ一緒にいて幸せだ、そう思うだけでは蓮と生活していけない。自分が蓮の立場を危うくするわけにはいかない。だからといって、蓮から離れるなどとうてい出来やしない。

「俺、頑張ります。三途川さん、ありがとうございました」
「我ながらバカだと思うけどね」
三途川の笑顔にほっとした。
「これ、使わせてもらいます」
もらった包みを胸に抱いた。
「何か困ったことがあったら相談なさい。あんた、そんな相手もいないんでしょ?」
頷くジェイを見てふっと笑う。
「じゃ、私あんたの姉さんになってあげる」
ジェイの目が見開いた。兄弟なんて考えたことも無い。それが、姉さん? 立ち上がった三途川をただ見上げた。
「まったく! そういう時にはすぐ立つ! そしてさりげなく会計票を取る! 相手に払わせちゃだめ」
そう言われて慌てて立った。レジに会計を済ませに行った。
「そ! その調子ね。男同士で同僚ならいいの、割り勘でも。でも女性相手とか、取引先の人とか、そういう相手には支払いをさせちゃだめだからね。そしてどんな時でも必ず領収書をもらって。『上様』じゃなくて、会社名でもらうのよ」

 三途川は三途川で楽しかった。世間知らずで純を絵に描いたようなジェイ。出来るものならこのままでいさせたいけれど、それでは生きてはいけない。本当に弟の面倒を見ているような気がする。


「思ったよりいい匂いだな。花の香り? お前には似合うけど俺にはちょっと無理かなぁ」
「い、いいよ、蓮は今まで通りで。蓮の匂い好きだから。買い物しててどうしても使ってみたくなっちゃって」
「いいんだよ、珍しいじゃないか、自分の欲しい物素直に買うなんてさ。これからもそうやって買い物していいんだからな」

 一瞬焦った。蓮まで同じ物を使ったら意味がなくなる。たしかに三途川の言う通りだ、同じ匂いは良くない。夏になればもっと目立つことだろう。
 それでもこの香りは蓮の気に入ったらしく、頭に鼻を埋めてはくんくん嗅いでいる。それがだんだん可笑しくなってきた。

「連、犬じゃないんだから」
「なんだと?」
「だって匂い嗅ぎっぱなしって」
「頭だけじゃないさ、体からもいい匂いがする」
そのまま蓮の顔がすぅっと下に降りていく。
「…ぁ……だめだ、って、明日朝か……ら企画会議……」
「分かってる。しないから」
そんなことを言いながらも蓮の手が体をまさぐっていく。
「だめ……っはぁ……」
「じゃなんでこんなになってるんだ?」
「れんがわる……あ」
 何度も営みを繰り返してきたからジェイの体にはすっかり蓮の手が馴染んでいる。だめだと言いながらも自然蓮の頭を抱いてしまう、背中に手が回る。先を先をと欲しくなる。
「おねが…れん、…」
 明日はまだ水曜日。ちょっとずつ性に貪欲になり始めていて、理性が働くうちにセーブしないと溺れてしまう。今週は仕事のスケジュールがタイトだ。
「分かった、ごめん。もう遅いしな。週末楽しもう」

 その言葉がエロティックに感じる。週末を楽しむ、蓮と。きっとベッドで。そう思うと今度は蓮の体が離れたことが寂しい。中途半端に刺激を受けた体が疼いてしまっている。

「れんの……ばか」
小さく呟いて背中を向けた。多分しばらく眠れないだろう。
「ほら」
引き寄せられて顎を上に向けられる。たっぷりのキスを受ける。舌が絡み合う、互いに味わう……
「今夜はこれで。な。こうしててやるから眠れ」
 痺れるようなキスをもらい、ジェイの喘ぎが切ないほど蓮の耳に沁み込む。落ち着き始めると少しでも満足したのかさっきより楽になった。蓮の腕の中にすっぽりと包まれてようやく体が静まり始めた。10分もすると寝息が聞こえ始めた。頭にキスを落とす。
「ばか。俺が眠れなかったんだよ、お前が欲しくてさ」
蓮は蓮でそんなことを呟いた。


 ゴールデンウィークを過ぎると怒涛の仕事の嵐だ。7月半ばまで祝日も無い。たっぷりの飴をもらったあとのたっぷりの鞭みたいなものだ。それでも仕事の楽しさが分かり始めたジェイは生き生きと働いた。
「ジェローム、変わったね、本当に」
華が後ろから見ながら池沢にそう言った。
「そうだな。課長の言ってた通りあいつと仕事してると楽だ。受け答え早いしな」
「悪かったですね、遅くって」
「違うさ! あいつ、素直だからな。気分いいんだよ、捻くれてる誰かと違ってさ」
「それ、結局俺をけなしてません?」
池沢は笑った。
「お前もずいぶんと素直になったよ。とにかくウチはいいメンバーに恵まれた。このまま行くといいんだが」

 夏が近づく。この会社では海外研修や転勤の話が出始める頃だ。去年は池沢のチームからは出なかったが今年はどうなるだろう。本人の先行きを考えればいい話なのだから喜んで送り出さなければならないが、出来上がっているチームから誰が出て行っても池沢には痛い話だ。
「最近じゃ新人も飛ばされるしね。ジェロームなんか危ないんじゃないのかな、ハーフだから会社としても行かせやすいでしょ?」
 華の言葉に考え込む。やっと溶け込み始めたジェイを手放すのはまだ早いという思いが強い。また殻に閉じこもってしまうかもしれない。歓迎会でジェイの言った言葉。
――仲良くなったってどうせすぐいなくなるんだ
 身内が誰もいないことを知ってからどうしてもジェイのことが気がかりになって仕方がない。そういう意味ではジェイはチームの中で末っ子と言っても良かった。

「何にしても今から不安がってもしょうがない。目の前の仕事を片づけていくだけだ」
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