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神は僕たちを加速させた

神は彼女と僕に下呂温泉街を散策させた

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■■■■■


 
 この夏の間に、僕は考えたことがある。
 僕はずっと、いろんな現実から目を背けていた。

 彼女が桁違いの天才で、僕と全く釣り合わないこと。
 彼女の家族と、自分の血縁との関わり方。
 そして、僕の周りの近しい同世代が、自分の未来ときちんと向き合っていること。
 別にそれらは、彼女が下呂に来たから浮き彫りになったわけではない。
 確かに、僕は色んなことに悩んでいる。でも何一つとして解消しきれていないのは、あくまでも僕個人の責任だ。
 
 だから僕は、取り敢えず一つだけでもクリアにしたいと思った。
 それは、自分自身の将来のことだ。

 僕の未来に関してだけは、唯一自分だけで解決できる。まだ誰にも話してはいないし、無謀な挑戦かもしれない。何よりきっかけと動機が不純だし、明確な目的があるわけでもない。でも、そのことを調べれば調べるほど、僕も人が健康的で文化的な生活を送ることに、関われる仕事が出来るのではないかと思えたのだ。

 そのためには、まずは進学をしなくてはならない。受験科目は国語と英語と日本史。村松先生には悪いけど、他の科目に関しては、これからは進級が可能な最低限のラインでいかせてもらう。
 本題の勉強は、大学で一気に巻き返す。まずは入学することだけを考えるのだ。まずは手近なところからということで、取り敢えずは日本史の勉強を先行する。都内近郊の大学は近現代の問題が頻出らしいから、最近は教科書を読みながら寝落ちするのが定番になっていた。


◆◆◆


 明日で夏休みは終わる。
 今日は久し振りに部活もないし、雄飛閣アルバイトの予定もない。しかも共闘作戦が功を奏したようで、今年は珍しく宿題も終わっている。だけど連日のベットタイムストーリーが歴代総理大臣の反復だから、頭のなかには立憲政友会だの立憲改進党とかで、ごっちゃごっちゃになっていた。 

 というわけで、最終日の今日は暇だった。
 洗濯物も干したし、掃除機もかけた。
 僕は特にやることもなく、自宅のリビングで残り少ない余暇を彼女と一緒に過ごしていた。といっても、彼女は朝イチで訪問調剤の付き添いを終えていて、一仕事ひとしごとはこなしている。夏休みが終わることへの悲壮感とは、縁遠いらしい。
 僕らは、何かを喋るわけでもなく、長い隙間時間をただただ潰していた。彼女はというと、リビングのソファーに腰かけて、新薬の覚書に目を通している。最近の彼女は日本の医学書も電子書籍で購入しているらしく、タブレットを片手に本を読んでいることも多い。かと思えば、椿と漫画の貸し借りもしているから、ストライクゾーンの広さには思わず感心してしまう。
 ちなみに僕は今までならば絶対に手を出さなかったであろう、政党の変遷について書かれた本を読んでいた(図書館で借りた) 僕の頭の中では最近は常に【※いくやまいまい】の呪文がリフレインしているのだけど、それは完全に僕の個人的な問題だ。

「ねえ、コーセー 」

「んっ? 」

「コーセーはいま何の本を読んでるの? 」

「ああ、これ? これは、昔の政治の本だよ。明治時代の近代国家が、少しずつ形成され始めた頃のことが書かれてるんだ 」

「明治時代? って、どれくらい前のこと? 明治って令和、平成、昭和、大正、明治の明治だよね? 」

「ああ。明治が始まったのは…… えっと、大政奉還したのが1867年だから、今から大体150年くらい前から始まった時代だよ。それまでは日本は侍の国で、独自のやり方でまつりごとをしていたんだ。それから少しずつ西洋の仕組みとかを参考にして、1985年に伊藤博文が初めて組閣して総理大臣になったんだ。日本もこのときから、イギリスと同じ議員内閣制が続いてるんだ。よく二十年ちょっとで、そこまで成熟した国家になったよな。そう考えると、この社会のシステムの基盤ができたのは、つい最近のことなんだよね 」

「ふーん。その本って、面白いの? 」

「……? まあ、面白いかどうかと聞かれたら、普通としか言いようがないんだけど 」

「コーセーは、政治に興味があるとか? 」

「いや、それは、その、普通に日本史の勉強の一環で読んでるだけであって 」

「…… 」

 彼女は僕の返事を無言で受け取ると、本の中身を覗き込むように距離を詰める。僕は一瞬その間合いに凍り付きそうになったけど、鋼の精神力で冷静を装った。

「ちょっ、麻愛…… 急にどうしたの? 」

「コーセー、私いま退屈なの 」

「退屈? 」

 いやいや、僕には彼女が退屈なようには全く見えない。つーか、ついさっきまで、めちゃくちゃ何かの文献を読んでただろ? こうなると、僕は彼女のチグハグなアプローチには困惑するしかない。

「僕には、麻愛が暇そうには見えないけど? 」

「見た目の問題じゃないの。まあ、お家で二人でのんびりするのも、いいんだけどさあ。ちょっと、刺激が足りないんだよね 」

「刺激? 」

 って、何のことだろう……
 彼女はやっぱり新しいことが好きで、毎日をアクティブに過ごすのが好きなのだろうか?
 彼女は勉強が好きで、どちらかというと机に向かっているタイプだと思っていたけど、どうやらその限りではないらしい。

「だって最後に二人きりだったの、雨情公園を散歩したときだよ? 私としては、一緒にいられればいいんだけどさ。その…… 」

「……? ああ、確かにそうだね? 」

 彼女が二人で出掛けたがるなんて、珍しいこともあるもんだ。
 まあ、夏休みの後半は結局ルーティーンみたいな過ごし方をしてしまったし、最終日くらいはアクティブに過ごすのも悪くはない。

「そうだね。今からじゃ遠出は出来ないけど、せっかくだから近場を散歩する? 」

「えっ? いいの? 」

「もちろん。ちょっと待ってて、いま着替えてくるから 」

「あっ、ねえ、コーセー! 」

「なっ、何? 」

「これって、デートだよねっ? 」

「デ…… デートぉ!? 」


 彼女の口から発せられたデートというチート級なパワーワードに、僕の頭は一瞬真っ白になった。





■■■■■




パンパンッ!

 僕と彼女は白鷺橋の角にある、下呂温泉神社をお参りしていた。
 ここは下呂温泉のこれまでの歴史や温泉の恵みに感謝し、更なる発展を祈願して、1989年に山形県出羽三山の一つとなる湯殿山本宮から分霊して建立された神社だ。

「よし、お参りは出来たね。そしたら、今度は加恵瑠かえる神社ね 」

「ああ……  」

 彼女はいつになく張り切った様子で、僕の手を引っ張ると、坂道をグイグイと進んでいく。その水色のワンピースと、麦わら帽子を被っている姿は少し新鮮で、久しぶりにTシャツ以外の服装を見た気がしていた。

 僕らは彼女のリクエストで、急遽出掛けることになっていた。といっても、今からの時間からでは遠出は難しいので、近場の温泉街を散策するだけだ。彼女が言うところのデートと呼べるのかは怪しいし、実は春先にも軽く回ったところばかりだから、代わり映えはしない筈なのに、それでも麻愛は笑顔を浮かべていた。

 僕らは観光客の隙間を縫うように進み、日本三大名泉発祥の地の脇を通りすぎると、今度は加恵瑠神社が見えてきた。
 加恵瑠神社は僕が下呂に移住する少し前に建立した神社で、【げろ】にちなんだネーミングと【無事帰る】などの語呂合わせになっていている。加恵瑠神社では手水舎や燈籠も蛙のモチーフがあしらわれていて、お賽銭を入れると、蛙様の御神託が戴けるユーモアに溢れた演出がされているのが特徴だ。

チャリンッ パンパンッ

『幸せが微笑みカエルでしょう 』

「……あっ 」

「…… 」

 蛙様が発した言葉に、彼女が反応して身体を動かしてしまったのが伝わってくる。

 幸せが微笑みカエルか……
 そう言えば、【蛙には帰るべきに場所に無事に帰ってくるように】という縁起物だと聞いたことがある。
 彼女に加護があるのならば……
 どうぞ下呂を離れて元の場所イギリスに帰るときも、見守りくださいと思ってしまう。

 感傷に浸る僕をよそに、彼女は本殿の周りに設置されている数多の蛙の石像を、興味を深そうに眺めていた。

「……蛙さんが神様として祀られてるのって、不思議な感じだよね 」

「そう? 」

「そうだよ。U.K.イギリスでは、神様の存在は一つだけだもん。日本は色んな物が崇拝の対象になってるから、凄く不思議な感じ 」

「まあ、確かにそうかもね。日本は八百万やおよろずの神を信仰しているから、 」

「やおよろず? 」

「ああ。日本人は古代から稲作とか漁をして、自然と関わりながら生活をしてきたんだけど、豊かな自然の恩恵にあやかる一方で、台風や日照りとか災害の多い地域なんだ。だから人々は自然の脅威が起きる度に、神の怒りを買ってしまったと恐れるようになったんだ。だから山とか岩、木や滝といった自然物にも神を感じて祀るようになって、その場所に注連縄しめなわ紙垂しでを印したのが、神社の原型って言われてるらしいよ 」

「そうなんだ。日本人は、色んなものに神様がいるって信じてるんだね 」

「ああ。蛙は【無事帰る】【福帰る】【若返る】
【お金が帰る】ってので、日本では縁起のいい生き物なんだ。一度にたくさんの卵を産むことから豊かさの象徴でもあって、子孫繁栄をもたらす生き物らしいよ 」

「確かに…… 子孫繁栄はイギリスでも聞いたことがあるかも 」

「多分この街で蛙のモチーフが多いのは、日本は蛙の鳴き声がゲロゲロだから、に掛けてるんだと思う 」

「なるほどね。コーセーって、物知りだね 」

「そう? 」

「うん。私は知らなかったもん 」

 知ってても、なかなか役に立たない知識だけど…… と言いかけて、僕は口を閉じる。

 彼女は僕が一生を掛けても知り得ないようなことを、頭のなかに沢山抱えている。
 凄いのは、彼女の方だ。
 素直に自分の知らないことを知る人を、素晴らしいと言える。
 僕は天才という部類の人は、天才でない人のことは、蔑んだり興味を持たないのだろうと、勝手な偏見を抱いていた。だけど、少なくとも彼女に関してはそうではない。どうしたらそんな境地になれるのか、時々僕は彼女が不思議で仕方がなかった。


◆◆◆


 加恵瑠神社を後にすると、僕たちは温泉街の中心地からは少し歩いた場所にある、下呂温泉合掌村へと足を運んだ。
 合掌村には国指定の重要文化財である旧大戸家住宅を筆頭に、白川郷などから移築した十棟の合掌家屋の集落が築かれている。合掌造りは、茅葺かやぶきが大きな特徴で、屋根が急勾配に設置されている。この傾斜は、雪下ろしの作業の軽減や水はけ対策と云われていているけど、屋根裏の作業スペースが多く取れるメリットもあったらしい。

「凄い、パンフレットで見た通りだ…… 日本昔ばなしみたいな家がたくさんあるんだねっ 」

「あはは。ここにあるのは全部、昔の家だからね…… 」

 彼女は始めてみる合掌家屋の住宅に、最高潮に盛り上がっていた。彼女曰く雄飛閣バイトで頻繁に観光客に紹介はしていたけれど、実際に来たことはなかったから、とても嬉しかったらしい。
 合掌家屋は、国登録有形文化財の旧岩崎家や、旧遠山家の板倉に関しては中に入ることもできて、内部は当時の生活様式が再現されている。昔の農作業に使っていた道具もそのまま残されていて、当時の雰囲気が伝わってくるのだ。
 彼女はその重厚な建物の造りに、テンション高めに駆け足になっていたけど、二階に上がる階段が少し急だったのには目を丸くして驚いていた。

 家屋の周りの深緑は濃くて瑞々しい。風通しの良い広々とした縁側に座ると、蝉の声が聞こえてくる。そして微かにチリンチリンと鈴虫鳴き声も混ざっていて、もうすぐ夏も終わるのだと思えてくる。
 ちなみに僕は彼女に引っ張られるがままに、久しぶりに合掌村のローラースライダーを滑ることになった。ローラースライダーは別名【森のすべり台】と言われていて、175メートルもの長さがあるのが特徴だ。彼女はあまり遊園地には行ったことはないらしいけど、絶叫系のアトラクションには目がないのだそうだ。



「ああ、楽しかったっ 」

「けっこう沢山歩いたけど、麻愛は疲れてない? 」

「うーん、私はまだ大丈夫かな。はしゃいでたから、疲れてないよ。それに、甘いもの食べたら体力も回復するしね 」

「まあ、それもそうだね 」

 僕と彼女は涼を取るために、休憩がてら甘味処に入っていた。この店はあんみつが有名なのだが、他のお店とは少し変わった特徴があるのだ。

「んっ? このあんみつ、面白い! トマトが入ってるよね!? 」

「ああ。ここのお店のオリジナルらしいよ 」

「へー トマトって、スイーツとして食べたのは初めてだけど、意外と合う!? 」

「ああ、そうなんだよね。不思議だよね 」

 このお店のあんみつの中には、プチトマトとわらび餅風刺身こんにゃくが入っている。一見ミスマッチな組合せなのだが、食べてみるとこれが驚くことに美味しいのだ。しかも白玉も工夫がされていて、いろんな色と味がする。あんこは甘みが控えてあるから、黒蜜をたっぷりかけても、くどさがなくて最後まで美味しく食べられるのだ。

「今日はパワースポットにも行ったし、いっぱい下呂の街が知れて良かった。コーセー、ありがとうね 」

「どういたしまして。楽しんでもらえたなら、良いんだけど  」

 結局、彼女が言っていたデートになったのかは、良くわからない。もしかしたら、日本人が使うデートという言い回しと、イギリスで使うデートのニュアンスは違うかもしれないから、深くは考えないでおく。もし彼女が色んなところに出掛けたいと思っていたなら、夏休みの間に時間を見つけて遠出してみても良かったなと、今更ながら少し後悔の念も感じていた。

「あのさ、麻愛は他にも行ってみたいところとかあるの? 」

「えっ? 」

「あっ、いや、今すぐにとかではなくて。日本にいる間に、興味があるところとかあるのかなって 」

「それは…… 」

 彼女は手にしていたスプーンを置くと、急にウーンと考え込む。

「そうだね。急に言われると、パッと思い付かないんだけど。東京に行くことがあったら、T大学には行ってみたいな。ママとパパの出会った場所は見てみたいし。それに東京タワーと例のテーマパークにも行ってみたいな 」

「おっ、意外とあるんだね 」

「あっ、別に絶対ってわけじゃないよ。ママから昔、パパや友達と遊びに行って楽しかったって聞いたことがあるから、ちょっと興味があるだけなんだ。下呂からだと、遠いいもんね 」

「でも都内は、もうすぐ修学旅行で行けるんじゃないかな? 」

「えっ? しゅうがくりょこう、って何? 」

「ああ。三泊四日の修学旅行。うちの学校は九月の末だから。学校のみんなで集団で旅行をするんだよ。一日は国会議事堂とかテレビ局とか、クラス全員でお堅いところの団体見学ではあるけど。丸一日は千葉のテーマパークで終日フリーだし、もう一日は都内を自由に回れるはずだよ 」

「何それ。パラダイスみたいな旅行だね 」

「そう? 」

 イギリスに修学旅行というシステムがあるのかは僕は知らない。そもそもあったとしても、飛び級スキップだらけの彼女がその経験をしていなくても、何ら不思議なことはないと思う。僕にとっては都内に繰り出す修学旅行は、ただの凱旋ではあるけれど、友達と一緒に行くのはそれはそれで楽しみかもしれない。

「それなら、帰りに本屋さんで都内のガイドブックを買わないとっ 」

 彼女は旅行という単語に、明らかに目の色を変えていた。よく遊園地に行った子どもが乗り物に乗っている側から、次のアトラクションを物色している光景を目にするけど、まさに今の彼女はそんな感じだった。

「麻愛。 本屋に寄るなら、そろそろ家に帰る?  」

「ちょっと、待って 」

「えっ? 」

「コーセー、私もう一ヶ所だけ、行ってみたい場所があるの 」





◆◆◆



「コーセー 早くっ! 」

「ちょっ、そんなに急がなくてもっ。後で疲れてバテるぞ? 」

「へーきへーき! 私は階段は得意だもん 」


 彼女はこっちこっちと僕のことを手招きすると、どんどんと階段を登っていく。
 僕らは家に帰る前に、温泉寺へと足を運んでいた。
 下呂温泉は言い伝えによると、一千年以上の歴史を持つといわれている。
 しかし今から約八百年ほど前の文永二年に、突然に温泉の湧出が止まってしまったのだという。この地域の人は、それはとても困ったらしい。しかしその翌年、村人が毎日の飛騨川の河原に舞い降りる、一羽の白鷺の存在に気づいた。不思議に思った村人がその場所へと近寄ってみると、そこには再び温泉が湧いていたのだという。
 空高く舞い上がった白鷺は、中根山の松に止まり、その下方には光り輝く一体の薬師如来が鎮座していた。これが下呂に伝わる白鷺伝説であり、温泉寺開創の縁起であるらしい。白鷺に化身し、温泉の湧出を知らせたこの薬師如来を本尊とするのが、この醫王霊山温泉寺なのだ。

 温泉寺の境内は、173段の石段を上がったところにある。日本に来たばかりの頃は、彼女はあまり体力がなくて布団敷きバイトだけでスタミナ切れしていたのに、今ではすっかり体力が溢れている。温泉寺は荒巻家の菩提寺だからお盆にも墓参りで訪ねたけど、彼女は雄飛閣での外国人の対応がピークで一緒に来ることは叶わなかった。だから、どうしても来たいのだと彼女にリクエストをされたのだ。

「あっ…… 」

「ちょっ 」

 スローモーションに見えた。
 慌てて駆け上がっていた彼女が階段からこちらに降ってきて、僕は思わずその身体を受け止めていた。僕も驚いたけど、彼女の方がもっと驚いたのだろう。僕の腕の中で目を見開いて、こちらを眺めていた。

「だい、大丈夫? 」

「うん…… ごめん、ありがと 」

 彼女はそう言うと、すぐさま体裁を整える。彼女の体には何回も触れたことがあるハズなのに、物凄く心臓に悪い瞬間だ。

「まだ日暮れまでには十分時間があるし、ゆっくり登ろうよ 」

「うん 」

「……ほらっ 」

「えっ? 」

 気づいたときには、僕は彼女に向けて手を差し出していた。放っておくと、どんどん彼女が先に行ってしまって、僕には届かないようなところまで、一人で行ってしまうような気がしたからだ。

 彼女に拒否をされたらどうしようかと思ったけど、彼女は僕の手を取ってくれた。そして僕の想定よりもキュっと握り返されたその手に、何だか気恥ずかしくなる。

 日が傾いてくると、熱を帯びていた風が、肌に心地よくなっていた。それと反比例するように、手のひらだけは妙に汗をかいていて、体温を共有している感覚が生々しかった。

「うわー 眺めがいいね 」

「ああ、ここからは下呂温泉が、全部見られるからね 」

「昔の人も、ここから街を眺めてたのかな? 」

「そうかもしれないね。ここは温泉街が全部見渡せるしね 」

 山門を抜け境内に入ると、そこからは下呂の町並みが一望できる。雄飛閣を筆頭に、温泉街は夜の帳を迎える準備が始まっていて、もう薄ら薄らネオンが点灯している旅館もあった。お墓参りには定期的に来ているけど、境内までくるのは僕も久し振りのことかもしれない。

「素敵だね 」

「まあ、緑と川と湯けむりしかないけどね 」

「それがいいんだよ。私はこの下呂の街が、とっても好き 」

「そうなの? 今までに、もっと凄い景色は沢山見てきただろ? 」

「綺麗な景色はね、誰と一緒に見たかの方が大事なんだって 」

「へっ? 」

「って、ママが言ってた。だから、私は今日ここで見た夕焼けは忘れないと思う。コーセーはどうかな? 」

 彼女は、何が言いたいのだろう。
 これじゃあ、まるで彼女は僕のことを……

「僕も…… 」

「…… 」

「今日のことは一生忘れないと思う 」

「そう。それなら良かった 」

 彼女はそう言うと、僕の手を引っ張って、また来た道をゆっくりと戻り始めた。

 僕は核心に迫るべきなのかと思ったけど、寸前でその気持ちを押し込めていた。
 でも精一杯、気持ちは伝えたつもりだった。
 今は、それが僕にできる最大級の誠意だからだ。

 確証がないと、前に進むことが出来ないのは僕の弱さだ。
 でも、仮に彼女が僕のことを好意的に思ってくれていても、僕と彼女にはタイムリミットがある。






 僕はこの時、やっと腹を決めたのだ。
 麻愛の隣を歩くために、努力をするのだと。
 時間はかかるだろうし、それまで麻愛が誰のものでもない保証はない。
 だけど、僕は後悔するわけにはいかない。

 人生は一度きり。
 自分の周りの環境は変えられない。
 だけど自分自身は、自分次第で如何様にもなる。大どんでん返しだって、作ることが出来るのかもしれないのだ。
 そのワンチャンスを今狙わないで、僕はいつ挑戦するんだ。

 何もしなければ、ゼロのまま。
 何かをすれば、マイナスになるかもしれないけど、100に化ける可能性を秘めている。
 これは自分にしか決めることは出来ない。


 何が起きるのかわからないから、人生は面白い。
 僕は後悔のない生き方をしたい。
 そのためには、絶対に隣に彼女が必要なのだ。
















※参考webサイト
www.gero-spa.com/

※いくやまいまいの呪文
歴代総理大臣の頭文字を順番に並べた覚え方
第一代 い 伊藤博文
第二代 く 黒田清隆
第三代 や 山縣有朋……
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