狐の暇乞い

佐武ろく

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夕日の残り香

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「アイツと話したり、触れ合ったり、抱き合ったり、キスしたりして。声や言葉、温もりや匂いとかそういう全部からアイツを感じないと、ちゃんとした満足は出来ないかな」

 そう言いながら自分の胸を差す先輩の表情は、今まで見た事の無い初めて見る種類の優しい笑みだった。
 でもその感情が何かは分かる。それは陽咲が僕を愛おしそうに見るのと似たものだったから。
 きっと先輩も脳裏ではその相手の事を思い出しているに違いない。

「アンタにも分かるでしょ? 相手を想ってる内に、段々と胸で風船みたいに膨らんでくる。すぐに吐き出したくてもどうする事も出来なくて、苦しいけど同時に幸せに満ちてるってあの感じ」
「分かります」

 ソファに並んで座るだけで、凭れられそっと触れ合うだけでそれが満たされていく時もあれば。どれだけ強く抱き締め合っても、見つめ合って触れ合っても、キスを交わしてもどうしようもなく物足りない時もある。もどかしいような愛のざわめきが胸の内にずっと……。
 でもやっぱりその瞬間は、陽咲の事しか考えられなくて、頭も心も感覚も全部が陽咲で満たされてて――幸せなんだ。

「こんな事言ったって誰にも言うなよ? アンタだから特別に言ってるだけだから」
「もちろんです。でも、少しだけ先輩がそんな事を言うのって意外でした」
「恋人の前でも、もっと素っ気ないとでも思ってた?」
「いや、そういう訳じゃ……」

 正直に言うと少しだけ思っていた。だからだろうばつが悪くなり、僕は視線を僅かに斜め下へ。

「まぁさっきも言ったけど、あんまり変わんないけどね。でもたまには……ね。一応、好きな相手だし」
「そうですよね」
「話戻すと、そんな感じで結局は苦しいだけになるかもって。だって目の前にいるのに触れられないじゃね。なんか変な遠距離恋愛みたいじゃん。違うかもしれないけど」

 僕としてもありがたいタイミングで先輩は話を元に戻してくれた。

「じゃあ先輩は一回だけ会って、そのまま最後の別れをしちゃうって事ですね」
「そうかな。じゃないといずれ壊れるかも」

 先輩は握った手を勢いよく開き破壊のジェスチャーをして見せた。

「――でもさ。やっぱ実際は何度も会って、そしてその苦しみに気が付いてからなんだろうね」

 そう言って煙草を咥える先輩はどこか悲し気な目をしていた。まるでそんな自分をバカだと言うように。

「で? そいつはどうした訳?」

 何度目かの煙が宙を舞った後に先輩にそう尋ねられたけど、僕は誰の事を言ってるのか分からず訊き返してしまった。

「そいつっていうのは?」
「その小説の主人公。やっぱり会い続けたんでしょ? そうしないと話進まないし」

 自分で言い訳のようについた嘘を忘れてしまっていた僕は、心の中で「そうだった」と僅かながら焦りを感じていた。

「そうですね。――でもそんな取り戻したような幸せがずっと続くと思ってたんですけど、ある日言われちゃうんですよね」

 口では架空の小説の話をしていたが、脳裏では先行して現実の陽咲の言葉を思い出していた。

「君には新しい人を見つけて幸せになって欲しいって。もちろん彼女以外は考えもしなかったから断るんですけど、このまま消えて会えなくなるか、一緒にそんな人を探すかの決断を迫られるんです。少しでも一緒に居たかったから、本当は探す気なんて無いのに彼女と一緒に居る事を選んで。彼女に嘘を付けないから一応出会いを繰り返してはその話をして、ずっと探してる状態を保ってるんです」

 最早僕は自分の事として話をしていた。

「でもこのままでいいのか? 何て思い始めて、本当に相手を探してる女性たちにも申し訳ない気持ちがあったり、色々と考えてるんですよね。――それに、さっき先輩が言ったみたいに辛さも感じ始めて……」

 そのまま僕が黙ると辺りには浮かび上がるように沈黙が漂い始めた。
 そんな段々と色濃くなってゆく沈黙を消し去ったのは先輩。

「それで? 最後はどうなるわけ?」
「え? あぁ……。僕もまだ分かりません」
「なんだまだ途中って訳か」

 先輩は残念そうに呟いた。
 そうだ。まだこの物語は途中。それと無く終わりは見えているのに、どうなるかなんて分からない。どうすればいいかなんて……分からないんだ。

「――どうすればいいですかね?」
「んー。別にアタシは考察とかするタイプじゃないしなぁ」

 そう言いながらも先輩は一応、考えてくれてるようだった。ありもしない――いや、目の前の僕の物語の続きを考察と言う体で相談に乗ってくれてる。もっとも本人は本当に考察のように先がどうなるかを考えてるだけなんだけど。

「先輩なら新しい人を探しますか?」
「探すっていうか……。元々アタシは一人って嫌いじゃないし。だからそんな人と出会ったらって感じかな。実際にアイツとも探したっていうか、そう思える人と出会ったって感じだし」
「じゃあ自分の元から離れようとしてる彼女を嘘で繋ぎ止めとくって事ですか? これからも」
「まさか」

 これには即答だった。

「アタシは夫婦って絶妙なバランスで成り立ってるって思うんだよね。お互いに譲ったり譲られたりしてバランスを保ってる。だからどっちかがこの関係を終わりにしたいって思った時点で、夫婦っていうのは崩れ去ると思う。それを止める事は出来ない。もちろん法的には出来るかもしれないけど、そんな状態で一緒に居続けたってお互いの時間を無駄に消費するだけでしょ。もしまだ自分が好きだったとしたら、幸せになって欲しい相手の時間を奪う事になる。だからアタシは自分が新しい相手と出会えるかどうかは置いておいて、その関係は終わりにするね。相手がアタシの元から離れる事を望んでるんなら。例え幽霊だったとしても同じ」

 先輩は最後に軽く吸ってから煙草を仕舞った。

「自分の想いや考えや願いがあって、相手にも同じようにそれがあって。そのバランスで成り立ってる関係なんだから複雑で難しいのは当然でしょ。特にそう簡単に逃げられないプライベートを占めてる関係なら尚更ね。――まぁ最後まで読んだら結末教えてよ。気になるし。とりあえず今日のとこはもう帰ろうか。終電無くなっちゃうし」
「はい。そうですね」

 そして僕は先輩の後に続き店先の方へと出た。

「改めてご馳走様でした」
「はいよ」

 別にいい、そう言うように手を縦に振る先輩。
 すると、その手をそのまま僕の肩へと乗せてきた。

「まぁなんか困ったことあったりさ、淋しさで苦しい夜なんかは遠慮せず連絡しな。アンタだけは特別に家に呼んであげるからさ。泊まっていきなよ。アイツもアタシの部下が来たって喜ぶだろうしさ」
「――ありがとうございます」

 それは心強くて、優しく、嬉しい言葉だった。覚えているだけで支えられ、気が楽になるような言葉。

「それにアタシだけじゃなくて、アイツらもそうだと思うよ。苦しいなら迷惑なんて気にせず甘えな」
「はい」
「それじゃあ。また明日も仕事よろしく」
「一緒に頑張りましょう」
「めんどくさいけど。じゃっ、お休み」
「お休みなさい」

 良い上司と出会えた。僕は心からそう思いながら少しだけ先輩の背中を見送ってから帰路に就いた。
 家に帰るとあの日から決まって真っ暗な部屋が僕を出迎える。その暗闇はそれまでの明るさを懐かしくも嫌に思い出させた。家に帰れば明るさの灯ったリビングには、それ以上に煌めいた陽咲が僕を待ってくれていた。
 でも今はその笑みごと呑み込んだ暗闇が僕を待ち構えている。
 それを避けるように僕は電気を付けた。
 そしてルーティンと化した四角枠に収まった陽咲の元へ。ついさっきまで彼女と話をしていた日は不思議な感覚になるが、これを見れば夢から覚めたようにどうしようもなく現実だと思い知らさせる。
 もうこの世に陽咲はいなくて……。意思に関係なく頬を撫でる泪。
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