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第三章:夕日が沈む

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 それはいつもの時間帯。唯一残された繋がりが料理と共に届くのを部屋待っているとお待たせと言うように襖が開いた。だがいつもなら一言の後に開くはずだが、今日は何もなしに開いた事に私は疑問に思いながらも顔をそこへ向けた。私の視線の先にはまるで昨日を再現するように秋生が足膳を片手に立っていた。

「楼主様直々に運んでもらえるとはわっちも偉なったものやなぁ」

 わざわざ運んできた理由は分からないが、部屋に入り私の前へ料理を運ぶ秋生を目で追いながら私はそんな皮肉を言った。だが足膳を置いた秋生は何かを私の方へ投げた。膝に飛んできたそれに視線を落とし手に取ってみる。
 それは八助さんからの手紙だった。私は一驚を喫した。

「なんでこれあんたが持ってるん?」
「皿の下に隠してたとはな。お前はどうやって渡してた? あの場所でか?」
「どうやろうな」
「そうだな。別にどうでもいい。もう終わることだ」

 そして秋生は私の手から手紙を奪い取ると机の前へ行き、引き出しを漁り始めた。

「ちょっ、勝手に!」

 慌てて立ち上がりその手を止めようとはしたが一歩遅く、八助さんから届いたこれまでの手紙が見つかってしまった。秋生はその全てを手に取ると一歩後ろに下がり声は出さず机の前へ行けと指示出す。だが私は秋生へ睨むような視線を向けたまま。

「返事を書け」
「そらその手紙の内容を読んでから書くで。一人でゆっくりとな」
「それは必要ない。お前が書くことは決まってる。もう二度と会わないと関わるなと書け」
「そないな事書くわけあらへんやろう。それにあの人と会えのうするんやったら仕事に影響出るかもしれへんで。もしかしたらあの人の事頭から離れんでお客から苦情来るかもしれへんし。そうなったら吉原屋の看板にも傷付きそうやな」

 それは吉原屋の遊女である私が唯一楼主の彼に対抗出来る手段だった。切り札と言ってもいい。妓楼の中で一番権力を持つのは紛れもなく楼主。だけど有力者のお客を多数持ち巨大になり過ぎた遊女はそう簡単に切り捨てる事が出来ずその力は楼主にも迫る。それに私は借金を抱えたまま死んだところで失うモノは無い。仕事に影響はないのだ、あの人と会う事を秋生は許可するしかないはず。
 勝ち誇った表情を浮かべながら私は彼が折れるのを待っていた。だが彼は目の前まで来るとしゃがみ込み私の顔を(顎側から両頬を握るように)雑に掴んだ。

「そうか。なら仕方ない。三好をこの遊郭から追い出すまでだ」

 確かに私は秋生でさえそう簡単に手放す事の出来ない程の花魁になった。だが彼はただの楼主じゃない。吉川秋生は吉原屋の楼主であると共にこの吉原遊郭を統べる男なのだ。私の切り札も三好が遊郭内に店を構えてる時点でただの紙切れでしかなかった。

「どうするか選択権はお前にある。いつも通りな」

 選択権などない。普段からそうだ。お客を選べるとはいえ楼主から客にしろと言われればせざるを得ない。私は所詮この吉原屋の商品でしかない。

「この忘八」
「なら早く書け」

 顔から秋生の手が離れると私は机に向かい筆を取った。いつもと違いそこに幸せはなく、いつもとは違い心とは切り離された手が手紙を認めていく。自分で書いているはずなのに私は筆の後を追い内容を読んでいた。
 八助さんとの時間はもう終わり。文字として読む事でそれはより現実なモノとして突き付けられた。もう手紙でさえ話しをすることは無いんだと。八助さんの表情ひとつひとつを思い出す度、もうそれは見られないんだと。もうあの笑い声も温もりも感じる事が出来ないんだと。そう思うと段々目頭が熱くなり始め視界がぼやけ始めた。
 私はもっと彼に触れたかった。手を握り、寄り添い、口づけを交わして。でも同時にそれを躊躇う自分がいる。そこには確かな感情があって心から願っているはずなのに……彼にしようとするその行動がまるで遊女としてお客に行うのと同じように思えて仕方ない。それは偽りの――意味はないただの行為で夕顔としてではないと分かってるはずなのに確かな自信が持てないでいる。私はそうやって彼を穢してしまってるとどこかで思ってしまう。だから素直に触れられずにいた。
 そしてその状態のまま私は彼と終わりを迎えようとしている。もう最低でも年季明けするまで会えない。いや、彼が待っててくれる保証はないし私も明けるまで生きられる保証はない。もっと辛いのはあの、これまでの人生の中で最高とも呼べる時間を知っておきながらそれを味わえないということだ。どれだけ彼への想いが膨れ上がろうとも、どれだけ淋しさに胸がはち切れそうになってもどうすることも出来ない。ひさも居なくなってしまった今、私はそんな想いに一人耐えなければいけないのだろうか。そう思うだけで既に苦しみが首を絞める。
 私は何とか泪を堪えながらも書いていた筆を止めた。そして後ろを振り返って両手を畳に着け秋生を見上げる。

「お願いしんす。どうか手紙だけでも続けさせてくんなまし」

 言葉の後、私は深く頭を下げた。必死に堪えてはいたが声は微かだが震えていた。

「駄目だ。連絡は一切許可しない」

 しかし秋生の返事は変わらなかった。

「だがその手紙と引き換えにこいつは返してやる」

 そう言って顔を上げた私に見せたのは手に持っているこれまでの手紙。

「分かったらさっさと書き上げろ」

 体を机に戻すと私はその手紙を書くしかなかった。脳裏にこれまでの八助さんとの時間が思い浮かびながらただ込み上げる想いに耐え筆を進めるしかなかった。遊女としての自分が味わえると思っていなかったその幸せともう別れを告げるかのように。
 だが最後の最後で私の頬を一滴の泪が流れ顎先から滴り落ちた。
 そして筆を置いた私はその手紙を背後の秋生へ手渡す。彼は確認の為、一読すると手に持っていた手紙を私の前に落とした。

「お前の行動次第であの店の存続が決まる。それを忘れるな」

 最後にそれを言い残した秋生は手紙を拾う私を残し部屋を後にした。
 これまでの歩みを刻み込んだ足跡のようなその手紙を拾い上げた私はそこに書かれた文字に視線を落とした。『夕顔さんへ』その文字を見ている時だけは、その声で呼ばれている時だけは、嫌いなはずのその名前が悪くないようにも思える。

「八助はん……」

 外は雲一つない蒼穹が広がっていると言うのにその手紙には雨が降り注いだ。
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