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わたしのしょうにぜんそくのはなし
りょうよう生活の一日
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朝はかんご婦(現在のかんご師)さんの「起床!検温!」という一斉放送で起こされ、病室の机いす(学校で使われるものと同じ)で待機でした。6時30分頃だったでしょうか? 体温計は水銀を使ったもの。脈拍数はかんご婦さんの腕時計で5秒間か10秒間測った脈拍を12倍か6倍させて1分あたりの脈拍数を求めたものでした。
水銀式体温計には裏ワザがありました。検温部分を上に向けて反対側を指で弾くと温度が上がり、振れば温度が下がります。これを使いサボる子がいたので知ったむだ知識です。かんご婦詰所には複数の体温計を回転させて遠心力で温度を下げる機械がありました。
トイレでは3学年下の子とよくはち合わせしました。
*
「乾布!乾布!」の一斉放送で上半身裸でたわしを持って集合しておりました。
そして朝食。食堂には白か黄のテープに名前を書かれた席に座ります。白は通常食、黄は禁止食または、アレルギー食。黄テープには名前の他に禁止食材が書いてありました。白黄共通でご飯の大または小の記載がつく子もいました。
たくさん食べるのを認められた子が大、食が細いあるいは肥満傾向で小です。
当時のアレルゲンテストは皮ふテストという、ツベルクリン検査みたいなお注射を下腕内側に2列で10か所、左右で計20か所で20種類の検査をすることができました。2列に並んだそれは仔犬のおっぱいみたいでしたよ。ふくらみと赤くなった部分をそれぞれ長辺、短辺を測定でした。入院中に60数種類したでしょうか。
注射がこわい子は大へんです。医師は、暴れないように腕を固定して検査をやりとげました。現在の、採った血液を検査機関に送り、複数の反応結果が病院へ帰ってくる方法とは異なりますね。わたしにはとり肉(ささみを週に1回可)、ぶた肉、卵黄卵白のどちらか、イースト、ソバ粉、ブタクサ花粉、ハウスダスト、カンジダなど(あとはおぼえていません)のアレルギーがあることとされました。禁止食です。例えば焼きそばだとぶた肉ではなく、牛肉で別に調理されたものがでてきます。朝はパン食からごはん食にかわりました。土曜朝だけは全員ごはん食でした。
大豆、小麦などにアレルギーがあるとアレルギー食となり、おかずが一変します。かく週土曜日の昼食がカレーライスでしたが、ルーの色が通常食、禁止食と異なるのです。米、麦にアレルギーがある子もいて、やむを得なく主食が米でしたが、悪化したときのためにあわやひえも用意されていたそうです。
着色料黄色4号が禁止の子もいました。他のアレルゲンのせいかもしれませんが、食塩で歯みがきしていました。
母からはカンジダはおちんちんを不けつにしているとできるのよと聞かされました。
*
朝食、洗面が済んだら登校です。中学部は各地元校の制服、小学部は上下白の体操服(長ズボンに上は半そでか長そで)。共通して白の体操帽を着用でした。
そして養護学校に到着。当時は身体、知的、病弱の3区分で、病弱りょう養学校とされ、学校では体位カラーが上部にあり、下にクラス、氏名の書かれた名札を着用しておりました。体操服のときは胸の部分にぬいつけた「体位バッジ」と呼ばれた布でした。体位は、ぜん息A とB、腎・ネフローゼ、肥満、不登校。ぜん息と腎・ネフローゼはりょう養所、肥満と不登校は学校の寄宿舎から通っておりました。1クラスは10名てい度、わたしの学年だけ2年次にA~C の3クラス、ほかは各学年2クラスで、木造校舎とプレハブ棟とがありました。ほかには北海道紋別郡西興部村に昭和60年まで存在した上興部中学校の校舎も知っております。上興部中は教室が2つと職員室。体育館へ向かうろう下の右にお便所。左に宿直室がありました。あと地が「ひなた母校」という宿だったときに2回宿泊し、現在はオーナーさんが代わりリノベーションされ、GA.KOPPERというゲストハウスになっているようです。
*
1限が40分で午前に4限。それぞれりょう養所と寄宿舎に帰宅します。小学部と同じ格好に着替えます。冬場の外出時のみ上にジャージを羽織ることが許されました。それ以外は上が体操服1枚です。冬にはしもやけになり、ユベラという薬をぬりました。上級生と「地元ではこんなのできないのに」と話しておりました。
そして昼食。食後には全員ビタミンの粉薬を服用しておりました。ここで初めて正しい薬の飲みかたを習います。まず白湯をふくみ、舌下に薬を入れて、残りの白湯を飲みます。なんて簡単に飲めるんだ。流石はかんご婦さんです。わたしはほかに朝夕食後に漢方と点鼻薬がありました。常にどちらかあるいは、両方の鼻がつまっていたわたしにとってこのインタールという液体点鼻薬は嫌で嫌でたまらなかったです。垂れること垂れること。
「やめてぇや」とかいわれてましたね。彼が退院したときのうれしかったこと。2年生に敵対して、3年生と仲が良かった。鼻は後に受けた2回の手術にて普通のものに近づいております。鼻の通りが良くなると世界がかわりました。
食後に休み時間があり、週に1回はプール、そのほかの日はぜん息体操、縄跳び、ランニングがありました。中学部男子体位Bと女子体位A は青だすきで縄跳び300回、ランニング400メートル。ぜん息体操はラジオ体操第一の約4倍の運動量があり、屋内プール横のアスファルトがしかれたテニスコート(ふだんはネットなし)に各自のござをしいておこなわれました。寝た姿勢での体操(腹筋運動と背筋運動だったかな?)もありました。音楽にはヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルクミュラー作曲「貴婦人の乗馬」もふくまれておりました。中学部男子体位A だと緑たすきで400回、500メートル。中学部女子体位B と小学部体位A が黄だすきで200回、300メートル。小学部体位B が桃だすきで100回、200メートルだったとおぼえております。これは昼食前のピークフロー検査(最大しゅん間のはける息の量)で結果が悪い日は下のたすきへの格下げまたは、運動禁止(略して、運禁)がありました。中学部女子に体位S の緑たすきがいたかな?
当時のわたしは2ステップで一回ししか跳べず滅茶苦茶でした。それが普通に跳べるようになり、二重跳び、後ろ跳び、X跳び、綾跳び、それらの内2つを組み合わせたものができるようになっていました。神山兄ちゃんは三重跳びや後ろ二重綾跳びができたんですよ。りょう養所では上級生に兄ちゃん、姉ちゃんづけ、寄宿舎は上級生にくんさんづけだったそうです。
これらの日課運動はまとめて「ぜん息体操(略してぜん体)」と呼ばれておりました。一斉放送で「ぜん体です。コートに集合!」でした。一度だけ「乾布!乾布!」と間違えたかんご婦さんがおられました。「おおおおお、女子と合同か!?」とにこやかに胸前を斜めにこするジェスチャーをしていたおバカ(ほめ言葉です)もおりました。
*
5限目は体操服で登校します。水曜日が中学部と高学年で必修クラブ。特別活動が週2回。あとの2日はおぼえていません。
囲碁将棋部に入り、そこで初めて囲碁を教わりました。「20級やな」といわれておりました。後に新聞認定で関西棋院4級、ゲームソフト認定でアマチュア3段を取りましたが、3段の囲碁会で全然敵いませんでした。「級レベルですね」と対局相手の参加者さんから仰られました。次に挑む機会があれば無級から始めるしかありませんね。「囲碁きっず」で、打たずにチャットにて鉄道駅名でしりとりをしていたこともあります。
特別活動では24式太極拳を習いました。古い子は48式も習っていました。後に空手道を始めますが、さばきの動きが太極拳と同じだなと思いました。寄宿舎生は竹馬や一輪車でした。
6限がなくて放課後には特別運動という任意で参加するものがありました。ゲートボールに1度だけ参加したことがあります。
*
当時、りょう養所の夕食は16時でした。調理員さんの勤務が終了する時間の都合でしょう。それまではサッカー漬け。たまにソフトボールをしておりました。学校には体育館があったので寄宿舎生はバスケットボール漬けだったそうです。
夕食が終われば検温時間。このときに体調申告がありました。例は「1量、発作なし、お風呂に入ります。異状ありません」でした。最初の数字が排便回数、なければ0です。「量」は食事を残さずに食べたという意味。ぜん息発作が、大発作、中発作、小発作、ぜいぜい、なしのいずれか。入浴できるかどうか、そのほか体調の申告です。申告後に自習へ向かっているときに医師とすれ違い、「顔色が悪いので直ちに安静」と指示され、引き返しベッドに入ったこともありました。
自習時間。ぜん息女子と腎・ネフローゼのりょう(病とうがそう呼ばれていました)は各病室で、ぜん息男子りょうはプレイルームに、折りたたみ机をだして勉強していました。同級生、1学年下の子がよく問題を教わりにきました。2学年上からもきたことがあります。"|-1|+|-1|=" え? これ、中学で習う問題じゃないじゃん。絶対値(数値から"-"の符号を除いたもの)ですから、Excel だと"=ABS(-1)+ABS(-1)"ですね。掛け算を九九で問わないと答えられない中学1年生もいました。ぜん息で通学できていなかったのでしょう。
*
そして、入浴。冷水シャワーを浴びながら10数えて浴そうに戻るのが3セットあり、かんご婦さんの監視つきでした。当時は男性かんご師の存在なんて知りませんでした。りょうの定員が36人でしたから上級生、下級生に分かれて最多で18人での入浴でしたね。股部白せん(いんきんたむし)や水虫をもってる子は最後に回され、薬剤入りの湯につかっていました。
「女子はインキンになるんやろか? 陰部が赤くなるんやろか?」と思春期男子はおバカな話題で盛り上がっておりましたが、カビの感染だからなるんじゃないの? 知らんけど、と答えておきました。もちろん感染します。
りょうの2階から風呂場をのぞこうとしたことも。もちろん見えません。
ですが、一つ下の子から告白されました。
「月尊兄ちゃん、風呂場の女子の髪の毛が見えてしもうた」
正直でかわいい。当時りょう内で不敗をほこっていたリヴァーシで1度だけ彼に敗れました。
*
木曜日には10円硬貨を渡され赤電話を使うことができました。わたしは2つ隣の市宛てでしたが、遠方からの子は折り返しで電話を受けていました。この10円は預けられている「お小遣い」から引かれておりました。火曜日か祝祭日にも電話をかけることがあったかもしれませんが、週に1回との決まりだったようです。
*
月曜、木曜は果物、ほかの曜日はおやつが夜食時間にだされました。これもアレルギー食、腎・ネフローゼ食では異なるものがだされ、禁止食のわたしはけい卵、イースト、ぶた肉エキスに気をつければ良かったでしょうか。
腎・ネフローゼ食だとコメッコ、プリッツのような塩分を取り過ぎるものが禁止でした。我々からは魔のコメッコ、魔のプリッツとおそれられ、飲み物なしで食べるのは至難でした。後にお世話になりました江崎グリコさま、申し訳ございません。ビールのお供にもってこいでございます。
ほかにかんご婦さんが握ったおにぎりがだされました。しかし、あるひとりのかんご婦さんが夜勤のときはみんな控えていました。手についていたごはん粒を食べているところを目撃されたとか。
*
テレビ視聴は20時まででした。りょうに1台、プレイルームに1台とビデオデッキがありました。
雨の日はプレイルームで遊ぶことができ、本だなには水島新司作「ドカベン」、小林まこと作「1・2の三四郎」、亜月裕作「伊賀野カバ丸」などがありました。映画は「風の谷のナウシカ」(昭和57年、トップクラフト)、「クリープショー」(昭和57年、米国)、「ビー・バップ・ハイスクール」(昭和60年、セントラル・アーツ)などを視ました。夏休みに食堂で「象のいない動物園」(昭和57年、グループ・タック)を観ました。
*
夜の歯みがき、乾布まさつ、あとは腹式呼吸があり、人数分の回数の腹式呼吸が課されていました。背中をこするときはうしろの子に自身のたわしをもたせる要領でした。
その年度で院長先生が退職だっだのかな? 夜の乾布まさつのときにそれぞれのりょうを見てらっしゃいました。時々でしたが。
女子りょうから聴こえてきたのは、編曲された演奏を録音したテープに合わせて歌い、うしろで伸ばされたのに合わせて息を吐き切るというものでした。
後に演劇で発声用の腹式呼吸を身につけますが、以来、わたしはしゃっくりをしたことがありません。
21時消灯。その後はラジカセを使うことができました。イヤホン、ヘッドホンは禁止でした。首に巻きつくと危ないからとの理由で。
22時就寝。かんご婦詰所からの操作で、病室コンセントへの通電が止まるようにされておりました。廊下のコンセントは通電されたままで、外泊日(第2、第4土曜日曜)で特に希望者が多かった第2土曜日で、新米のかんご婦さんが夜勤のときに皆の延長コードをつなぎ合わせて病室までしいて、22時以降にラジオを聴いていたこともございます。悪い連中ですね。わたしをふくめここにいる子が良い子であるはずがなかろう。
第2土日に希望者が多かったのは、第4土日までに退院となったらもったいないからで朝三暮四で喜ぶお猿さんではありません。もっと悪いことをするお猿さんでした。
水銀式体温計には裏ワザがありました。検温部分を上に向けて反対側を指で弾くと温度が上がり、振れば温度が下がります。これを使いサボる子がいたので知ったむだ知識です。かんご婦詰所には複数の体温計を回転させて遠心力で温度を下げる機械がありました。
トイレでは3学年下の子とよくはち合わせしました。
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「乾布!乾布!」の一斉放送で上半身裸でたわしを持って集合しておりました。
そして朝食。食堂には白か黄のテープに名前を書かれた席に座ります。白は通常食、黄は禁止食または、アレルギー食。黄テープには名前の他に禁止食材が書いてありました。白黄共通でご飯の大または小の記載がつく子もいました。
たくさん食べるのを認められた子が大、食が細いあるいは肥満傾向で小です。
当時のアレルゲンテストは皮ふテストという、ツベルクリン検査みたいなお注射を下腕内側に2列で10か所、左右で計20か所で20種類の検査をすることができました。2列に並んだそれは仔犬のおっぱいみたいでしたよ。ふくらみと赤くなった部分をそれぞれ長辺、短辺を測定でした。入院中に60数種類したでしょうか。
注射がこわい子は大へんです。医師は、暴れないように腕を固定して検査をやりとげました。現在の、採った血液を検査機関に送り、複数の反応結果が病院へ帰ってくる方法とは異なりますね。わたしにはとり肉(ささみを週に1回可)、ぶた肉、卵黄卵白のどちらか、イースト、ソバ粉、ブタクサ花粉、ハウスダスト、カンジダなど(あとはおぼえていません)のアレルギーがあることとされました。禁止食です。例えば焼きそばだとぶた肉ではなく、牛肉で別に調理されたものがでてきます。朝はパン食からごはん食にかわりました。土曜朝だけは全員ごはん食でした。
大豆、小麦などにアレルギーがあるとアレルギー食となり、おかずが一変します。かく週土曜日の昼食がカレーライスでしたが、ルーの色が通常食、禁止食と異なるのです。米、麦にアレルギーがある子もいて、やむを得なく主食が米でしたが、悪化したときのためにあわやひえも用意されていたそうです。
着色料黄色4号が禁止の子もいました。他のアレルゲンのせいかもしれませんが、食塩で歯みがきしていました。
母からはカンジダはおちんちんを不けつにしているとできるのよと聞かされました。
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朝食、洗面が済んだら登校です。中学部は各地元校の制服、小学部は上下白の体操服(長ズボンに上は半そでか長そで)。共通して白の体操帽を着用でした。
そして養護学校に到着。当時は身体、知的、病弱の3区分で、病弱りょう養学校とされ、学校では体位カラーが上部にあり、下にクラス、氏名の書かれた名札を着用しておりました。体操服のときは胸の部分にぬいつけた「体位バッジ」と呼ばれた布でした。体位は、ぜん息A とB、腎・ネフローゼ、肥満、不登校。ぜん息と腎・ネフローゼはりょう養所、肥満と不登校は学校の寄宿舎から通っておりました。1クラスは10名てい度、わたしの学年だけ2年次にA~C の3クラス、ほかは各学年2クラスで、木造校舎とプレハブ棟とがありました。ほかには北海道紋別郡西興部村に昭和60年まで存在した上興部中学校の校舎も知っております。上興部中は教室が2つと職員室。体育館へ向かうろう下の右にお便所。左に宿直室がありました。あと地が「ひなた母校」という宿だったときに2回宿泊し、現在はオーナーさんが代わりリノベーションされ、GA.KOPPERというゲストハウスになっているようです。
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1限が40分で午前に4限。それぞれりょう養所と寄宿舎に帰宅します。小学部と同じ格好に着替えます。冬場の外出時のみ上にジャージを羽織ることが許されました。それ以外は上が体操服1枚です。冬にはしもやけになり、ユベラという薬をぬりました。上級生と「地元ではこんなのできないのに」と話しておりました。
そして昼食。食後には全員ビタミンの粉薬を服用しておりました。ここで初めて正しい薬の飲みかたを習います。まず白湯をふくみ、舌下に薬を入れて、残りの白湯を飲みます。なんて簡単に飲めるんだ。流石はかんご婦さんです。わたしはほかに朝夕食後に漢方と点鼻薬がありました。常にどちらかあるいは、両方の鼻がつまっていたわたしにとってこのインタールという液体点鼻薬は嫌で嫌でたまらなかったです。垂れること垂れること。
「やめてぇや」とかいわれてましたね。彼が退院したときのうれしかったこと。2年生に敵対して、3年生と仲が良かった。鼻は後に受けた2回の手術にて普通のものに近づいております。鼻の通りが良くなると世界がかわりました。
食後に休み時間があり、週に1回はプール、そのほかの日はぜん息体操、縄跳び、ランニングがありました。中学部男子体位Bと女子体位A は青だすきで縄跳び300回、ランニング400メートル。ぜん息体操はラジオ体操第一の約4倍の運動量があり、屋内プール横のアスファルトがしかれたテニスコート(ふだんはネットなし)に各自のござをしいておこなわれました。寝た姿勢での体操(腹筋運動と背筋運動だったかな?)もありました。音楽にはヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルクミュラー作曲「貴婦人の乗馬」もふくまれておりました。中学部男子体位A だと緑たすきで400回、500メートル。中学部女子体位B と小学部体位A が黄だすきで200回、300メートル。小学部体位B が桃だすきで100回、200メートルだったとおぼえております。これは昼食前のピークフロー検査(最大しゅん間のはける息の量)で結果が悪い日は下のたすきへの格下げまたは、運動禁止(略して、運禁)がありました。中学部女子に体位S の緑たすきがいたかな?
当時のわたしは2ステップで一回ししか跳べず滅茶苦茶でした。それが普通に跳べるようになり、二重跳び、後ろ跳び、X跳び、綾跳び、それらの内2つを組み合わせたものができるようになっていました。神山兄ちゃんは三重跳びや後ろ二重綾跳びができたんですよ。りょう養所では上級生に兄ちゃん、姉ちゃんづけ、寄宿舎は上級生にくんさんづけだったそうです。
これらの日課運動はまとめて「ぜん息体操(略してぜん体)」と呼ばれておりました。一斉放送で「ぜん体です。コートに集合!」でした。一度だけ「乾布!乾布!」と間違えたかんご婦さんがおられました。「おおおおお、女子と合同か!?」とにこやかに胸前を斜めにこするジェスチャーをしていたおバカ(ほめ言葉です)もおりました。
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5限目は体操服で登校します。水曜日が中学部と高学年で必修クラブ。特別活動が週2回。あとの2日はおぼえていません。
囲碁将棋部に入り、そこで初めて囲碁を教わりました。「20級やな」といわれておりました。後に新聞認定で関西棋院4級、ゲームソフト認定でアマチュア3段を取りましたが、3段の囲碁会で全然敵いませんでした。「級レベルですね」と対局相手の参加者さんから仰られました。次に挑む機会があれば無級から始めるしかありませんね。「囲碁きっず」で、打たずにチャットにて鉄道駅名でしりとりをしていたこともあります。
特別活動では24式太極拳を習いました。古い子は48式も習っていました。後に空手道を始めますが、さばきの動きが太極拳と同じだなと思いました。寄宿舎生は竹馬や一輪車でした。
6限がなくて放課後には特別運動という任意で参加するものがありました。ゲートボールに1度だけ参加したことがあります。
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当時、りょう養所の夕食は16時でした。調理員さんの勤務が終了する時間の都合でしょう。それまではサッカー漬け。たまにソフトボールをしておりました。学校には体育館があったので寄宿舎生はバスケットボール漬けだったそうです。
夕食が終われば検温時間。このときに体調申告がありました。例は「1量、発作なし、お風呂に入ります。異状ありません」でした。最初の数字が排便回数、なければ0です。「量」は食事を残さずに食べたという意味。ぜん息発作が、大発作、中発作、小発作、ぜいぜい、なしのいずれか。入浴できるかどうか、そのほか体調の申告です。申告後に自習へ向かっているときに医師とすれ違い、「顔色が悪いので直ちに安静」と指示され、引き返しベッドに入ったこともありました。
自習時間。ぜん息女子と腎・ネフローゼのりょう(病とうがそう呼ばれていました)は各病室で、ぜん息男子りょうはプレイルームに、折りたたみ机をだして勉強していました。同級生、1学年下の子がよく問題を教わりにきました。2学年上からもきたことがあります。"|-1|+|-1|=" え? これ、中学で習う問題じゃないじゃん。絶対値(数値から"-"の符号を除いたもの)ですから、Excel だと"=ABS(-1)+ABS(-1)"ですね。掛け算を九九で問わないと答えられない中学1年生もいました。ぜん息で通学できていなかったのでしょう。
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そして、入浴。冷水シャワーを浴びながら10数えて浴そうに戻るのが3セットあり、かんご婦さんの監視つきでした。当時は男性かんご師の存在なんて知りませんでした。りょうの定員が36人でしたから上級生、下級生に分かれて最多で18人での入浴でしたね。股部白せん(いんきんたむし)や水虫をもってる子は最後に回され、薬剤入りの湯につかっていました。
「女子はインキンになるんやろか? 陰部が赤くなるんやろか?」と思春期男子はおバカな話題で盛り上がっておりましたが、カビの感染だからなるんじゃないの? 知らんけど、と答えておきました。もちろん感染します。
りょうの2階から風呂場をのぞこうとしたことも。もちろん見えません。
ですが、一つ下の子から告白されました。
「月尊兄ちゃん、風呂場の女子の髪の毛が見えてしもうた」
正直でかわいい。当時りょう内で不敗をほこっていたリヴァーシで1度だけ彼に敗れました。
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木曜日には10円硬貨を渡され赤電話を使うことができました。わたしは2つ隣の市宛てでしたが、遠方からの子は折り返しで電話を受けていました。この10円は預けられている「お小遣い」から引かれておりました。火曜日か祝祭日にも電話をかけることがあったかもしれませんが、週に1回との決まりだったようです。
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月曜、木曜は果物、ほかの曜日はおやつが夜食時間にだされました。これもアレルギー食、腎・ネフローゼ食では異なるものがだされ、禁止食のわたしはけい卵、イースト、ぶた肉エキスに気をつければ良かったでしょうか。
腎・ネフローゼ食だとコメッコ、プリッツのような塩分を取り過ぎるものが禁止でした。我々からは魔のコメッコ、魔のプリッツとおそれられ、飲み物なしで食べるのは至難でした。後にお世話になりました江崎グリコさま、申し訳ございません。ビールのお供にもってこいでございます。
ほかにかんご婦さんが握ったおにぎりがだされました。しかし、あるひとりのかんご婦さんが夜勤のときはみんな控えていました。手についていたごはん粒を食べているところを目撃されたとか。
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テレビ視聴は20時まででした。りょうに1台、プレイルームに1台とビデオデッキがありました。
雨の日はプレイルームで遊ぶことができ、本だなには水島新司作「ドカベン」、小林まこと作「1・2の三四郎」、亜月裕作「伊賀野カバ丸」などがありました。映画は「風の谷のナウシカ」(昭和57年、トップクラフト)、「クリープショー」(昭和57年、米国)、「ビー・バップ・ハイスクール」(昭和60年、セントラル・アーツ)などを視ました。夏休みに食堂で「象のいない動物園」(昭和57年、グループ・タック)を観ました。
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夜の歯みがき、乾布まさつ、あとは腹式呼吸があり、人数分の回数の腹式呼吸が課されていました。背中をこするときはうしろの子に自身のたわしをもたせる要領でした。
その年度で院長先生が退職だっだのかな? 夜の乾布まさつのときにそれぞれのりょうを見てらっしゃいました。時々でしたが。
女子りょうから聴こえてきたのは、編曲された演奏を録音したテープに合わせて歌い、うしろで伸ばされたのに合わせて息を吐き切るというものでした。
後に演劇で発声用の腹式呼吸を身につけますが、以来、わたしはしゃっくりをしたことがありません。
21時消灯。その後はラジカセを使うことができました。イヤホン、ヘッドホンは禁止でした。首に巻きつくと危ないからとの理由で。
22時就寝。かんご婦詰所からの操作で、病室コンセントへの通電が止まるようにされておりました。廊下のコンセントは通電されたままで、外泊日(第2、第4土曜日曜)で特に希望者が多かった第2土曜日で、新米のかんご婦さんが夜勤のときに皆の延長コードをつなぎ合わせて病室までしいて、22時以降にラジオを聴いていたこともございます。悪い連中ですね。わたしをふくめここにいる子が良い子であるはずがなかろう。
第2土日に希望者が多かったのは、第4土日までに退院となったらもったいないからで朝三暮四で喜ぶお猿さんではありません。もっと悪いことをするお猿さんでした。
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