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神は彼女に新しい日常を与えた
神は彼女に息抜きをさせた
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■■■
「俺の采配はどう? コーセー君? 」
「……ハアーーっッ? 」
僕は思わず目の前のカレーにスプーンを突き立てると、声を殺して抵抗した。匡輔め、覚えとけよっッ。
ここの食堂はそれほど広くはないから、周りの従業員とは距離が近い。僕にとっての匡輔は友達で、それ以上でもそれ以下でもないけど、従業員からすれば雇用主みたいなものだ。だからこの場でいつもの調子で騒ぎ立てるのは、自粛せざるを得ない。匡輔のヤツも僕が抵抗できないのを良いことに、ちょっかいを出している。そういう現金なヤツなのだ。
「麻愛ちゃんと濃密な時間、それはプライスレスだと思うけど? 」
「……別にっ、今さら濃密な時間もクソもないだろ 」
一緒に住んでるんだから…… と言いかけて、僕は口をつぐんだ。彼女は寝る以外の衣食住を我が家でこなしているが、建前上は一応寮に住んでいることになっている。
「でも二人でやれば、仕事は捗るだろ? 」
「まーね 」
「鞠子ちゃんと佳央理ちゃんも来てくれたら、俺としては助かったんだけどねぇー 」
「姉ちゃんはゴールデンウィークは、名古屋で単発のバイトだって。普段は授業が忙しいらしいから、休みのうちに稼ぐんだと。佳央理は帰省してるし 」
「佳央理ちゃんは、今、実家は都内だっけ? 」
「ああ。今は正確には横浜みたいだけど。佳央理としては小さい頃からここで祖父ちゃんたちと暮らしてたし、親に会いに帰省っていうより、遊びに行くって感覚が強いみたいだけど 」
「ふーん。相変わらずお前んとこ、医療従事者が多いんだね。両親は薬剤師で、鞠子ちゃんは薬学部でしょ? 佳央理ちゃんは看護学部だし。後は医者が揃えば完璧か…… 」
「……医者、ねえ 」
っていうか、医者なら既に最近我が家にやってきた。
匡輔たちに事情を説明できないのは、申し訳ないけど……
「お前、医者目指せばちょうどいいんじゃないか? 」
「……イヤミだな 」
コイツは僕の理数科目の成績が壊滅的なことを知ってて、そういうことを言ってくる。いくら親と親戚がそうだからって、頭脳は遺伝ではなくて本人の才能と努力がものをいうのだと言って聞かせてやりたい。
「でも今回は、恒星と麻愛ちゃんが来てくれてほんと助かったよ 」
「人手…… 足りてないのか? 」
「まあ、年々厳しくはなってきてるよね。残念なことに。ちょうどさっき、椿ともその話をしてたところ 」
「そっか…… 」
この辺りには、高校以上の学校はない。
就職先は観光業ならばたくさんあるが、それ以外を目指すなら他所に出なくてはならないし、進学も然別だ。父さんみたいにUターンする人もいるけど、まだまだ帰ってくる人はそう多くはない。
僕たちはその後もくだらないことを話ながら食っちゃべっていると、前から作務衣姿の彼女と椿がこちらに向かってきた。
「若さま! 恒星! 」
「椿、もう食い終わったの? 」
「そうよ。そろそろチェックインの時間だし、若さまたちと違って、そんなにゆっくり休んでられないんです 」
椿はそう言うと匡輔の腕をつかむと、無理矢理椅子から立たせた。
「痛たたっッ、椿、何すんのっッ 」
「いつまでも油売ってないで。ほら、さっさと済ませて。仕事に戻りますよ 」
椿はそう言うと、またグイっと手に力を込めていた。
「まだ、途中だって! って、恒星っッ! 」
「御愁傷様…… 」
匡輔は救いを求めるように目線を送ってきたが、僕はだんまりを決め込んだ。
今日ばかりは…… 絶対に助けてやらない。
その後も匡輔は抵抗の構えを見せていたが、二人はあっという間に奥の部屋へと消えていった。
「ツバキ…… 凄いね 」
「まぁ、昔からあんなもんだよ 」
彼女は目を丸くして、二人のやり取りを凝視していた。僕には見慣れたやりとりだけど、初めての人が見るとビックリするのだなと思った。
僕と彼女は、一旦家に帰ることにした。
街中は相変わらず活気に溢れていて、家族連れや熟年夫婦、カップルに至るまであらゆる層が楽しそうに歩いている。
昨日の今日で彼女は疲れてないか少し心配だったが、それは僕の杞憂に終わった。
彼女は作業に余裕が出てきたようで、足取り軽く歩道を歩いている。デニムにTシャツ姿を見るのは、何だか逆にとても新鮮な気持ちになった。
「ツバキ…… 今日何かちょっと違ったね 」
「そうか? 」
「うん、匡ちゃんに対しての話し方とか、呼び方とか…… 」
「ああ、椿は一応あの館の従業員みたいなものだからね。仕事のときは雇用主である芦屋家の人間には敬語を使うし、呼び方も変えてるんだ。匡輔の方はよそよそしくて嫌がってるけど、いろいろあるみたいで 」
「そうなんだ…… 」
彼女はふーんと言いながら、手を顎に当てる。
僕にも複雑な事情はよくわからないけど、大人の世界というのはいろいろとあるらしい。
結局、ゴールデンウィークの間は彼女をバイトで振り回すばかりだった。
いや、本来ならば高山にでも岐阜市内でも繰り出せたんだろうけど、同行して貰えそうな人間たちは用事があるし、だからといってサシで遊びに行くというのも勇気がなかった。
みんなが遊ぶときに働く……
こればっかりは温泉街に暮らす者の宿命なんだろうけど、今回ばかりはそのお陰で助かった部分もあるかもしれない。
でもやっぱり、たまには休日らしいこともしたくなった。
「あのさ、麻愛って…… 甘いものとか好き? 」
「うん。好きだよ。イギリスはアフタヌーンティーの文化があるからね。スコーンもケーキも、甘いものなら何でも食べるよ 」
あふたぬーんてぃ?
僕は初めて聞く単語に、少し考え込む。
彼女はいろんなことを知っているんだろうけど、一般人が知り得ないような言葉を使ったりひけらかしたりはしない。
つまり、あふたぬーんてぃ? とやらは世間一般的な常識の範疇の事柄なのだろうから、これは後でこっそり検索するしかない。
「……どうしたの? コーセー? 顔真っ赤だよ? 」
「ああ、いや、こっちの話…… ところでアイスとかも好き? かな…… 」
「アイス? アイスクリームのこと? 」
「そう。うちの近くの角に、人集りができてる店があるだろ? 」
「ああ、そういえば…… 」
彼女は手を顎に充てながら、うんうんと頷く仕草をする。
「あそこに多分、麻愛のテンションがグッと上がる、面白いソフトクリームがあるんだよね 」
「そうなの!? 」
彼女は急に目を輝かせると、ワントーン声を上げてキラキラした口調で返事をした。
僕は一瞬、彼女に吸い込まれるような感覚を覚えた。
不意討ちで…… 彼女はときに、こんな表情も見せるのだ。
「じゃあ、ちょっと寄り道して帰らない? 」
僕は冷静を装うと、いつもの曲がる道とは反対の道を指差した。
「なんか、いっぱい人がいるね 」
「うん。ここはガイドブックにも必ず載ってる下呂名物のソフトクリームの店 」
僕はそう言うと、他の観光客の手にしているものに視線を向けるよう、彼女に目配せで合図した。彼女はその中身を見るや否や、慌てた様子で僕のTシャツを引っ張ると小さな声で僕に耳打ちした。
「……なっ、何あれっッ 」
「ソフトクリームに温玉のってるの。一応、このあたりの名物 」
彼女の予想通りのリアクションに、僕は吹き出しそうになった。
僕は店内に入ると、温玉ソフトを二つ注文する。下呂名物の温玉ソフトは、コーンフレークの上にソフトクリームが乗っていて、その上から温玉が乗せられている。透明なカップに入っているので、その画力は破壊力満点だった。
本来ならば店先の足湯に浸かりながら食べるのが一般的なのだが、そこはさすがに観光客に譲るべきだろう。僕は彼女を店の向かいにある橋にあるベンチまで誘導すると、カップを差し出した。
彼女は恐る恐るそれを手にすると、中身をなめ回す。その顔は先程までと打って変わり疑惑の表情で満ちていた。
「ありがとう。ゆで卵? ……が乗ってるの? 日本人って発想が豊かね 」
彼女の声は、少し浮わついていた。彼女に石橋を叩いて渡るような側面があるのは、少し意外だった。
「まあ、騙されたと思って食ってみ 」
「アイスクリームに卵だなんて。しかも固まってないじゃん? 」
「これは温泉卵っていって、温泉で卵を茹でて作ったのを乗せてるんだ。低温でゆっくり温めてるから、半熟卵よりも柔らかいのができるってわけ 」
「でも、卵がアイスクリームに乗ってるのには変わりはないよ? 」
「いいから、食ってみ 」
「いただき…… ます…… 」
彼女は一言そう言うと、ソフトクリームの部分だけをペロリと舐めた。
「美味しい…… 」
「そりゃ、そうだ 」
「じゃあ、次は卵も混ぜるね 」
「おう 」
彼女はそう言うと、手元のソフトクリームをゆっくりと混ぜ始めた。温玉の黄身がトロリと側面に流れ落ち、カップの中身は鮮やかな黄色になっていく。彼女はそれをスプーンですくうと、目を閉じてパクリと口に運んだ。
「……んっ、あれ? 美味しい……かも 」
「でしょ? 」
「甘くてカスタードみたいな香りがする 」
彼女はその後もパクリパクリと、アイスを頬張っている。だいたい落ち着いて考えればわかりそうなものだが、僕がわざわざ彼女に不味いものを食わせるわけもないだろ。
「意外ね。卵とアイスクリームがこんなに合うなんて 」
「そうだね。最初に思い付いた人はチャレンジャーだよな 」
彼女は会話も程々に、あっという間にソフトクリームを食べ終えると、今度は橋に設置されている目の前の銅像に心を奪われていた。
「……!? ねー、コーセー! あれって、チャールズ チャップリン!?」
「ああ、なんな知らないけどあるんだよね。チャップリンの像 」
下呂は川が沢山あって橋の数がとても多い。そして何故か、下呂の街中にある白鷺橋の真ん中にチャップリンが椅子に腰かけている銅像があって、観光客はみなこぞって写真を撮るのが定番なのだ。
「……まさか、こんな場所でチャールズチャップリンに会えるなんて思わなかった 」
「せっかくだから写真でも撮ったら? 」
「そうだね 」
彼女はそう言うと、生成色のトートからスマホを取り出し、僕に手渡した。久しぶりに見た彼女の待受画面は、ツバキとのツーショット写真に変わっていた。
「はい、チーズ 」
「……ありがとう 」
彼女は写真を確認すると、ニッコリと微笑んだ。チャップリンはイギリス人だ。余程、チャップリン像が嬉しかったのだろうか?目と鼻の先にあるのだから、こんなことならもっと早く彼女をここに連れてくれば良かったと今更ながらに思ってしまう。
「麻愛…… 」
「何? 」
「イギリスは…… 恋しくなる? 」
僕は、無意識に言葉を発していた。
言い終わった後でしまったと思ったが、所謂時既に遅しというやつだった。
彼女は、ハッとした表情で僕を見ている。
日を浴びた彼女の髪の毛は、いつも以上に光を反射し、さらさらと風になびいていた。
「私はイギリスは恋しくはないよ 」
「えっ…… 」
彼女はあっさりとそう言うと、スマホをまた鞄のなかにそっと閉まった。
僕は彼女の返事に、少しだけ驚いていた。
イギリスは恋しくない。
それなら、やっぱり恋しいものはあるんだなと、僕はそう解釈した。
僕は彼女の目を見ていた。
その紺碧の瞳…… 亜麻色の髪の毛……
そして時おり見せる寂しそうな横顔と、彼女のトキメいたときのキラキラした笑み……
彼女はとても言葉では言い表せないもので満ちていて、僕は目を離したくなくなるのだ。
「さっ、コーセー! 早くうちに帰ろう! 夜も布団プレイ頑張んなきゃいけないし 」
「えっ…… んっ? ハイっッ!? 」
ちょっと待て……
布団プレイってなんだっッ!
っていうか誰だ、彼女に変な言葉を仕込んだヤツはっッ……!?
「ほら、コーセー!早く早くー 」
「おい、こら麻愛っッ、ちょっと待てっッ 」
彼女は僕の手を素早くすり抜けると、家の方向に向かって勢いよく駆け出した。観光客の間をうまく縫うように、彼女はどんどん遠くなっていく。
彼女には後でちゃんと正式名称の布団敷きと言うようにと、しっかり教育的指導をしなくてはならない。
彼女は呆気ない笑顔で「こっちこっちー」と手を振っていた。
ああ、僕にも彼女を叱ることなどそもそも出来るはずはない。彼女のコロコロかわるその仕草の数々に僕は滅法弱い。
それは……
昔初めて僕が彼女と会ったときから、ずっと変わっていないことの一つでもあるのだ。
「俺の采配はどう? コーセー君? 」
「……ハアーーっッ? 」
僕は思わず目の前のカレーにスプーンを突き立てると、声を殺して抵抗した。匡輔め、覚えとけよっッ。
ここの食堂はそれほど広くはないから、周りの従業員とは距離が近い。僕にとっての匡輔は友達で、それ以上でもそれ以下でもないけど、従業員からすれば雇用主みたいなものだ。だからこの場でいつもの調子で騒ぎ立てるのは、自粛せざるを得ない。匡輔のヤツも僕が抵抗できないのを良いことに、ちょっかいを出している。そういう現金なヤツなのだ。
「麻愛ちゃんと濃密な時間、それはプライスレスだと思うけど? 」
「……別にっ、今さら濃密な時間もクソもないだろ 」
一緒に住んでるんだから…… と言いかけて、僕は口をつぐんだ。彼女は寝る以外の衣食住を我が家でこなしているが、建前上は一応寮に住んでいることになっている。
「でも二人でやれば、仕事は捗るだろ? 」
「まーね 」
「鞠子ちゃんと佳央理ちゃんも来てくれたら、俺としては助かったんだけどねぇー 」
「姉ちゃんはゴールデンウィークは、名古屋で単発のバイトだって。普段は授業が忙しいらしいから、休みのうちに稼ぐんだと。佳央理は帰省してるし 」
「佳央理ちゃんは、今、実家は都内だっけ? 」
「ああ。今は正確には横浜みたいだけど。佳央理としては小さい頃からここで祖父ちゃんたちと暮らしてたし、親に会いに帰省っていうより、遊びに行くって感覚が強いみたいだけど 」
「ふーん。相変わらずお前んとこ、医療従事者が多いんだね。両親は薬剤師で、鞠子ちゃんは薬学部でしょ? 佳央理ちゃんは看護学部だし。後は医者が揃えば完璧か…… 」
「……医者、ねえ 」
っていうか、医者なら既に最近我が家にやってきた。
匡輔たちに事情を説明できないのは、申し訳ないけど……
「お前、医者目指せばちょうどいいんじゃないか? 」
「……イヤミだな 」
コイツは僕の理数科目の成績が壊滅的なことを知ってて、そういうことを言ってくる。いくら親と親戚がそうだからって、頭脳は遺伝ではなくて本人の才能と努力がものをいうのだと言って聞かせてやりたい。
「でも今回は、恒星と麻愛ちゃんが来てくれてほんと助かったよ 」
「人手…… 足りてないのか? 」
「まあ、年々厳しくはなってきてるよね。残念なことに。ちょうどさっき、椿ともその話をしてたところ 」
「そっか…… 」
この辺りには、高校以上の学校はない。
就職先は観光業ならばたくさんあるが、それ以外を目指すなら他所に出なくてはならないし、進学も然別だ。父さんみたいにUターンする人もいるけど、まだまだ帰ってくる人はそう多くはない。
僕たちはその後もくだらないことを話ながら食っちゃべっていると、前から作務衣姿の彼女と椿がこちらに向かってきた。
「若さま! 恒星! 」
「椿、もう食い終わったの? 」
「そうよ。そろそろチェックインの時間だし、若さまたちと違って、そんなにゆっくり休んでられないんです 」
椿はそう言うと匡輔の腕をつかむと、無理矢理椅子から立たせた。
「痛たたっッ、椿、何すんのっッ 」
「いつまでも油売ってないで。ほら、さっさと済ませて。仕事に戻りますよ 」
椿はそう言うと、またグイっと手に力を込めていた。
「まだ、途中だって! って、恒星っッ! 」
「御愁傷様…… 」
匡輔は救いを求めるように目線を送ってきたが、僕はだんまりを決め込んだ。
今日ばかりは…… 絶対に助けてやらない。
その後も匡輔は抵抗の構えを見せていたが、二人はあっという間に奥の部屋へと消えていった。
「ツバキ…… 凄いね 」
「まぁ、昔からあんなもんだよ 」
彼女は目を丸くして、二人のやり取りを凝視していた。僕には見慣れたやりとりだけど、初めての人が見るとビックリするのだなと思った。
僕と彼女は、一旦家に帰ることにした。
街中は相変わらず活気に溢れていて、家族連れや熟年夫婦、カップルに至るまであらゆる層が楽しそうに歩いている。
昨日の今日で彼女は疲れてないか少し心配だったが、それは僕の杞憂に終わった。
彼女は作業に余裕が出てきたようで、足取り軽く歩道を歩いている。デニムにTシャツ姿を見るのは、何だか逆にとても新鮮な気持ちになった。
「ツバキ…… 今日何かちょっと違ったね 」
「そうか? 」
「うん、匡ちゃんに対しての話し方とか、呼び方とか…… 」
「ああ、椿は一応あの館の従業員みたいなものだからね。仕事のときは雇用主である芦屋家の人間には敬語を使うし、呼び方も変えてるんだ。匡輔の方はよそよそしくて嫌がってるけど、いろいろあるみたいで 」
「そうなんだ…… 」
彼女はふーんと言いながら、手を顎に当てる。
僕にも複雑な事情はよくわからないけど、大人の世界というのはいろいろとあるらしい。
結局、ゴールデンウィークの間は彼女をバイトで振り回すばかりだった。
いや、本来ならば高山にでも岐阜市内でも繰り出せたんだろうけど、同行して貰えそうな人間たちは用事があるし、だからといってサシで遊びに行くというのも勇気がなかった。
みんなが遊ぶときに働く……
こればっかりは温泉街に暮らす者の宿命なんだろうけど、今回ばかりはそのお陰で助かった部分もあるかもしれない。
でもやっぱり、たまには休日らしいこともしたくなった。
「あのさ、麻愛って…… 甘いものとか好き? 」
「うん。好きだよ。イギリスはアフタヌーンティーの文化があるからね。スコーンもケーキも、甘いものなら何でも食べるよ 」
あふたぬーんてぃ?
僕は初めて聞く単語に、少し考え込む。
彼女はいろんなことを知っているんだろうけど、一般人が知り得ないような言葉を使ったりひけらかしたりはしない。
つまり、あふたぬーんてぃ? とやらは世間一般的な常識の範疇の事柄なのだろうから、これは後でこっそり検索するしかない。
「……どうしたの? コーセー? 顔真っ赤だよ? 」
「ああ、いや、こっちの話…… ところでアイスとかも好き? かな…… 」
「アイス? アイスクリームのこと? 」
「そう。うちの近くの角に、人集りができてる店があるだろ? 」
「ああ、そういえば…… 」
彼女は手を顎に充てながら、うんうんと頷く仕草をする。
「あそこに多分、麻愛のテンションがグッと上がる、面白いソフトクリームがあるんだよね 」
「そうなの!? 」
彼女は急に目を輝かせると、ワントーン声を上げてキラキラした口調で返事をした。
僕は一瞬、彼女に吸い込まれるような感覚を覚えた。
不意討ちで…… 彼女はときに、こんな表情も見せるのだ。
「じゃあ、ちょっと寄り道して帰らない? 」
僕は冷静を装うと、いつもの曲がる道とは反対の道を指差した。
「なんか、いっぱい人がいるね 」
「うん。ここはガイドブックにも必ず載ってる下呂名物のソフトクリームの店 」
僕はそう言うと、他の観光客の手にしているものに視線を向けるよう、彼女に目配せで合図した。彼女はその中身を見るや否や、慌てた様子で僕のTシャツを引っ張ると小さな声で僕に耳打ちした。
「……なっ、何あれっッ 」
「ソフトクリームに温玉のってるの。一応、このあたりの名物 」
彼女の予想通りのリアクションに、僕は吹き出しそうになった。
僕は店内に入ると、温玉ソフトを二つ注文する。下呂名物の温玉ソフトは、コーンフレークの上にソフトクリームが乗っていて、その上から温玉が乗せられている。透明なカップに入っているので、その画力は破壊力満点だった。
本来ならば店先の足湯に浸かりながら食べるのが一般的なのだが、そこはさすがに観光客に譲るべきだろう。僕は彼女を店の向かいにある橋にあるベンチまで誘導すると、カップを差し出した。
彼女は恐る恐るそれを手にすると、中身をなめ回す。その顔は先程までと打って変わり疑惑の表情で満ちていた。
「ありがとう。ゆで卵? ……が乗ってるの? 日本人って発想が豊かね 」
彼女の声は、少し浮わついていた。彼女に石橋を叩いて渡るような側面があるのは、少し意外だった。
「まあ、騙されたと思って食ってみ 」
「アイスクリームに卵だなんて。しかも固まってないじゃん? 」
「これは温泉卵っていって、温泉で卵を茹でて作ったのを乗せてるんだ。低温でゆっくり温めてるから、半熟卵よりも柔らかいのができるってわけ 」
「でも、卵がアイスクリームに乗ってるのには変わりはないよ? 」
「いいから、食ってみ 」
「いただき…… ます…… 」
彼女は一言そう言うと、ソフトクリームの部分だけをペロリと舐めた。
「美味しい…… 」
「そりゃ、そうだ 」
「じゃあ、次は卵も混ぜるね 」
「おう 」
彼女はそう言うと、手元のソフトクリームをゆっくりと混ぜ始めた。温玉の黄身がトロリと側面に流れ落ち、カップの中身は鮮やかな黄色になっていく。彼女はそれをスプーンですくうと、目を閉じてパクリと口に運んだ。
「……んっ、あれ? 美味しい……かも 」
「でしょ? 」
「甘くてカスタードみたいな香りがする 」
彼女はその後もパクリパクリと、アイスを頬張っている。だいたい落ち着いて考えればわかりそうなものだが、僕がわざわざ彼女に不味いものを食わせるわけもないだろ。
「意外ね。卵とアイスクリームがこんなに合うなんて 」
「そうだね。最初に思い付いた人はチャレンジャーだよな 」
彼女は会話も程々に、あっという間にソフトクリームを食べ終えると、今度は橋に設置されている目の前の銅像に心を奪われていた。
「……!? ねー、コーセー! あれって、チャールズ チャップリン!?」
「ああ、なんな知らないけどあるんだよね。チャップリンの像 」
下呂は川が沢山あって橋の数がとても多い。そして何故か、下呂の街中にある白鷺橋の真ん中にチャップリンが椅子に腰かけている銅像があって、観光客はみなこぞって写真を撮るのが定番なのだ。
「……まさか、こんな場所でチャールズチャップリンに会えるなんて思わなかった 」
「せっかくだから写真でも撮ったら? 」
「そうだね 」
彼女はそう言うと、生成色のトートからスマホを取り出し、僕に手渡した。久しぶりに見た彼女の待受画面は、ツバキとのツーショット写真に変わっていた。
「はい、チーズ 」
「……ありがとう 」
彼女は写真を確認すると、ニッコリと微笑んだ。チャップリンはイギリス人だ。余程、チャップリン像が嬉しかったのだろうか?目と鼻の先にあるのだから、こんなことならもっと早く彼女をここに連れてくれば良かったと今更ながらに思ってしまう。
「麻愛…… 」
「何? 」
「イギリスは…… 恋しくなる? 」
僕は、無意識に言葉を発していた。
言い終わった後でしまったと思ったが、所謂時既に遅しというやつだった。
彼女は、ハッとした表情で僕を見ている。
日を浴びた彼女の髪の毛は、いつも以上に光を反射し、さらさらと風になびいていた。
「私はイギリスは恋しくはないよ 」
「えっ…… 」
彼女はあっさりとそう言うと、スマホをまた鞄のなかにそっと閉まった。
僕は彼女の返事に、少しだけ驚いていた。
イギリスは恋しくない。
それなら、やっぱり恋しいものはあるんだなと、僕はそう解釈した。
僕は彼女の目を見ていた。
その紺碧の瞳…… 亜麻色の髪の毛……
そして時おり見せる寂しそうな横顔と、彼女のトキメいたときのキラキラした笑み……
彼女はとても言葉では言い表せないもので満ちていて、僕は目を離したくなくなるのだ。
「さっ、コーセー! 早くうちに帰ろう! 夜も布団プレイ頑張んなきゃいけないし 」
「えっ…… んっ? ハイっッ!? 」
ちょっと待て……
布団プレイってなんだっッ!
っていうか誰だ、彼女に変な言葉を仕込んだヤツはっッ……!?
「ほら、コーセー!早く早くー 」
「おい、こら麻愛っッ、ちょっと待てっッ 」
彼女は僕の手を素早くすり抜けると、家の方向に向かって勢いよく駆け出した。観光客の間をうまく縫うように、彼女はどんどん遠くなっていく。
彼女には後でちゃんと正式名称の布団敷きと言うようにと、しっかり教育的指導をしなくてはならない。
彼女は呆気ない笑顔で「こっちこっちー」と手を振っていた。
ああ、僕にも彼女を叱ることなどそもそも出来るはずはない。彼女のコロコロかわるその仕草の数々に僕は滅法弱い。
それは……
昔初めて僕が彼女と会ったときから、ずっと変わっていないことの一つでもあるのだ。
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