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Side:ファリ 《光明》

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 冷たく暗い沼の底に沈んでいるように体は重く動かない。しかしそれがどうだというのか。わたしなど、このまま消えて無くなればいいのだから。

 何もかも、もうどうでもいい。

 ゆっくりゆっくりと朽ち、わたしはわたしで無くなって行き、やがて沼の底に堆積する泥の一部となるのだ。

 光は唐突に。
 暗く冷たい不浄のそこに、場違いに清浄な一条の光が射し込んだ。

 自我が薄れて境界が曖昧となり、周囲と溶けあおうとするのを、清らかな光が泡のように包み込んで境界を引き直し、『わたし』を掻き集めた。

 再び形を持ったわたしは、沼の底からじわじわと浮かび上がっていく。
 仰向けのまま、見上げる水面は、底の濁りを感じさせず、ゆらゆらと揺れるその向こうに、夜闇の空を静かに映していた。星も見えない漆黒の闇ではあったが、その静謐な闇は、全てを許し包み込むような慈愛に満ちていた。

 あたたかい…

 ふと、左手に温もりを感じる。
 その温もりに手を引かれるように、急速に水面へと向かっていく。
 わたしを導くその温もりを、しっかりと握りしめ、水面をくぐり、慈愛の闇に抱きしめられた。



 目を開き、まだ感じている温もりに縋るように、左手を握りしめ、視線をやる。
 ぬくもりの正体は人の手だった。小さな両手に包まれている。

 人の…手?

 ハッと覚醒し、慌てて手を引き抜いて飛び退る。

「っ…!」

 胸の傷が痛んだが、警戒して人から視線を外さず相手を観察した。
 そこに居たのは年の頃は10歳前後と見受けられる人間の子供のようだった。子供は、驚いたように目を見開き、次いで焦ったような表情をしてこちらを見ている。

「動かないで! 傷が開く!」

 わたしが動かないでいると、その子供は下を向いてゆっくりと背を向けた。
 先ほどの言葉といい、行動といい、こちらに害意はないと伝えているようだ。
 傷のある胸を押さえている手が自分の着ていた衣服とは違う手触りを伝えてくる。
 ちらりと視線をやると、どうやら手当てされているらしい。上着のようなもので傷を縛られている。その上着から漂う甘い匂いは、目の前の子供のものと同じものだ。この子供の上着で手当てされている。
 わたしは致命傷を負っていたはず。害意があるなら、ただ放っておけばいい。表舞台に姿を晒したことのない、特徴的な色も持たないわたしを、ヨルラガード王家の人間だと判じられる人間は居ないだろう。
 助かる見込みの少ない大怪我を負っているただの獣人など、治療をしてもデメリットの方が大きい。
 それをわざわざ治療しているということは、こちらに害意はないと見做してよいだろう。

 しかし、何故人間の子が獣人の手当てをしたのか…?
 それに、致命傷であったはずの胸の傷は、まだ痛みはするものの、今はその傷に命の危険は感じない。
 だが、何故? どうやって? 考えても答えは出ない。

「貴方が手当てしたのか?」

 発した問いに、すぐに答えが返される。

「うん、でもまだちゃんと治ってないよ。治癒魔法をかけたけど、一回じゃ足りなくて…。あと少し待てば、魔力が回復するから、もう一回、後でかけていいかな?」

 治癒魔法? この子供が?

 治癒魔法自体稀有なものな上に、治癒魔法といえども、重篤すぎて治せる見込みのない状態であったはずだ。
 周囲の気配を探るが、やはりこの子供以外誰も居ない。それにあの魔獣の姿もない。わたしを助ける為に近づくにしても、あの魔獣と鉢合わせてこの無力そうな子供が無事でいられるとは思えないのだが。

 私が問うと、来た時にはもう魔獣の姿は無かったと答えた。
 不自然な事ばかりであったが、何故かこの子供に警戒する気は失せた。

 誰にも必要とされず、自分自身ですら手放そうとした『わたし』を掬い上げた清浄で温かな光。何故かわからないが、それがこの子供のものであると確信している。
 望んでいなかった生であったが、この子に繋ぎとめられたのだ。

 まさか… 本当に聖女が?

 伝説の聖女も治癒魔法に長けた人間の女性であった。種族、性別、身分などを超えて皆平等に傷ついた人々を癒したとされている。

 背を向けた子供の正面に回りじっと観察する。闇の中だが、獣化は出来ずともヨルラガードの獣人であるわたしは夜目がきく。
 夜闇に溶け込む射干玉の髪が俯いた頬にかかっている。庇護欲を掻き立てる華奢な体は緊張の為か、少し強張っているように見える。
 じっと見つめていると、ふと気付いたように顔が上げられた。
 切れ長だが中央付近は丸く大きな黒い瞳は、沼の底から見上げた清らかな夜空を思い出させた。
 わたしを見つめる美しい瞳に困惑の色が浮かぶ。

「な…なに?」

 目が合ったように感じたのは気のせいでは無かったらしい。

「貴方は今、わたしが見えているのか?」

 ここは地の裂け目の底。空は曇り月も星も見えない夜で、灯りのない洞窟内と変わらない暗さだ。普通の人間であれば、一寸先も見えないほどの闇の中であるはず。このような闇の中でも視界がきくのは、一部の獣人と魔人くらいである。
 どう見ても獣人には見えないので魔人なのかと問うが、人間だと答える。
 人間が見下しているはずの獣人のわたしを助けたのも、怪我をしていたからと、当たり前のように答えた。
 その姿に、何者も差別せずに癒したとされる『聖女』を思い浮かべたものの…
 女性を思わせる華奢で美しい容姿ではあるが、近くでじっくり観察すると、女性ではないことがわかった。
 話していくうちに、彼が記憶喪失であることもわかり、獣人への嫌悪感を持たず、どこかズレた所があるのもそのせいかと納得した。

 彼の名前はカズアキ・ツブラヤというらしい。聞いたことのない変わった名前だ。
 黒髪黒目にヤデハスの乳のような色の肌と、近隣国では見ないような組み合わせの容姿でもある。
 美しい容姿のせいか、珍しい治癒魔法を目当てにか、盗賊にでも攫われて来たのだろうか? そしてこの森で盗賊達は魔獣にでも襲われて殺されたか見失ったかした…という所なのだろうか? カズアキが記憶を失くしているので真相はわからない。

 しばらくの間、記憶を失ったせいで、常識的なことも忘れているカズアキの疑問に答えたり、反対に問いかけたりして過ごした。
 こんなに多く、長く、ひとりの人と会話をしたのは初めてだった。
 国では誰もがわたしとは最小限の関わりしか持とうとしなかったから。

 会話の間中、カズアキは度々私の体調や傷の具合を気にかけてくれ、魔力が足りず、すぐに再度治癒魔法をかけられないことを申し訳ながっていた。

 こんな気遣いを受けたのは生まれて初めてだ。

 言葉を交わして、カズアキは、心優しく、素直で快活な性格の少年であることがわかった。

 そんなカズアキを攫い、森の中を彷徨わせるような目に合わせた相手に憤りを覚える。右も左もわからないような状況ではいつ死んでもおかしくはなかった。

 様々な偶然を重ねて、カズアキと出会った。
 今こうして、目の前にカズアキが居ることが奇跡のように思える。

 カズアキの側に居ると、胸の奥に、温かで甘やかな何かが灯るような気がした。
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