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アナグラム③
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◆◆◆
二人きりに……なってしまった……
織原に連れて来られたのは、駅に程近い場所に位置するシティホテルだった。
夕方と言っても真夏の夜は、まだまだ蒸し暑さは終わらない。外気のせいなのかアルコールの火照りなのか、強く握られた織原の手は何だか熱くてドキドキする。
やっぱり男性というのは、こんなにあっさり身体を求めるものなのだろうか……?
織原はチェックインをする間も、エレベーターに乗っている間も、桜の手を離そうとはしなかったが、部屋に入った途端に桜のその手をあっさりと解放した。
「…… 」
織原は無言だった。
桜はそんな彼の様子を横目で流した。そして若干裏切られたような気になりながら、部屋のなかを見渡した。バスタブつきの広い洗面所に大きなダブルベッド。カーテンは閉まっていたが、窓からは東京の夜景を独り占めできる立地に見えた。
だいたい話が急すぎる。
織原は自分は川相晴臣だとか言うし、何だか もう頭がついていけてない。それにこんな一等地のホテルに予約もなしに飛び込みで泊まれる経済力も、いきなり飛躍し過ぎだろう……
桜は困惑しながらも、勇気を出して織原に質問をした。
「ここ、一体いくらする部屋……? 」
「いま僕の部屋は、人を呼べる状態にないんで。だから大奮発です 」
なっ……
それ、全然 答えになってないじゃん……
もしかして家には誰かいて、どうせ辞めるし私は行きずり的な扱いってこと?
で、あんなことを言ったのか……?
というか、ここまでされたら本当にするしかないじゃない。身から出た錆びとは、こう言うことを指すのだろう。
沈黙が流れた。
静かすぎて頭の中では、耳鳴りのキーンとした音がひっきりなしに響き渡っていた。
「遠藤さん、僕は少ししたら帰りますから。遠藤さんは今晩はこちらで休んで……」
「はあ? 」
桜はまだ織原が話途中であるにも関わらず 声をあらげると、物凄い形相で彼を見つめた。
無造作なヘアスタイルの下にある表情は、相変わらず見えずらい。桜には織原の真意が全くわからなかった。
私は……忘れたいだけ。
なのに冷静になって、自分はもしかして今さら後悔をしてるのか。
そして桜は徐に服を脱ぎ始めると、織原にこう声を掛けた。
「始めよ 」
「えっ? 」
織原はTシャツを脱ぎ始めた桜を見るなり、慌ててベッド置かれていたパジャマを手に取った。 そして半ば抱きつくような状態で、桜の上半身をそれで隠した。
「ちょっ…… 何をするのっッ 」
「ったく、まだそんなこと言ってるんですか? 」
「ちょっ……離して…… きゃっ…… 」
「あっ、危な…… 」
二人は揉み合いのような格好になり、勢い余ってベッドに横倒しになった。 桜の上半身は隠れてはいた。だけど織原が密着こそは回避したものの、完全に上から覆い被さるような状態に陥っていた。
目と目が合い、互いに冷静になる……
その間に先に耐えられなくなったのは桜の方で、咄嗟に頬を赤らめながらパジャマでその顔の火照りを隠した。
「もう一度言っときますけどね、僕はあなたのこと好きなんですよっ。だから、あなたの本心がわからない状態でことに及んでも、あなたも僕自身も傷つくんですっ!こっちはね、なけなしの理性で堪えてるんですよ。少しは自覚してください 」
「……なっ 」
いきなり同僚から二回も好きと言われてしまった。
織原の目に 迷いは見えなかった。
とてもしっかりした強い口調で、桜にハッキリと自分の意思を伝えていた。
「僕が変なこと言って、トリガー引いたことは謝ります。すみません、辛い思いをさせて。でもなかったことなんかに、出来ませんよ。油絵のように上からどんなに絵の具を重ねても、一番下には絵が残り続けるんです。どっちの絵を今にするかは、遠藤さんが決めることですし 」
「なっッ。それは…… 」
「別にあなたが他の男と何してたとか、そういうのは知る必要はないんです。僕は…… 興味がないっていったら嘘になるけど 」
「私は…… 」
「本当に好きなら、相手がちょっと弱さを見せても、そんなことは受け入れられるんです。もしかしたら、それすらも愛しく感じることもあるかもしれない 」
桜は何も言い返せなかった。織原は紛れもなく正論を言っている。
私は私を大切にしなかったから、とても怒られてる……
そして今、物凄く大切にされている……?
「そもそもあなたは、そうやって抱かれて うやむやになる男女関係は好きじゃないでしょう。だってあなたは…… 」
「…… 」
「僕の小説を読んでくれてるのだから 」
「ごめんなさい…… 私…… 」
桜は必死に涙を堪えていた。もう感情はぐじゃぐじゃだ。自分は本当に押しに弱い。情けなくて腹が立つ。
自分で言い出したことだ。嫌な訳では決してなかった。けれど拒否をされてこんなに胸が熱くなる感覚は初めてだった。
ついさっき好きと言われただけで、何年間もただの同僚だった人に、私は何故こんなに心を揺さぶられているのだろうか……
「僕は今さら急ぐ必要なんてないんです。こんなチャンス逃すわけにはいかないですから 」
織原は桜の耳元で、そう小さく呟くとぎゅっと彼女を抱き締めた。
こんな人が身近にいたなんて、私は全然気づかなかった。
私って、ほんとヒトを見る目ないんだから。
どのくらい時間がたったのだろうか……
桜と織原はベッドの中にいた。
もちろん何もしていない。強いて言えば手を繋いでいた。本当にただそれだけで、二人は向かい合って横になっていた。別に何をするわけでもなく、そこには空調の音だけが響き渡っていた。
織原は目を閉じていて寝てるのか起きてるのかもわからない。けれど捕まれた手は強く握られていて、簡単にほどけそうにはなかった。
「ねぇ? 織原…… あの話は本当なの? 」
「はい……? 」
沈黙を破ったのは桜だった。織原はゆっくりと目を開けると、もう一度言ってというような表情を浮かべていた。
「あの、だから、その…… 織原が川相晴臣先生って話…… 」
「ええ、本当ですよ 」
「…… 」
「顔に信じられないって書いてありますね。いやまぁ、そうでしょうケド 」
「そりゃ、そうでしょ。だって織原が本を書いてる姿なんて想像できないというか、なんというか…… 」
いや、でも待てよ。
今さらだけど織原はバイト終わったら一目散に帰ってたし、たまに休憩時間にパソコンで作業してたではないか。
もちろんそれで気づくのは不可能だが、いま思い返すとその予兆は十分あったのかもしれない。桜は納得できないと言った表情を浮かべていた。そしてその様子を見た織原は、思わず苦笑した。
「川相晴臣はもう一つの自分ですから。遠藤さんは、気づいてて 僕に話を吹っ掛けたのかと思ったくらいです 」
「いや、そんなの無理でしょ。いや、絶対に。私の生活導線の前提に、同僚が実は小説家ってカードはなかったから 」
そういえば……
初めて川相晴臣の話を出したとき、織原は盛大に噎せてたかも。
それにもう一人の自分と繰り返す織原の表現にも、何か引っ掛かるものがあった。
「織原究をローマ字にして、それを母音と子音をミックスして作ったのが、川相晴臣です 」
織原はそういいながら、桜の手を離した。そしてベッドサイドにあったメモ用紙とペンを取ると、ローマ字でorihara kiwamuと書いて、母音と子音を繋ぎ合わせていった。
「えっ、あっ、本当だっ!…… 凄っッ 」
桜は目を丸くしなかまら、メモ用紙を直視していた。だからと言って、彼が小説家である確固たる証拠にはならないのかもしれない。けれども桜は感じていた。何だか一つ一つの所作が、何だかとても優しいのだ。
「織原って、コミュ障だと思ってた。今日はメチャクチャ饒舌なんだもん、全然普通じゃん 」
「僕は話すのは苦手です。普段はあんまり喋りません。だから物書きなんですよ 」
「そう……なの……? 」
話すのが苦手イコール物書きの方程式がどう足掻いたら成立するのか桜にはよくわからなかった。すると織原は少しだけ笑顔を浮かべ、また桜の手を取った。
「今日は棚ぼたではありますが、ずっと口説きたいと思ってた女性と一夜を共にするんです。そりゃ喋るでしょ。こんな機会はもう二度とないですから 」
「……一夜? 」
「ええ…… んっ? 」
桜の問いに、織原は思わず疑問返しをした。
「織原、あなた本当に小説家? 私たちはずーと毎日毎日、何夜も何夜も一緒にいたじゃん 」
「ええ 」
「だから今日を特別にしたいなら 」
踏み込まないとそうならない……
と言おうとして、桜は口をつぐんだ。
自分は何をけしかけようとしているのだ。桜は目を閉じ首左右に振ると、ハアと息を吐いた。
するとその様子から何かを悟った織原は、少し吹き出しそうになりながら、桜をがっちり抱き寄せた。
「遠藤さん…… 僕が野暮でした。これで今晩は特別な夜になりますね。時間かかるかもしれないけど、僕あなたに振り向いてもらいますよ 」
「なっ…… 」
織原は一方的に桜に猶予を与えた。
織原の本心はわからない。自信がないから無理やり保留させて時間を稼ぎたいのが、逆に絶対に手にしたいからこそ、時間をかけてでも彼女を手に入れたいのか。
でももはや今の桜には、それは大した問題でもないのかもしれない。
「織原。あのさ、一つのお願いがあるんだけど 」
「何ですか? 」
「そのさ、敬語は止めない? 私は織原の年齢は知らないんだけど 」
「僕は今年三十三歳ですけど? 履歴書を見たことありません? 」
「三十三歳! 歳上じゃんっッ!? 」
年下だと思ってた!桜はちょっと罰の悪そうな顔を浮かべると「ごめん」と詫びをいれた。
「遠藤さん、今さら!? 僕はそっちにびっくりなんですけどっ 」
だってついさっきまで、織原のプライベートなことには何の興味も抱いていなかったのだ、とは流石に言えなかった。
こうしてだんだん近くなる……
自分から近づいている。
もっと知りたい。
こんな駄目な自分に好意を抱いているという彼のことを、もっと知りたくなっている。
「あとね…… 私は…… 押しに弱いから…… 」
「はい? 」
「ヒントね。これ…… 」
「……遠藤さん、やっぱりあなたは素敵な人だ。まるで小説の主人公みたい…… 」
「小説っっッ? 主人公ぅ? 」
意味がわからない……
彼は急に何を言い出すのだ。何だか恥ずかしくなって、桜は無意識に織原の胸の中に顔を埋めていた。
「じゃあお言葉に甘えて、これからは友達で 」
織原はあくまでも控えめだった。
今までこんな経験は初めてだ。
今日 自分はアラサーにして、初めて思春期というものを知った気がした。
それに比べて……
織原は余裕綽々じゃないか。しかも今までの関係が一気に逆転している。もはや桜にはそれは大した問題でもなかったのだが、何となく癪に障った。
桜は無意識の範疇で、ゆっくりと織原に顔を近づけた。そして耳元で、こうゆっくりと囁いた。
「あ…… でも友達とは、キスはしないなー 」
「あっ…… あれはノーカンでしょ!? 遠藤さんが、 止まらなかったからッ 」
「…… 」
桜は少しだけ難しい顔をした。
あんだけ長いキスをして私を揺さぶっておいて、今さらノーカンなんて許してやるものか。
桜はそのまま織原の頬まで自分の顔を近付けると、そこに不意内で頬に唇を押し当てた。少なくともさっきのキスを越えるまで、私はそれを止めてやらない。
「なっッ…… 」
「仕返し 」
桜は一方的に話を終了させると、また織原の腕の中に戻った。
今まで生きてきた中で、一、二を争う鼓動の早さだった。桜は顔を真っ赤にすると、それを隠すように彼の胸に顔を埋める。織原も目を見開いたまま、そんな桜の様子を呆然と見つめていた。そして織原はハッとして我に返ると、彼女をゆっくり抱き寄せた。
何だか変な約束をしてしまった。
こんな状況は、想定外の出来事だった。というより、もはやただの同僚にも、ただの友達にも引き返せないところまで来ているではないか……
「あの…… 」
「何? 」
「訂正します。やっぱただの友達じゃなくて、特別な友達に格上げしてください 」
「えっ……? あっ、っん…… 」
織原は桜の自由を奪うように、またキスをした。
今度は大人のキスだった。
さっきは慌てて駅での不意打ちキスを数えないで欲しいと言ったけど、それは半分本心で半分は嘘だ。あんな無理矢理された嫌な思い出は忘れてほしい。だけど自分は消して生半可なつもりでそうした訳ではないことだけは彼女に伝えたかった。
織原は一方的に始めて、一方的に唇を離した。
「あの 」
「僕の気持ち、ちゃんと伝えたかっただけなんで。すみません。おやすみなさい 」
「……おや……すみ 」
呆然とする桜を、織原はその腕から離さなかった。
特別な友達に格上ね……
私はこれ以上、そういう友達はいらないんだけどな。
こんなに優しくされたのも、こんなに優しいキスをされたのも、こんなに優しく抱き締めれたのも初めてかもしれない。
桜はそんなことを思いながら、織原の腕の中で静かに眠りについた。
まだ自分の気持ちはよくわからない。
だけど……この温もりは……
いつまでも自分だけに向けられればいいのに、と思った。
二人きりに……なってしまった……
織原に連れて来られたのは、駅に程近い場所に位置するシティホテルだった。
夕方と言っても真夏の夜は、まだまだ蒸し暑さは終わらない。外気のせいなのかアルコールの火照りなのか、強く握られた織原の手は何だか熱くてドキドキする。
やっぱり男性というのは、こんなにあっさり身体を求めるものなのだろうか……?
織原はチェックインをする間も、エレベーターに乗っている間も、桜の手を離そうとはしなかったが、部屋に入った途端に桜のその手をあっさりと解放した。
「…… 」
織原は無言だった。
桜はそんな彼の様子を横目で流した。そして若干裏切られたような気になりながら、部屋のなかを見渡した。バスタブつきの広い洗面所に大きなダブルベッド。カーテンは閉まっていたが、窓からは東京の夜景を独り占めできる立地に見えた。
だいたい話が急すぎる。
織原は自分は川相晴臣だとか言うし、何だか もう頭がついていけてない。それにこんな一等地のホテルに予約もなしに飛び込みで泊まれる経済力も、いきなり飛躍し過ぎだろう……
桜は困惑しながらも、勇気を出して織原に質問をした。
「ここ、一体いくらする部屋……? 」
「いま僕の部屋は、人を呼べる状態にないんで。だから大奮発です 」
なっ……
それ、全然 答えになってないじゃん……
もしかして家には誰かいて、どうせ辞めるし私は行きずり的な扱いってこと?
で、あんなことを言ったのか……?
というか、ここまでされたら本当にするしかないじゃない。身から出た錆びとは、こう言うことを指すのだろう。
沈黙が流れた。
静かすぎて頭の中では、耳鳴りのキーンとした音がひっきりなしに響き渡っていた。
「遠藤さん、僕は少ししたら帰りますから。遠藤さんは今晩はこちらで休んで……」
「はあ? 」
桜はまだ織原が話途中であるにも関わらず 声をあらげると、物凄い形相で彼を見つめた。
無造作なヘアスタイルの下にある表情は、相変わらず見えずらい。桜には織原の真意が全くわからなかった。
私は……忘れたいだけ。
なのに冷静になって、自分はもしかして今さら後悔をしてるのか。
そして桜は徐に服を脱ぎ始めると、織原にこう声を掛けた。
「始めよ 」
「えっ? 」
織原はTシャツを脱ぎ始めた桜を見るなり、慌ててベッド置かれていたパジャマを手に取った。 そして半ば抱きつくような状態で、桜の上半身をそれで隠した。
「ちょっ…… 何をするのっッ 」
「ったく、まだそんなこと言ってるんですか? 」
「ちょっ……離して…… きゃっ…… 」
「あっ、危な…… 」
二人は揉み合いのような格好になり、勢い余ってベッドに横倒しになった。 桜の上半身は隠れてはいた。だけど織原が密着こそは回避したものの、完全に上から覆い被さるような状態に陥っていた。
目と目が合い、互いに冷静になる……
その間に先に耐えられなくなったのは桜の方で、咄嗟に頬を赤らめながらパジャマでその顔の火照りを隠した。
「もう一度言っときますけどね、僕はあなたのこと好きなんですよっ。だから、あなたの本心がわからない状態でことに及んでも、あなたも僕自身も傷つくんですっ!こっちはね、なけなしの理性で堪えてるんですよ。少しは自覚してください 」
「……なっ 」
いきなり同僚から二回も好きと言われてしまった。
織原の目に 迷いは見えなかった。
とてもしっかりした強い口調で、桜にハッキリと自分の意思を伝えていた。
「僕が変なこと言って、トリガー引いたことは謝ります。すみません、辛い思いをさせて。でもなかったことなんかに、出来ませんよ。油絵のように上からどんなに絵の具を重ねても、一番下には絵が残り続けるんです。どっちの絵を今にするかは、遠藤さんが決めることですし 」
「なっッ。それは…… 」
「別にあなたが他の男と何してたとか、そういうのは知る必要はないんです。僕は…… 興味がないっていったら嘘になるけど 」
「私は…… 」
「本当に好きなら、相手がちょっと弱さを見せても、そんなことは受け入れられるんです。もしかしたら、それすらも愛しく感じることもあるかもしれない 」
桜は何も言い返せなかった。織原は紛れもなく正論を言っている。
私は私を大切にしなかったから、とても怒られてる……
そして今、物凄く大切にされている……?
「そもそもあなたは、そうやって抱かれて うやむやになる男女関係は好きじゃないでしょう。だってあなたは…… 」
「…… 」
「僕の小説を読んでくれてるのだから 」
「ごめんなさい…… 私…… 」
桜は必死に涙を堪えていた。もう感情はぐじゃぐじゃだ。自分は本当に押しに弱い。情けなくて腹が立つ。
自分で言い出したことだ。嫌な訳では決してなかった。けれど拒否をされてこんなに胸が熱くなる感覚は初めてだった。
ついさっき好きと言われただけで、何年間もただの同僚だった人に、私は何故こんなに心を揺さぶられているのだろうか……
「僕は今さら急ぐ必要なんてないんです。こんなチャンス逃すわけにはいかないですから 」
織原は桜の耳元で、そう小さく呟くとぎゅっと彼女を抱き締めた。
こんな人が身近にいたなんて、私は全然気づかなかった。
私って、ほんとヒトを見る目ないんだから。
どのくらい時間がたったのだろうか……
桜と織原はベッドの中にいた。
もちろん何もしていない。強いて言えば手を繋いでいた。本当にただそれだけで、二人は向かい合って横になっていた。別に何をするわけでもなく、そこには空調の音だけが響き渡っていた。
織原は目を閉じていて寝てるのか起きてるのかもわからない。けれど捕まれた手は強く握られていて、簡単にほどけそうにはなかった。
「ねぇ? 織原…… あの話は本当なの? 」
「はい……? 」
沈黙を破ったのは桜だった。織原はゆっくりと目を開けると、もう一度言ってというような表情を浮かべていた。
「あの、だから、その…… 織原が川相晴臣先生って話…… 」
「ええ、本当ですよ 」
「…… 」
「顔に信じられないって書いてありますね。いやまぁ、そうでしょうケド 」
「そりゃ、そうでしょ。だって織原が本を書いてる姿なんて想像できないというか、なんというか…… 」
いや、でも待てよ。
今さらだけど織原はバイト終わったら一目散に帰ってたし、たまに休憩時間にパソコンで作業してたではないか。
もちろんそれで気づくのは不可能だが、いま思い返すとその予兆は十分あったのかもしれない。桜は納得できないと言った表情を浮かべていた。そしてその様子を見た織原は、思わず苦笑した。
「川相晴臣はもう一つの自分ですから。遠藤さんは、気づいてて 僕に話を吹っ掛けたのかと思ったくらいです 」
「いや、そんなの無理でしょ。いや、絶対に。私の生活導線の前提に、同僚が実は小説家ってカードはなかったから 」
そういえば……
初めて川相晴臣の話を出したとき、織原は盛大に噎せてたかも。
それにもう一人の自分と繰り返す織原の表現にも、何か引っ掛かるものがあった。
「織原究をローマ字にして、それを母音と子音をミックスして作ったのが、川相晴臣です 」
織原はそういいながら、桜の手を離した。そしてベッドサイドにあったメモ用紙とペンを取ると、ローマ字でorihara kiwamuと書いて、母音と子音を繋ぎ合わせていった。
「えっ、あっ、本当だっ!…… 凄っッ 」
桜は目を丸くしなかまら、メモ用紙を直視していた。だからと言って、彼が小説家である確固たる証拠にはならないのかもしれない。けれども桜は感じていた。何だか一つ一つの所作が、何だかとても優しいのだ。
「織原って、コミュ障だと思ってた。今日はメチャクチャ饒舌なんだもん、全然普通じゃん 」
「僕は話すのは苦手です。普段はあんまり喋りません。だから物書きなんですよ 」
「そう……なの……? 」
話すのが苦手イコール物書きの方程式がどう足掻いたら成立するのか桜にはよくわからなかった。すると織原は少しだけ笑顔を浮かべ、また桜の手を取った。
「今日は棚ぼたではありますが、ずっと口説きたいと思ってた女性と一夜を共にするんです。そりゃ喋るでしょ。こんな機会はもう二度とないですから 」
「……一夜? 」
「ええ…… んっ? 」
桜の問いに、織原は思わず疑問返しをした。
「織原、あなた本当に小説家? 私たちはずーと毎日毎日、何夜も何夜も一緒にいたじゃん 」
「ええ 」
「だから今日を特別にしたいなら 」
踏み込まないとそうならない……
と言おうとして、桜は口をつぐんだ。
自分は何をけしかけようとしているのだ。桜は目を閉じ首左右に振ると、ハアと息を吐いた。
するとその様子から何かを悟った織原は、少し吹き出しそうになりながら、桜をがっちり抱き寄せた。
「遠藤さん…… 僕が野暮でした。これで今晩は特別な夜になりますね。時間かかるかもしれないけど、僕あなたに振り向いてもらいますよ 」
「なっ…… 」
織原は一方的に桜に猶予を与えた。
織原の本心はわからない。自信がないから無理やり保留させて時間を稼ぎたいのが、逆に絶対に手にしたいからこそ、時間をかけてでも彼女を手に入れたいのか。
でももはや今の桜には、それは大した問題でもないのかもしれない。
「織原。あのさ、一つのお願いがあるんだけど 」
「何ですか? 」
「そのさ、敬語は止めない? 私は織原の年齢は知らないんだけど 」
「僕は今年三十三歳ですけど? 履歴書を見たことありません? 」
「三十三歳! 歳上じゃんっッ!? 」
年下だと思ってた!桜はちょっと罰の悪そうな顔を浮かべると「ごめん」と詫びをいれた。
「遠藤さん、今さら!? 僕はそっちにびっくりなんですけどっ 」
だってついさっきまで、織原のプライベートなことには何の興味も抱いていなかったのだ、とは流石に言えなかった。
こうしてだんだん近くなる……
自分から近づいている。
もっと知りたい。
こんな駄目な自分に好意を抱いているという彼のことを、もっと知りたくなっている。
「あとね…… 私は…… 押しに弱いから…… 」
「はい? 」
「ヒントね。これ…… 」
「……遠藤さん、やっぱりあなたは素敵な人だ。まるで小説の主人公みたい…… 」
「小説っっッ? 主人公ぅ? 」
意味がわからない……
彼は急に何を言い出すのだ。何だか恥ずかしくなって、桜は無意識に織原の胸の中に顔を埋めていた。
「じゃあお言葉に甘えて、これからは友達で 」
織原はあくまでも控えめだった。
今までこんな経験は初めてだ。
今日 自分はアラサーにして、初めて思春期というものを知った気がした。
それに比べて……
織原は余裕綽々じゃないか。しかも今までの関係が一気に逆転している。もはや桜にはそれは大した問題でもなかったのだが、何となく癪に障った。
桜は無意識の範疇で、ゆっくりと織原に顔を近づけた。そして耳元で、こうゆっくりと囁いた。
「あ…… でも友達とは、キスはしないなー 」
「あっ…… あれはノーカンでしょ!? 遠藤さんが、 止まらなかったからッ 」
「…… 」
桜は少しだけ難しい顔をした。
あんだけ長いキスをして私を揺さぶっておいて、今さらノーカンなんて許してやるものか。
桜はそのまま織原の頬まで自分の顔を近付けると、そこに不意内で頬に唇を押し当てた。少なくともさっきのキスを越えるまで、私はそれを止めてやらない。
「なっッ…… 」
「仕返し 」
桜は一方的に話を終了させると、また織原の腕の中に戻った。
今まで生きてきた中で、一、二を争う鼓動の早さだった。桜は顔を真っ赤にすると、それを隠すように彼の胸に顔を埋める。織原も目を見開いたまま、そんな桜の様子を呆然と見つめていた。そして織原はハッとして我に返ると、彼女をゆっくり抱き寄せた。
何だか変な約束をしてしまった。
こんな状況は、想定外の出来事だった。というより、もはやただの同僚にも、ただの友達にも引き返せないところまで来ているではないか……
「あの…… 」
「何? 」
「訂正します。やっぱただの友達じゃなくて、特別な友達に格上げしてください 」
「えっ……? あっ、っん…… 」
織原は桜の自由を奪うように、またキスをした。
今度は大人のキスだった。
さっきは慌てて駅での不意打ちキスを数えないで欲しいと言ったけど、それは半分本心で半分は嘘だ。あんな無理矢理された嫌な思い出は忘れてほしい。だけど自分は消して生半可なつもりでそうした訳ではないことだけは彼女に伝えたかった。
織原は一方的に始めて、一方的に唇を離した。
「あの 」
「僕の気持ち、ちゃんと伝えたかっただけなんで。すみません。おやすみなさい 」
「……おや……すみ 」
呆然とする桜を、織原はその腕から離さなかった。
特別な友達に格上ね……
私はこれ以上、そういう友達はいらないんだけどな。
こんなに優しくされたのも、こんなに優しいキスをされたのも、こんなに優しく抱き締めれたのも初めてかもしれない。
桜はそんなことを思いながら、織原の腕の中で静かに眠りについた。
まだ自分の気持ちはよくわからない。
だけど……この温もりは……
いつまでも自分だけに向けられればいいのに、と思った。
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