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夜行性ガールズの日常
とある夜行性漫画家の場合
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■■■
有り難いことに、朱美が漫画の連載を持つようになったのは 六年ほど前からだった。
短大入学時から今の出版社にしつこく投稿をし始め、二十歳の頃に描いた美少女宇宙戦記物で やっとの思いでデビューをした。その後は たまにSF系の読み切りを掲載してもらえるチャンスに数回恵まれた。しかしながら全くと断言して良い程に売れず、 結局 卒業と同時に総菜販売会社に就職してからは、仕事をしながら細々と短編を描くような生活が続いていた。
私は漫画家には向いていない。
一時は引退も考えた。
次が駄目だったら、漫画は止めよう……
朱美はそれまでの背伸びをした作風を一新して、読者層に見合った恋愛漫画を描くことにした。
芸能界を逞しく生きる、双子のアイドルの ちょっとぶっ飛んだ設定のドタバタラブコメ。
タイトルは【恋するリセエンヌ】
……まさかの、好評判だった。
そして単発で続きを掲載してもらえるようになり、いつの間にか連載となった。何より主人公を取り巻く設定が斬新で、読者の心を惹き付けた。その込み入った設定と相反する、朱美の作風の柔らかいタッチが 特に主人公の恋する青年のイケメン具合にマッチしたらしく、自然と読者に受けたらしい。
それからは、トントン拍子だった。
【恋リセ】は特に二十代女子から熱烈に支持された。常に読者アンケートでは上位の人気作となり ファンのなかでは近いうちにアニメ化するのでないかと、噂され続けたのだ。そしてこの冬からはアニメ化することが決定し、【恋するリセエンヌ】は朱美の手から作品が離れて、どんどん大きくなっていた。
いま朱美の生活は 連載の締め切りをひたすら消化するために、毎日 黙々と書き続ける、そういってしまっても過言でない日々の繰り返しになっていた。
それでも たまに完徹同盟の夜勤女子たちと早朝に集まるのが唯一の息抜きで、ここ数年は一日の殆どを架空の世界に身を置き、ひたすら自宅に籠って仕事に励む日々だった。
一見いい加減そうに見える朱美だが、完全に筆を置くのはいつも締め切り明けの一日だけだった。つまり朱美の休日は 昨日の朝方に飲みに行って 茜の介抱をする羽目になったあの日だけで、締め切りの翌日には直ぐに次号の打ち合わせが始まるのだ。
◆◆◆
「お邪魔します 」
「いらっしゃい、上がって 」
その晩、さっそく次号の展開を話し合うために、担当の吉岡が朱美の自宅を訪れた。今日は先日とは打って変わって、玄関にスリッパが用意してあり、それを見た吉岡は思わず苦笑する。
吉岡はまだ編集者になって四年の若手だが、朱美の他にも もう二人担当していて、なかなか忙しそうな毎日を送っていた。
一昨年の修羅場で見せた表情は一転し、今日の吉岡は普通のテンションで参上した。吉岡は、顔立ちは決してイケメンではないが、概ね整ってはいるし まあまあの高身長で一流出版社勤めだ。ということは、自動的に そこそこの大学を出ているだろうし、時折みせるヒステリーさえ止めれば、女性大半に好かれるような好青年だった。
吉岡と朱美は、昨日の朝も 締め切りの原稿回収で会って、今夜も打ち合わせで会って、ネームチェックで会って、ペン入れを監視される(←!?)ために会って……
この一年、親兄弟よりも恋人よりも(いないけど)圧倒的に会話しているのは 間違いのない事実だ。でも吉岡ではなくて、白馬の王子様が 毎日訪ねて来てくれたらいいのにと何回妄想したかは 分からなくなっている。
「神宮寺先生、これはお土産です 」
吉岡は持ってきたケーキの箱を朱美に手渡しすると、慣れた様子で応接間のソファーに腰かけた。そして自分のカバンからノートやらパソコンを取り出すと、自分の膝の上に小さく広げる。担当になったばかりの頃は『失礼します』とか声を掛けていたものだが、いつの間にかそんなやり取りはなくなっていた。
朱美が受け取った箱には適度な重みがあり、期待は自然に膨らんだ。
「えっ? これ百回堂のクリームプリンじゃん。ちょっ、これどうしたの? 」
「編集部からの差し入れです。うちの社から百回堂を舞台にした小説を出したら当たったもので。今度 映画化する縁で 大量に頂いたんです。生ものだから 打ち合わせで編集がお宅にお邪魔する先生たちに お配りしてるんです 」
「うわー、嬉しい! ありがとー。これ食べてみたかったんだよね 」
朱美は箱の中身をちらりと目視すると、満面の笑みを浮かべて冷蔵庫に直行する。そしてその足で作り置きしているノンカフェインのアイスティーを二人分グラスに注ぎ始めた。
いま二人が話込んでいる神宮寺邸唯一の生活空間のリビングには、朱美が初めての漫画のギャラで奮発して購入した それなりの応接ソファーがある。サイドテーブルには 漫画の舞台になっている テレビ局の設定資料だの 主人公が通う学校の参考写真だの、あらゆる紙が散乱していた。後は若干のお菓子が カゴに入っているが、如何せんあまり生活感はない。
朱美はプリンを箱から取り出すと、その場でさっそく一口運んだ。
「おいしい! うーん、蕩ける舌触りだわ 」
「…… 」
締め切りさえ守れたら、普通にいい人なんだけどな。
吉岡は明らかに油断した眼差しで朱美を見つめていたが、ハッとした我に返ると 首を軽く左右に振り パソコンに目を戻した。そうだ、この先生の場合は、この甘えや油断が、のちのち自分の足元を脅かすのだ。
「これで 糖分補給して 今週こそは余裕を持って 早く上げて下さいねっ 」
「へっ? まさかプリンだけで、そういう展開になるの? 」
吉岡がスキを見せたのは一瞬だった。だけど朱美は彼のその様子に気づくこともなく、目をパチクリとさせ吉岡を見つめている
「もちろんです。っつーか、今週はマジでヤバかったんすよ。僕も裏工作炸裂だし、カラー原稿も規定とサイズ違ったからリサイズしたりとかっッ。編集長に締め切りの改竄がバレないようにもみ消すの、超絶 大変だったんですよっッ。大体、カラーの入稿だって本当はもっと早くなきゃ駄目なんですからね 」
朱美の脳天気さは、時にとてつもない罪だった。
吉岡の本音としては、今日だって一昨日被った【締め切りを当然の如く無視事件】に対しての苛立ちを、プリンの箱に押し込めて 神宮寺邸を訪れていた。
大体、なんで悪魔みたいな女神に 自分がプリンを差し入れて、しかも彼女の嬉しそうな顔を見て 一瞬気を許す自分がいるんだ? それはもはや吉岡にも、良く分からないでいた。
「だってさー、話が思い付かないんだもんー。吉岡、私に恋愛体験を教えてよ。ほぼ全て参考にして 描くからさ…… 」
朱美は吉岡の気を知るよしもなく こう言うと、バタッとソファーに雪崩れ込み クッションにダイブした。
「はあ? 僕の恋愛なんて、どうでもよくないですか? 大体、神宮寺先生の漫画は少女漫画なんだから、男の僕の体験なんて あまり意味はないと思いますけど…… 」
吉岡はネクタイを少し緩めると、いただきますと小さく呟き、朱美に出されたキンキンに冷えたアイスティを口に運んだ。
「私さ、高校も短大も女子校だったし、ろくな恋愛経験がないんだよね。あと漫画一筋で、付き合っても長続きした試しがないし 」
「俺も似たようなものですよ。とても物語の主人公になれるようなエピソードはないですから。工学部だし、落研だったし…… 」
「工学部っ!? 落研っ!? 」
朱美はゴロゴロした体勢のまま、目玉を丸々させて吉岡を見上げていた。割りと長い時間 一緒に仕事をして来たつもりではあったが、想定外の初耳情報だった。
「ええ。女子とは縁遠そうな青春でしょ。男まみれです。だから僕から引き出すのは諦めて下さい 」
吉岡はパソコンのACを取り出すと、慣れた手つきで壁の電源に接続し始めた。
「っつーか、なんで工学部出て、編集者なんかやってんの? 」
朱美は興味のまま、吉岡に尋ねた。吉岡は一瞬作業を止めてキョトンと朱美を見返した。
「そりゃ、理由は一つです。就活でうちの会社しか受かんなかったんです。他は一次面接で玉砕でしたから 」
「じゃあ、本音じゃエンジニアとか、そっち系だったの? 」
「……いえ。そんなこともありません。出版社志望でした 」
「えっ? じゃあ、何でまた? 」
神宮寺先生って、誘導上手なんだよな…… と吉岡は感じていた。そういうところは、やっぱり作家なのだ。
「……創作活動に従事したいと思って、出版社を受けてました。幸い弊社は学部にとらわれず、新卒採用をする社風だったんで 」
「ふーん。一年も一緒に仕事をしてるのに、知らなかったわー 」
朱美は起き上がると、事前に考えておいた 殴り書きのト書きのプロットを吉岡に渡した。吉岡は目線を一瞬紙に移したが、あまり気にすることなく話を続けた。
「学生時代に僕は工業工学が専門で、ゼミの仲間と短編CGアニメとか作るのに夢中でした。ネットにアップして、再生回数も万単位だったりして。今でも、いい思い出です 」
「吉岡は、それを仕事にしようとは、思わなかったの? 」
「そういう道に進んだ同期はいますけど。CGクリエーターとか、アニメーターとか。僕はコンテ作ったり、調整役みたいな部分が多かったんで。……編集を志望した感じです 」
「CGクリエーター、アニメーターって、そういう友達がいるってこと? 」
「ええ。研究室の半分は、そっち系に進んでんでるんで。八人くらいは…… 」
吉岡の発言を聞き、朱美は不適な笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ、答えは簡単じゃん 」
「へっ? 神宮寺先生、何か言いました? 」
吉岡は、もう既に 半分 上の空でパソコンに何かを打ち込み始めている。
「あのさ…… 合コンしない? 」
朱美はそう言いつつソファーを立つと、吉岡が膝に置いていたプロットを さっと奪った。
「えっ……? どういうことですか? っつーか、何でプロットを取り上げるんすか? 」
吉岡は目を丸くして、呆然と朱美を見ていた。
「それは、次週のプロットを物質にすることを、たった今 思い付いたからよ。返して欲しければ、クリエーターたちと合コンさせて 」
「はぁ……? 神宮寺先生、何を言ってるんですか? 」
「だって話が思いつかなかったら、自分で体感するしかないもん。吉岡は私の右腕なんだから、創作環境をサポートするのは自然な流れでしょ? 」
「っつーか、俺の友達ってオタクばっかだし、そもそも社畜だし、先生の望むようなリア充的な男子は 多分 一人もいませんよ? 」
「社畜って、吉岡だって そんなもんじゃん 」
「なっっ 」
それはっ、殆ど全部 アンタのせいだよっッ、と言いたかったが、吉岡は寸前で言葉を飲み込んだ。
「とりあえずっッ。まず出会って、恋をする。そうしないと、海蘊(漫画のキャラの名前)はイキイキしない。そういうことよ 」
「海蘊にオタクな彼氏が出来ても、読者はドン引きですけどね…… 」
吉岡は軽く溜め息をつきながらスマホを取り出すと、徐にいじり始めた。
「何? もしかして、もう連絡をし始めてくれたの? 」
「言っときますけど違いますよ。大体、今日プロットが通らないと困るのは、神宮寺先生の方ですからね 」
「なーんだ。いいアイデアと 思ったんだけどな。この際、なんでもいいからさー 」
朱美は、またソファにパタンとなると、ふっと溜め息を付いた。
「……神宮寺先生、僕は今週の展開には賛成です 」
「えっ? 」
朱美はその吉岡の言葉に、思わず耳を疑った。
無意識にソファーから、吉岡を振り向く。その顔は明らかに動揺した顔だった。
「海蘊が 雨の中 豊のアパートの前で泣く…… もう男の俺でも、ズッキューンと来ますね 」
「へっ……? もう、プロットに目を通してたの? 私と話してたのに? 」
「ええ。僕、自分で言うのもアレですが、割と速読なんです 」
「そう 」
朱美は驚いていた。
吉岡が原稿に目を通したのは一瞬で、あんな殴り書きみたいな字を、しかも別の話をしてるのに あの分量を一見しただけで しっかり中身を理解してるなんて……
無性に悔しくなってきた。
この感情は断じて気のせいではない。
「じゃあ…… 最初っから、私の物質作戦は意味がなかったってこと!? 」
「そうなります。けれど、俺もたまには 友達孝行をしたくなりました 」
吉岡はそう切り出すと、スマホをいじりだす。その速度は目にも止まらないような高速さがあった。
「神宮寺先生。来週の土曜日なら、二人くらい集められるかもしれません 」
「えっ? まさか、吉岡~! 」
「僕も、たまにはリア充みたいなことしたくなりました。元々その日は、仲間内で飲む約束をしていたので。友人はマジでオタクだし、しかも先生のペン入れは 佳境だとは思いますが…… 」
「いい、何でもいい! それまでに、私は描くからっ 」
「分かりました。じゃあ…… 三人くらいに声を掛けてみます。先生もお友達を集めておいて下さい 」
「わかったー! 」
朱美はルンルン気分でスマホを取り出すと、片っ端に心当たりの友人を探し始めた。
とりあえず……
息吹は決定、茜は有名人だから却下、桜ねぇは…… 年下は眼中になさそうだし、そもそも恋愛の話をろくにしたことがない。そうなると高校の友達あたりが妥当なラインか。
朱美はブツブツ言いながら、物質だったプロットを吉岡に返却した。無意識にスキップを踏んでいたのは、これはご愛嬌だ。
「だだ この話、一つ条件を付けて良いですか……? 」
「えっ、何? 」
朱美は吉岡を振り返りもせず、相変わらずスマホをいじっていた。
「先生、合コンまでには、絶対に原稿を終わらせて下さい。それが出来なければ、この話はなかったことでお願いします 」
「えっ、はっ、ちょっッ…… エッー! 」
さすがの朱美も この発言には言葉が出なかった。来週の土曜日だなんて、いまから十日後ではないか。いつもほぼ二週間をMAXに使って原稿を描き上げる朱美には、拷問のような設定だ。
朱美は慌てて 吉岡からプロットを取り返そうと、下の階の住人に迷惑をかけない 最大速度で駆け寄り 右手を伸ばしたが、あっさりと交わされた。
「何!? それは狡くない!? こっちは まだネームに取りかかってすら いないんだけどっッ…… 」
朱美はムッとした表情で、吉岡を睨むように直視した。吉岡とは 格闘技のような 年頃の男女にしては 些か接近したやり取りになってはいたが、二人はその状況を気にする素振りは微塵もない。
「先生が 何を言っても 聞く耳は持ちません。僕もジメジメの屋外で夜を明かすのはごめん被りたいんで…… 」
「ずっるっッ。いつも十日で出来ることなんて、良くても原稿に取りかかるところまでじゃんっッ…… 」
朱美はムッと顔を膨らますと、ぷいと吉岡の背中をど突いた。
「っッ痛ッ。別に良いですよ、僕は。先生抜きでコンパをしても 」
吉岡は背中をさすりながら、朱美を振り返った。
朱美の作画ペースなら、下書きと原稿だけでも 最低五日は必要だ。となると、あと五日以内にネームを完成させないと 物理的に間に合わない。一番嫌いなネームに割ける時間が これっぽっちとは……ただの拷問だ。
「もう、わかったわよ。やればいいんでしょ、やればっッねっッ 」
朱美は向かいのソファに落ち着くと、頭をかき乱しながら深いため息をついた。
「っていうか、吉岡って 絶対Sでしょ…… 」
朱美は、うつ向きながらそう呟く。すると吉岡は悪い笑みを浮かべながら、こう切り返した。
「その言葉。 そっくりそのまま、先生にお返ししますよ 」
有り難いことに、朱美が漫画の連載を持つようになったのは 六年ほど前からだった。
短大入学時から今の出版社にしつこく投稿をし始め、二十歳の頃に描いた美少女宇宙戦記物で やっとの思いでデビューをした。その後は たまにSF系の読み切りを掲載してもらえるチャンスに数回恵まれた。しかしながら全くと断言して良い程に売れず、 結局 卒業と同時に総菜販売会社に就職してからは、仕事をしながら細々と短編を描くような生活が続いていた。
私は漫画家には向いていない。
一時は引退も考えた。
次が駄目だったら、漫画は止めよう……
朱美はそれまでの背伸びをした作風を一新して、読者層に見合った恋愛漫画を描くことにした。
芸能界を逞しく生きる、双子のアイドルの ちょっとぶっ飛んだ設定のドタバタラブコメ。
タイトルは【恋するリセエンヌ】
……まさかの、好評判だった。
そして単発で続きを掲載してもらえるようになり、いつの間にか連載となった。何より主人公を取り巻く設定が斬新で、読者の心を惹き付けた。その込み入った設定と相反する、朱美の作風の柔らかいタッチが 特に主人公の恋する青年のイケメン具合にマッチしたらしく、自然と読者に受けたらしい。
それからは、トントン拍子だった。
【恋リセ】は特に二十代女子から熱烈に支持された。常に読者アンケートでは上位の人気作となり ファンのなかでは近いうちにアニメ化するのでないかと、噂され続けたのだ。そしてこの冬からはアニメ化することが決定し、【恋するリセエンヌ】は朱美の手から作品が離れて、どんどん大きくなっていた。
いま朱美の生活は 連載の締め切りをひたすら消化するために、毎日 黙々と書き続ける、そういってしまっても過言でない日々の繰り返しになっていた。
それでも たまに完徹同盟の夜勤女子たちと早朝に集まるのが唯一の息抜きで、ここ数年は一日の殆どを架空の世界に身を置き、ひたすら自宅に籠って仕事に励む日々だった。
一見いい加減そうに見える朱美だが、完全に筆を置くのはいつも締め切り明けの一日だけだった。つまり朱美の休日は 昨日の朝方に飲みに行って 茜の介抱をする羽目になったあの日だけで、締め切りの翌日には直ぐに次号の打ち合わせが始まるのだ。
◆◆◆
「お邪魔します 」
「いらっしゃい、上がって 」
その晩、さっそく次号の展開を話し合うために、担当の吉岡が朱美の自宅を訪れた。今日は先日とは打って変わって、玄関にスリッパが用意してあり、それを見た吉岡は思わず苦笑する。
吉岡はまだ編集者になって四年の若手だが、朱美の他にも もう二人担当していて、なかなか忙しそうな毎日を送っていた。
一昨年の修羅場で見せた表情は一転し、今日の吉岡は普通のテンションで参上した。吉岡は、顔立ちは決してイケメンではないが、概ね整ってはいるし まあまあの高身長で一流出版社勤めだ。ということは、自動的に そこそこの大学を出ているだろうし、時折みせるヒステリーさえ止めれば、女性大半に好かれるような好青年だった。
吉岡と朱美は、昨日の朝も 締め切りの原稿回収で会って、今夜も打ち合わせで会って、ネームチェックで会って、ペン入れを監視される(←!?)ために会って……
この一年、親兄弟よりも恋人よりも(いないけど)圧倒的に会話しているのは 間違いのない事実だ。でも吉岡ではなくて、白馬の王子様が 毎日訪ねて来てくれたらいいのにと何回妄想したかは 分からなくなっている。
「神宮寺先生、これはお土産です 」
吉岡は持ってきたケーキの箱を朱美に手渡しすると、慣れた様子で応接間のソファーに腰かけた。そして自分のカバンからノートやらパソコンを取り出すと、自分の膝の上に小さく広げる。担当になったばかりの頃は『失礼します』とか声を掛けていたものだが、いつの間にかそんなやり取りはなくなっていた。
朱美が受け取った箱には適度な重みがあり、期待は自然に膨らんだ。
「えっ? これ百回堂のクリームプリンじゃん。ちょっ、これどうしたの? 」
「編集部からの差し入れです。うちの社から百回堂を舞台にした小説を出したら当たったもので。今度 映画化する縁で 大量に頂いたんです。生ものだから 打ち合わせで編集がお宅にお邪魔する先生たちに お配りしてるんです 」
「うわー、嬉しい! ありがとー。これ食べてみたかったんだよね 」
朱美は箱の中身をちらりと目視すると、満面の笑みを浮かべて冷蔵庫に直行する。そしてその足で作り置きしているノンカフェインのアイスティーを二人分グラスに注ぎ始めた。
いま二人が話込んでいる神宮寺邸唯一の生活空間のリビングには、朱美が初めての漫画のギャラで奮発して購入した それなりの応接ソファーがある。サイドテーブルには 漫画の舞台になっている テレビ局の設定資料だの 主人公が通う学校の参考写真だの、あらゆる紙が散乱していた。後は若干のお菓子が カゴに入っているが、如何せんあまり生活感はない。
朱美はプリンを箱から取り出すと、その場でさっそく一口運んだ。
「おいしい! うーん、蕩ける舌触りだわ 」
「…… 」
締め切りさえ守れたら、普通にいい人なんだけどな。
吉岡は明らかに油断した眼差しで朱美を見つめていたが、ハッとした我に返ると 首を軽く左右に振り パソコンに目を戻した。そうだ、この先生の場合は、この甘えや油断が、のちのち自分の足元を脅かすのだ。
「これで 糖分補給して 今週こそは余裕を持って 早く上げて下さいねっ 」
「へっ? まさかプリンだけで、そういう展開になるの? 」
吉岡がスキを見せたのは一瞬だった。だけど朱美は彼のその様子に気づくこともなく、目をパチクリとさせ吉岡を見つめている
「もちろんです。っつーか、今週はマジでヤバかったんすよ。僕も裏工作炸裂だし、カラー原稿も規定とサイズ違ったからリサイズしたりとかっッ。編集長に締め切りの改竄がバレないようにもみ消すの、超絶 大変だったんですよっッ。大体、カラーの入稿だって本当はもっと早くなきゃ駄目なんですからね 」
朱美の脳天気さは、時にとてつもない罪だった。
吉岡の本音としては、今日だって一昨日被った【締め切りを当然の如く無視事件】に対しての苛立ちを、プリンの箱に押し込めて 神宮寺邸を訪れていた。
大体、なんで悪魔みたいな女神に 自分がプリンを差し入れて、しかも彼女の嬉しそうな顔を見て 一瞬気を許す自分がいるんだ? それはもはや吉岡にも、良く分からないでいた。
「だってさー、話が思い付かないんだもんー。吉岡、私に恋愛体験を教えてよ。ほぼ全て参考にして 描くからさ…… 」
朱美は吉岡の気を知るよしもなく こう言うと、バタッとソファーに雪崩れ込み クッションにダイブした。
「はあ? 僕の恋愛なんて、どうでもよくないですか? 大体、神宮寺先生の漫画は少女漫画なんだから、男の僕の体験なんて あまり意味はないと思いますけど…… 」
吉岡はネクタイを少し緩めると、いただきますと小さく呟き、朱美に出されたキンキンに冷えたアイスティを口に運んだ。
「私さ、高校も短大も女子校だったし、ろくな恋愛経験がないんだよね。あと漫画一筋で、付き合っても長続きした試しがないし 」
「俺も似たようなものですよ。とても物語の主人公になれるようなエピソードはないですから。工学部だし、落研だったし…… 」
「工学部っ!? 落研っ!? 」
朱美はゴロゴロした体勢のまま、目玉を丸々させて吉岡を見上げていた。割りと長い時間 一緒に仕事をして来たつもりではあったが、想定外の初耳情報だった。
「ええ。女子とは縁遠そうな青春でしょ。男まみれです。だから僕から引き出すのは諦めて下さい 」
吉岡はパソコンのACを取り出すと、慣れた手つきで壁の電源に接続し始めた。
「っつーか、なんで工学部出て、編集者なんかやってんの? 」
朱美は興味のまま、吉岡に尋ねた。吉岡は一瞬作業を止めてキョトンと朱美を見返した。
「そりゃ、理由は一つです。就活でうちの会社しか受かんなかったんです。他は一次面接で玉砕でしたから 」
「じゃあ、本音じゃエンジニアとか、そっち系だったの? 」
「……いえ。そんなこともありません。出版社志望でした 」
「えっ? じゃあ、何でまた? 」
神宮寺先生って、誘導上手なんだよな…… と吉岡は感じていた。そういうところは、やっぱり作家なのだ。
「……創作活動に従事したいと思って、出版社を受けてました。幸い弊社は学部にとらわれず、新卒採用をする社風だったんで 」
「ふーん。一年も一緒に仕事をしてるのに、知らなかったわー 」
朱美は起き上がると、事前に考えておいた 殴り書きのト書きのプロットを吉岡に渡した。吉岡は目線を一瞬紙に移したが、あまり気にすることなく話を続けた。
「学生時代に僕は工業工学が専門で、ゼミの仲間と短編CGアニメとか作るのに夢中でした。ネットにアップして、再生回数も万単位だったりして。今でも、いい思い出です 」
「吉岡は、それを仕事にしようとは、思わなかったの? 」
「そういう道に進んだ同期はいますけど。CGクリエーターとか、アニメーターとか。僕はコンテ作ったり、調整役みたいな部分が多かったんで。……編集を志望した感じです 」
「CGクリエーター、アニメーターって、そういう友達がいるってこと? 」
「ええ。研究室の半分は、そっち系に進んでんでるんで。八人くらいは…… 」
吉岡の発言を聞き、朱美は不適な笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ、答えは簡単じゃん 」
「へっ? 神宮寺先生、何か言いました? 」
吉岡は、もう既に 半分 上の空でパソコンに何かを打ち込み始めている。
「あのさ…… 合コンしない? 」
朱美はそう言いつつソファーを立つと、吉岡が膝に置いていたプロットを さっと奪った。
「えっ……? どういうことですか? っつーか、何でプロットを取り上げるんすか? 」
吉岡は目を丸くして、呆然と朱美を見ていた。
「それは、次週のプロットを物質にすることを、たった今 思い付いたからよ。返して欲しければ、クリエーターたちと合コンさせて 」
「はぁ……? 神宮寺先生、何を言ってるんですか? 」
「だって話が思いつかなかったら、自分で体感するしかないもん。吉岡は私の右腕なんだから、創作環境をサポートするのは自然な流れでしょ? 」
「っつーか、俺の友達ってオタクばっかだし、そもそも社畜だし、先生の望むようなリア充的な男子は 多分 一人もいませんよ? 」
「社畜って、吉岡だって そんなもんじゃん 」
「なっっ 」
それはっ、殆ど全部 アンタのせいだよっッ、と言いたかったが、吉岡は寸前で言葉を飲み込んだ。
「とりあえずっッ。まず出会って、恋をする。そうしないと、海蘊(漫画のキャラの名前)はイキイキしない。そういうことよ 」
「海蘊にオタクな彼氏が出来ても、読者はドン引きですけどね…… 」
吉岡は軽く溜め息をつきながらスマホを取り出すと、徐にいじり始めた。
「何? もしかして、もう連絡をし始めてくれたの? 」
「言っときますけど違いますよ。大体、今日プロットが通らないと困るのは、神宮寺先生の方ですからね 」
「なーんだ。いいアイデアと 思ったんだけどな。この際、なんでもいいからさー 」
朱美は、またソファにパタンとなると、ふっと溜め息を付いた。
「……神宮寺先生、僕は今週の展開には賛成です 」
「えっ? 」
朱美はその吉岡の言葉に、思わず耳を疑った。
無意識にソファーから、吉岡を振り向く。その顔は明らかに動揺した顔だった。
「海蘊が 雨の中 豊のアパートの前で泣く…… もう男の俺でも、ズッキューンと来ますね 」
「へっ……? もう、プロットに目を通してたの? 私と話してたのに? 」
「ええ。僕、自分で言うのもアレですが、割と速読なんです 」
「そう 」
朱美は驚いていた。
吉岡が原稿に目を通したのは一瞬で、あんな殴り書きみたいな字を、しかも別の話をしてるのに あの分量を一見しただけで しっかり中身を理解してるなんて……
無性に悔しくなってきた。
この感情は断じて気のせいではない。
「じゃあ…… 最初っから、私の物質作戦は意味がなかったってこと!? 」
「そうなります。けれど、俺もたまには 友達孝行をしたくなりました 」
吉岡はそう切り出すと、スマホをいじりだす。その速度は目にも止まらないような高速さがあった。
「神宮寺先生。来週の土曜日なら、二人くらい集められるかもしれません 」
「えっ? まさか、吉岡~! 」
「僕も、たまにはリア充みたいなことしたくなりました。元々その日は、仲間内で飲む約束をしていたので。友人はマジでオタクだし、しかも先生のペン入れは 佳境だとは思いますが…… 」
「いい、何でもいい! それまでに、私は描くからっ 」
「分かりました。じゃあ…… 三人くらいに声を掛けてみます。先生もお友達を集めておいて下さい 」
「わかったー! 」
朱美はルンルン気分でスマホを取り出すと、片っ端に心当たりの友人を探し始めた。
とりあえず……
息吹は決定、茜は有名人だから却下、桜ねぇは…… 年下は眼中になさそうだし、そもそも恋愛の話をろくにしたことがない。そうなると高校の友達あたりが妥当なラインか。
朱美はブツブツ言いながら、物質だったプロットを吉岡に返却した。無意識にスキップを踏んでいたのは、これはご愛嬌だ。
「だだ この話、一つ条件を付けて良いですか……? 」
「えっ、何? 」
朱美は吉岡を振り返りもせず、相変わらずスマホをいじっていた。
「先生、合コンまでには、絶対に原稿を終わらせて下さい。それが出来なければ、この話はなかったことでお願いします 」
「えっ、はっ、ちょっッ…… エッー! 」
さすがの朱美も この発言には言葉が出なかった。来週の土曜日だなんて、いまから十日後ではないか。いつもほぼ二週間をMAXに使って原稿を描き上げる朱美には、拷問のような設定だ。
朱美は慌てて 吉岡からプロットを取り返そうと、下の階の住人に迷惑をかけない 最大速度で駆け寄り 右手を伸ばしたが、あっさりと交わされた。
「何!? それは狡くない!? こっちは まだネームに取りかかってすら いないんだけどっッ…… 」
朱美はムッとした表情で、吉岡を睨むように直視した。吉岡とは 格闘技のような 年頃の男女にしては 些か接近したやり取りになってはいたが、二人はその状況を気にする素振りは微塵もない。
「先生が 何を言っても 聞く耳は持ちません。僕もジメジメの屋外で夜を明かすのはごめん被りたいんで…… 」
「ずっるっッ。いつも十日で出来ることなんて、良くても原稿に取りかかるところまでじゃんっッ…… 」
朱美はムッと顔を膨らますと、ぷいと吉岡の背中をど突いた。
「っッ痛ッ。別に良いですよ、僕は。先生抜きでコンパをしても 」
吉岡は背中をさすりながら、朱美を振り返った。
朱美の作画ペースなら、下書きと原稿だけでも 最低五日は必要だ。となると、あと五日以内にネームを完成させないと 物理的に間に合わない。一番嫌いなネームに割ける時間が これっぽっちとは……ただの拷問だ。
「もう、わかったわよ。やればいいんでしょ、やればっッねっッ 」
朱美は向かいのソファに落ち着くと、頭をかき乱しながら深いため息をついた。
「っていうか、吉岡って 絶対Sでしょ…… 」
朱美は、うつ向きながらそう呟く。すると吉岡は悪い笑みを浮かべながら、こう切り返した。
「その言葉。 そっくりそのまま、先生にお返ししますよ 」
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
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