【完結】ホウケンオプティミズム

高城蓉理

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第三章 録音に関して

第六条

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◆◆◆


 真夜中に飲むコーヒーからは、背徳の香りがする。
 それは大人にしか許されない嗜みだけど、眠ってしまうことを許さない強烈な特効薬で、身体の隅々から交感神経を刺激する。もしかしたら、これも大森先生の無言の圧力の一環なのだろうか……

 桃佳はバスタオルをグルグルに巻かれた状態で、大森研究室に丁重に保護されていた。大森はランニングとスラックス姿で、自分のシャツや桃佳のカーディガンやらに ドライヤーを充てている。ソファーには簡易的な毛布と枕が常備されていて、寝泊まりするには十分過ぎる環境だった。

「良かったら、どうぞ。あいにく温まりそうな飲み物は、コーヒーしか常備がないもので 」

「ありがとうございます。全身 ズブ濡れな上に、研究室にまで押し掛けてしまって。本当にすみません 」

「そんなに気にしなくて大丈夫ですよ。どうせソファーは合皮だから、拭いてしまえば問題はありません。ただまあ、本棚に関しては 水分厳禁でお願いしますね。一応、師匠から譲り受けた貴重な資料もありますから 」

 大森は慣れた手付きで自分のシャツを乾かすと、ついでに靴の中に藁半紙を詰め始める。桃佳としては 初めて大森の研究室に入るなら もっと小綺麗な状態で挑みたかったが、今はそんなことに熱を上げる気分にはならなかった。

「あまり部屋の中は凝視しないで下さいね。一応言い訳させてもらいますけど、今夜はもう寝るつもりだったから、散らかり放題なんです 」

「すみません、ご迷惑をお掛けして 」

「別に迷惑とは思ってません。それより、他に乾かすものはありませんか? 脱いでもらえば、靴も乾かせますよ 」

「いや、それは大丈夫です。放っておけば自然に乾きますから 」

 桃佳は手を前に出して、やんわりと断りを入れると、思わず苦笑いを浮かべていた。
 大森は不自然なくらいに、桃佳にずぶ濡れになった理由を聞いてこない。もしかしたら本当にただ単に雨に打たれてしまっただけだと思っているのかもしれないけど、そんな筈はない。明らかに気を遣われているのは、手に取るように分かっていた。

「……先生は いつもこんな遅い時間まで勉強をしているのですか? もしかして、研究室に住んでいるとか? 」

「はあ? 住んでなんかいませんよ。最近は八月に控えている勉強会の準備が忙しいだけです。そしたら段々と家に帰るのが面倒になってきて、研究室に寝泊まりしていただけですから。資料と本は全部 ここ研究室にあるから、逆に自宅では何も出来ないんです 」

「…… 」

 桃佳がチラリとサイドテーブルに目をやると、意匠法の判例集の中に、複数枚の宝石のデザイン画が散乱していた。企業案件か何かだろうが、桃佳に質問をする権利などは まるでなかった。
 初めて入った大森の研究室は 壁一面が国内外の文献で埋め尽くされていたが、所々に生活感が溢れている。窓側のキャビネットの中には小さなシンクが備え付けられていて、微かにカップ麺の残り香が入り交じっていた。

「研究室には 簡易だけど電磁調理器が備え付けられていますし、共同のシャワーもある。洗濯だけはネックですけど、きちんと準備をしておけば軽く一週間は住めるでしょうね 」

 大森は自分用にもコーヒーを注ぐと、パイプ椅子へと腰かける。そして窓のブラインドの隙間を指差すと、こう話を続けた。

「それに 大学に住み着いている連中は五万といますよ 」

「えっ? あの建物って、もしかして…… 」

「ええ。法科大学院ですね。今年の試験はとうに終わりましたけど、皆さん夜中まで頑張っているのでしょうね。うちのロースクール法科大学院は二十四時間 開放されていますから、自習室は年中無休で利用が可能なんです 」

「知らなかった。大学って、暗くならないんですね…… 」

「そうですね。彼らは本当に努力家です。法科大学院のメンバーが、夜中に僕のところを訪ねてくることも珍しくはありません。特許法と知的財産法は、司法試験で出題がありますから。
人類に平等に与えられていることって数が少ないですけど、努力だけは誰にでも出来ます。それを考慮したとしても、世の中はたまに理不尽で参ってしまいますね 」

「えっ? 」

 先生は急に何を言い出すのだろう……
 あまりに唐突な言い種に、桃佳は言葉に詰まっていた。

「人は生まれる環境を選ぶことは出来ないし、頭脳のポテンシャルや肉体的な特徴も、思い通りにならないことばかりです。
でも頑張るって才能は、神様が唯一 人間に平等に与えてくれるものなんですよね。その才能を生かすか否かは個人の問題ですけど。でも僕は頑張るという価値は、とても尊いものだと思います 」

「…… 」

 大森は無言のままの桃佳を一瞥すると、自分のカップにコーヒーを注ぐ。そして湯気が立たないくらいまでフーフーと息を吹くと、一気に中身を喉に押し込んだ。

「さて、君にとっても今夜は まだまだ長いのではないですか。録音は上手くいきましたか? 」

「いいえ。まだ録音はしていません。私は酷い人間で、自分の不甲斐なさを田町先輩に八つ当たりしていまいました。とても顔向けが出来そうにはありません 」

「そうでしたか。でもまあ、外野の僕から言わせれば喧嘩両成敗ってやつな気もしますけどね 」

 大森は席を立つと、自分の尻ポケットに手を突っ込む。そして手に何かを握りしめると、桃佳の前に突き出した。

「あの、これって 」

「落とし物だそうですよ 」

「落とし物…… って、ボイスレコーダー? 」

「ええ。田町くんが、さっきこの部屋に来ましたから 」

「えっ? 」

「君がここに来るかもしれないから、そしたら保護して下さいと言われました。顧問は僕なんだから、立場的には こちらが優位な筈なんですけどね。彼は人を使うのが、とても上手ですから。田町くんは 反省してましたし、僕としても彼の発言は頂けません。彼は僕のゼミ生ですから、責任はゼロではないのでね。僕の指導不足は君に謝りたいくらいだ 」

「ハアッっっ? 田町先輩が、ゼ、ゼミ生? 」

「ええ、彼は僕の学生です。意外でしたか? 」

「いや、そんなことは…… 」

「どちらにせよ、君は田町くんとは知り合う運命だったということですよ。興味の思考が似ているのかもしれません 」

「なっ 」

 大森は 桃佳に反論の余地を与えまいと、いつもよりも少し食い気味に言葉を繋いでいた。

「情報は容易に模倣されてしまう特質があります。しかも利用されても情報自体が消費されることはないから、多くの者が同時に利用することが出来てしまう。
知的財産権制度は、創作者の権利を保護するために、元来 自由に利用できる情報を、社会が必要とする限度でその自由を制限する制度なんです。だから君の主張は何も間違ってはいない 」

「でも私は冷静ではなかったです 」

「いいんですよ 」

「えっ? 」

「ここは大学なのですから、堂々と己の学問を主張して良いんです。もしも誰かが君のことを攻撃するのなら、大学の自治を盾にして徹底抗戦しましょう。僕は君の味方になる。まあ、それは冗談ですけどね 」

「…… 」

 桃佳は思わず息を飲むと、大森を見つめていた。「味方になる」の一言が、こんなにも心強い。それを考えると、やはり自分は田町に対して謝らなくてはならないはずだ。
 桃佳は決意を固めると、大きく息を吸い込む。そして思わず出た言葉が、まるで選手宣誓のように 辺り一面に響き渡ったのだ。

「先生、あの、私っッッ……!! 」

「あっ、ちょっッッ、静かにっッ 」

 桃佳は予想外の展開に、思わず声が大きくなる。すると大森は間髪入れずに 直ぐ様 桃佳の口元を押さえると、シーシーと言って自重を促した。

「あの、先生っ? 」

「君っッ! 幾ら何でも、こんな深夜に大声は駄目ですよ。それに夜中に女子学生を研究室に連れ込んでると誤解されたら、僕は一発アウトで懲戒を食らいますから 」

「あっ、そっか。あの、すみませんっっ 」

「ったく、僕は一応 この大学に居続けたいんですから、協力はしてくださいね。って、噂をすれば…… ちょっ、隠れてくださいっっ 」

「はいっッ? って、ちょっッ 」
 
 時間差で、廊下の向こうの方から体重を感じる足音が聞こえてきて、ドンドンドンとドアが叩かれる。大森は「あちゃー」と年相応の溜め息を漏らすと、桃佳に毛布を被せてソファーの裏側へと追いやった。

「大森先生、どうかされましたか? いま女性の悲鳴みたいな声が聞こえましたけど 」

「す、すみません。先日の学会の映像を確認していたもので、音声が大きかったようです 」

 大森は何食わぬ顔で扉を開けると、守衛に愛想笑いを浮かべる。そんなヒステリックなやり取りがある学会があるなど初耳な話だが、警備員は満更でもない様子で 大森の弁明を聞いていた。

「そうでしたか。世の中には、感情の豊かな先生方もいらっしゃるんですね。夜分に唐突に押し掛けるような真似をして、大変失礼致しました。深夜ですし もし気になることがあれば、直ぐに守衛室に連絡を宜しくお願いしますね  」

「いや。こちらこそ、ご心配をお掛けして すみません。お休みなさい 」
 
 大森は笑顔で守衛を見送ると、部屋の電気のスイッチを落とした。
 桃佳は予告なしに視界が暗くなって、一瞬 声を上げそうになったが、寸前のところで堪える。でも追い討ちをかけるように、今度は大森は密着するようにソファーに腰を下ろしたので、桃佳は ますます自分の置かれた状況が分からなくなっていた。

「さてと、僕は 今夜は もう研究室の電気はつけられません。就寝すると、守衛さんに宣言をしてしまいましたから 」

「なっ、それって…… 」

「まあ、こんな日もありますよ。たまには休息しろという神様からの無言の圧力か何かでしょう。ところで君は どうしますか? もし もう放研に未練がないというのなら、この部屋に泊まって貰っても構いませんよ 」

「えっ? いや、でもそれは…… 」

「逆に昼間に部屋を出て行けば、泊まったことなどバレません。君はそのソファーを使えばいいし、僕はどこでも寝られるのが特技ですから 」

「はあ 」

 無理やり被された毛布から、微かな大森のコロンの残り香が鼻に付く。
 そうだ。そもそも自分は大森先生のことが好きなのだ。それを追っかけた結果が放研の入部に繋がって、何故か二人きりで部屋にいるまでにはなっている。それならば 今のこのシチュエーションって、本来は願ったり叶ったりな状況なはずなのだ。

 でも、何故だろう…… 心がどうしても傾かない。
 いや、大森先生のことが好きなことには変わりはないはずなのに、今は自分の目の前のことで 頭がいっぱいになっている。
 いつの間にか、自分はアナウンスに興味を注いでいて、少しでも上達したいと思っている。それは自分でも出来れば気付きたくないことだった。

「あの、先生っ。私、今夜は部室棟に帰ろうと思います 」

「そうですか。まあ、それは非常に懸命な判断だと思います。ただ、僕としては少しだけ残念ではありますね 」

「んっ? あの、それは一体 どういう意味ですか? 」

「やはり君は もう少し僕の枷が必要だ、ということですね 」

「えっ? 」

「まあ、いまの言葉に深い意味はありません。
好意というのは、自分が思っている以上に、相手に伝わっているものですし、相手の感情を動かすこともありますから。君は田町くんを信頼しているのでしょう? その気持ちを素直に伝えれば、相手には伝わるものです 」

「あっ、ちょっ 」

 大森は まだ乾ききらないカーディガンを桃佳に押し付けると、左右を確認して静かに扉を開ける。そして「こっちこっち 」と手招きすると、慣れた立ち振舞いで 桃佳をエレベーターホールへと誘導するのだった。



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