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キラキラした世界
夏のひとときの夢
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■■■
薄闇に目を覚まして、活動をする。
そもそも夜勤という行為は、深い時間に仕事をすることよりも、明るい時間に眠って闇に逆らうように起きることの方がよっぽど辛い。
桜は年々身を持って、この感覚を痛感していた。毎日ダルるのはもちろん、寝た気もしないし何度も目が覚める。夏場だからなのか自分の体力が低下しているのか、はたまた両方なのか。
一体いつまで、私は抗い続けるのだろう。
そして何を目指し、何を求めて頑張っているのだろうか。桜には分からなくなっていた。
◆◆◆
「副長、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ? 」
「へっ? そう……? 」
織原に遠回しにいろいろ指摘された桜は、慌てて事務所に設置してある全身鏡で 自分の顔を覗き込むようにチェックした。
あっちゃーー
これからはもっと厚くファンデーションを塗らなきゃなあ。それに目の下の疲労も酷い。
五勤オール夜勤で、ずっと立ちっぱなしで疲れているが、今日はこれから新しい一日を始めなくてはならない。小さい天使たちの前ではせめて綺麗なお姉さんでいたいのは、アラサーであっても望みすぎな願いではないハズだ。
桜は壁時計で時間を確認すると、時刻はもう八時手前を指していた。高速バスの時間まではそれほど余裕はない。
最近、凌平のヘルプはエスカレートしている気がする。
先日は市民プールの付き添いで駆り出されたし、今日は仕事明けに 近所の盆踊り大会の露天の手伝いだ。夜勤明けにどこかに繰り出すと、二十四時間 徹夜状態になるのだが、昼夜逆転しているものだから誰もそのあたりは気づいてくれない。愛郁も美羽も可愛いのだが、今回ばかりは 露天の手伝いをしながら子守りをする自信はなかった。
「副長は…… これからご実家ですか? 」
「うん、まあね。ちっさい人たちの顔も見たいし 」
桜は手慣れた嘘を織原につくと、ロッカーから鞄を取り出した。あの日以来、何があっても凌平宅には泊まらないと自分に誓いを立てているので、荷物は大きめのトートバッグだけだった。桜は顔を直そうと その中からメイク用品を取り出す。するとその拍子に、鞄から一冊の本がスルリと落下した。
「……遠藤さんって、本を読むんですね…… 」
床に投げつけられたハードカバーを拾いながら、織原が桜に声をかけた。織原が目を丸くしているのは、気のせいではないだろう。
「ちょっッ。いま意外って顔したでしょ? 」
「いやッ、そんなことは…… ない……ですけど…… 」
桜は礼を言いつつ織原から本を受けとると、鞄の中にハートカバーをしまった。
「普段は純文学を読むんだけどね。友達受けがあんまりよくなくて…… 」
桜は少し苦笑いを浮かべながら、織原に答えた。
「へえ…… 誰の読むんですか? 」
「……そうね。谷崎とか好きなんだよね。痴人の愛とか。在り来たりだけど 」
「なかなか渋いですね。正直、遠藤さんが本読んでる姿は、あんまり想像が出来ませんけど…… 」
「まあね。職場ではそういう話は 全然しないからね 」
織原とは深夜のツートップとして 出勤時はほぼ一緒に仕事をし、一緒にの時間帯に上がることも多いが、あまり普段世間話などはしない。それに織原はいつもバイトが終わると一目散に帰宅してしまうので、世間話に花を咲かせるタイミングもないのだ。
「ちなみに、今は何の読んでるんですか? 」
「ああ、これ? 川相晴臣って作家の本 」
「かわっ、かわいっッ!? 」
「大丈夫? いきなり噎せちゃって? まあ、織原は知らないだろうけどね。川相晴臣は…… 」
「ええ…… まあ…… 」
織原は前掛けを手解いていた手を顔まで持っていくと、口元を押さえた。一度噎せ始めるとなかなか止まらないのは、人間の性質だ。
「割りと最近出てきた作家だから、まだあんまり作品数はないんだけど、私はデビュー作から読んでて。兼業作家さんらしくて、出版ペースはそんなに早くはないんだけどね 」
「そうなんですか…… 」
「捻れた愛の話が多いんだけど、妙に共感できるんだよね。いま読んでるのは純愛だったりするし、オールマイティーな感じで 」
桜は言いつつ鞄から再び本を取り出し、年季の入ったブックカバーを外すと、織原に本のタイトルを見せた。
「君と半分こ…… 」
「うん。性同一性障害のヒロインが、勤め先の保育園の保護者と恋に落ちる話。作者的にはヒロインのジェンダーの葛藤に重きを置いてるんだろうけど、私は保護者…… あっ、保護者は未婚で養子の子どもを育ててるんだけど、そっちが何か気になっちゃって…… 」
「……主人公は、どっちかというと康介の方ですけどね 」
「えっ? もしかして織原は読んだことがあるの? 」
「あっ、はいっ! そうですね。いま、読んだことあるの、思い出しましたねっッ。いや、実にいい話でしたねっッ 」
「なんだ、それなら早くいってくれればいいのに。あっ、でも結末は言っちゃ駄目だから。私まだ、全部読んでないからさ 」
「それは、もちろんっッ…… 」
織原は店の備品のタオルを手に取ると、真っ赤な顔をして再び大きく咳をした。桜はそんな織原は初めてみたが、何だか少し新鮮な気持ちになった。
「あの、ひとつ聞いていいですか……? 」
織原が事務所のパイプ椅子に腰掛けながら、タオルを片手にこう切り出した。今日の彼は桜が知るなかで、一番饒舌に話している気がした。
「何? 」
「遠藤さんは、何で川相の作品を読むんですか? 谷崎とは全然共通点ないというか…… 」
「……人が努力して幸せになろうってする過程に憧れがあるんだよね。川相先生の作品の登場人物たちは、理想郷なんだよね、私には。谷崎の方はどっちかというといろんな欲望が丸出しで、もはや清々しいというか。だから好きなんだと思う 」
桜は真面目に答えると、また本を鞄に納め席をたった。
「じゃ、休み明けまでには本読んどくから、また次会ったら川相先生の談義しよ 」
「はあ…… 」
織原は桜を見送ると、崩れ落ちるように事務所の席に座りこんだ。
そしてしばらくの間、呆けた。
いきなり何の前置きもなく、夢が叶ってしまった……
織原はそう思った。
薄闇に目を覚まして、活動をする。
そもそも夜勤という行為は、深い時間に仕事をすることよりも、明るい時間に眠って闇に逆らうように起きることの方がよっぽど辛い。
桜は年々身を持って、この感覚を痛感していた。毎日ダルるのはもちろん、寝た気もしないし何度も目が覚める。夏場だからなのか自分の体力が低下しているのか、はたまた両方なのか。
一体いつまで、私は抗い続けるのだろう。
そして何を目指し、何を求めて頑張っているのだろうか。桜には分からなくなっていた。
◆◆◆
「副長、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ? 」
「へっ? そう……? 」
織原に遠回しにいろいろ指摘された桜は、慌てて事務所に設置してある全身鏡で 自分の顔を覗き込むようにチェックした。
あっちゃーー
これからはもっと厚くファンデーションを塗らなきゃなあ。それに目の下の疲労も酷い。
五勤オール夜勤で、ずっと立ちっぱなしで疲れているが、今日はこれから新しい一日を始めなくてはならない。小さい天使たちの前ではせめて綺麗なお姉さんでいたいのは、アラサーであっても望みすぎな願いではないハズだ。
桜は壁時計で時間を確認すると、時刻はもう八時手前を指していた。高速バスの時間まではそれほど余裕はない。
最近、凌平のヘルプはエスカレートしている気がする。
先日は市民プールの付き添いで駆り出されたし、今日は仕事明けに 近所の盆踊り大会の露天の手伝いだ。夜勤明けにどこかに繰り出すと、二十四時間 徹夜状態になるのだが、昼夜逆転しているものだから誰もそのあたりは気づいてくれない。愛郁も美羽も可愛いのだが、今回ばかりは 露天の手伝いをしながら子守りをする自信はなかった。
「副長は…… これからご実家ですか? 」
「うん、まあね。ちっさい人たちの顔も見たいし 」
桜は手慣れた嘘を織原につくと、ロッカーから鞄を取り出した。あの日以来、何があっても凌平宅には泊まらないと自分に誓いを立てているので、荷物は大きめのトートバッグだけだった。桜は顔を直そうと その中からメイク用品を取り出す。するとその拍子に、鞄から一冊の本がスルリと落下した。
「……遠藤さんって、本を読むんですね…… 」
床に投げつけられたハードカバーを拾いながら、織原が桜に声をかけた。織原が目を丸くしているのは、気のせいではないだろう。
「ちょっッ。いま意外って顔したでしょ? 」
「いやッ、そんなことは…… ない……ですけど…… 」
桜は礼を言いつつ織原から本を受けとると、鞄の中にハートカバーをしまった。
「普段は純文学を読むんだけどね。友達受けがあんまりよくなくて…… 」
桜は少し苦笑いを浮かべながら、織原に答えた。
「へえ…… 誰の読むんですか? 」
「……そうね。谷崎とか好きなんだよね。痴人の愛とか。在り来たりだけど 」
「なかなか渋いですね。正直、遠藤さんが本読んでる姿は、あんまり想像が出来ませんけど…… 」
「まあね。職場ではそういう話は 全然しないからね 」
織原とは深夜のツートップとして 出勤時はほぼ一緒に仕事をし、一緒にの時間帯に上がることも多いが、あまり普段世間話などはしない。それに織原はいつもバイトが終わると一目散に帰宅してしまうので、世間話に花を咲かせるタイミングもないのだ。
「ちなみに、今は何の読んでるんですか? 」
「ああ、これ? 川相晴臣って作家の本 」
「かわっ、かわいっッ!? 」
「大丈夫? いきなり噎せちゃって? まあ、織原は知らないだろうけどね。川相晴臣は…… 」
「ええ…… まあ…… 」
織原は前掛けを手解いていた手を顔まで持っていくと、口元を押さえた。一度噎せ始めるとなかなか止まらないのは、人間の性質だ。
「割りと最近出てきた作家だから、まだあんまり作品数はないんだけど、私はデビュー作から読んでて。兼業作家さんらしくて、出版ペースはそんなに早くはないんだけどね 」
「そうなんですか…… 」
「捻れた愛の話が多いんだけど、妙に共感できるんだよね。いま読んでるのは純愛だったりするし、オールマイティーな感じで 」
桜は言いつつ鞄から再び本を取り出し、年季の入ったブックカバーを外すと、織原に本のタイトルを見せた。
「君と半分こ…… 」
「うん。性同一性障害のヒロインが、勤め先の保育園の保護者と恋に落ちる話。作者的にはヒロインのジェンダーの葛藤に重きを置いてるんだろうけど、私は保護者…… あっ、保護者は未婚で養子の子どもを育ててるんだけど、そっちが何か気になっちゃって…… 」
「……主人公は、どっちかというと康介の方ですけどね 」
「えっ? もしかして織原は読んだことがあるの? 」
「あっ、はいっ! そうですね。いま、読んだことあるの、思い出しましたねっッ。いや、実にいい話でしたねっッ 」
「なんだ、それなら早くいってくれればいいのに。あっ、でも結末は言っちゃ駄目だから。私まだ、全部読んでないからさ 」
「それは、もちろんっッ…… 」
織原は店の備品のタオルを手に取ると、真っ赤な顔をして再び大きく咳をした。桜はそんな織原は初めてみたが、何だか少し新鮮な気持ちになった。
「あの、ひとつ聞いていいですか……? 」
織原が事務所のパイプ椅子に腰掛けながら、タオルを片手にこう切り出した。今日の彼は桜が知るなかで、一番饒舌に話している気がした。
「何? 」
「遠藤さんは、何で川相の作品を読むんですか? 谷崎とは全然共通点ないというか…… 」
「……人が努力して幸せになろうってする過程に憧れがあるんだよね。川相先生の作品の登場人物たちは、理想郷なんだよね、私には。谷崎の方はどっちかというといろんな欲望が丸出しで、もはや清々しいというか。だから好きなんだと思う 」
桜は真面目に答えると、また本を鞄に納め席をたった。
「じゃ、休み明けまでには本読んどくから、また次会ったら川相先生の談義しよ 」
「はあ…… 」
織原は桜を見送ると、崩れ落ちるように事務所の席に座りこんだ。
そしてしばらくの間、呆けた。
いきなり何の前置きもなく、夢が叶ってしまった……
織原はそう思った。
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