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それぞれの選択
ハイスピードコースターに乗って②
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■■■
やはり休日の池袋の人の多さは、目を見張るものがある。
そして夜勤明けに ロクに休みもせず 昼から繰り出すことに、息吹は年々体力の限界を感じていた。結局、先日のすき焼きパーティーからの食事の約束は 野上の仕事の都合で直前でキャンセルとなっていた。そんなこんなで今回が野上とサシで会う、ほぼファーストデートだというのに、まさかの水族館デートを提案してくるのだから、初っぱなからなかなかの高いハードルであることは否めない。
今回、二人が訪れた水族館は、池袋のあの有名なビルの建物の屋上にある。水族館直通のエレベーターに乗るのにも列ができていて一苦労だったが、野上は待ち時間もずっと息吹に話しかけていた。
野上の話題は尽きることなく、朝のテレビ番組で好きなMCは誰だとか、最近観た映画の話とか、好きな旅先はどこかとか、とにかく終始息吹に話題を絶やさなかった。しかし野上の本業のドラマやアニメに関しては、息吹が普段 殆ど夜勤でそういった系統の番組を観ないことに合わせてか、話を振らないようにしてくれているようで、何だか気を使わせてしまっているような気もした。
休日ということもあり、水族館はカップルや家族連れで大変な賑わいだった。屋外にある水槽にはアシカやペンギンが優雅に泳いでいるのだが、その水槽の水面から差し込んだ僅かな太陽の光は、足元に反射してキラキラ光っていた。今日は夕立が降る予報ではあるが、雲の隙間からはお日さまが顔を出している。
「山辺さん、順路はまずはこっちみたいですよ 」
野上は息吹を手招きしながら、室内展示の入り口を指差した。二人ともこの水族館に遊びに来るのは初めてで、大人でありながらもその解放感には自然とワクワクしていた。
「空飛ぶペンギンは後のお楽しみにしましょう。先ずは、水槽から回りましょうか 」
「……そうですね 」
野上は先日会ったときと同じような印象で、きれい目なチノパンにリネンのシャツという出で立ちで、キチンと感のある服装をしていた。
普通に見て好青年ではないか……
野上は自分には不釣り合いなくらい若く見えるし、そして実際に若い。自分はその隣を歩いてもいいのだろうか?
「あの…… 山辺さん? 」
「えっ? あっ、はいっッ 」
気づくと野上は不思議そうな表情をして息吹を見つめていた。息吹はハッとして我に還ると、慌ててその歩を彼の隣まで進めた。
それにしても休日の水族館は、水槽までの距離が遠く感じる。どの水槽にも子どもから大人まで物凄い人だかりが出来ていて、後ろからチラリチラリとしか覗けなかった。
「あの…… 山辺さん。こっち、ちょっとだけ空いてるから 」
「えっ? あっ、あのっ…… 」
野上はそう息吹に声を掛けると、軽く腕を掴み 息吹を僅かな隙間に誘導した。息吹は思わずドキッとしたが、野上はあっさりその腕から手を離すと、息吹の上から覗き込むように一緒に水槽の中身を凝視した。そこにはかの有名なカクレクマノミや カラフルな魚や イソギンチャク、サンゴがところ狭しと共存している。息吹は魚たちは程々に、つい水槽の上やエアーポンプなど、いろいろな部分を無意識にしっかりと確認していた。
「山辺さん……やっぱり、気になります? 水回り 」
「あっ、すいません。つい…… 」
息吹はハッとしながら野上を振り返った。
そして水槽から離れて順路に出ると、こう話を続けた。
「こういうビルの中にある水族館は、海水を沖から汲んで運んで使用するパターンもあるし、最近じゃミネラルとかを混ぜて、人工海水なんてのを使う場所もあるらしくて。まあ、淡水に関しては、そんなに苦労しないんだろうけど。すみません、私そういうのにやっぱり興味があって 」
「山辺さん、流石詳しいですね。格好いい! 」
しまった……
水族館に来ているのに、魚には全く関係のない、余計な話をしてしまった。
「まあ、僕もこういうところに来たら、職業柄 館内の様子を録音したいとか思います。やっぱり、人工的に作る音より、生の音に勝るものはありませんから。特に小さい子どもの騒ぎ声は、大人じゃなかなか再現しきれないですからね。特に水族館独特の反響はなかなか再現は難しいですから 」
「えっ? 」
息吹は微かな違和感を覚えた。
もしかして、普通に会話が繋がっている?
「普段 僕はスタジオに籠って、ひたすら音を作る作業をすることが多いんですけど。こうやって外に出るとリフレッシュするし、やっぱり人々のイキイキとした日常の営みを感じるのはいいですね 」
「ええ…… そうですね 」
野上は息吹の方を振り向くと、少しだけニコリと笑みを浮かべこう続けた。
「それにしても土日って、めっちゃ混んでますね。はぐれないようにしないと 」
「ええ…… そうですね……ッッて!? 」
息吹は少し驚いて自分の手元を確認した。自分はいつの間にか野上のショルダーポーチのストラップに手を掛けていて、彼はその手を自分の手で上からギュッと包みこむと、息吹の耳元でこう囁いた。
「これなら、はぐれたりしませんね。さっ、行きましょう 」
「……はいっっ。まあ、そうですね 」
息吹は赤面しながら辛うじてそう答えると、野上のあとをゆっくりとついて回った。
いま完徹同盟の誰かに顔を見られたら、多分混乱してパニックになって、その場で卒倒するかもしれないと思った。
結局、どんな魚がいたかほぼ記憶がない状態で、息吹は水族館を後にした。完全に野上に意識をとられてしまい、息吹は結局心ここにあらずな状態で、取り敢えず呼吸をして歩いて何とか過ごしていた。
「こんなにお店があると…… 目移りしちゃいますね。僕 普段は池袋には、あんまり来ないもんで 」
野上と息吹はサンシャインシティの中をぐるぐるしながら、ランチの出来る店を探していた。といっても水族館で思いの外長く過ごしてしまったようで、カフェタイムに近い時間ではあったが、店はどこも満席に近い状態で混み合っていた。
「私も……あんまり池袋は来ないもので。あの、野上さん。苦手なものとかはありますか? 」
「いえ……特には。僕、唯一の取り柄が好き嫌いがないことなんです。山辺さんは、何か避けたいものとかありますか? 」
「いえ、私も特には 」
「じゃあ…… 韓国料理に行きませんか? 僕 一度行ってみたいお店があったんですけど、そこの系列店があるみたいなんですよね。男だけだとちょっと入りづらくて…… 」
「いいですね。 私辛いもの好きなんです 」
息吹は言いつつ、自分の手に目をやった。
完全に離すタイミングを忘れた右手は、いつの間にか野上のシャツの袖を掴んでいる。野上に連れられて階を移動しながら辿り着いた先には、韓国の屋台を模した空間が広がっていて、メニューもリーズナブルなラインナップだった。ロケーション的なこともあってかそこまでの混雑はなく、息吹は思わず野上のセンスのよさに感心した。
「ここです。ちょっと雰囲気ありません? 」
「そうですね。ブテチゲとか美味しそう…… 」
息吹は店の前のメニューを食い入るように確認すると、野上の様子をチラリと確認した。彼もしっかりした眼差しでメニューをチェックしていて、息吹は何だか新鮮な気分になった。
何だか構えてしまっていたけど、大人になるとあんまり年齢の差ってあんまり関係ないのかも。
こんなことを思いつつ息吹が再びメニューに目をやったとき、その音はピロピロリンと鞄の底で小さく響いた。
「あっ…… 」
これは……
猛烈に嫌な予感しかしない……
彼女は本能で着信音を逃さなかった。
息吹は反射で彼のシャツから手を離すと、いつもより小さめの鞄の底から、職場から支給されている旧式の携帯電話を取り出した。
「あの…… どうかしました? 」
野上は落ち着いたトーンで息吹に声を掛けた。息吹は一度野上を振り返ると、今一度ディスプレイを確認して、
「……あの、職場から電話で 」
と告げた。
どうしよう……
よりによってほぼ初デートというシチュエーションで、こんな仕打ちは酷くないか?
水道の神様……
そんなに私、日頃の行い悪かったでしょうか?
息吹は心の中で『水漏れバカヤローッッ! 』と叫びたい気持ちを堪え、その場で硬直した。
もしも自分の選択が相手に受け入れてもらえなかったらどうしよう……
もしそうなったら、その場合は初回にして物語は始まることもなく、あっさりエンディングを迎えてしまう。
どうしよう……
息吹は半ば硬直しながら、その震えながら音を発する携帯電話を見つめていた。
何で躊躇うのか、自分でもこの気持ちは良く分かりはしない。気づくと息吹はいつの間にか、野上に選択を委ねていた。
すると野上はその息吹の心中を察したのか、一言こう彼女に声を掛けた。
「僕のことは気にしないで、出て頂いて大丈夫ですから…… 」
「あっ、あのっッ、すみません…… 」
息吹は野上に軽く頭を下げると、彼から少し距離を取り、震える手を押さえながら電話に出た。電話の相手はシルバー契約の土日専任の当直担当者で、息吹は電話口で要件を急いだ。
「もしもし……えっ……漏水? はい……ええ…… 」
息吹は鞄に一本だけ忍ばせていたペンを無理やり取り出すと、壁を机にして水族館のパンフレットの隙間にメモを取り出した。当直の話によると、新宿の歩道が五メートルに渡って浸水しているという通報があったようで、片っ端から職員に連絡しているとのことだった。場所を細かく確認していくと、新宿といっても場所は人通りのかなり多い繁華街のようで、早めの対処が求められるのは明白だった。
何で、また今日に限って……
鋳鉄管ちゃん…… 何故今日なの……
今日まで何十年って地中で頑張ってきたのに、何で明日まで持ちこたえられなかったの?
息吹は鋳鉄管へのやりきれない気持ちを胸に、心のなかで大きなため息をついた。
しかも今日は夕方から雨も降る。
雨が降ってしまっては目視での漏水の確認は、一気に不可能になる。これは時間との勝負なのだ。
息吹はため息混じりに携帯を切ると、ハアと小さく溜め息をついた。
口数が減ってしまうほど程、自分は想像以上に取り繕っていたし、彼と会うのを楽しみにしていた。
いまこの言葉を口にしたくないくらいには、自分は彼のことが気になっていたのだ。そしてそんな簡単なことに今さら気づく。きっと次はないのだろうと思いながら息吹は野上の元へと歩いた。
「あの…… 」
「大丈夫ですよ。 前回は僕が派手にドタキャンしましたし 」
「えっ? あの…… 何でわかった……の? 」
息吹は思わず普通の口調で野上に理由を聞いていた。そして自分が敬語を使用しなかったことに後から気付き、思わず自分の口をハッと押さえた。
「それは、僕も社会人の端くれだから、そういうのは空気でわかりますよ。きっと山辺さんも逆の立場なら、同じこと言うでしょ? 」
野上はそう言いつつ、店の前から息吹をエスコートするように離れると、下の階へと繋がるエスカレーターの方へゆっくりと歩き始めた。
彼は……怒ってはない……?
むしろ少し穏やかな表情を浮かべているのは気のせいだろうか。
息吹は野上の真意がわからず、少し動揺しながらもその足取りについていく。すると突然野上は何かを思い出したかのように止まり、息吹は気づかずに野上にぶつかった。
すると野上は笑みを浮かべて、息吹を振り返ってこう呟いた。
「あっ、でもひとつだけ条件があります…… 」
「条件……?」
息吹は怪しみながら、野上の表情を注視した。彼は何だか面白いイタズラを思い付いた少年のような目をして息吹を見つめら一息ついてこう切り出した。
「僕と手を繋いで駅まで帰ってください。そしたら今日の僕は納得します 」
「えっ…… ん……? はいっッ……!? 」
息吹は少し沈黙をした後、声をひっくり返して野上の提案に大きな声をあげた。
予想を遥かに越える提案に驚いた。
そして時間差で彼がはっきりと自分にアプローチを示してくれたことに気付き、息吹は思わず赤面した。
「あの…… 私、これからもいきなり仕事行っちゃったりしますよ 」
「……多分、水道管に嫉妬はします。でも…… まあ、それはお互い様ですから 」
野上は言いつつ息吹の目の前に左手を差し出した。その手は華奢で、けれどもゴツくて、何だかちょっとだけ頼もしく見えた。
息吹はさらりと自分も右手を差し出すと、ゆっくりとその手を繋いで歩き始めた。
もう今日は野上の顔は見られない。
というか、最初からそんな余裕はなかったかもしれない。
それどころか 駅がどんどん遠くに移動して、永遠にたどり着かなければいいとさえ思う。
こんなに胸は、今トキメいている。
これから仕事なのだから、この気持ちの押さえ方は本気で誰かにレクチャーをして頂きたいものだ。
息吹はちゃっかり野上に身体を預けると、残りわずかなシンデレラタイムを満喫したのだった。
やはり休日の池袋の人の多さは、目を見張るものがある。
そして夜勤明けに ロクに休みもせず 昼から繰り出すことに、息吹は年々体力の限界を感じていた。結局、先日のすき焼きパーティーからの食事の約束は 野上の仕事の都合で直前でキャンセルとなっていた。そんなこんなで今回が野上とサシで会う、ほぼファーストデートだというのに、まさかの水族館デートを提案してくるのだから、初っぱなからなかなかの高いハードルであることは否めない。
今回、二人が訪れた水族館は、池袋のあの有名なビルの建物の屋上にある。水族館直通のエレベーターに乗るのにも列ができていて一苦労だったが、野上は待ち時間もずっと息吹に話しかけていた。
野上の話題は尽きることなく、朝のテレビ番組で好きなMCは誰だとか、最近観た映画の話とか、好きな旅先はどこかとか、とにかく終始息吹に話題を絶やさなかった。しかし野上の本業のドラマやアニメに関しては、息吹が普段 殆ど夜勤でそういった系統の番組を観ないことに合わせてか、話を振らないようにしてくれているようで、何だか気を使わせてしまっているような気もした。
休日ということもあり、水族館はカップルや家族連れで大変な賑わいだった。屋外にある水槽にはアシカやペンギンが優雅に泳いでいるのだが、その水槽の水面から差し込んだ僅かな太陽の光は、足元に反射してキラキラ光っていた。今日は夕立が降る予報ではあるが、雲の隙間からはお日さまが顔を出している。
「山辺さん、順路はまずはこっちみたいですよ 」
野上は息吹を手招きしながら、室内展示の入り口を指差した。二人ともこの水族館に遊びに来るのは初めてで、大人でありながらもその解放感には自然とワクワクしていた。
「空飛ぶペンギンは後のお楽しみにしましょう。先ずは、水槽から回りましょうか 」
「……そうですね 」
野上は先日会ったときと同じような印象で、きれい目なチノパンにリネンのシャツという出で立ちで、キチンと感のある服装をしていた。
普通に見て好青年ではないか……
野上は自分には不釣り合いなくらい若く見えるし、そして実際に若い。自分はその隣を歩いてもいいのだろうか?
「あの…… 山辺さん? 」
「えっ? あっ、はいっッ 」
気づくと野上は不思議そうな表情をして息吹を見つめていた。息吹はハッとして我に還ると、慌ててその歩を彼の隣まで進めた。
それにしても休日の水族館は、水槽までの距離が遠く感じる。どの水槽にも子どもから大人まで物凄い人だかりが出来ていて、後ろからチラリチラリとしか覗けなかった。
「あの…… 山辺さん。こっち、ちょっとだけ空いてるから 」
「えっ? あっ、あのっ…… 」
野上はそう息吹に声を掛けると、軽く腕を掴み 息吹を僅かな隙間に誘導した。息吹は思わずドキッとしたが、野上はあっさりその腕から手を離すと、息吹の上から覗き込むように一緒に水槽の中身を凝視した。そこにはかの有名なカクレクマノミや カラフルな魚や イソギンチャク、サンゴがところ狭しと共存している。息吹は魚たちは程々に、つい水槽の上やエアーポンプなど、いろいろな部分を無意識にしっかりと確認していた。
「山辺さん……やっぱり、気になります? 水回り 」
「あっ、すいません。つい…… 」
息吹はハッとしながら野上を振り返った。
そして水槽から離れて順路に出ると、こう話を続けた。
「こういうビルの中にある水族館は、海水を沖から汲んで運んで使用するパターンもあるし、最近じゃミネラルとかを混ぜて、人工海水なんてのを使う場所もあるらしくて。まあ、淡水に関しては、そんなに苦労しないんだろうけど。すみません、私そういうのにやっぱり興味があって 」
「山辺さん、流石詳しいですね。格好いい! 」
しまった……
水族館に来ているのに、魚には全く関係のない、余計な話をしてしまった。
「まあ、僕もこういうところに来たら、職業柄 館内の様子を録音したいとか思います。やっぱり、人工的に作る音より、生の音に勝るものはありませんから。特に小さい子どもの騒ぎ声は、大人じゃなかなか再現しきれないですからね。特に水族館独特の反響はなかなか再現は難しいですから 」
「えっ? 」
息吹は微かな違和感を覚えた。
もしかして、普通に会話が繋がっている?
「普段 僕はスタジオに籠って、ひたすら音を作る作業をすることが多いんですけど。こうやって外に出るとリフレッシュするし、やっぱり人々のイキイキとした日常の営みを感じるのはいいですね 」
「ええ…… そうですね 」
野上は息吹の方を振り向くと、少しだけニコリと笑みを浮かべこう続けた。
「それにしても土日って、めっちゃ混んでますね。はぐれないようにしないと 」
「ええ…… そうですね……ッッて!? 」
息吹は少し驚いて自分の手元を確認した。自分はいつの間にか野上のショルダーポーチのストラップに手を掛けていて、彼はその手を自分の手で上からギュッと包みこむと、息吹の耳元でこう囁いた。
「これなら、はぐれたりしませんね。さっ、行きましょう 」
「……はいっっ。まあ、そうですね 」
息吹は赤面しながら辛うじてそう答えると、野上のあとをゆっくりとついて回った。
いま完徹同盟の誰かに顔を見られたら、多分混乱してパニックになって、その場で卒倒するかもしれないと思った。
結局、どんな魚がいたかほぼ記憶がない状態で、息吹は水族館を後にした。完全に野上に意識をとられてしまい、息吹は結局心ここにあらずな状態で、取り敢えず呼吸をして歩いて何とか過ごしていた。
「こんなにお店があると…… 目移りしちゃいますね。僕 普段は池袋には、あんまり来ないもんで 」
野上と息吹はサンシャインシティの中をぐるぐるしながら、ランチの出来る店を探していた。といっても水族館で思いの外長く過ごしてしまったようで、カフェタイムに近い時間ではあったが、店はどこも満席に近い状態で混み合っていた。
「私も……あんまり池袋は来ないもので。あの、野上さん。苦手なものとかはありますか? 」
「いえ……特には。僕、唯一の取り柄が好き嫌いがないことなんです。山辺さんは、何か避けたいものとかありますか? 」
「いえ、私も特には 」
「じゃあ…… 韓国料理に行きませんか? 僕 一度行ってみたいお店があったんですけど、そこの系列店があるみたいなんですよね。男だけだとちょっと入りづらくて…… 」
「いいですね。 私辛いもの好きなんです 」
息吹は言いつつ、自分の手に目をやった。
完全に離すタイミングを忘れた右手は、いつの間にか野上のシャツの袖を掴んでいる。野上に連れられて階を移動しながら辿り着いた先には、韓国の屋台を模した空間が広がっていて、メニューもリーズナブルなラインナップだった。ロケーション的なこともあってかそこまでの混雑はなく、息吹は思わず野上のセンスのよさに感心した。
「ここです。ちょっと雰囲気ありません? 」
「そうですね。ブテチゲとか美味しそう…… 」
息吹は店の前のメニューを食い入るように確認すると、野上の様子をチラリと確認した。彼もしっかりした眼差しでメニューをチェックしていて、息吹は何だか新鮮な気分になった。
何だか構えてしまっていたけど、大人になるとあんまり年齢の差ってあんまり関係ないのかも。
こんなことを思いつつ息吹が再びメニューに目をやったとき、その音はピロピロリンと鞄の底で小さく響いた。
「あっ…… 」
これは……
猛烈に嫌な予感しかしない……
彼女は本能で着信音を逃さなかった。
息吹は反射で彼のシャツから手を離すと、いつもより小さめの鞄の底から、職場から支給されている旧式の携帯電話を取り出した。
「あの…… どうかしました? 」
野上は落ち着いたトーンで息吹に声を掛けた。息吹は一度野上を振り返ると、今一度ディスプレイを確認して、
「……あの、職場から電話で 」
と告げた。
どうしよう……
よりによってほぼ初デートというシチュエーションで、こんな仕打ちは酷くないか?
水道の神様……
そんなに私、日頃の行い悪かったでしょうか?
息吹は心の中で『水漏れバカヤローッッ! 』と叫びたい気持ちを堪え、その場で硬直した。
もしも自分の選択が相手に受け入れてもらえなかったらどうしよう……
もしそうなったら、その場合は初回にして物語は始まることもなく、あっさりエンディングを迎えてしまう。
どうしよう……
息吹は半ば硬直しながら、その震えながら音を発する携帯電話を見つめていた。
何で躊躇うのか、自分でもこの気持ちは良く分かりはしない。気づくと息吹はいつの間にか、野上に選択を委ねていた。
すると野上はその息吹の心中を察したのか、一言こう彼女に声を掛けた。
「僕のことは気にしないで、出て頂いて大丈夫ですから…… 」
「あっ、あのっッ、すみません…… 」
息吹は野上に軽く頭を下げると、彼から少し距離を取り、震える手を押さえながら電話に出た。電話の相手はシルバー契約の土日専任の当直担当者で、息吹は電話口で要件を急いだ。
「もしもし……えっ……漏水? はい……ええ…… 」
息吹は鞄に一本だけ忍ばせていたペンを無理やり取り出すと、壁を机にして水族館のパンフレットの隙間にメモを取り出した。当直の話によると、新宿の歩道が五メートルに渡って浸水しているという通報があったようで、片っ端から職員に連絡しているとのことだった。場所を細かく確認していくと、新宿といっても場所は人通りのかなり多い繁華街のようで、早めの対処が求められるのは明白だった。
何で、また今日に限って……
鋳鉄管ちゃん…… 何故今日なの……
今日まで何十年って地中で頑張ってきたのに、何で明日まで持ちこたえられなかったの?
息吹は鋳鉄管へのやりきれない気持ちを胸に、心のなかで大きなため息をついた。
しかも今日は夕方から雨も降る。
雨が降ってしまっては目視での漏水の確認は、一気に不可能になる。これは時間との勝負なのだ。
息吹はため息混じりに携帯を切ると、ハアと小さく溜め息をついた。
口数が減ってしまうほど程、自分は想像以上に取り繕っていたし、彼と会うのを楽しみにしていた。
いまこの言葉を口にしたくないくらいには、自分は彼のことが気になっていたのだ。そしてそんな簡単なことに今さら気づく。きっと次はないのだろうと思いながら息吹は野上の元へと歩いた。
「あの…… 」
「大丈夫ですよ。 前回は僕が派手にドタキャンしましたし 」
「えっ? あの…… 何でわかった……の? 」
息吹は思わず普通の口調で野上に理由を聞いていた。そして自分が敬語を使用しなかったことに後から気付き、思わず自分の口をハッと押さえた。
「それは、僕も社会人の端くれだから、そういうのは空気でわかりますよ。きっと山辺さんも逆の立場なら、同じこと言うでしょ? 」
野上はそう言いつつ、店の前から息吹をエスコートするように離れると、下の階へと繋がるエスカレーターの方へゆっくりと歩き始めた。
彼は……怒ってはない……?
むしろ少し穏やかな表情を浮かべているのは気のせいだろうか。
息吹は野上の真意がわからず、少し動揺しながらもその足取りについていく。すると突然野上は何かを思い出したかのように止まり、息吹は気づかずに野上にぶつかった。
すると野上は笑みを浮かべて、息吹を振り返ってこう呟いた。
「あっ、でもひとつだけ条件があります…… 」
「条件……?」
息吹は怪しみながら、野上の表情を注視した。彼は何だか面白いイタズラを思い付いた少年のような目をして息吹を見つめら一息ついてこう切り出した。
「僕と手を繋いで駅まで帰ってください。そしたら今日の僕は納得します 」
「えっ…… ん……? はいっッ……!? 」
息吹は少し沈黙をした後、声をひっくり返して野上の提案に大きな声をあげた。
予想を遥かに越える提案に驚いた。
そして時間差で彼がはっきりと自分にアプローチを示してくれたことに気付き、息吹は思わず赤面した。
「あの…… 私、これからもいきなり仕事行っちゃったりしますよ 」
「……多分、水道管に嫉妬はします。でも…… まあ、それはお互い様ですから 」
野上は言いつつ息吹の目の前に左手を差し出した。その手は華奢で、けれどもゴツくて、何だかちょっとだけ頼もしく見えた。
息吹はさらりと自分も右手を差し出すと、ゆっくりとその手を繋いで歩き始めた。
もう今日は野上の顔は見られない。
というか、最初からそんな余裕はなかったかもしれない。
それどころか 駅がどんどん遠くに移動して、永遠にたどり着かなければいいとさえ思う。
こんなに胸は、今トキメいている。
これから仕事なのだから、この気持ちの押さえ方は本気で誰かにレクチャーをして頂きたいものだ。
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