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フォーエバーフォールインラブ
夜行性ガールの特別な夜
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◆◆◆
「はい、先生 」
「ありがとう 」
吉岡はベンチに座る朱美にレモネードを渡すと、ゆっくりと隣に腰を下ろした。
顔を上げればそこに広がるのは天に向かって聳え立つスカイツリー、そして遠くには都心の夜景が広がっている。
「朱美先生、プラネタリウムはどうでしたか? 」
「うん…… キレイだった。特に南十字星は死ぬまでに一度、肉眼で見てみたいと思った 」
「そうですね。あの星は南半球に行かないと、見るのは難しいですからね 」
「吉岡は見たことがあるの? 」
「ええ…… 学生の頃に一度。短期留学でオーストラリアに行ったときに 」
「そうなんだ。吉岡はプラネタリウムはどうだった? 楽しかった? 」
「ええ、面白かったですよ 」
「でも、かなりの時間寝てた……よね? 」
「ああ、まあ、それはですね。一応今日は 勤めてからここに来ましたから。ああいう暗がりで癒し系のナレーションを聞くと、どうしても眠くなるというか…… 」
吉岡は苦笑いをしながら、飲み物を口にしている。
そこにいるのはいつもの吉岡……というより、ちょっと普段よりも穏やかな気さえしてしまう。
「また…… 吉岡には、助けてもらっちゃったね 」
「えっ? 」
「ううん、何でもない 」
朱美は思わず出てしまった言葉に気づくと、慌てて口を閉ざした。
私はずっと吉岡に何も返せていない。ずっとずっと助けてもらってばかりいる。あんなに気まずいと思っていたのに、今は強行突破の勢いで普通に話せている。吉岡の勇気と根性には、思わず敬服してしまう。
「本当はスカイツリーに昇るのもありかな、と思ったんですけど、高校生なら原っぱで星を観察するのが青春かと思いまして 」
「そうだね…… 」
なんだかいつも通りの会話をしている気分だった……
わざわざネタを提供するために、漫画家を外に連れ出すなんて。
ここまでくれば、これは吉岡の究極のお節介のハズなのに……
朱美は頭に過った邪推を、首を振って否定する。
その突然の行動に吉岡は少しビクリとしたが、慣れているのだろう。
吉岡は特に気に止めることなく、前を見ていた。
そして吉岡の目線の先にあるものに興味が湧き、朱美もそちらの方向を見上げた。
今日は満月だった……
「あっ、見てみて。吉岡っ! お月さまがまんまるっッ 」
「ああ、そうですね…… もうすぐ十五夜ですしね 」
「そっか。もうそんな時期か。毎日 夜行性生活してるのに、外なんか眺めないからな。全然 気づかなかった 」
「ほんとうに、月が綺麗ですね 」
「えっ……? 」
朱美は思わず吉岡を振り向いた。
その言葉の意味が気になる……
心が揺れる。
吉岡は真っ直ぐ空を見上げている。
彼も迷っているのだろうか。
どちらにせよ、もう元には戻れない。
あやふやにしていたが、あのキスの意味を精算しないと先に進めないことは 朱美は理解している。そしてきっと吉岡も同じことを考えている。
先に動いたのは吉岡だった。
吉岡は少し目線を落とし、はあと溜め息をつくと、また朱美の目を見て話を始めた。
「……あの、この前は急にすみませんでした。その、反省してます 」
「反省って? 」
「先生の同意もなく…… その、キスをした件について……です 」
キス…… という単語は これほど破壊力のあるものだったろうか。
朱美は無意識に硬直する。
でも沈黙にも耐えられそうになかったので、もはや反射ですぐさま次の言葉を口にした。
「えっと、あれは…… その…… 私も煽るようなことを言ったというか何というか。だから私にも責任があるし。それを言うなら…… 私にじゃなくて、彼女に謝った方がいいと思う 」
「彼女? 」
吉岡は朱美が何のことかさっぱりわからず、訝しげな表情を浮かべた。
朱美は少し躊躇いそうになるが、ゆっくりと話を続けた。
「うん…… 息吹から聞いたの。吉岡のこと。
今まで私に気を使って言えなかったんでしょ。彼女がいるって。
吉岡は本当に仕事熱心だから、プライベートも犠牲にして働いてきたと思う。
だけどこれからは私も締め切り守れるように努力するし、ネームもちゃんと頑張るから、もっと自分の生活を大事にした方がいい 」
「あの、ちょ、ちょっと待ってくださいっっ。話が読めないんですか…… 」
「だから、フリーのライターさん。彼女なんでしょ 」
「彼女? あいつが? 俺の? 」
「えっ? 違うの? 」
「野上だな…… あの野郎、どっからそんな嘘情報をッッ。ああ、もうなんか合点がいきましたよ。いろいろと。違うも何も…… 僕はそのライターから先生を弱味に握られて、いろいろ大変だったんですよ 」
「弱味……って? なにそれ…… 」
朱美にはどういうことか、皆目見当がつかない。そんな朱美の様子を見た吉岡はやれやれと言いながら一息つくと、朱美の目を見てこう言い放った。
「つまり、僕の弱点は…… あなたですよ 」
「あ……たし? 」
「僕の弱点は、朱美先生ってことです。先生は鈍感だからすぐにはわからないでしょうけど 」
「なっ、それ、どういうこと? 」
「あのですね、ここからの話は絶対言わないでおこうと思いましたけど、僕の名誉にも関わるんで言っておきます。よく聞いといてくださいよ。先生、中野葵と飲みに行ったでしょ。あれ、写真撮られてたんです 」
「なっ…… 」
「その写真ちらつかせて、アイツには交換条件で記者に戻れとか言われるし、先生は違う男のものになってるし。僕も一人の男ですからね。それで少し頭にきて、あの暴挙に出たんです 」
「中野さんは、ただ飲みにいっただけだから。それに彼には婚約者もいるし 」
「残念ながらあのときは 二人がただの友達とは、僕は知らなかったもので。自分でもびっくりするくらい盛大にヤキモチを妬かせてもらいましたよ 」
「なっ、ヤキモチって…… 」
暴挙って、もしかして顎クイキスのことを言っているのだろうか?
想定外の単語の数々に、朱美の思考はパンク寸前だった。
すると吉岡は次の瞬間、いきなり朱美の両頬を手で掴むと、ウニーと横に引っ張った。
「いたっ、吉岡……いきなり何すんの。ちょっと痛いって…… 」
「朱美先生が理解するまで、この手は離しません。いまから大事なことを言いますから、ちゃんと一語一句聞いといてくださいよ 」
「ちょっ…… わかった、わかったから 」
「いいですか? 金輪際、僕はあのライターと関わることはありません。二度とです。僕は編集の仕事も辞めませんし、記者にもなりません。自分の意思で辞めたのに、戻るという選択肢は持ち合わせていません。ついでに言うと労基にも訴えたりもしません。わかりましたか? 僕はこの仕事好きですから 」
「わかった、わかったから…… 」
朱美が吉岡の手をトントンと叩くと、彼もハッとしたのかその手をゆっくりと離した。
後から思えば……
吉岡にもそれほど余裕はなかったのかもしれない。
吉岡は少し目を細めて拗ねたような顔をすると、こう朱美に呟いた。
「先生、本当に分かってます? 」
「……何を? 」
「忘れてましたよ。先生は少し鈍感だから、この際ハッキリ言っておきます。何とも思ってない人と、わざわざこんなところに来るわけないでしょ。僕も男ですからね、下心があるんですよ! 」
「えっ? 」
「大体ですね、好きでもない人にキスされることはあっても、好きじゃない人にキスする人間なんているわけないじゃないですか 」
「…… 」
多分、文字にして繰り返し確認すれば、吉岡の言っていることは朱美にも理解できたのかもしれない。
でも吉岡も朱美とは付き合いは長くなってきたから、今さらそのくらいのことではでは動じない。吉岡は少し諦めつつも、もう一言押しの一句を付け足した。
「……先生、やっぱわかってないでしょ。僕だって役得だけでキスなんてしません 」
「わかるも何も…… 」
吉岡は少し文学的で、表現が遠回しだった。朱美は脳ミソをフル回転させて意味を考える。
それはつまり、
吉岡は…… 私のことを……
んっ? あれ……?
「えっ、えっ……!? 」
朱美は急にアワアワしだすと、顔面を赤面させた。
「別に先生が僕のこと、どう思っていても構いません。僕としてはこういった感情を抱いてることは言わないつもりでしたが、状況が変わったから伝えさせてもらいます。難しいかもしれませんが、先生は今まで通り気にすることなく…… 」
吉岡は照れ臭そうに、色々と弁解をしている。朱美は唖然として吉岡を見ていた。
言葉が思い付かなかった。
朱美は自分でも どうしてそうしたのかは 分からなかった。だけど気づいたときには 人目も憚らず、吉岡の言葉を遮るように彼の胸に飛び込んでいた。
「……何よ、さっきから聞いてたら。自分ばっかりベラベラ話しちゃって 」
「ちょっ、朱美先生? 」
吉岡の声は、少し上ずっている。
でもそんなことに構うことなく、朱美は堰を切って話し出した。
「あのね、こっちは一週間、目が冴えて寝れなくなるくらい、私だって吉岡のことばっか考えてたんだから。
お陰さまで原稿は何とかなったけど、こんな精神状態で持ち堪えたのは奇跡に近いし。
ページ数を落としたのは申し訳なかったけど、一人で話畳まないで、少しは責任取りなさいよっッ 」
「だから先生、勝手にキスしたことは謝りますからっッ 」
「吉岡のバカ! やっぱ全然わかってないっッ! 私はキスは嫌じゃなかったから 」
「えっ……? 」
「つまり、そういうことなの…… 多分っッ! 」
朱美は大声を上げていた。
自分でもびっくりしたが、多分周りの人たちもこちらを見ている。
言いたいことを言えてスッキリしたが、鼓動は早いままだった。恥ずかし過ぎてもう目を開けられそうにない。
すると吉岡はゆっくりと朱美を抱き寄せ彼女の前髪を掻き分けると、おでこに軽く唇をつけた。
「んっ…… 」
朱美はビックリして、吉岡を見つめた。
その口づけは、とても柔らかだった。
吉岡も恥ずかしそうな顔をしていたが、一転少しニヤニヤすると開き直るようにしてこう切り出した。
「三回目のキスです。もう数えるのはここまでにしましょう 」
「三回目……? 」
「はい、三回目 」
「三回目って…… ちょっ、どういうコト!? 吉岡っッ! 」
朱美はギャーと声をあげそうになったが、寸前のところで吉岡がそのの口を押さえ込んだ。
あのとき? って…… いつだ?
思い当たることが多すぎるっッ。
でも少なくとも、彼が衝動的に自分に好意を抱いている訳でないこともわかり、朱美は不思議と安堵していた。
「そのままの意味です。スキだらけの朱美先生が悪い。あれは本当に色々な意味で地獄を味わいました。運転手から起きないって連絡が来て 朱美先生が一瞬 死んだかと思ったし、そうかと思えば可愛い顔して無邪気に寝息立ててるし。本当はもっと対価が欲しいくらい心が乱れましたよ 」
「なっ…… 」
タクシーで寝落ちしたときだ……
朱美は吉岡の言いぐさに、心臓がきゅっとなる。心が乱れたなんて少女漫画みたいな台詞を言われたら、こちらも動揺するしかなかないではないか。
「さあ。真相もわかってスッキリしたことですし、ほら…… 帰りますよ 」
「えっ? 」
「明日からはネームのツケも精算しなきゃなりません。さっさと帰って続きをしないと 」
「なっ、何を言ってるの? 」
「そのまんまの意味ですよ 」
そう言うと吉岡はベンチを立ち、朱美に右手を差し出した。その吉岡は月明かりに照らされて、何だか少し格好よく見えてしまう。 一瞬飛躍した想像が頭の片隅を過ったが、それはそれで悪くもないような気もした。
「あなたは僕の弱点なんでね。本人の許可があるなら僕はこの手を離しません 」
急な吉岡の態度の変化に、何だかジワジワと遅れてコトの実感が沸いてくる。朱美は急に恥ずかしくなり頬を赤らめた。
「なっ…… そんなオーバーな 」
「いいえ。あなたは僕の人生の恩人ですから 」
「はい? 」
口説かれてるのか何なのか、よくわからない吉岡の物言いに、朱美は首をかしげた。
朱美には、まだその言葉の意味が分からない。
吉岡はようやく伝えることができた本音に満足したのか、少しだけ笑みを浮かべていた。
今はまだ言えない。
けれど必ず近いうちに、きちんと自分を人に戻してくれてありがとうと伝えたい。吉岡はそんな気持ちだった。
吉岡が差し出した手を、朱美はゆっくりと手に取った。
その手は何だか熱を帯びていて、妙に温かかった。
ジェットスターのような一週間はようやく幕を閉じた。
吉岡との関係性は、少し変わるかもしれない。
それが良いことなのか悪いことなのかは、今は神様だけが知ることなのだと思う。
朱美は少し恥ずかしそうにその手を絡めると、吉岡の腕にそっと体を預けて歩き出した。
「はい、先生 」
「ありがとう 」
吉岡はベンチに座る朱美にレモネードを渡すと、ゆっくりと隣に腰を下ろした。
顔を上げればそこに広がるのは天に向かって聳え立つスカイツリー、そして遠くには都心の夜景が広がっている。
「朱美先生、プラネタリウムはどうでしたか? 」
「うん…… キレイだった。特に南十字星は死ぬまでに一度、肉眼で見てみたいと思った 」
「そうですね。あの星は南半球に行かないと、見るのは難しいですからね 」
「吉岡は見たことがあるの? 」
「ええ…… 学生の頃に一度。短期留学でオーストラリアに行ったときに 」
「そうなんだ。吉岡はプラネタリウムはどうだった? 楽しかった? 」
「ええ、面白かったですよ 」
「でも、かなりの時間寝てた……よね? 」
「ああ、まあ、それはですね。一応今日は 勤めてからここに来ましたから。ああいう暗がりで癒し系のナレーションを聞くと、どうしても眠くなるというか…… 」
吉岡は苦笑いをしながら、飲み物を口にしている。
そこにいるのはいつもの吉岡……というより、ちょっと普段よりも穏やかな気さえしてしまう。
「また…… 吉岡には、助けてもらっちゃったね 」
「えっ? 」
「ううん、何でもない 」
朱美は思わず出てしまった言葉に気づくと、慌てて口を閉ざした。
私はずっと吉岡に何も返せていない。ずっとずっと助けてもらってばかりいる。あんなに気まずいと思っていたのに、今は強行突破の勢いで普通に話せている。吉岡の勇気と根性には、思わず敬服してしまう。
「本当はスカイツリーに昇るのもありかな、と思ったんですけど、高校生なら原っぱで星を観察するのが青春かと思いまして 」
「そうだね…… 」
なんだかいつも通りの会話をしている気分だった……
わざわざネタを提供するために、漫画家を外に連れ出すなんて。
ここまでくれば、これは吉岡の究極のお節介のハズなのに……
朱美は頭に過った邪推を、首を振って否定する。
その突然の行動に吉岡は少しビクリとしたが、慣れているのだろう。
吉岡は特に気に止めることなく、前を見ていた。
そして吉岡の目線の先にあるものに興味が湧き、朱美もそちらの方向を見上げた。
今日は満月だった……
「あっ、見てみて。吉岡っ! お月さまがまんまるっッ 」
「ああ、そうですね…… もうすぐ十五夜ですしね 」
「そっか。もうそんな時期か。毎日 夜行性生活してるのに、外なんか眺めないからな。全然 気づかなかった 」
「ほんとうに、月が綺麗ですね 」
「えっ……? 」
朱美は思わず吉岡を振り向いた。
その言葉の意味が気になる……
心が揺れる。
吉岡は真っ直ぐ空を見上げている。
彼も迷っているのだろうか。
どちらにせよ、もう元には戻れない。
あやふやにしていたが、あのキスの意味を精算しないと先に進めないことは 朱美は理解している。そしてきっと吉岡も同じことを考えている。
先に動いたのは吉岡だった。
吉岡は少し目線を落とし、はあと溜め息をつくと、また朱美の目を見て話を始めた。
「……あの、この前は急にすみませんでした。その、反省してます 」
「反省って? 」
「先生の同意もなく…… その、キスをした件について……です 」
キス…… という単語は これほど破壊力のあるものだったろうか。
朱美は無意識に硬直する。
でも沈黙にも耐えられそうになかったので、もはや反射ですぐさま次の言葉を口にした。
「えっと、あれは…… その…… 私も煽るようなことを言ったというか何というか。だから私にも責任があるし。それを言うなら…… 私にじゃなくて、彼女に謝った方がいいと思う 」
「彼女? 」
吉岡は朱美が何のことかさっぱりわからず、訝しげな表情を浮かべた。
朱美は少し躊躇いそうになるが、ゆっくりと話を続けた。
「うん…… 息吹から聞いたの。吉岡のこと。
今まで私に気を使って言えなかったんでしょ。彼女がいるって。
吉岡は本当に仕事熱心だから、プライベートも犠牲にして働いてきたと思う。
だけどこれからは私も締め切り守れるように努力するし、ネームもちゃんと頑張るから、もっと自分の生活を大事にした方がいい 」
「あの、ちょ、ちょっと待ってくださいっっ。話が読めないんですか…… 」
「だから、フリーのライターさん。彼女なんでしょ 」
「彼女? あいつが? 俺の? 」
「えっ? 違うの? 」
「野上だな…… あの野郎、どっからそんな嘘情報をッッ。ああ、もうなんか合点がいきましたよ。いろいろと。違うも何も…… 僕はそのライターから先生を弱味に握られて、いろいろ大変だったんですよ 」
「弱味……って? なにそれ…… 」
朱美にはどういうことか、皆目見当がつかない。そんな朱美の様子を見た吉岡はやれやれと言いながら一息つくと、朱美の目を見てこう言い放った。
「つまり、僕の弱点は…… あなたですよ 」
「あ……たし? 」
「僕の弱点は、朱美先生ってことです。先生は鈍感だからすぐにはわからないでしょうけど 」
「なっ、それ、どういうこと? 」
「あのですね、ここからの話は絶対言わないでおこうと思いましたけど、僕の名誉にも関わるんで言っておきます。よく聞いといてくださいよ。先生、中野葵と飲みに行ったでしょ。あれ、写真撮られてたんです 」
「なっ…… 」
「その写真ちらつかせて、アイツには交換条件で記者に戻れとか言われるし、先生は違う男のものになってるし。僕も一人の男ですからね。それで少し頭にきて、あの暴挙に出たんです 」
「中野さんは、ただ飲みにいっただけだから。それに彼には婚約者もいるし 」
「残念ながらあのときは 二人がただの友達とは、僕は知らなかったもので。自分でもびっくりするくらい盛大にヤキモチを妬かせてもらいましたよ 」
「なっ、ヤキモチって…… 」
暴挙って、もしかして顎クイキスのことを言っているのだろうか?
想定外の単語の数々に、朱美の思考はパンク寸前だった。
すると吉岡は次の瞬間、いきなり朱美の両頬を手で掴むと、ウニーと横に引っ張った。
「いたっ、吉岡……いきなり何すんの。ちょっと痛いって…… 」
「朱美先生が理解するまで、この手は離しません。いまから大事なことを言いますから、ちゃんと一語一句聞いといてくださいよ 」
「ちょっ…… わかった、わかったから 」
「いいですか? 金輪際、僕はあのライターと関わることはありません。二度とです。僕は編集の仕事も辞めませんし、記者にもなりません。自分の意思で辞めたのに、戻るという選択肢は持ち合わせていません。ついでに言うと労基にも訴えたりもしません。わかりましたか? 僕はこの仕事好きですから 」
「わかった、わかったから…… 」
朱美が吉岡の手をトントンと叩くと、彼もハッとしたのかその手をゆっくりと離した。
後から思えば……
吉岡にもそれほど余裕はなかったのかもしれない。
吉岡は少し目を細めて拗ねたような顔をすると、こう朱美に呟いた。
「先生、本当に分かってます? 」
「……何を? 」
「忘れてましたよ。先生は少し鈍感だから、この際ハッキリ言っておきます。何とも思ってない人と、わざわざこんなところに来るわけないでしょ。僕も男ですからね、下心があるんですよ! 」
「えっ? 」
「大体ですね、好きでもない人にキスされることはあっても、好きじゃない人にキスする人間なんているわけないじゃないですか 」
「…… 」
多分、文字にして繰り返し確認すれば、吉岡の言っていることは朱美にも理解できたのかもしれない。
でも吉岡も朱美とは付き合いは長くなってきたから、今さらそのくらいのことではでは動じない。吉岡は少し諦めつつも、もう一言押しの一句を付け足した。
「……先生、やっぱわかってないでしょ。僕だって役得だけでキスなんてしません 」
「わかるも何も…… 」
吉岡は少し文学的で、表現が遠回しだった。朱美は脳ミソをフル回転させて意味を考える。
それはつまり、
吉岡は…… 私のことを……
んっ? あれ……?
「えっ、えっ……!? 」
朱美は急にアワアワしだすと、顔面を赤面させた。
「別に先生が僕のこと、どう思っていても構いません。僕としてはこういった感情を抱いてることは言わないつもりでしたが、状況が変わったから伝えさせてもらいます。難しいかもしれませんが、先生は今まで通り気にすることなく…… 」
吉岡は照れ臭そうに、色々と弁解をしている。朱美は唖然として吉岡を見ていた。
言葉が思い付かなかった。
朱美は自分でも どうしてそうしたのかは 分からなかった。だけど気づいたときには 人目も憚らず、吉岡の言葉を遮るように彼の胸に飛び込んでいた。
「……何よ、さっきから聞いてたら。自分ばっかりベラベラ話しちゃって 」
「ちょっ、朱美先生? 」
吉岡の声は、少し上ずっている。
でもそんなことに構うことなく、朱美は堰を切って話し出した。
「あのね、こっちは一週間、目が冴えて寝れなくなるくらい、私だって吉岡のことばっか考えてたんだから。
お陰さまで原稿は何とかなったけど、こんな精神状態で持ち堪えたのは奇跡に近いし。
ページ数を落としたのは申し訳なかったけど、一人で話畳まないで、少しは責任取りなさいよっッ 」
「だから先生、勝手にキスしたことは謝りますからっッ 」
「吉岡のバカ! やっぱ全然わかってないっッ! 私はキスは嫌じゃなかったから 」
「えっ……? 」
「つまり、そういうことなの…… 多分っッ! 」
朱美は大声を上げていた。
自分でもびっくりしたが、多分周りの人たちもこちらを見ている。
言いたいことを言えてスッキリしたが、鼓動は早いままだった。恥ずかし過ぎてもう目を開けられそうにない。
すると吉岡はゆっくりと朱美を抱き寄せ彼女の前髪を掻き分けると、おでこに軽く唇をつけた。
「んっ…… 」
朱美はビックリして、吉岡を見つめた。
その口づけは、とても柔らかだった。
吉岡も恥ずかしそうな顔をしていたが、一転少しニヤニヤすると開き直るようにしてこう切り出した。
「三回目のキスです。もう数えるのはここまでにしましょう 」
「三回目……? 」
「はい、三回目 」
「三回目って…… ちょっ、どういうコト!? 吉岡っッ! 」
朱美はギャーと声をあげそうになったが、寸前のところで吉岡がそのの口を押さえ込んだ。
あのとき? って…… いつだ?
思い当たることが多すぎるっッ。
でも少なくとも、彼が衝動的に自分に好意を抱いている訳でないこともわかり、朱美は不思議と安堵していた。
「そのままの意味です。スキだらけの朱美先生が悪い。あれは本当に色々な意味で地獄を味わいました。運転手から起きないって連絡が来て 朱美先生が一瞬 死んだかと思ったし、そうかと思えば可愛い顔して無邪気に寝息立ててるし。本当はもっと対価が欲しいくらい心が乱れましたよ 」
「なっ…… 」
タクシーで寝落ちしたときだ……
朱美は吉岡の言いぐさに、心臓がきゅっとなる。心が乱れたなんて少女漫画みたいな台詞を言われたら、こちらも動揺するしかなかないではないか。
「さあ。真相もわかってスッキリしたことですし、ほら…… 帰りますよ 」
「えっ? 」
「明日からはネームのツケも精算しなきゃなりません。さっさと帰って続きをしないと 」
「なっ、何を言ってるの? 」
「そのまんまの意味ですよ 」
そう言うと吉岡はベンチを立ち、朱美に右手を差し出した。その吉岡は月明かりに照らされて、何だか少し格好よく見えてしまう。 一瞬飛躍した想像が頭の片隅を過ったが、それはそれで悪くもないような気もした。
「あなたは僕の弱点なんでね。本人の許可があるなら僕はこの手を離しません 」
急な吉岡の態度の変化に、何だかジワジワと遅れてコトの実感が沸いてくる。朱美は急に恥ずかしくなり頬を赤らめた。
「なっ…… そんなオーバーな 」
「いいえ。あなたは僕の人生の恩人ですから 」
「はい? 」
口説かれてるのか何なのか、よくわからない吉岡の物言いに、朱美は首をかしげた。
朱美には、まだその言葉の意味が分からない。
吉岡はようやく伝えることができた本音に満足したのか、少しだけ笑みを浮かべていた。
今はまだ言えない。
けれど必ず近いうちに、きちんと自分を人に戻してくれてありがとうと伝えたい。吉岡はそんな気持ちだった。
吉岡が差し出した手を、朱美はゆっくりと手に取った。
その手は何だか熱を帯びていて、妙に温かかった。
ジェットスターのような一週間はようやく幕を閉じた。
吉岡との関係性は、少し変わるかもしれない。
それが良いことなのか悪いことなのかは、今は神様だけが知ることなのだと思う。
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