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第三章:夕日が沈む
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「気分はどうですか?」
隣に座る八助さんは少し心配そうにそう尋ねてきた。
「大丈夫やで」
「そう簡単に切り替えられないと思いますけど、少しでも支えになれたら嬉しいです」
「おおきに」
私はお礼を言いながら手を彼の膝上に乗せてあった手へ伸ばした。だが指先が触れる直前で無意識に追いついた意識がその手を止めた。不自然な位置で触れることなく止まる手。私は内側で対立する感情にただその手を見つめる事しか出来なかった。
すると八助さんの手が上から覆い被さるように触れるとそのままこちらを向いた膝上の手と私を包み込んだ。
「大丈夫ですよ」
その言葉が何に対してかは分からなかったが、そんな事はどうでもよく私は手を包み込む温もりを感じながら彼の肩に頭を寄りかからせた。
それからも私たちは変わらずこの場所で密会を続けた。でも以前とは違いその時間は至福なはずなのにどこか心の一部が余所見をしているような感覚が拭えない。それなのに夕顔としての時間は嫌いなはずなのにどこか落ち着くような気がする。
やっぱり私は骨の髄まで遊女なのかもしれない。
* * * * *
それはある月光が遊郭の灯りに負けじと降り注いでいた夜の事。お客が眠りに着くと私は窓際に腰を下ろしいつもより明るい吉原遊郭を眺めながら煙管をふかしていた。その最中、ふと視線を下に落としてみるとそこには人影がひとつ。それは管笠を被り刀を腰に差した恐らく男。
すると丁度と言うべきか夜回りの警備隊員の灯りが男の前で立ち止まった。何を話しているのかは分からないがその光景を見ていると警備隊員が少し声を張り上げた。あまり穏やかとは言えない雰囲気。
私はそこで寝ているお客へ視線を向けた。この人は一度寝たら朝起こすまで起きない。もう一度下を見遣る。
「騒がしいと思ったら……吉原屋のお客に何か用でもありんすか?」
部屋を出た私は吉原屋の正面戸を開き表へ出た。何故その人を助けようと思ったのかは分からない。その人が誰なのかも分からないし当然ながら吉原屋のお客でもないと思う。何よりわざわざ私がこうやって声を掛けるようなことも普通ならしない。強いて言うならただの気まぐれ。
私は男の隣まで足を進めると抱き締めるように細いが筋肉のついた腕に寄り添った。近づいて分かったが男の背は少し大きく、髪は後ろで結んでいる。
「お客さん、折角の一夜なんでありんすから朝までいたらどうでありんすか?」
男からの返事は無かったが私は視線を警備隊員に向けた。
「もう戻ってもいいでありんすか?」
訝し気な警備隊員が私の後に男を見る。少しだけ沈黙が割って入るとは彼は何度か軽く頷いた。
「危険がないのであれば」
「ありがとうございんす」
会釈をし私は誘導するように男と吉原屋へ歩き始めた。時間をかけゆっくりと。その後ろで警備隊員も夜回りを再開した。だが吉原屋の戸の前まで来ると後ろを振り返り警備隊員を確認する。どうやら灯りは向こうへ行ったようだ。
「主さんこなところ で何をしていんすの?」
だが男からの返事は無い。
「寝る場所はありんすか?」
「いえ」
今度は小さく辛うじて聞き取れる高くの冷たい声が返ってきた。
「なら向こうにある戸の前で少うし 待っててくんなまし」
私が指を差したのは八助さんと会うあの場所への入口だった。吉原屋正面の左手、張見世の格子より更に向こうにある裏路地のように存在感も人気もないその場所。男は私の指を追い指先へ目を向けた。
「分かりんした?」
「えぇ」
また小さく辛うじて聞き取れる声で返事をすると男は私から離れそこへ歩き出す。その後姿を少しだけ見送ると私は吉原屋の中へ入りいつもの道筋をなぞった。
そして内側から鍵を開けると男を中へ。
「その物置小屋かこなたの腰掛け。いい所ではありんせんけど我慢してくんなまし」
男は物置小屋を一見した後に腰掛へと向かい腰を下ろすと刀を腰から抜き横に置いた。
「それとこれ」
そう言って私が差し出したは水の入った椀。それを男は受け取ると何も言わず呷り空になった椀を私へ。依然とお礼は無かったが別にいい。
「何故こんな事を?」
すると初めて男から声が飛んできた。それは当然の疑問だ。
「別に理由なんてありんせん。でも欲しいといわすのならお金といわす事で」
私は要求する手を出した。
「金はないですね。生憎ですが」
「別にいりんせん」
言葉と共に私は手を引っ込めた。
「この鳥篭から抜け出したいと思った事は?」
突然そんな事を訊かれ多少なりとも疑問は抱いたが、少し考えた後にこう返した。
「主さんならどうしんす?」
「そうですねぇ。――まず楼主を殺します」
それは淡々とした本当に殺す事を厭わないといった声。人を殺すという行為に対して何の感情も抱かないようなそんな冷たさがあった。
だが何故かその男はあまり危険な雰囲気は感じない。しかもその理由は探すまでもなく見つからないとどこか分かる不思議な感覚だった。
「それが出来んしたらそもそもこなたの場所に連れて来られてないでありんすがね」
「それもそうですね。ですが世の男を手玉に取る吉原遊郭一の花魁。まさかこうして直接お会いできるとはここへ立ち寄った甲斐がありました」
「それは幸運でありんしたね。それではおやすみなんし」
そう言うと私はその場所を出て椀を戻してから部屋に戻った。
隣に座る八助さんは少し心配そうにそう尋ねてきた。
「大丈夫やで」
「そう簡単に切り替えられないと思いますけど、少しでも支えになれたら嬉しいです」
「おおきに」
私はお礼を言いながら手を彼の膝上に乗せてあった手へ伸ばした。だが指先が触れる直前で無意識に追いついた意識がその手を止めた。不自然な位置で触れることなく止まる手。私は内側で対立する感情にただその手を見つめる事しか出来なかった。
すると八助さんの手が上から覆い被さるように触れるとそのままこちらを向いた膝上の手と私を包み込んだ。
「大丈夫ですよ」
その言葉が何に対してかは分からなかったが、そんな事はどうでもよく私は手を包み込む温もりを感じながら彼の肩に頭を寄りかからせた。
それからも私たちは変わらずこの場所で密会を続けた。でも以前とは違いその時間は至福なはずなのにどこか心の一部が余所見をしているような感覚が拭えない。それなのに夕顔としての時間は嫌いなはずなのにどこか落ち着くような気がする。
やっぱり私は骨の髄まで遊女なのかもしれない。
* * * * *
それはある月光が遊郭の灯りに負けじと降り注いでいた夜の事。お客が眠りに着くと私は窓際に腰を下ろしいつもより明るい吉原遊郭を眺めながら煙管をふかしていた。その最中、ふと視線を下に落としてみるとそこには人影がひとつ。それは管笠を被り刀を腰に差した恐らく男。
すると丁度と言うべきか夜回りの警備隊員の灯りが男の前で立ち止まった。何を話しているのかは分からないがその光景を見ていると警備隊員が少し声を張り上げた。あまり穏やかとは言えない雰囲気。
私はそこで寝ているお客へ視線を向けた。この人は一度寝たら朝起こすまで起きない。もう一度下を見遣る。
「騒がしいと思ったら……吉原屋のお客に何か用でもありんすか?」
部屋を出た私は吉原屋の正面戸を開き表へ出た。何故その人を助けようと思ったのかは分からない。その人が誰なのかも分からないし当然ながら吉原屋のお客でもないと思う。何よりわざわざ私がこうやって声を掛けるようなことも普通ならしない。強いて言うならただの気まぐれ。
私は男の隣まで足を進めると抱き締めるように細いが筋肉のついた腕に寄り添った。近づいて分かったが男の背は少し大きく、髪は後ろで結んでいる。
「お客さん、折角の一夜なんでありんすから朝までいたらどうでありんすか?」
男からの返事は無かったが私は視線を警備隊員に向けた。
「もう戻ってもいいでありんすか?」
訝し気な警備隊員が私の後に男を見る。少しだけ沈黙が割って入るとは彼は何度か軽く頷いた。
「危険がないのであれば」
「ありがとうございんす」
会釈をし私は誘導するように男と吉原屋へ歩き始めた。時間をかけゆっくりと。その後ろで警備隊員も夜回りを再開した。だが吉原屋の戸の前まで来ると後ろを振り返り警備隊員を確認する。どうやら灯りは向こうへ行ったようだ。
「主さんこなところ で何をしていんすの?」
だが男からの返事は無い。
「寝る場所はありんすか?」
「いえ」
今度は小さく辛うじて聞き取れる高くの冷たい声が返ってきた。
「なら向こうにある戸の前で少うし 待っててくんなまし」
私が指を差したのは八助さんと会うあの場所への入口だった。吉原屋正面の左手、張見世の格子より更に向こうにある裏路地のように存在感も人気もないその場所。男は私の指を追い指先へ目を向けた。
「分かりんした?」
「えぇ」
また小さく辛うじて聞き取れる声で返事をすると男は私から離れそこへ歩き出す。その後姿を少しだけ見送ると私は吉原屋の中へ入りいつもの道筋をなぞった。
そして内側から鍵を開けると男を中へ。
「その物置小屋かこなたの腰掛け。いい所ではありんせんけど我慢してくんなまし」
男は物置小屋を一見した後に腰掛へと向かい腰を下ろすと刀を腰から抜き横に置いた。
「それとこれ」
そう言って私が差し出したは水の入った椀。それを男は受け取ると何も言わず呷り空になった椀を私へ。依然とお礼は無かったが別にいい。
「何故こんな事を?」
すると初めて男から声が飛んできた。それは当然の疑問だ。
「別に理由なんてありんせん。でも欲しいといわすのならお金といわす事で」
私は要求する手を出した。
「金はないですね。生憎ですが」
「別にいりんせん」
言葉と共に私は手を引っ込めた。
「この鳥篭から抜け出したいと思った事は?」
突然そんな事を訊かれ多少なりとも疑問は抱いたが、少し考えた後にこう返した。
「主さんならどうしんす?」
「そうですねぇ。――まず楼主を殺します」
それは淡々とした本当に殺す事を厭わないといった声。人を殺すという行為に対して何の感情も抱かないようなそんな冷たさがあった。
だが何故かその男はあまり危険な雰囲気は感じない。しかもその理由は探すまでもなく見つからないとどこか分かる不思議な感覚だった。
「それが出来んしたらそもそもこなたの場所に連れて来られてないでありんすがね」
「それもそうですね。ですが世の男を手玉に取る吉原遊郭一の花魁。まさかこうして直接お会いできるとはここへ立ち寄った甲斐がありました」
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そう言うと私はその場所を出て椀を戻してから部屋に戻った。
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